『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

執筆を辞退してから半世紀後に

ぐさみつえぐさみつこ

ほぼ半世紀前、研究者としては海のものとも山のものともつかない私に、『日本近代文学大事典』(以下『大事典』と略)の執筆依頼が届きました。女性作家の二〇〇字項目が一つだけ。本来なら喜んで受諾したはずです。
けれども折も折、非常勤から専任に年度途中で切り替わったばかりのところに、転居や保育園の送迎なども重なっていて、とうてい締め切り日には無理と判断し、やむなく辞退しました。

辞退した直後、当の作家の自殺が報じられました。当時私がこの作家について知っていたことはごくわずか、作家自身が精神病院に出入りし、その体験をもとにした作品で高い評価を得ていること、また中上健次の話題作でモデルにされ、その描き方に不服を申し立てているらしいということくらいです。
そこに自殺です。万一依頼を受諾していたらどうなっていただろう、きっと精神的にかなりまいっただろうな、と思ったことを今でも覚えています。

ところが、その作家の名が思い出せません。『大事典』所収の五六〇〇名の中から探し出せるはずもなく、かりに〈逆引き〉機能が備わっていたとしても、私のわずかな情報では検索の術もないでしょう。
ふと、手元に渡邊澄子著『負けない女の生き方』(二〇一四)があったことを思い出し、その表紙には「明治大正」の女性作家とうたってありましたが、かまわず最初からめくっていくと、真ん中辺で「小林美代子」の名が出てきました。

さっそく生前の小林の作品集『髪の花』(一九七一・八)と没後発表の遺作「蝕まれた虹」(一九七三・一一「群像」)を取り寄せて丁寧に読みました。
狂気と正気がいともたやすくスライドし合うこれらの作品たちは、どれも穏やかな筆致で平易に書かれているのに、読むにつれだんだん気持ちが揺らぎだし、粟立つ不安や怒りをおさめるために、何度か本を閉じました。おそらく、私の読書歴でもいちばん怖い作家に出遭ったような気がします。

いささか私的な感懐にこだわり過ぎました。完成した『大事典』との付き合いは、もっぱら一冊本になった机上版(一九八四)でした。六巻本を縮刷増補したこの机上版には、昭和五〇年代を総括する「現代文学」の諸論考が加えられ、現代文学史の見取り図を描くうえで何度も参照しました。
また巻末には十九のトピックを集めた「リテラリー・フォーラム」が設けられ、「サルトルからマルケスまで」「核状況下の文学」「“大学紛争”と新時代」「女流文学の時代」等々、一九八〇年代初期の活力に満ちた文学状況に迫った気鋭の発言が続いていました。同時代を歩んできた者には、いまや懐かしいページでもあります。

『大事典』の本篇をなす作家項目は、ゼミの指導には必須でした。三、四年生が連続受講する四〇名ほどの学生の研究題目は毎年限りなく拡散し、担当者にとっては骨でしたが、同時に楽しみでもありました。
夏休みには恒例のゼミ合宿を行い、そこへもこの重たい一冊を持参して学生たちの供覧に付したものです。

最後に、このたびの電子版では〈増補〉項目を二つ担当しました。この半世紀間に日本の作家も文学もどれほど変貌したか、改めて痛感しました。変化の要因には、まちがいなく一九六〇年代半ばからのウーマンリブや第二波フェミニズムの世界的な潮流があげられます。
今なおその波は動き続けているのを実感しますが、かの小林美代子という小粒で無類に怖い作家でさえ、この潮流なくしては誕生し得なかったのではないかと思います。

(日本近代文学館理事・文教大学名誉教授)

『日本近代文学館』館報 No.305 2022.1.1掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

大事典が検索できることの意義

こうとばこうじ

私が『日本近代文学大事典』(以下、大事典と略記)を購入したのは、博士後期課程に入って半年、一九九六年九月のことだった。早稲田通りで行きつけの平野書店などに大事典の在庫はなく、渋谷の中村書店で見つけて、店でも使っているからあまり売りたくないという四万五千円のセット(附録地図欠)を購入したのだった。
以来、新聞で作家の訃報を見つけると切り抜いて大事典に挟み、個人的なレファレンスとして重宝していた。しかし、検索ツールが便利になるにつれ、大事典を使う機会は減っていった。
現在、作家や雑誌について調べる時には、大事典を収録する予定のJapanKnowledgeをはじめとするオンライン資料で当たりをつけてから、図書館の書庫に入るのが習慣である。

