新宿から高速バスに乗ると2時間ちょっとぐらいで山中湖に着きます。「山中湖情報創造館」は、富士山が目の前に見える、湖のほとりにある小さな公共図書館の機能を持った施設です。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、山中湖情報創造館は指定管理者制度という制度の中で、私どもNPO法人 地域資料デジタル化研究会が指定管理者になり、この図書館の運営に当たっております。今年で2期目に入って5年目をむかえたところで、残り1年9カ月の指定管理期間の中で、精一杯仕事をしているところです。
大学の図書館の方が多いということですが、学生さんがアカデミックなレポートを書いたりとか、論文を作成したりとか、そういった使い方とはまたちょっとちがう公共図書館の現状というのがあります。そのような中で、ジャパンナレッジを使ったお話を、事例を含めて進めたいと思います。
本図書館は、どちらかと言えば、日々の暮らしや仕事の中で利用される方が多いです。新聞を読んだり、雑誌を読んだり、文学作品を読んだり。さらに、仕事に使える本、あるいは毎日の生活に役立つ本などで、最近では医療や育児、出産、子育てといった本の需要も多いですね。
インターネットの登場によって、一般の人が検索をして何かを知る、調べるということが非常に増えてきました。インターネットが登場する以前は、日々の暮らしの中で何かを調べるということが、そんなにあったかと思うくらいです。そんな中で、図書館の役割もこれから少しずつ変わってくるのかな、という感じはしています。しかし、まだまだ、図書館というと、無料で本を貸してくれるところ、というのが一般の方の認識が多いかと思います。
山中湖情報創造館は、山中湖の湖畔にあり、開架棟は鉄筋コンクリート造なのですが、むくの大木で屋根を支えておりますので、入ると木の香りのする小さな図書館です。面積は500平米ほどで、本の冊数も5万点入るくらいの、書架の設計がされている図書館です。ちなみに、ここの梁とか柱で使っている材は、山中湖村の山で切り出してきた赤松と檜を使っておりまして、そんなところも少しホッとする場所として提供できるかなと思っております。また、明治時代の尋常高等小学校を移築・復元し、生涯学習のための研修棟としても使っております。
山中湖情報創造館は、実は設置管理条例の中では、公立図書館とはうたっておりません。設置管理条例の中には、図書館法による図書館機能を有する施設という表現の仕方をしております。ですから、「図書館なんですか?」「公立図書館として考えていいんですか?」とか、いろいろ質問があるのですが、まず情報創造館というものがあり、その内側に公立図書館の機能を持っている施設だと私たちは考えながら仕事をしています。
ジャパンナレッジを利用している大学の場合ですと、学生さんがレポートを作ったりとか、論文を書かれたりとか、アウトプットするために情報知識が必要になってきます。私たちは、いわゆる図書館としての知る権利を保証する公立図書館の機能と合わせて、表現する、あるいは伝えるという機会を提供することも大切だと思い、そのような活動をしていけたらいいなと考えているところです。
山中湖情報創造館は小さな図書館ではありますが、7台のコンピュータを置き、インターネットに接続して、利用者の方にお使いいただけるようになっています。さらに館内全体を無線LANの設備があり、持ち込んだパソコンも使えるようになっています。そんな中で、一般の方が知識を得て、そこから何かを表現したり、伝えようとしたときに、よりしっかりした情報源が必要になってくると感じています。
「情報創造館」なんていう、なんだろうな、と思うような名前が付いていますが、この「情報」という言葉について、いろいろ調べてみました。
一般的に、「情報」という言葉を初めて使った日本人として、森鴎外さんが紹介される例が多いのですが、実は、森鴎外さんの前に、さらにこの「情報」という言葉を使っている時代がいくつか見あたるそうです。
「情報」という言葉は、もともと軍事用語で、明治維新後に日本が軍隊を作ったときに、フランスから取り寄せたテキストブックの中に使われている言葉を訳したのが初めだそうです。言ってみれば軍事用語なので、敵情の様子を知るということに「情報」という言葉が使われたそうです。
昔は「情況」と「状況」と両方使われてたそうなんですね。どちらかと言うと目に見えないメンタルな部分の様子(情況)と、それから物理的な目に見える部分の様子(状況)と、使っていたそうです。「情報」という言葉も、その両方を取って、敵陣がどういう状態なのかということを知らせてほしいという意味で使っていたようです。最近の「情状」を使う場所でいうと、裁判で「情状酌量の余地がある」というふうな言い方をしますが、あそこで使われている「情状」と同じものだと思ってください。
