『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために 『日本国語大辞典 第二版』をめぐる往復書簡 来るべき辞書のために

写真:五十嵐美弥
50万項目、100万用例、全13巻の『日本国語大辞典 第二版』を、2年かけて読んだという清泉女子大学の今野真二教授。初版企画以来40年ぶりに改訂に挑んだ第二版編集長、佐藤宏氏。来たるべき続編に向けて、最強の読者と最強の編集者による『日国 第二版』をめぐるクロストーク。今野3回×佐藤1回の1テーマ4回シリーズでお送りします。

シリーズ 8 「「とも」について 」目次

  1. 1. 今野真二:「古くは」の意味するところ 2020年06月17日
  2. 2. 今野真二:乱歩作品にみる併用の時期 2020年07月01日
  3. 3. 今野真二:『日本国語大辞典』と江戸川乱歩 2020年07月15日
  4. 4. 佐藤宏:ことばの歴史を消さないために 2020年08月05日

「とも」について
Series8-2

乱歩作品にみる併用の時期

今野真二より

 前編では『日本国語大辞典』の見出し「ふんしつ」に「(古くは「ふんじつ」とも)」と記されていることを起点とした。江戸川乱歩の「吸血鬼」を春陽堂版全集6で読んでいて次のようなくだりがあることに気づいた。

1 室内のようすは、先日小川と名乗る人物が殺され、その死体が紛失(ふんじつ)した当時と、少しも変つたところはなかつた。(春陽堂版全集6・69頁上段)

2 日頃の文代さんに似合わしからぬ、ぶしつけなやり方である。が、その実は、こうして、男の手をふさいでおいて、彼女が化粧室にはいつているあいだ、例のケースが紛失(ふんしつ)したことを気づかせまい策略であつた。(同前81頁下段)

3 「こうして、小川正一の死体が紛失(ふんしつ)したのです。あの黒いやつが、これだけの仕事を終つたあとへ、恒川さん、あなた方警察の一行が、ここへ来られたという順序です」(同前170頁上段)

4 なるほど、なるほど、死体紛失(ふんしつ)の一件はこれで明瞭になつた。しかし、まだわからぬことが山ほどある。(同前)

 1では漢字列「紛失」に「ふんじつ」と振仮名が施され、2~4では「ふんしつ」と施されている。春陽堂版全集6は昭和30(1955)年4月20日に刊行されている。この全集は第2巻・第4巻が昭和29(1954)年12月23日に刊行されてから、第1巻が昭和30(1955)年2月5日に刊行されているが、第1巻の巻頭に「自序」が置かれている。その「自序」には「私の小説は、これまでいろいろな形の本になつて繰返し出版されているが、どの本も校正が厳密でなく、誤植が多いので、この全集は出来るだけそれらの誤植を正すとともに、伏せ字はことごとく埋め、古い用法の漢字を改め、仮名はすべて新仮名遣いに直すことにした」とある。つまり、この春陽堂版全集の編集には乱歩は積極的であったと思われる。したがって、上に示した1~4、特に1を単純な誤植とはみないことにする。1~4がすべて乱歩が認めたものであるならば、乱歩は「フンジツ」「フンシツ」両語形を併用していたことになる。

