洋菓子名という「新語」
Series9-2
前回は「カスタード」「ショートケーキ」を話題として採りあげ、不二家伊勢佐木町店で大正11(1922)年にショートケーキの販売をしていたという情報を紹介した。前回使った『モダン新語辞典』(1931年、浩文社)には「シュークリーム」が見出しとして採りあげられていない。斉藤義一『モダン語百科辞典』(1932年、中村書店)の「西洋料理用語」の条には次のようにある。
[シュー・クリーム]バタと砂糖とをどろどろにとかしたものを、うすい焼皮で周囲を蔽ふた菓子のこと。
この説明がわかりやすいかどうかは措く。『日本国語大辞典』には次のようにある。
シュー‐クリーム
〔名〕
({フランス}chou à la crème から。原文は、「クリーム入りキャベツ」の意。その形から)バター、小麦粉、卵などで作った種を天火で焼いた薄皮の中に、クリームをつめた洋菓子。
*蒲団〔1907〕〈田山花袋〉四「土産の包を開くと、姉の好きな好きなシュウクリーム。これはマアお旨(い)しいと喜の声」
*大津順吉〔1912〕〈志賀直哉〉一・七「シュークリームのクリームだけを匙で嘗めた」
*古川ロッパ日記‐昭和九年〔1934〕六月一三日「おみやげのシュクリーム食ってたら又前歯ガクンと、とれた」
田山花袋「蒲団」と志賀直哉「大津順吉」が使用例としてあげられている。いずれも大正12(1923)年よりも前に発表されている。今ここでは「日本におけるシュークリームの歴史」にはふみこまない。見出し「ショートケーキ」の使用例にもあげられていたが、ここにまた「古川ロッパ日記」があげられている。ジャパンナレッジの検索機能を使って「古川ロッパ日記」を検索すると343件がヒットする。ヒットしている見出しの中には「アイスコーヒー」「アイスココア」「アスパラガス」「アレキサンドリア」(葡萄の品種)など飲み物や食べ物の名前が一定数含まれている。飲食物の名前が文学作品に出てこないわけではないことは、上の「シュークリーム」で証明されているようなものであるが、といって、どんな飲食物の名前でも出てくるとはもちろんいえない。むしろ、限定的とみておくべきであろう。
これまでも同じような趣旨のことを述べてきているが、文学作品中心に語を集めると、文学作品にはあまり使われない語彙がすっぽりと抜け落ちる可能性が出て来る。洋菓子の名前などは、そういう可能性がある語彙ではないかというのが今回の話題である。
さて、昭和4(1929)年に平凡社から出版された西條八十『令女詩集』という本がある。これは「令女文学全集」全15巻の第12巻にあたる。この本の挿絵は蕗谷虹児、装幀は山六郎が担当している。この『令女詩集』に「菓子と娘」というちょっとおもしろい題名の詩が収められている。第一連、第二連を、必要ではない振仮名を省いて引用する。繰り返し符号には仮名をあてた。
お菓子の好きな巴里娘(ぱりむすめ)
ふたり揃へばいそいそと
角の菓子屋へ「今日は(ボン・ヂユール)」選(よ)る間(ま)もおそしエクレール、
腰をかけずにむしやむしやと
喰(た)べて口拭く巴里娘。
この詩の末尾には「エクレールは細長い、シユークリームに似た菓子で、チヨコレートの衣がかけてある」という説明が注のようなかたちで附されている。そのことからすれば、この詩が発表された頃には、まだエクレールは一般的ではなかったことが推測される。一方、エクレールの説明の中に「シユークリーム」が使われていることからすれば、シュークリームは(説明に使える程度には)一般化していたことになる。『日本国語大辞典』の見出し「エクレア」「エクレール」には次のように記されている。
エクレア
〔名〕
({英}eclair )《イクレア》西洋菓子の一つ。細長い形のシュークリームの上にチョコレートを薄くかけたもの。エクレール。
*読書放浪〔1933〕〈内田魯庵〉銀座繁昌記・三「千疋屋のフルーツ・ケーキ、不二屋のイクレア〈略〉家庭円満党の銀ぶらのお土産である」
*笹まくら〔1966〕〈丸谷才一〉六「美津がコーヒーとエクレアを運んで来た」
エクレール
〔名〕
({フランス}éclair )「エクレア」に同じ。
*ロッパ食談〔1955〕〈古川緑波〉甘話休題Ⅲ「シュウクリームにチョコレートを付けた、エクレールとは全然違ふ」
「エクレール」にはまたまた古川緑波であるが、「ロッパ食談〔1955〕」が使用例としてあげられている。西條八十「菓子と娘」のほうがだいぶ早い。『日本国語大辞典』は「エクレア」は英語由来、「エクレール」はフランス語由来の外来語と判断しているようにみえる。そうだとすると、現在は「エクレア」という語形がひろく使われていると思われるので、「エクレール」が使われなくなっていく歴史(そう書くとなんだか淋しい歴史になってしまうが)があることになり、それはそれでまた興味深い。しかし現時点ではそこにふみこんでいく準備が残念ながらない。
今回述べたいことは、「洋菓子の名前語彙」は文学作品からはなかなか拾えないだろうということだ。そのために、特定の文献が使用例としてあげられやすくなる。それはそれで当然のことと思う一方で、今回採りあげた「令女文学」のような、少し「傾き」がある文献を精査することには一定の意義があるのではないかと思ったりもする。
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“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった
1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。
1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。
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