では、その「情報」について考えると、どんなに情報社会になっても、結局、物事の実際の姿というのを私たちは、100%知り得ることなどほぼ不可能だと思います。例えば1つの事件が起きたとしても、それをいろいろなメディアが報道したとしても、その事件の全体像なんてつかめるわけではないんですね。ほんの一部を少しずつ見たり聞いたりすることがせいぜいです。ですから、例えば1つの出来事があっても、新聞1紙だけを読んで満足するのではなくて、何紙も読み比べてみます。テレビの報道も、NHKだけではなくて、民放ではどうやって報道しているのか、どのように伝えているのかとか、そういった様々な伝え方を受けて、初めて自分の中に出来事を認識できます。
何か出来事があったとします。これは1つの例ですが、レポーターが現場に行き、それをテレビ局が放送して、テレビを通じて一般の方に情報を伝えます。これがニュースであったり、報道番組であったり、色々な形であります。その出来事は、複数のテレビ局が伝え、また、複数の新聞社が伝え、それから雑誌の出版社が時間をかけて取材をして、記事にまとめたりします。最近ですと、ブログを書かれるような方が自分のブログで伝えたりもします。1つの出来事であってもそれが色々なメディア、色々な情報源によって伝えられ、個人の中に出来事を再構築して、実際にこんな出来事が起きたのかなとか、次にそれをどう判断しようかな、ということになると思います。
どんなに情報化社会が進んでいっても、全体像ではなくて、一部分だけを私たちは得ていて、それを総合的に自分の中で咀嚼し判断して、何かを考えたり、次の行動を決めたり、そういった活動に移っていきます。これが情報の大きな目的です。何でそんな情報化をするのかというと、再構築・編集できる、現実の社会を編集できること、編集できる状態にするということが、情報化の大きな役割、目的なのかなと思っています。
「情報」が軍事用語だったという流れでお話しすると、外国のことも含めて、諜報活動に必要な情報の8割は公開情報--例えば新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、そういった物から得られるというのが、常識のようです。では、残り2割は何かと言うと、それをいかに検証するか、正しい情報かどうかというのを検証するかということです。今日のテーマでもある、裏が取れるか、裏が取れてその情報が本当に正しいのかということを判断する必要があるんですね。
インターネットの登場によって、生活の中に検索ということが入ってきましたが、インターネットでは、本当に、ゴミのような情報もたくさん引っ掛かってきます。例えば研究機関、アカデミックな場所であれば、あらかじめ、正確さや洗練された情報源にあたるというのは大前提になります。一般の暮らしの中では、日々耳にすること、街中で聞くこと、人伝えに聞くことなど、様々な種類の情報があります。そういった情報の中には、曖昧なものもたくさんあります。不正確な情報もたくさんあります。間違っているものも、もちろんあります。公共の図書館に来るような、一般に生活をしている方は、日々そういった情報を受けて、仕事をどうしようかとか、生活をどうしていこうかとか、そういった、自分自身の生活の判断、戦略を立てていくわけです。
そのときに、大雑把な情報もあれば、非常に詳細な情報もあれば、それから不正確な情報もあれば、非常に正確さの高い情報もある。公共図書館の中で言っているのですが、正確さの度合いというか、その人の情報の要求する水準によって、多少範囲があるなという感じがしています。
実際世の中に100パーセント正しい情報というものがどれだけあるかというのは、ちょっと疑問に思っているのですが、確からしさという意味で言うと、0~100パーセントの間にきっと情報というのはあって、今、自分が知り得ている情報は、その中でもだいたいどのくらいの確からしさなんだろうかというのがありますね。
少し前に「99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方」(光文社)という新書がありましたが、実は学術的な部分でも、100パーセント正しいということではなくて、今、そのような仮説を立てると、いろんなことが説明できるということの範囲です。
そう考えると、世の中の情報の正確さ、不正確さの範囲にはけっこう幅があるんですね。様々な方が、色々な形で情報を出してきます。メディアももちろんあります。メディアがすべて正しいとは言い切れません。種々雑多な情報源から情報を得ながら、自分の中で出来事を再構築して、判断して、次の活動・行動に結びつけなければなりません。
