8月15日、日本は70回目の終戦記念日を迎える。アジアの国々に癒しがたい傷痕を残し、自国民にも多くの犠牲をもたらした先の大戦への反省から、戦後、日本は一貫して平和国家としての道のりを歩んできた。
「過ちは二度と繰り返さない」と不戦の誓いを立て、9条を有する日本国憲法のもと、日本国民が戦争で他国の人を殺したり、殺されたりするようなことは一度もなかった。
だが、現在、参議院で審議されている集団的自衛権の行使を容認する新しい安全保障関連法が成立すれば、70年もの間、先人たちが守り続けてきた平和国家の看板を下ろすことになる。
戦後70年という節目の今年、日本は大きな曲がり角に立たされているのだ。
そうしたなか、平成天皇・明仁陛下が、折に触れて発したお言葉を紹介する『戦争をしない国』(小学館)が、この6月に出版された。
1975年7月、明仁天皇は皇太子時代にはじめて沖縄を訪問。ひめゆりの塔を慰霊中に火炎瓶が投げつけられる事件が起きた。しかし、明仁天皇はスケジュールを変えずに慰霊を続け、身元不明の戦没者を弔った「魂魄(こんぱく)の塔」の前に立ったのだ。その夜に発表された談話は、事件には触れずに、逆に沖縄に心を寄せ続けることを約束するメッセージとなっていた。
「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記録し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
そして、沖縄訪問を終えてすぐに詠まれたのが、次の「琉歌」だ。
花ゆうしゃぎゆん(花を捧げます)
人(ふぃとぅ)知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦(いくさ)ねらぬ世(ゆ)ゆ(戦争のない世を)
肝(ちむ)に願て(にがてぃ)(心から願って)」
自らの思いを、沖縄の伝統的な八八八五のリズムに乗せた琉歌で表現されたのだ。
その後も、明仁天皇は、象徴天皇としての制約のなかでも、折にふれて国民にメッセージを発信されてきた。
第二次世界大戦で犠牲となった世界中の人々への慰霊の心。歴史を検証し、そこから学ぶことの大切さ。昭和天皇の名のもとに行なわれた戦争への責任と内省。声なき人々の苦しみに寄り添う姿勢。日本国憲法の尊さ。
著者の矢部宏治氏は、明仁天皇のメッセージの根底にあるのは「平和国家・日本」という強い思いだと解説する。
そして、戦後70年目を迎えた2015年1月1日。明仁天皇は次のような新年の感想を寄せられた。
「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています」
第二次世界大戦の犠牲者は、5000万人とも、8000万人とも言われている。なぜ、戦争は起こったのか。防ぐことができなかったのか。その過去から、私たちはどのような未来へ進むのか。
自ら戦争責任を問い、その問題から逃げずに70年間ずっと対峙されてきた明仁天皇。その思索に富んだお言葉を、私たちは深く静かに受け止める必要があるように思う。
日本は、70年で戦後に終止符を打つのか。それとも、来年71年目を迎え、この先も100年、200年と戦後を続けていくのか。
「戦争しない国」を守り続けられるかは、今ここで生きている私たちにかかっている。
「過ちは二度と繰り返さない」と不戦の誓いを立て、9条を有する日本国憲法のもと、日本国民が戦争で他国の人を殺したり、殺されたりするようなことは一度もなかった。
だが、現在、参議院で審議されている集団的自衛権の行使を容認する新しい安全保障関連法が成立すれば、70年もの間、先人たちが守り続けてきた平和国家の看板を下ろすことになる。
戦後70年という節目の今年、日本は大きな曲がり角に立たされているのだ。
そうしたなか、平成天皇・明仁陛下が、折に触れて発したお言葉を紹介する『戦争をしない国』(小学館)が、この6月に出版された。
1975年7月、明仁天皇は皇太子時代にはじめて沖縄を訪問。ひめゆりの塔を慰霊中に火炎瓶が投げつけられる事件が起きた。しかし、明仁天皇はスケジュールを変えずに慰霊を続け、身元不明の戦没者を弔った「魂魄(こんぱく)の塔」の前に立ったのだ。その夜に発表された談話は、事件には触れずに、逆に沖縄に心を寄せ続けることを約束するメッセージとなっていた。
「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記録し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
そして、沖縄訪問を終えてすぐに詠まれたのが、次の「琉歌」だ。
花ゆうしゃぎゆん(花を捧げます)
人(ふぃとぅ)知らぬ魂(人知れず亡くなった多くの人の魂に)
戦(いくさ)ねらぬ世(ゆ)ゆ(戦争のない世を)
肝(ちむ)に願て(にがてぃ)(心から願って)」
自らの思いを、沖縄の伝統的な八八八五のリズムに乗せた琉歌で表現されたのだ。
その後も、明仁天皇は、象徴天皇としての制約のなかでも、折にふれて国民にメッセージを発信されてきた。
第二次世界大戦で犠牲となった世界中の人々への慰霊の心。歴史を検証し、そこから学ぶことの大切さ。昭和天皇の名のもとに行なわれた戦争への責任と内省。声なき人々の苦しみに寄り添う姿勢。日本国憲法の尊さ。
著者の矢部宏治氏は、明仁天皇のメッセージの根底にあるのは「平和国家・日本」という強い思いだと解説する。
そして、戦後70年目を迎えた2015年1月1日。明仁天皇は次のような新年の感想を寄せられた。
「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています」
第二次世界大戦の犠牲者は、5000万人とも、8000万人とも言われている。なぜ、戦争は起こったのか。防ぐことができなかったのか。その過去から、私たちはどのような未来へ進むのか。
自ら戦争責任を問い、その問題から逃げずに70年間ずっと対峙されてきた明仁天皇。その思索に富んだお言葉を、私たちは深く静かに受け止める必要があるように思う。
日本は、70年で戦後に終止符を打つのか。それとも、来年71年目を迎え、この先も100年、200年と戦後を続けていくのか。
「戦争しない国」を守り続けられるかは、今ここで生きている私たちにかかっている。