大事典の索引と『明治文学全集』の総索引は、紙のカードで作られた時代の末期の労作だが、今回のデジタル版には、紙の事典以上の可能性が見出せる。
例えば「安部公房」で検索した場合、人名では、関係する芥川比呂志、安部公房、石川利光、磯田光一、大島栄三郎、奥野健男、倉橋健、千田是也、高野斗志美、野間宏、長谷川龍生、花田清輝、真鍋呉夫、村松剛、それに新規項目のドナルド・キーンがヒットする(下線は第六巻の人名索引採録分、以下同様)。意外なところでは、耕治人が「戦後いち早く作家活動を開始、いわゆる「第二の新人」、第二次戦後派とよばれた堀田善衛、安部公房らと同時に文壇に登場した」(遠藤祐)ということなど、今日では忘れられた事実であろう。
また、永山一郎の「作風は島尾敏雄、安部公房的な超現実主義と暗い土着とを統一的に表現しようとしたユニークさにみち」(奥野健男)ていたという評価なども歴史的なものだ。

事項でのアヴァンギャルド、SF、外国の日本近代文學研究(戦後)、記録藝術の会近代劇近代文學と映画、劇団雲、劇団青俳、実験小説、戦後の文學、戦後派文學、叢書、日本近代文學とカフカ、日本近代文學とブレヒト、日本近代文學にあたえた中国文學の影響、日本近代文學にあたえたドイツ文學の影響、日本近代文學の欧米への影響、俳優座、民主主義文學あたりのヒットは予想の範囲内だろう。
思いがけないのは「近代文學と明治維新」で、「安部公房の『榎本武揚』(小説・戯曲)、大岡昇平の『天誅組』も指を屈すべき作品であろう」(稲垣達郎)とされている点である。また、「日本近代文學とヘンリー=ミラー」で、「「ミラーは性的であろうと欲したのではなく、ただ全人的であろうと欲しただけだ」という安部公房の批評(『被告席から』昭40 講談社刊『沙漠の思想』所収)は最も的確にミラーと日本現代文学との交流関係を代表するものであろう」(田中西二郎)とされているのも面白い(『沙漠の思想』とあるのは、『砂漠の思想』が正しい)。

新聞雑誌では、「希望」(エスポワール)、「近代文學」、「現在」、「現代藝術」、「個性」、「次元」、「人民文學」、「世界」、「世界文學」、「総合」、「綜合文化」、「波」、「人間」、「表現」、「文學季刊」、「文學評論」、「列島」と執筆誌が並ぶが、「詩人」で「安部公房らの作品特集紹介を組んだりした」(原崎孝)とされるのは誤りである。
ともあれ、以上のヒット項目を手がかりにすれば、この作家への様々なアプローチが考えられるだろう。

もちろん、大事典での調査はそれで完結するようなものではない。ただ、検索可能になることによって、今まで見えなかったつながりが見えやすくなってくる。デジタル検索によって、アナログ資料の探索可能範囲と活用の可能性は確実に広がっているのだ。

(早稲田大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.304 2021.11.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

宝庫

たつろうでくねたつろう

『日本近代文学大事典』とのつきあいは、一九七七年十二月三十一日以来である。
どうして日付を覚えているか、というと、この日、客からくだんの事典を買い入れたからだ。しかも第一巻だけ、端本で。

四年前、私は杉並区高円寺に、五坪の古書店を開業した。立地が悪く、全く売れない。バス通りに面していて、人の往来が無い。
その代わり本の買い物がある。処分品を車で運んで来る。前記の大晦日は朝から持ち込みの本で、店の通路は塞がってしまった。
古本商売は売るよりも買い入れの方が儲かる。しかし、文学事典の端本はこまる。

この事典は先月発行されたばかりだった。第一巻から三巻が人名篇で、四巻が事項、五巻が新聞・雑誌篇、六巻が索引その他である。六巻のみ未刊で(翌年八月に出た)、他はいっぺんに発売された。事典の構成上、端本はありえないのである。

客が気がつかず、一冊だけ運んできたのだろう。指摘すると、探して持参する、それは預かってくれと言った。承知して帳場の脇に取り置いた。ところが、それきり音沙汰が無い。
売るわけにいかず(もっとも売れない)、勝手に処分もできず、客の住所に問い合わせたら、引っ越したあとだった。別に損したわけでないので、そのまま忘れてしまった。

