「独りぼっち」と「充実」を組み合わせた造語で、「独りだけの生活が充実している様子、あるいは独りを楽しむ若者のこと」を指す。
独りでカフェやレストランやディズニーランドなどに行ったり、独りラーメンや独りカラオケをしたりしてそのさまを写メに収め、一方通行的にSNSへアップしたりするのがスタンダードな生息パターンであるらしい。
類似語に「ソロ充」ってやつもあるそうだが、「ソロ充」の場合「友だちはいるけど、あえて他人とつるむことを積極的に拒否する」のに対し、「ぼっち充」の場合は「友だちがほぼ皆無で、結果的に他人とつるめない」のが最大の違いだと言われている。
昨今主流となりつつある「無理して生身の人間と会わなくてもSNSでつながっているから大丈夫」といった発想が、独りぼっちへの耐性が強い人材を量産する要因とされているが、「ぼっち充」が、どちらかと言えば若者のあいだでさえ否定的なニュアンスで使用されている点から判断するかぎり、まだまだ仙人のように完全無欠な孤独をあっさりと受け入れることができる“新人種”はごく一握りの少数派でしかないと推測される。
ちなみに筆者は、基本独りで原稿を書く毎日をすごしているが、すぐ寂しくなってしまうので、じつはメールで済ませることができる打ち合わせも、なるべく先方を喫茶店や飲みに誘いがちで、おそらく相手からすれば“チョット迷惑なヒト”だったりする。つまり全然「ぼっち」が「充」ではないのである。
独りでカフェやレストランやディズニーランドなどに行ったり、独りラーメンや独りカラオケをしたりしてそのさまを写メに収め、一方通行的にSNSへアップしたりするのがスタンダードな生息パターンであるらしい。
類似語に「ソロ充」ってやつもあるそうだが、「ソロ充」の場合「友だちはいるけど、あえて他人とつるむことを積極的に拒否する」のに対し、「ぼっち充」の場合は「友だちがほぼ皆無で、結果的に他人とつるめない」のが最大の違いだと言われている。
昨今主流となりつつある「無理して生身の人間と会わなくてもSNSでつながっているから大丈夫」といった発想が、独りぼっちへの耐性が強い人材を量産する要因とされているが、「ぼっち充」が、どちらかと言えば若者のあいだでさえ否定的なニュアンスで使用されている点から判断するかぎり、まだまだ仙人のように完全無欠な孤独をあっさりと受け入れることができる“新人種”はごく一握りの少数派でしかないと推測される。
ちなみに筆者は、基本独りで原稿を書く毎日をすごしているが、すぐ寂しくなってしまうので、じつはメールで済ませることができる打ち合わせも、なるべく先方を喫茶店や飲みに誘いがちで、おそらく相手からすれば“チョット迷惑なヒト”だったりする。つまり全然「ぼっち」が「充」ではないのである。