 前回「どのように考えればいいかが案外とはっきりしない」「このあたりの判断が難しい」と述べたのは、この乱歩の「状況」を知っていたからだ。上記のように乱歩が2語形を併用していたことを認めるとすると、そのような、「2語形併用」という状況が室町時代後期あたりにすでにあったということはないだろうか、ということだ。『下学集』や『節用集』において「フンジツ」が確認でき、『日葡辞書』は「フンシツ」を見出しにするということの背後に「2語形併用」があるとすると、文献と文献とを「線でつなぐ」ような「みかた」は(単純な、というといいすぎかもしれないが)一つの「みかた」にすぎないということになる。「フンジツ」という語形がまずあり、後に「フンシツ」という語形がうまれたとする。これを図式化すれば「フンジツ」→「フンシツ」となる。そうではあるが、これは「図式化」で、相当に抽象的な「みかた」でもある。『「フンシツ」生まれました。「フンジツ」消えて下さい。』ということにはならないのであって、併用されている時期があるとみた方がおそらくは自然だろう。その併用の時期がどのくらいあるのか。案外長くそういう状況であるとすると、その時期の文献には「フンジツ」がみられたり「フンシツ」がみられたりということになる。また、自分がずっと使ってきた語形が「フンジツ」であると、若い世代が「フンシツ」を使っていても、いつまでも「フンジツ」を使うということだってないとはいえない。こう考えると、ますます悩むことになる。

 さて、春陽堂版全集には振仮名が施されていたので、漢字列「紛失」が「フンジツ」という語を書いたものであることがわかった。振仮名がなかったら、これはどうなるだろうか。

 現在、手軽に江戸川乱歩作品を読もうと思ったら、春陽堂の「江戸川乱歩文庫」か、光文社文庫版全集か、あるいは講談社の江戸川乱歩推理文庫か、少し前のもので角川文庫か、ということになるだろう。「江戸川乱歩文庫」(2019年2月25日)と「光文社文庫版全集」(2004年11月20日)の「本文」をあげてみよう。

 室内のようすは、先日小川と名乗る人物が殺され、その死体が紛失した当時と、少しも変わったところはなかった。(江戸川乱歩文庫・138頁)

 室内の様子は、先日小川と名乗る人物が殺され、その死体が紛失した当時と、少しも変った所はなかった。(光文社文庫版全集・395頁)

 少し「本文」が異なっているが、「死体が紛失した当時」の箇所は共通している。こうした文庫を現代日本語を母語としている人が読んだら、もっといえば、声に出して音読したらどう読むだろう。おそらく多くの人が「シタイガフンシツシタトウジ」と音読するだろう。現在において、「フンジツ」という語形を使う人がいない、とまでいいきれるかどうか、そこはまた考えなければいけないところであるが、多くはないだろう。そういう状況下であれば、振仮名が施されていない「紛失」はその時に多くの人が使っている「フンシツ」という語形を書いたものだと、無条件に理解されるはずだ。その時に、かつて乱歩が使った「フンジツ」という語形は「消されて」しまう。「消された乱歩」だ。次回は江戸川乱歩について話題にしてみよう。


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▶「来たるべき辞書のために」は月2回(第1、3水曜日)の更新です。次回は7月15日(水)、今野さんの担当です。

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日本国語大辞典

“国語辞典の最高峰”といわれる、国語辞典のうちでも収録語数および用例数が最も多く、ことばの意味・用法等の解説も詳細な総合辞典。1972年~76年に刊行した初版は45万項目、75万用例で、日本語研究には欠かせないものに。そして初版の企画以来40年を経た2000年~02年には第二版が刊行。50万項目、100万用例を収録した大改訂版となった

筆者プロフィール

今野真二こんの・しんじ

1958年、神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。清泉女子大学教授。専攻は日本語学。『仮名表記論攷』(清文堂出版)で第30回金田一京助博士記念賞受賞。著書は『辞書をよむ』(平凡社新書)、『百年前の日本語』(岩波新書)、『図説 日本語の歴史』(河出書房新社)、『かなづかいの歴史』(中公新書)、『振仮名の歴史』(集英社新書)、『「言海」を読む』(角川選書)など多数。

佐藤 宏さとう・ひろし

1953年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。小学館に入社後、尚学図書の国語教科書編集部を経て辞書編集部に移り、『現代国語例解辞典』『現代漢語例解辞典』『色の手帖』『文様の手帖』などを手がける。1990年から日本国語大辞典の改訂作業に専念。『日本国語大辞典第二版』の編集長。元小学館取締役。

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今野真二著
三省堂書店
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