『日本近代文学大事典』と私

刊行から40年以上を経て、増補改訂デジタル版としてジャパンナレッジで公開した『日本近代文学大事典』。その改訂作業に携わった編集委員や、旧版の項目執筆者、愛用者のみなさまが “大事典への思い” を綴ってくれました。

刊行当時の熱気に触れて

むなかたかずしげむなかたかずしげ

いま『日本近代文学大事典』の奥付を見ると、第一巻から第五巻までの発行は昭和五十二年(一九七七)十一月、第六巻の「索引その他」が昭和五十三年(一九七八)三月になっている。
私は昭和五十一年に大学院に入ったので、修士課程の二年から三年にかけてのことだった。当時はのんびりした時代だったから、現在のように修士課程を二年で修了する人は(少なくとも私の周囲では)まれで、三年、四年と在学することが当り前の雰囲気だった。
私もその一人で、だからといってその間に研究が著しく進むはずもなく、怠惰といえば怠惰な、しかし贅沢といえばきわめて贅沢な時間のなかにいた。
この大事典の刊行は、そのような凡庸な大学院生の眠りを一挙に醒ます事件だった、といったら大げさに過ぎるだろうか。

もちろん、この大事典のことは、指導教授の紅野敏郎先生が中心的な編集委員の一人だったので、以前から聞き知っていた。
また、この大事典を購入しなければ研究者ではない(!)というような熱気が先輩たちの間にはあって、誰々がいち早く購入したとか、あの項目は誰々先生が執筆している、といった話に花を咲かせている先輩たちに刺戟されたことも事実だった。
現金価格六万円というのは、学生にはきわめて高価で、だいぶ躊躇したものの、分割払いの算段をしてまで購入することを決心させたのは、一人前の研究者になりたいという見栄と背伸びからだったに違いない。
けれども、下宿の狭い部屋に場違いのような立派な大事典が届いて、人名や新聞・雑誌項目のあれこれを拾い読みするようになってから、たしかに私は研究に対してそれまでよりは謙虚になり、真面目になったと思う。

私は、第六巻の「叢書・文学全集・合著集総覧」(柱の「合著集」が何カ所か「全著集」になっている)や「近代出版側面史」が好きでよく読むが、机からすぐ手を伸ばせば届く書棚にあって、もう何回繰ったかわからないこの大事典を手にするたびに、そうした刊行当時のことがよみがえる。
当時、日本近代文学館理事長だった小田切進先生は、第一巻巻頭に掲げた「刊行の辞」において、執筆者八六〇名、関係者スタッフの総数九〇〇名に及ぶ多数の協力を得たことに触れながら、「今日までの研究成果のすべてをとり入れ、館がこの一五年間に収蔵するにいたった貴重な諸資料を生かし、六年をついやして成ったきわめてスケールの大きな文学事典であります」と、その意義を述べている。
現在、オンラインで公開予定の増補改訂版の編集の一端に関わっている立場からは、むしろこの大事典が六年で完成したことが驚異以外のなにものでもない。
個々の項目が教えてくれる新しい知識もさることながら、そこに注がれた熱意と使命感において、この大事典は特別の存在だったと思う。

と同時に、刊行時のパンフレットに「もっとも権威ある文学事典」という言葉があるように、——もとよりこの大事典に限ったことではないが、事典というのは常に、項目に採択された文学者やその執筆者を権威化し、正統化する契機をはらんでいる。
記されたことがらの信頼性ということと表裏の関係にあって、私たちはそのことに無自覚ではいられないけれども、オンラインで公開される今度の増補改訂版が、記述の信頼性を担保しながら、文学に関心をもつ人々に広く開かれ、また現代作家の歩みに寄り添いながら、何世代にもわたって書き継がれ、読み継がれていくようになることを、私は夢想している。

(早稲田大学教授・日本近代文学館理事)

『日本近代文学館』館報 No.299 2021.1.1掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

