「相槌」について
Series4-1
「槌」が常用漢字表には載せられていない漢字であるが、シリーズタイトルの「相槌」は「アイヅチ」という語を書いたものであることはわかるだろう。〈互いに〉というような意味をもつ接頭語「アイ(相)」と「ツチ(槌)」とが結びついて「アイヅチ」という語形がうまれる。この時、後ろにまわった「ツチ」の語頭が濁音になって、「アイツチ」ではなく「アイヅチ」となっている。
これは「連濁」と呼ばれる言語現象で、『言語学大辞典』第6巻「術語編」(1996年、三省堂)は「日本語で、2つ以上の形態素が連続する際に、後続する形態素の第1拍の清音が濁音になること」(1416ページ左)と説明している。ただし、2つ以上の形態素が連続する際にはいつでもこの「連濁」が生じるかといえば、そうではないこともわかっている。例えば、後続する形態素の第2音節以降にすでに濁音がある場合で、「カゼ(風)」はすでに濁音を含んでいるので、「ハル(春)」と結びついても「ハルガゼ」とはならず「ハルカゼ」となる。
さて、『日本国語大辞典』は「あいづち」という連濁した語形を見出しにしている。使用例は鎌倉中期の辞書『塵袋(ちりぶくろ)』(1264-88頃)の例が最初に置かれている。『日本国語大辞典』の「別冊」中の「主要出典一覧」によれば、『塵袋』として使用されている具体的なテキストは「日本古典全集」所収の『塵袋』である。筆者は昭和52(1977)年11月16日に刊行されている「覆刻日本古典全集」(現代思潮社)を所持しているので、ここではそれを「日本古典全集」に準じるテキストとして使うことにする。
ちなみにいえば、「日本古典全集」は井上通泰、山田孝雄、新村出を「顧問」、正宗敦夫を「編纂校訂」として掲げている。「日本古典全集」『塵袋下』の末尾には「塵袋の奥に」と題された正宗敦夫の文章が載せられているが、その冒頭には「帝室博物館に珍蔵せられてゐる塵袋をこのたび写真コロタイプ版にて複製刊行し得た事は編者として実に嬉しい事である」と述べられている。つまり、「日本古典全集」『塵袋』は「帝室博物館」(現在の東京国立博物館)に蔵されているテキストの「複製」であった。
「日本古典全集」『塵袋下』には山田孝雄による「塵袋解題」が置かれており、それによって、この帝室博物館所蔵の『塵袋』は高野山の僧である印融が永正5(1508)年11月4日から同年12月27日までの間書写したものであることがわかる。
『日本国語大辞典』があげている使用例は『塵袋』第八の「雑物」中の「㧻撃」という47番目の見出しが該当する。次に翻字してみる。
一 鍛冶カアヒツチト云フハ二人ムカヒテウツユヘ歟
ツネニハサ心エタリ但シ㧻撃ノ二字ヲアヒツチトヨム(以下略)
(日本古典全集596ページ)
『日本国語大辞典』には「鍛冶があひつちと云ふは、二人むかひてうつゆへ歟」というかたちで『塵袋』の使用例があげられている。使用例をどのようなかたちで提示するか、ということについては、『日本国語大辞典』第1巻冒頭の「凡例」中の「用例文について」に示されている。その2「見出しに当たる部分以外の扱い」の〈表記〉の(イ)に「和文は、原則として漢字ひらがな混り文とする。ただし、ローマ字資料や辞書については、かたかなを使う場合がある」とあることが、「漢字片仮名交じり」が「漢字ひらがな混り」に変えられていることの裏付けであることがわかる。ただし、このことについても、もともと「漢字片仮名交じり」の表記体を採っているものはそのままのかたちで示すということも考えられなくはない。できるかぎり原態を保存するという「いきかた」もあり得るだろう。こうしたところは「判断」が必要になる。
さて、ここで話題にしたいのは、もともと「鍛冶カアヒツチト云フハ」とあった箇所を「鍛冶があひつちと云ふは」と翻字していることについてである。先の「用例文について」の1「見出しに当たる部分の扱い」の(ホ)に「拗音・促音は、確実なものに限って小字とする」とある。また2「見出しに当たる部分以外の扱い」の〈仮名遣い〉の(ニ)にも「拗音・促音は、拗音・促音であることが確実なものに限って小字とする」とある。つまり濁音については述べられていないと覚しい。
そしてまた、先に引いたように、「見出しに当たる部分以外の扱い」の〈表記〉の(イ)には「和文は、原則として漢字ひらがな混り文とする」とあるこの「原則」は「見出しに当たる部分」にも適用されているはずで、むしろ「用例文」の「原則」として掲げてもよいのではないだろうか。
上記の箇所では、「鍛冶カ」は「鍛冶が」と翻字され、「アヒツチ」 はそのまま「あひつち」と翻字されている。「用例文について」に「用例文は「 」でくくり、適宜句読点を加えるなど、できるだけ読みやすくする。ただし、見出しに当たる部分は、なるべく原本のかたちに従う」と記されている。「鍛冶カ」が「鍛冶が」と翻字されているのは、「できるだけ読みやすくする」という方針に依るもので、「アヒツチ」は見出しに当たる部分なので、「なるべく原本のかたちに従う」という方針に依るものということになる。「原本のかたち」は「アヒツチ」であるのだから、「あひつち」と平仮名で示す以上、やはり「用例文」全体の原則として「漢字ひらがな混り文とする」があった方が整合性がとれそうに思われる。
▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回(9/18)は今野真二さんの担当でお送りします。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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