『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために 『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために

写真:五十嵐美弥
50万項目、100万用例、全13巻の『日本国語大辞典 第二版』を、2年かけて読んだという清泉女子大学の今野真二教授。初版企画以来40年ぶりに改訂に挑んだ第二版編集長、佐藤宏氏。来たるべき続編に向けて、最強の読者と最強の編集者による『日国 第二版』をめぐるクロストーク。今野3回×佐藤1回の1テーマ4回シリーズでお送りします。

シリーズ 8 「「とも」について 」目次

  1. 1. 今野真二:「古くは」の意味するところ 2020年06月17日
  2. 2. 今野真二:乱歩作品にみる併用の時期 2020年07月01日

「とも」について
Series8-1

「古くは」の意味するところ

今野真二より

 『日本国語大辞典』の見出し「ふんしつ」は次のように記されている。

ふんしつ【紛失】
〔名〕

(古くは「ふんじつ」とも)

(1)物がまぎれてなくなること。まぎらし見失うこと。失うこと。
*金比羅宮文書‐天元三年〔980〕二月二日・某寺資財帳(平安遺文二・三一五)「不修治寺家、有世間不階、悉以寺物令紛失」
*前田本下学集〔室町末〕「紛失 フンジツ」
*日葡辞書〔1603~04〕「Funxit (フンシツ)。ミダレ ウシナウ」
*浄瑠璃・狭夜衣鴛鴦剣翅〔1739〕一「かっせんの其ばにてふんじつせしか取りのこせしか」
*歌舞伎・高麗大和皇白浪〔1809〕三立「大切なる宝紛失(フンジツ)の、折柄」
*和英語林集成(初版)〔1867〕「Fun-jitsz フンジツ 紛失」

(2)物忘れすること。忘れて誤ること。
*仮名草子・よだれかけ〔1665〕二「いささかの紛失は、わが年にもゆづり給へといへば」

(3)人が姿を消すこと。失踪。また、ぬけ出して逃げること。脱走。
*園太暦‐観応元年〔1350〕一二月九日「昨日凶徒入宇治、不在所、紛失境内云々」
*随筆・西遊記〔1795〕五「登るもの、不時に紛失(フンジツ)する事抔(など)毎度の事ゆゑに」
*雑俳・柳多留拾遺〔1801〕巻七「宿引はたらひを出して紛失し」

 「古くは「ふんじつ」とも」はもちろん「古くはフンジツとも発音した」と理解するのが自然だろう。この「とも」が実はなかなか難しい。これは『日本国語大辞典』の記述がわかりにくいということではなく、どのように考えればいいかが案外とはっきりしないということである。

 まず『日本国語大辞典』があげている使用例をみてみよう。

 「前田本下学集〔室町末〕」において漢字列「紛失」に「フンジツ」と振仮名が施されている。今筆者は、『日本国語大辞典』が編集に際して使用したと思われる「古本下学集七種研究並びに総合索引」(1971年、風間書房)で確認しているが、確かに「フンジツ」という振仮名が確認できる。しかしまた、同じ丁(ページ)の「奇特」に施されている振仮名「キドク」と比べると、影印本の発色が薄いようにもみえる。想像を逞しくして、これは朱で入れられているということはないだろうか、と思ったりもする。しかし「古本下学集七種研究並びに総合索引」の「下学集解説」において、振仮名に2種があるというようなことは記されていない。そうであるので、ひとまずは「前田本下学集」に「フンジツ」という3拍目が濁音になっている語形が確認できたことにする。『節用集』にも目を配れば、「堺本」(天正18年本)のフ部言語進退門においても漢字列「紛失」に「フンジツ」と振仮名が施されている。

 なぜ、そんなところにひっかかっているかといえば、1603年に本編が出版された『日葡辞書』が「フンシツ」を見出しとしているからだ。『下学集』『節用集』が『日葡辞書』よりも前の日本語の状況を反映しているとみるならば、「フンジツ」→「フンシツ」という語形変化が進行した、というのが一つの「みかた」である。しかし、1867年に出版された『和英語林集成』初版は「フンジツ」を見出しにしている。これを「フンジツ」→「フンシツ」→「フンジツ」という語形変化とみると、第3拍が濁音から清音になり、また濁音になるというようにめまぐるしく発音を変えたことになってしまい、少し不自然にみえる。このあたりの判断が難しい。

 この往復書簡を読んでくださっている方々にはすでに「合点承知」のことかもしれないが、ねんのために述べておくとすれば、濁音音節に必ず濁点をつけるようになったのは、おそらく明治末期、もしかすると大正初期ぐらいとみるべきかもしれない。そうであれば、それまでは、濁点は付けたり付けなかったりということになる。濁点がついていれば濁音であるが、ついていないからといって清音とは限らない。そう考えると、ある時期において「フンジツ」「フンシツ」いずれが勢力があったか、というような単純なことも容易には断言できないことになる。「フンシツ」という形が置かれている、当該文献をよくよく観察し、比較的濁点を付けているようであるのに、ここは濁点が付かずに「フンシツ」とあるから「フンシツ」という読みではないかとか、そういう「憶測」をする必要がある。過去の言語に関しては「多数決をとる」ことも難しいことが多い。

 そこで「とも」であるが、これは、現在は「フンシツ」という語形を使っていますが、「古くは」「フンジツ」という語形もありましたよ、ということとみるのが自然なのだろう。そして、それは上記のような、「ああでもない、こうでもない」という「オネオネ」した、江戸川乱歩なら「クネクネした」と表現しそうな議論をさらっと回避するとらえかたであるともいえよう。「とも」には「古くは」がつかない「とも」(「~とも」)もある。また、「古くは」に「とも」がつかない(「古くは~」)場合もある。

 例えば、見出し「あえぐ」に「(古くは「あえく」)」とある。この語の場合、『万葉集』で使われているので、『万葉集』でどのように漢字表記されているかから、第3拍が清音であったことがわかる。しかし、『日葡辞書』は「アエグ」を見出しにしている。だから、この場合は「アエク」→「アエグ」と語形が変化したといえるだろう。こういう場合は「とも」がつかないのだろう。辞書の使い手も、細かい表現の違いに気をつける必要がある。

▶︎「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は7月1日(水)、今野さんの担当です。

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日本国語大辞典

“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった

筆者プロフィール

今野真二こんの・しんじ

1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『図説日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。最新刊は『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)。

佐藤 宏さとう・ひろし

1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。

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