そういったときに、入ってくる情報を鵜呑みにするのではなくて、例えば、ジャパンナレッジという、確からしさの高い情報源に照合して、それで、本当にそれが正しいのか、どういうふうに自分の中で判断したら良いのか、どういった使い方をしたら良いかなと考えています。そのように考えると、ジャパンナレッジのような正確さの高い情報源というのは、知識の水とか空気に近いような存在だと言えます。普段は気がつかないけれど、そこにそれがあることによって、毎日摂取する確からしい情報も、大雑把な情報も、不確かな情報も含めて、どんどん自分の中で非常にレベルの高い物になっていくというような感じがしています。
唐突ですが、山中湖情報創造館のすぐ隣に、日本青年館のホテル清溪という宿泊施設がございます。その清溪さんの看板に「井上準之助」という名前が出ていました。なんで井上準之介という人がその清溪にかかわっているかというのがよく分からなかったので、ジャパンナレッジで調べたことがあります。
城山三郎さんの『男子の本懐』(新潮社)という小説があり、その中に、日本がかつて金を解禁した時期が出てきます。浜口雄幸氏が総理大臣だった時ですね。世界恐慌が起こる直前に金を解禁したので、そのあと、評価があまり高くなかったようです。しかし、調べてみると、井上準之介さんは非常にすごい方で、日銀の総裁や浜口内閣の時の大蔵大臣を歴任されています。結局、暗殺されてしまうのですが、暗殺された後に遺族の方が、青少年の育成のため使ってくださいと、財産を寄付され、山中湖の湖畔に清溪寮という施設が作られました。井上準之助さんの雅号が清溪という名前だったというのが、分かってくるんですね。実は、それだけでは終わらなかったんです。この方はもう1つ大きな功績を残しておりまして、「東洋文庫」を作った初代の理事長さんなんだそうです。そういったことも、ジャパンナレッジで調べていくと出てきました。
山中湖情報創造館には、実際の本の「東洋文庫」が入っております。実際の「東洋文庫」と、それからジャパンナレッジの中で利用できる、検索可能な「東洋文庫」とがあります。例えば、「東洋文庫」の中に、「富士山」という言葉が使われている書籍は何冊くらいあるかとか、「山中湖」「富士五湖」という言葉が出てくる書籍はいくつある、そんなことをジャパンナレッジで調べて、それから実際の本をあたる、という使われ方が多いですね。「東洋文庫」に興味を持たれる方は、少し年配の方が多いものですから、そのまま画面で全部見てください、というわけにはいきません。検索した結果、実際に緑色の表紙のついた「東洋文庫」をご覧いただくような流れになります。
このように、私たちは、ネットを使って検索をして実際の本にあたる、という使い方をよくしています。それから、先ほども言ったように、「知の水」や「知の空気」の存在として、日々のニュースであるとか、実は間違って覚えていたりするような言葉といったものも、ジャパンナレッジを使って裏を取りながら、その記事を判断したりもしています。
先ほどの講演でもWikipedia(ウィキペディア)の話が出てきましたが、ジャパンナレッジとWikipediaの大きな違いというのは、私は別の視点から考えているところがあります。ジャパンナレッジは、ある意味Fixした、確からしさの高い信頼すべき情報源です。一方のWikipediaはむしろ介入できる、介入されるということが、百科事典の性格と大きく違うのではないかと思っています。
本図書館では、知るだけではなく、表現する・伝えるというお手伝いもしているとお話をしました。それで言うと、Wikipediaがもし間違っているのだと思った時は、どんどん介入していこうということになります。ですから、使い方としては、Wikipediaは百科事典と同じように知る情報源というよりは、むしろそこにいかに介入できるかということなのですね。そんな使い方を私は提供していきたいなと考えています。
山中湖村は、観光地でもあります。宿泊施設、ホテルやペンション、旅館、レストランなどの施設を運営されている方が、いかに情報を発信するかといったことでも、山中湖情報創造館ではお手伝いをしています。例えば、ブログを書いたりする時に、確からしい情報源、正確性の高い情報源があるということが、どれほど支えになるか、そんなことが非常に大きな要素だと思っております。
ジャパンナレッジを使って情報の確からしさを上げていく。日々接する情報が非常に曖昧で不確かなものであればあるほど、ジャパンナレッジという存在によって、その情報の裏を取りながら、確からしい情報にして、自分の生活や仕事の判断に役立てると。そんな形で使っていくことを、私たちは提案しております。
こちらから当日配布された資料をご覧いただけます。