ある日、年輩の客から木村毅の著作を一括で買った。まとまったコレクションは珍らしく、本だけでなく新聞雑誌の切り抜きもある。まず調べてから売り方を考えよう。
思いだしたのが、例の端本だった。さいわい、第一巻は「あ」から「け」の姓の人が収められている。木村毅の項は、意外にも約一頁半ある。詳密な記述で、高く評価されている。
筆者は谷沢永一だった。私は思わず快哉を叫んだ。儲かった、と興奮したのである。

谷沢氏は古書界で著名なかただった。氏から注文を受けたことのない古本屋は、モグリと笑われるくらい買い漁った。それも人が買わない本ばかり買う。
不思議にも氏が漁る本は、のちに脚光を浴び高額で取引される。だから氏の買取内容は、古本屋の注目の的だった。

私も氏の収集の傾向から、古い出版見本を集めて大儲けした。

それは()いて、私が『日本近代文学大事典』に親しんだのは、かくの如く商売がらみであった。木村毅の項がきっかけで、暇を見ては第一巻を拾い読みした。
「か」のところに、神田豊穂が出ている。この名に覚えがあった。木村毅の項で読んだ。神田は茨城県麻生藩の家老の家に生まれた、とある。
麻生は私の田舎で、藩主新庄氏の子孫はわが中学の担任だった。神田は直木三十五らと日本最初の『トルストイ全集』を刊行した人である。出版者として事典で紹介している筆者を見ると、木村毅その人だった。

私は『文学大事典』が全巻ほしくなった。第六巻を新刊で求め、既刊分を同業者から譲ってもらった。当時は結構な値段だった。
毎日、少しずつ読んだ。事典は読み物として最上だった。いろんな発見がある。

独学の士が多い。郵便局勤めや、郵政関係者が多い。昔は貧しくて学費の無い者は、逓信修技学校を選んだ。幸田露伴しかり。
郵便局に関わった人は壺井栄、川口松太郎、平木白星、平林たい子、高須梅渓、中村吉蔵、小島烏水、柳沢健、前田鉄之助、楠田匡介……思いだす人だけでもこれだけいる。
『日本近代文学大事典』は、研究材料の宝庫であって、商売人に言わせれば、儲け口の大穴なのである。

(作家)

『日本近代文学館』館報 No.303 2021.9.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

名編集長紅野敏郎さんのこと

いけうちてるいけうちてるお

私が『日本近代文学館』の存在を知ったのは、昭和四一(一九六六)年の頃だったろうか。
その頃、うわさでは、日本近代文学館は膨大な資料を集めていると言われたが、国会図書館の支部上野図書館(旧帝国図書館)で整理中とのこと。見ることはかなわなかった。

私は修士論文か何かで東京下町のことを調べていて、東京大学の本郷、駒場、早稲田大学、東京教育大学(現筑波大学)など、各大学図書館をうろつかなければならなかった。

やがて日本近代文学館で編纂中の『日本近代文学大事典』のいくつかの項目の執筆を割り振られ、神田あたりの雑誌社の編集部を訪ねたり、千葉の房総に隠棲された元編集者の方に取材したりしたこともあった(私は大学を出て小さな業界誌の編集部にいたので、取材はあまり苦にならなかった)。

ただ、問題なのは、たとえば「波」、「VAN」などの雑誌はどこに行けば見られるのか、手掛かりがつかめず、原稿の締切り日に遅れ、編集長の紅野敏郎さんから、電話でひどく叱られ、言い訳のようなことを申し上げたこともあった。
しばらくして紅野さんから会って話がしたいという電話があり、神田の古書店街の喫茶店で待ち合わせをし、おそるおそる出かけて行った。

紅野さんに直接お会いするのは初めてなので、緊張したが、柔和な笑顔であいさつされ、両手をテーブルにつかれて深々と頭を下げられ、こちらは恐縮するばかり。
あとから聞くと、期日通りに書かなかった(書けなかった)友人たちも多く、みな叱られたという。改めて、編集作業の大変さを痛感し、紅野さんの誠実なお人柄に触れたことをうれしく感じた。私の知る限り、このような方はあまりいない。

昭和五二(一九七七)年十一月、無事『日本近代文学大事典』第一巻が出版された。
その巻頭に掲げられた小田切進日本近代文学館理事長の序文「『日本近代文学大事典』刊行の辞」によれば、執筆者八六〇名、関係スタッフの総数九〇〇名、六年を費やした大仕事だったという。

