雨の日に、傘をさして狭い道で人とすれ違うとき、お互いの傘を斜めに傾けて、通りやすくすれ違う「傘かしげ」。

 渡し舟のなかで、ちょっと腰を浮かせて、手のこぶしひとつ分譲って、後から乗ってきた人の席をつくってあげる「こぶし腰浮かせ」。

 ほかにも、「時泥棒」「三脱(さんだつ)の教え」「うかつ謝り」など、江戸時代に人々が身につけていたとされるマナーが「江戸しぐさ」なるものだ。

 2004~2005年に、公共広告機構(現、ACジャパン)のテレビコマーシャルで取り上げられたのを機に広まり、小学校の道徳の教材、企業の研修にも使われるまでになった。

 「江戸しぐさ」の普及活動をしている「NPO法人江戸しぐさ」のホームページによると、江戸しぐさとは「江戸商人のリーダーたちが築き上げた、上に立つ者の行動哲学」「よき商人として、いかに生きるべきかという商人道で、人間関係を円滑にするための知恵」。260年以上もの間、戦争のない平和な時代が続いたのは、「江戸しぐさ」という知恵が社会を支えたからだと説明している。

 ところが、「江戸しぐさ」に関する文献は残されていない。それなのに、なぜ21世紀の日本で再び広まったのか。

理由は、明治新政府によって江戸っ子大虐殺が行なわれ、資料がすべて焼き尽くされてしまったからで、生き残った数少ない「隠れ江戸っ子」が江戸しぐさを口頭で伝えてきたのだという。

なんともロマンあふれる話ではないか。

 だが、『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書)の著者で、歴史研究家の原田実氏は、「江戸しぐさ」を一刀両断する。

 《結論から言えば、「江戸しぐさ」は歴史偽造であり、一九八〇年代に「発明」され、以降新たな創作を加えて膨らんできたものである。……(中略)……
 「江戸しぐさ」の伝承について、明治政府が「江戸しぐさ」を弾圧した後その弾圧自体も隠蔽した(つまり、実在の証拠が提示できないのを権力のしわざにする)、というエピソードがあるが、これは陰謀論の構造を持っている。
 さらに、地震予知など超能力の要素をも含んでおり、そういった意味では「江戸しぐさ」は立派なオカルト物件なのである。》

 たしかに、冷静に考えてみると、「江戸しぐさ」なるものは、文献によって伝えられている江戸期の風俗とはかけ離れているものが多い。

 たとえば、冒頭の「傘かしげ」。

 江戸時代、傘はまだまだ贅沢品で、庶民は藁(わら)で編んだ笠をかぶったり、蓑(みの)を着て、雨をよけていた。傘をさした人が頻繁にすれ違うことがあったかどうかは疑問だ。

 また、「こぶし腰浮かせ」も、江戸時代の渡し船には座席はない。船板にしゃがむように座っているので、あとから来た人のために場所をつくるなら、いったん腰をあげなければいけないはずだ。

 反対に、「傘かしげ」も「こぶし腰浮かせ」も、現代の生活様式から生まれたマナーと考えれば納得できる。

 幕末・明治初期の江戸町方の記録は大量に残っており、意図的に記録が隠滅された形跡はないのに、江戸っ子大虐殺の史実を記した文献だけがないというのもおかしな話だ。実際、江戸っ子大虐殺などは行なわれていない。

 原田氏は、こうした捏造(ねつぞう)された歴史を、さも史実であるかのように教育現場で子どもたちに押し付けることを最も危惧している。

 教育は、歴史的な事実、科学的なデータなどエビデンスに基づいて行なわれるべきで、その根幹が揺らげば「なんでもあり」になってしまう。たとえマナーの普及という崇高な目的があったとしても、嘘は許されるべきではない。もしもそれを許せば、教育者や為政者は、歴史的事実や科学的データを捻じ曲げて、彼らの都合のよい社会をつくることができてしまうだろう。

 丁寧に文献に当たれば、すぐに嘘だとわかることを、さも事実であるかのように流布させ、教育現場にまで影響を及ぼしている「江戸しぐさ」なるものに関わる団体は悪質だと言わざるをえない。また、言われたことを鵜呑みにして、検証作業をせずに、史実とは異なる嘘の普及に手を貸した大手新聞をはじめとするメディアにも責任があるだろう。

 「江戸しぐさ」の嘘が私たちに教えたことは、さも本当のように語られていることのなかには、エビデンスの欠片もないトンデモ話が混ざり込んでいるという警告だ。そうした嘘に惑わされないためにも、日頃から事実を見極めるための正しい知識を身につけたい。
   

   

ニッポン生活ジャーナル / 早川幸子   


早川幸子(はやかわ・ゆきこ)
水曜日「ニッポン生活ジャーナル」担当。フリーライター。千葉県生まれ。明治大学文学部卒業。編集プロダクション勤務後、1999年に独立。新聞や女性週刊誌、マネー誌に、医療、民間保険、社会保障、節約などの記事を寄稿。2008年から「日本の医療を守る市民の会」を協同主宰。著書に『読むだけで200万円節約できる! 医療費と医療保険&介護保険のトクする裏ワザ30』(ダイヤモンド社)など。
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