毎年8月に日本テレビ系列で放送される「24時間テレビ」は、「愛は地球を救う」をキャッチフレーズに日本全国でチャリティー活動を展開する番組だ。なかでも、視聴者の涙を誘うのが、障害のある人や難病の患者などが登山やスポーツなどに挑戦する感動企画だ。2016年も、下半身不随の少年が富士山に登山したり、目や耳の不自由な子どもたちのよさこいなどが放送された。
だが、今年は、その裏番組として、NHKのEテレがぶつけてきた「バリバラ(バリアフリー・バラエティ)」が大きな話題となっている。
「バリバラ」は、2012年にスタートした障害のある人のための情報バラエティで、障害者をはじめとした生きづらさを抱えるマイノリティーの人たちのバリアをなくし、多様性のある社会づくりを目指す番組だ。
その「バリバラ」が、「24時間テレビ」がフィナーレを迎えるのと同時刻の8月28日(日)の夜7時から、「検証!『障害者×感動』の方程式」と題して、メディアがつくりあげる障害者像への疑問を投げかけたのだ。
そのなかで紹介されたのが、2014年12月に亡くなったオーストラリア人のコメディアンで、ジャーナリストのステラ・ヤング氏の次のコメントだ。
「手がない女の子が口にペンをくわえて絵を描く姿、カーボンファイバーの義肢で走る子ども、こうした姿をみたとき、みなさんは『自分の人生は最悪だけど、下には下がいる。彼らよりはマシ』だと思うでしょう。私たちはこれを『感動ポルノ』と名づけました」
骨形成不全症という障害をもって生まれたステラ・ヤング氏は、人生の大半を車椅子に乗って過ごした。その彼女が生前に出演した番組で強調したのが、自分は障害のない人の感動の対象ではないということだった。
障害のない人を勇気づけるために、障害のある人をネガティブな存在としてとらえることは、消費の対象とした「モノ」扱いになると批判。障害があろうとなかろうと、当たり前の「人」とした扱われる社会がつくられることを望んでいた。
「バリバラ」のなかで、障害のある出演者のひとりは、「同じ人間として一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、一緒に思いを重ねていくということが、本当の感動ではないのか」といったことを発言していた。
障害のある人とともに生きる社会をつくるためには、まずは障害のある人の存在、彼らの暮らしの実態を知る必要がある。その意味では、「24時間テレビ」のように障害のある人が前面に出てくる番組の存在は重要だ。だが、障害のある人を、いつまでも「感動ポルノ」の対象として一方的に描いていては、本当に一緒に生きる仲間になるのは難しい。
障害のある人も、ない人も、一緒に感動できる社会にするためには、障害のある人を憐れむ存在としてではなく、ともに学び、尊敬し合う存在であることを認識する必要があるだろう。
だが、今年は、その裏番組として、NHKのEテレがぶつけてきた「バリバラ(バリアフリー・バラエティ)」が大きな話題となっている。
「バリバラ」は、2012年にスタートした障害のある人のための情報バラエティで、障害者をはじめとした生きづらさを抱えるマイノリティーの人たちのバリアをなくし、多様性のある社会づくりを目指す番組だ。
その「バリバラ」が、「24時間テレビ」がフィナーレを迎えるのと同時刻の8月28日(日)の夜7時から、「検証!『障害者×感動』の方程式」と題して、メディアがつくりあげる障害者像への疑問を投げかけたのだ。
そのなかで紹介されたのが、2014年12月に亡くなったオーストラリア人のコメディアンで、ジャーナリストのステラ・ヤング氏の次のコメントだ。
「手がない女の子が口にペンをくわえて絵を描く姿、カーボンファイバーの義肢で走る子ども、こうした姿をみたとき、みなさんは『自分の人生は最悪だけど、下には下がいる。彼らよりはマシ』だと思うでしょう。私たちはこれを『感動ポルノ』と名づけました」
骨形成不全症という障害をもって生まれたステラ・ヤング氏は、人生の大半を車椅子に乗って過ごした。その彼女が生前に出演した番組で強調したのが、自分は障害のない人の感動の対象ではないということだった。
障害のない人を勇気づけるために、障害のある人をネガティブな存在としてとらえることは、消費の対象とした「モノ」扱いになると批判。障害があろうとなかろうと、当たり前の「人」とした扱われる社会がつくられることを望んでいた。
「バリバラ」のなかで、障害のある出演者のひとりは、「同じ人間として一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、一緒に思いを重ねていくということが、本当の感動ではないのか」といったことを発言していた。
障害のある人とともに生きる社会をつくるためには、まずは障害のある人の存在、彼らの暮らしの実態を知る必要がある。その意味では、「24時間テレビ」のように障害のある人が前面に出てくる番組の存在は重要だ。だが、障害のある人を、いつまでも「感動ポルノ」の対象として一方的に描いていては、本当に一緒に生きる仲間になるのは難しい。
障害のある人も、ない人も、一緒に感動できる社会にするためには、障害のある人を憐れむ存在としてではなく、ともに学び、尊敬し合う存在であることを認識する必要があるだろう。