「編集委員」の一覧表を見ると、編集委員長稲垣達郎、編集長紅野敏郎、委員として太田三郎・奥野健男・小田切進・木俣修・楠本憲吉・塩田良平・瀬沼茂樹・中島健蔵・中村光夫・成瀬正勝・野口冨士男・平野謙・福田清人・舟橋聖一・保昌正夫・三好行雄・山本健吉・吉田精一・和田芳恵の諸氏のお名前が並ぶ。そうそうたる陣容だった。今はほとんどの方が物故された。
ほかに歴史・社会・哲学・思想・美術・演劇・映画・出版・新聞など関連領域を含む執筆者も多数。
私も八本の原稿を書いているが、どれも分量はわずか。駆け出しの書き手に過ぎなかった。

大袈裟に言えば、この事典(全六巻)により、日本の近代文学研究は新たな歩みを始めたといっても過言ではあるまい。しかしそれは紅野さんをはじめ、「編集実務」という影で支えた方々が多数いたことも長く記憶にとどめたいと思う。

(日本近代文学館副理事長)

『日本近代文学館』館報 No.302 2021.7.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

そしてデジタルの海へ

よしたかひびよしたか

『日本近代文学大事典』の存在を最初に意識したのは、大学院の修士課程の時だったと思う。私は、冬は雪に埋もれる北陸の国立大で四年間を過ごし、北関東の学園都市にある大学院に進学した。
その街は、水はけの悪い農村地帯に無理矢理に大学や種々の研究機関を移して急造した不自然この上ない場所だったが、驚くべきことに「古本屋街」があった。四〜五軒の書店が、吹きさらしの小さなショッピング・モールのようなところに、肩を寄せ合うようにして軒を連ねているのだった。
私は『日本近代文学大事典』を、そこで初めて、買いたい、と思ったのだった。

授業で一緒になる日本文学研究系の先輩たちと、まれにその古本屋街に行くことがあった。めいめいが勝手に好きな本屋に入り、好きな本を買ったり買わなかったりするのだが、『日本近代文学大事典』全六巻は、そうした古書店の、薄暗い店内の一隅に陣取っており、五〜六万円の札がついていた。

五〜六万円は、やはり高かった。その事典は、大学図書館に行けばすぐに見ることができるのである。にもかかわらず、私はそれを買いたいと思った。『日本近代文学大事典』全六巻を買って自室に置くということは、「研究者」になるための一つの階段だと、当時の私は感じていたのだと思う。
通常なら図書館や研究室に置いてあるような書物が、自室にあるということ。高額な書籍を、身銭を切り、食費を切り詰めてまで買うということ。そういう環境や、そういう献身に、憧れていた。

私は、その大きな事典を、まもなく買った。買ったのは、その「古本屋街」ではなく、古書目録による通信販売だったが。
あるとき全六冊で四万円の値をついに見つけ、私は決意とともに葉書をその古書店に送った。到着した大きな段ボール箱から、箱入りの六巻本は取り出され、がたつくスチールの書棚に収まった。私は満足して、そのつるりとした箱の背の並びを見つめた。

今度、『日本近代文学大事典』はあたらしく改訂され、デジタル化される。古い情報がアップデートされ、新しい項目が追加される。

デジタル化され、モノとしてのボリュームを失った『日本近代文学大事典』は、かつてのような「重み」を持つ存在ではなくなるだろう——などと言う気は、さらさらない。いや、正直に言えばそう言いたい気持ちが少しはあるのだが、そう言いたくはない。
それが「紙の時代」を経験しており、そして「デジタルの時代」に適応したいと願っている、私のような世代(たぶん)の偽らざる気持ちである。
デジタル化され、パソコンのブラウザやスマートフォンから検索されるようになる『日本近代文学大事典』は、より幅広い利用者たちに、手軽に、正確な情報を届けるだろう。あるいは、他の事典類と串刺しにして横断検索をかけた隣接分野の研究者たちに、なんらかのヒントを与えるかもしれない。

全六巻数万円をめぐる葛藤はなくなるだろう。それが自宅に届き、書棚に鎮座したときの感懐も、経験する者はいなくなるだろう。
そのかわりに『日本近代文学大事典』は、より広大なデジタルの知の海に溶け込み、そこを居場所と定めることになる。海は、その懐に飛び込む者を、より見事に、より思いもかけぬ方法で泳ぐ者を、待っている。
この事典の利用者がこれから抱くべき感懐とは、モノの所有の感懐ではない。抜き手を切って泳ぎながら、思いも寄らぬ海の表情に出会う、新たな冒険の感懐である。

(名古屋大学教授)

『日本近代文学館』館報 No.301 2021.5.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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