毎年5月15日、雅びやかな行列がゆるりゆるり、新緑の清々しい賀茂川に沿うように進んでいく。この葵祭は、上賀茂(賀茂別雷、かもわけいかずち)と下鴨(賀茂御祖、かもみおや)両社の例祭である。華麗な行列の形態は、平安時代の天皇即位のとき、賀茂神社に奉仕する皇族の未婚女性が勅使らとともに社へ向かうための行列が原型になっていて、古式の祭祀のあり方を現代に伝える貴重なお祭りの一つである。
さて、かつての葵祭は旧暦四月の吉日にあたる中の酉(とり)の日に行なわれていた。そして、前日の申の日には、代々の宮司が口伝えに伝授してきた製法でお餅がつくられ、神前に供えられていたという。その供物の名を「申餅」といった。江戸前期に刊行された『出来斎京土産(できさいきょうみやげ)』には「葵祭の申餅」と記されており、古くは京都の人たちに広く親しまれた餅菓子であったそうだ。しかし、明治初年の法令制度化(編集部注:神社の祭礼が法令で制度化されるとともに、庶民の間に伝わる習慣は廃止された)を境に、食べる習慣が途絶えてしまったという。
この「申餅」が約140年ぶりに復元された。2010(平成22)年のことである。さらに翌年には下鴨神社の「糺(ただす)の森」に、茶店のさるやが開店し、参拝者は申餅をいつも味わうことができるようになったのである。
宮司の口伝である「はねず色(薄い小豆色)」や「素朴な甘み」などを参考に、「申餅」を復元したのは、下鴨神社の氏子で、小豆や黒豆をいかした和菓子作りに定評のある宝泉堂(左京区)である。小豆のゆで汁で餅を搗くことで色や甘みをほのかにつけ、ゆでた小豆の豆そのままを中に入れてある。自然のままの素材や味にこだわり、試作段階では、「もっと素朴に」といくども宮司から指摘を受けながら試行錯誤を重ねたそうだ。さるやでは、葵祭のときに神職が禊ぎとして飲む黒豆茶の「まめ豆茶」とともに、申餅を味わうことができる。
申餅とまめ豆茶。申餅には小豆の色や風味が繊細に取り入れられており、一方のまめ豆茶には、飲み終えたあとに黒豆を食べられるように塩が添えられている。復元に対する菓匠の意気込みが伝わってくるようだ。
さて、かつての葵祭は旧暦四月の吉日にあたる中の酉(とり)の日に行なわれていた。そして、前日の申の日には、代々の宮司が口伝えに伝授してきた製法でお餅がつくられ、神前に供えられていたという。その供物の名を「申餅」といった。江戸前期に刊行された『出来斎京土産(できさいきょうみやげ)』には「葵祭の申餅」と記されており、古くは京都の人たちに広く親しまれた餅菓子であったそうだ。しかし、明治初年の法令制度化(編集部注:神社の祭礼が法令で制度化されるとともに、庶民の間に伝わる習慣は廃止された)を境に、食べる習慣が途絶えてしまったという。
この「申餅」が約140年ぶりに復元された。2010(平成22)年のことである。さらに翌年には下鴨神社の「糺(ただす)の森」に、茶店のさるやが開店し、参拝者は申餅をいつも味わうことができるようになったのである。
宮司の口伝である「はねず色(薄い小豆色)」や「素朴な甘み」などを参考に、「申餅」を復元したのは、下鴨神社の氏子で、小豆や黒豆をいかした和菓子作りに定評のある宝泉堂(左京区)である。小豆のゆで汁で餅を搗くことで色や甘みをほのかにつけ、ゆでた小豆の豆そのままを中に入れてある。自然のままの素材や味にこだわり、試作段階では、「もっと素朴に」といくども宮司から指摘を受けながら試行錯誤を重ねたそうだ。さるやでは、葵祭のときに神職が禊ぎとして飲む黒豆茶の「まめ豆茶」とともに、申餅を味わうことができる。
申餅とまめ豆茶。申餅には小豆の色や風味が繊細に取り入れられており、一方のまめ豆茶には、飲み終えたあとに黒豆を食べられるように塩が添えられている。復元に対する菓匠の意気込みが伝わってくるようだ。