二〇〇字項目執筆の思い出

なかじまくにひこなかじまくにひこ

長く待たれていた『日本近代文学大事典』の増補改訂作業が始まった。講談社刊行の元版六冊が出たのが一九七七、八年、人名編三巻を一冊にまとめ新稿を添えた「机上版」が出たのが一九八四年、もうはるか昔のことだ。理事会のもとに増補改訂の委員会が組織され、安藤宏、紅野謙介、宗像和重、わたくしの四名でデジタル化の作業を始めた。
その後、出久根達郎理事長の肝いりで、日本文藝家協会の周年事業としても位置づけていただき、多額の資金援助が得られることになった。待たれていた一大文化事業であり、増補改訂に向けての期待が大きいことが身にしみた。
この四人のうち、実はこの事典に執筆したのはわたくし一人で、四十年余りという時間の経過を感じさせる。

増補作業のために準備された元版のテキストデータを見て、わたくしが担当した項目数が四十九もあったのは、自分でも驚きだった。
最も文字数の多い人名は「中村稔」で、最初の詩集『無言歌』から『鵜原抄』までのそのお仕事を読み通し、まとめた。中村先生のその後のご活躍を増補するには、今ではその倍以上のスペースが必要だ。
執筆依頼の多くは、四〇〇字、二〇〇字の人名や雑誌名の小項目で、かえってそれが難物だった。短いほうが大変で、エネルギーがいることを、編集委員長の稲垣達郎先生はよく理解され、原稿料の額もそう配慮されていた。

二〇〇字の人名に「市川禅海」があった。海軍軍人で、日露戦争で軍艦初瀬に乗って負傷、片足を切断し出家、体験を全国で語り継いだという。代表作『残花一輪』は大学の図書館にあり、さしあたっての手がかりになった。黒いクロスの厚い本で、少しずつ読み出した頃、神田の古書会館の古本市で入手することができた。
四〇〇字の「中谷無涯」を調べだしている頃、浅草公園裏の古書店で、代表作『すひかつら』と『無涯遺稿』を見つけたりもした。つくづく不思議な縁だと思う。

業績は書けても、事典なので生没年は欠かせない。
現在のようなネット時代ではなく、その探索のため、市川禅海が剃髪した寺、大久保の全龍寺にまず出かけた。「こちらではわからないが、兵学校を出た軍人なら「水交社」で手がかりがないだろうか」と教示を受けた。乃木神社の裏の事務所に行くと、「軍人恩給が出ているはずだから、厚生省に資料があるかもしれない」とのことだった。すぐさま霞ヶ関に駆けつけ、窓口で事情を話すと、奥から役職者の方が出てきて軍歴の原簿を調べてくれ、本籍地を示してくれた。まだ、研究調査のため戸籍資料が受けられる時代で、教わった長野県佐久の役所に手紙を書いて、資料を取り寄せ、無事生没年を書き入れた。
大学の在学や卒業の確認のため、関連する大学の事務所に赴いた体験も多い。
まだご健在の文学者では、ご本人に電話で確かめたこともある。山形にお住まいの歌人の方の歌集『雪谿』の読みを、なんとか確定したい。電話口で、「ゆきだにと読んで下さい」と回答を得て、ルビを書き入れた。

雑誌項目の執筆では、ノートに未見の号を記していき、手立てを尽くした。昭和一〇年代の「作家精神」は四〇〇字項目だが、「第一次」は創刊号から四号まで、と記した。それから四〇年余り経った半年前のこと、扶桑書房の目録に数冊出ていて、五号が出ていたことがわかった。新しくデータを増やすことができる。
わたくしの関係する項目だけでも、終わりのない作業だ。少しでも正確に、少しでも使いやすいように、後世に引き継ぎたい。今後も末永く継続される、誰からも信頼される『日本近代文学大事典』の未来が、楽しみである。

(早稲田大学名誉教授・日本近代文学館専務理事)

『日本近代文学館』館報 No.297 2020.9.15掲載

※この連載は日本近代文学館 館報の「『日本近代文学大事典』と私」の転載です。
執筆者の所属・肩書きは掲載当時のものです。

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