政治家、70歳。私が小沢一郎氏に注目したのは、彼が最年少の自民党幹事長になったときである。47歳。傲岸不遜(ごうがんふそん)が洋服を着たような男だった。以来20余年の間に田中角栄・竹下登・金丸信などの“恩師”を次々に裏切り、“政敵”小渕恵三・海部俊樹・野中広務を屠(ほふ)り、時の政権を潰すことに執念を燃やし続け、「豪腕」「政界の壊し屋」と呼ばれてきた。
田中がロッキード事件で逮捕され政界の表舞台から姿を消すと、小沢が主役に躍り出た。彼が自著『日本改造計画』(講談社)で主張していた「戦争のできる普通の国」という考え方が、私には危険だと思え、ライターの松田賢弥(まつだ・けんや)氏と組み『週刊現代』(1992~97年)で反小沢キャンペーンを続けた。
そこでは東北地方を中心とするゼネコン支配、不明朗な金脈作り、愛人、隠し子問題などを追及した。だが、1993年に自民党を飛び出した小沢は、新生党を結成、細川護煕(もりひろ)を首相に担いで非自民連立政権をつくるなど、念願である二大政党制づくりへと突き進み、2009年に彼が率いる民主党が大勝して政権交代を果たすのである。
ここまで日本の政治は小沢を中心に動いていたといっても過言ではなかろう。
彼の人生が暗転したのは2010年に小沢の秘書達が政治資金規正法違反容疑で逮捕されてからである。小沢は嫌疑不十分で不起訴となったが、翌年、検察審査会で強制起訴(2012年11月に無罪確定)されてしまう。
さらに小沢を追い詰め、人間としても問題ありと批判したのは妻の和子であった。『週刊文春』(2012年6/21日号、以下『文春』)がスクープした「妻からの離縁状」では、夫・小沢の愛人・隠し子のことについても触れ、原発事故が起きてから放射能を怖がって逃げ出したと書いてある。
「岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」(『文春』)
妻や息子たちからも遠ざけられ、民主党を離党して臨んだ昨年末の総選挙で惨敗を喫した小沢氏は、『週刊ポスト』(3/1日号)で最近の心境を語っている。
中国の鄧小平が73歳のとき3度目の復帰をして最高指導者に登りつめたことを例に出し、勝負は3年半後のダブル選挙だと意欲を見せ、こう語っている。
「人生はいろいろあるし、勝つも戦、負けるも戦だからね。ただ何としても、議会制民主主義の最初のレールだけは敷きたい。だから、自民党に対抗できる政党、基盤となる政党をつくり上げたい」
彼は西郷隆盛が好きなようだ。インタビュアーに「西郷のように幕をおろすわけにはいかない?」と聞かれ「城山(西郷が西南戦争に敗れて自決した地)には、まだちょっと早いな」と答えている。
だが、小沢氏が憧憬する西郷どんのように、後世の人が彼を一時代の英雄や憧れの対象として思い浮かべることはないに違いない。私も小沢ウオッチャーとしての役目を終える時期にきたと思っている。