18世紀後半に始まった産業革命によって大量生産が可能になり、世界の構造は劇的に変わった。必要だからモノを買うというよりも、大量生産した商品を売るために需要が作りだされ、経済成長そのものが社会の目的へと変わっていったのだ。
いまや、こうした大量生産・大量消費の社会構造は世界中に広がり、モノは世界中に行き渡るようになった。しかし、一方で経済成長という大義名分があれば、自然環境や地域独特の文化の破壊、人権を無視した産業活動さえ正当化されるようになっている。
果たして、経済成長によって人類は本当に幸せになったと言えるのか。経済成長は豊かさを代弁していないのではないか。
こうした経済成長至上主義に対する疑問から、フランスを中心に生まれてきたのが「脱成長」という運動だ。フランス語で「デクロワサンス」といい、必要な消費にダウンシフトし、簡素に生きることを目指す考え方だ。
「脱成長」社会の重要性を唱えるフランスの経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュは、『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社)の中で、「〈脱成長〉は、経済モデルと経済理論のテーマである成長に反対し、『成長主義者』の言語体系をぶち壊すことを目的とする一種のスローガン」と定義している。
つまり、成長神話にとらわれている社会を根底から見つめ直し、豊かさの再定義を行なおうという試みだ。そのためには、グローバル経済とは距離を置き、それぞれの地域で環境や人権、住民自治など社会の質に関するものの価値を問い直すことが必要になるという。こうしたラトゥーシュの「脱成長」論は、グローバル経済の構造的矛盾を克服する経済理論として、欧州諸国で注目を浴びており、フランスの国会答弁でも使われるほどになっている。
一方、日本では「強い経済の復活」を訴える自民党が政権与党に返り咲き、高齢化や貧困などの問題を経済成長によって解決しようという政策がとられている。だが、グローバル化や規制緩和による経済成長は一部の人々にとっては利益拡大のチャンスになるかもしれないが、さらに格差を広げることも懸念されている。
東日本大震災による福島第一原発事故を経験した日本に求められているのは、脱成長の精神に基づくような生き方や暮らし方そのものを問い直す思考ではないだろうか。