振仮名について
Series2-1
中村正直(1832-1891)がサミュエル・スマイルスの『Self-Help』を翻訳した『西国立志編』は福沢諭吉『学問のすすめ』、内田正雄『輿地(よち)誌略』とともに、明治初期のベストセラーといってよいだろう。『西国立志編』は明治4(1871)年に11冊仕立てで出版されている。検索の範囲を「用例(出典情報)」に設定して「西国立志編」で検索をすると3467件がヒットする。同様に「学問のすゝめ」で検索すると308件、「輿地誌略」で検索すると256件がヒットするので、『西国立志編』が先に挙げた他の2つよりもずいぶんと使われていることがわかる。ちなみにいえば、「学問のすすめ」で検索をしてしまうとヒットしない。「学問のすすめ」で検索しても「学問のすゝめ」で検索してもヒットするように検索エンジンを調整することはできるのではないかと思うので、オンライン版の今後の課題かもしれない。勘違いがあればお許しのほどを。『輿地誌略』はもっと出典として使われてもいいのではないかと(漠然と)思うし、見出しとして採用できる語も少なからずあるように感じるが、『輿地誌略』については機会があれば、回を改めて述べることにしたい。
『西国立志編』は明治初期の出版物として、いろいろな面で興味深い。先に述べたように外国の書物の翻訳であるので、どのように翻訳しているか、ということが根柢にある。その「どのように」の内部は、外国語をどの程度おもてに出し、どの程度翻訳し、どのようにそれを「表示」するかという幾つかのポイントに分かれているといってよい。「表示」ということでいえば、『西国立志編』は「漢字片仮名交じり」で書かれている。「書かれている」はそのような「表記体」を選択したということだ。「表記体」は漢字と仮名とをどのように使って語を書くかということについての、全体的な選択とひとまずは考えておいていただければと思う。
漢字列の右側に振仮名を施すことは(少ないながらも)現在でもあるので、それについてはことさらの説明はいらないだろう。『西国立志編』では漢字列の左側にも振仮名が施されていることがある。
今ここでは、『西国立志編』のテキストとして、明治4(1871)年に木版(整版)で印刷された11冊本を使うことにする。例えば「失敗」の左側に「シソコナヒ」(8編3丁裏9行目)、「容易」(8編4丁表1行目)の左側に「タヤスク」と振仮名が施されている。後者の「本文」は「容易ニナルナリ」であるので、左振仮名をそのままとりこんで「タヤスクニナルナリ」とするとおかしな表現になる。したがって、「本文」は「ヨウイニナルナリ」で、その「ヨウイ(容易)」の語義は「タヤスク」ということだ、と補助的に説明しているとみるのがよい。明治期の左振仮名はこのように「語義の補助的説明」をしていることが多い。
整版ではなく、活字を使って印刷する場合には、左側にも右側にも振仮名を施すとなると、「本行」の左右に振仮名用のスペースを設けておく必要があり、印刷の工程が複雑になるし、事故も起こりやすくなる。明治期の活字印刷された書物を読んでいると、右側の振仮名の位置がずれたり、どこかにいってしまっていたり、振仮名活字が顚倒したりしていることがある。これは振仮名行の活字がしっかりとおさえられていなかったために、印刷しているうちに位置がずれてきてしまっているということだ。左右に振仮名を施すとなると、なおさらそうした事故が増えそうだ。
さて、右振仮名、左振仮名を使うとなると、なんと「左右両振仮名」もある。欲張ったものだ。例えば漢字列「市尹」の右側に「ロードメーヨア」、左側に「マチブギヨウ」(8編26丁表12行目)とある。あるいは漢字列「圧搾」の右側に「アツサク」、左側に「オシシメ」(11編29丁表2行目)とある。このような場合は、右振仮名は「語形(発音形)」を示し、左振仮名は先に述べたように「語義の補助的説明」を示すというような機能分担をしていると思われる。
「ロードメーヨア」は「Lord Mayor」で、英語語形を示したかったので、これを右振仮名にした、と推測する。そうでなければ、右振仮名は漢語「市尹」の発音形「シイン」でもよかったはずだ。英語「Lord Mayor」を漢字列「市尹」で文字化することによって、英語「Lord Mayor」の語義はある程度は示せている。しかしさらに念を入れて左振仮名に江戸時代以来使われている「マチブギヨウ」(町奉行)を示すことによって、語義をはっきりとさせた、ということであろう。明治初期の日本語の状況をよくあらわしている。
さて、今回の話題は、せっかくそうした日本語の状況をよくあらわしている『西国立志編』を相当程度に使っているのだから、「この状況」を『日本国語大辞典』の中にうまくとりこめないだろうか、ということだ。具体的には次回に述べることにしよう。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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