「総理夫人とは、公人ではなく私人であると認識しており、それはお尋ねの『安倍昭恵総理夫人』についても同様である」(内閣衆質一九三第一一二号 平成二十九年三月十七日)
「憲法や教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」(内閣衆質一九三第一四四号 平成二十九年三月三十一日)
これは、今国会(第一九三回通常国会)会期中に安倍内閣で閣議決定された答弁書の一部だ。
閣議決定は、総理大臣をはじめとする内閣全体の統一見解を示すもので、本来は法律や予算案などの重要政策の基本方針を決める際に用いられるものだ。
内閣の意思決定手段のなかで最も高く位置づけられており、ひとりでも反対する閣僚がいると閣議決定はできない。全閣僚の意思統一が原則なので、政策決定が優先される場面では閣議決定に反対する大臣は罷免(ひめん)されることもある。
もちろん、法律を制定するためには改めて国会に図る必要があるが、閣議決定は内閣、ひいては政府の統一見解を国内外に示す重要なもので、閣議決定された法案の9割は成立している。
ところが、このところニュースで取り上げられる閣議決定には、冒頭のように「こんなものが…」と首をかしげざるを得ないものもある。
なぜ、安倍内閣は、わざわざ総理夫人を「私人」と閣議決定したり、教育勅語を教材として使用することの是非を閣議決定したりしているのだろうか。
実は、冒頭の閣議決定は国会議員からの質問主意書に対する答弁書で、内閣にはこれに答える義務があるからだ。
質問主意書は、国会議員が国政に関することを内閣に対して質問する文書で、内閣は原則的に7日以内に答弁書を作って、閣議決定して回答しなければならない(国会法第75条)。
質問主意書を衆参の議長に提出すると、国会の各委員会や本会議での質疑の場以外に政府の見解を問いただすことができるため、与えられている質問時間の短い野党や無所属議員にとっては有効な政治活動になっている。過去には質問主意書によって問題解決が図られた事案もある。また、政府の見解が明らかになり、国民が政権評価をするときの情報にもなっている。
ただし、今国会での質問主意書は、明らかにこれまでとは質の違いが見て取れる。
これまでは、医療や介護、沖縄の基地問題など国民生活に直結する質問、政府や官僚組織内で起こっている不祥事について情報提供を促すものなどが主流だったのに対して、今国会では総理大臣をはじめとする閣僚の発言の趣旨を問いただすものが目につく。
たとえば、「稲田防衛大臣の法的な意味における戦闘行為との答弁に関する質問主意書」「安倍総理の東京オリンピック招致演説に関する質問主意書」「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書」などが提出されている。
教育勅語に関する政府見解や、総理夫人の行動や言動に関する質問については、提出者が入れ替わりながら複数の質問主意書が出されているのも特徴だ。
こうした質問主意書が提出されるのは、それだけ現閣僚、その関係者の言動や行動が、これまでとは異質のものに映っているからにほかならないが、そこで閣議決定された内容に不安を覚えている国民も多いだろう。
教育勅語は、国のために身をささげる軍国主義を正当化する内容で、基本的人権を損なっていることを理由に、1948年に国会で失効を決議している。ところが、当初の閣議決定では、憲法や教育基本法に違反しないことを前提としているものの、道徳の教材などに使うことを否定していなかった。その後、別の質問に対して「教育現場での教育勅語の活用を促す考えはない」という新たな答弁書が出されたが、政府の統一見解がこれほどまでにコロコロと変わるのはあまりにも軽く、閣議決定の存在意義を疑わざるを得なくなる。
憲法や法律に適合していなかったり、歴史的事実を顧みず国民感情と大きく乖離したりしている閣議決定は、いくら時の内閣が統一見解だと示したところで、国民は受け入れることはできない。
閣議決定は、国の行く末を決める重要なもので、今のような軽い扱いは理不尽だ。日本だけではなく、世界の人々にとっても望ましいものになるように、本来の重みを取り戻してほしい。
「憲法や教育基本法(平成十八年法律第百二十号)等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」(内閣衆質一九三第一四四号 平成二十九年三月三十一日)
これは、今国会(第一九三回通常国会)会期中に安倍内閣で閣議決定された答弁書の一部だ。
閣議決定は、総理大臣をはじめとする内閣全体の統一見解を示すもので、本来は法律や予算案などの重要政策の基本方針を決める際に用いられるものだ。
内閣の意思決定手段のなかで最も高く位置づけられており、ひとりでも反対する閣僚がいると閣議決定はできない。全閣僚の意思統一が原則なので、政策決定が優先される場面では閣議決定に反対する大臣は罷免(ひめん)されることもある。
もちろん、法律を制定するためには改めて国会に図る必要があるが、閣議決定は内閣、ひいては政府の統一見解を国内外に示す重要なもので、閣議決定された法案の9割は成立している。
ところが、このところニュースで取り上げられる閣議決定には、冒頭のように「こんなものが…」と首をかしげざるを得ないものもある。
なぜ、安倍内閣は、わざわざ総理夫人を「私人」と閣議決定したり、教育勅語を教材として使用することの是非を閣議決定したりしているのだろうか。
実は、冒頭の閣議決定は国会議員からの質問主意書に対する答弁書で、内閣にはこれに答える義務があるからだ。
質問主意書は、国会議員が国政に関することを内閣に対して質問する文書で、内閣は原則的に7日以内に答弁書を作って、閣議決定して回答しなければならない(国会法第75条)。
質問主意書を衆参の議長に提出すると、国会の各委員会や本会議での質疑の場以外に政府の見解を問いただすことができるため、与えられている質問時間の短い野党や無所属議員にとっては有効な政治活動になっている。過去には質問主意書によって問題解決が図られた事案もある。また、政府の見解が明らかになり、国民が政権評価をするときの情報にもなっている。
ただし、今国会での質問主意書は、明らかにこれまでとは質の違いが見て取れる。
これまでは、医療や介護、沖縄の基地問題など国民生活に直結する質問、政府や官僚組織内で起こっている不祥事について情報提供を促すものなどが主流だったのに対して、今国会では総理大臣をはじめとする閣僚の発言の趣旨を問いただすものが目につく。
たとえば、「稲田防衛大臣の法的な意味における戦闘行為との答弁に関する質問主意書」「安倍総理の東京オリンピック招致演説に関する質問主意書」「アドルフ・ヒトラーの著作『我が闘争』の一部を、学校教育における教材として用いることが否定されるかどうかに関する質問主意書」などが提出されている。
教育勅語に関する政府見解や、総理夫人の行動や言動に関する質問については、提出者が入れ替わりながら複数の質問主意書が出されているのも特徴だ。
こうした質問主意書が提出されるのは、それだけ現閣僚、その関係者の言動や行動が、これまでとは異質のものに映っているからにほかならないが、そこで閣議決定された内容に不安を覚えている国民も多いだろう。
教育勅語は、国のために身をささげる軍国主義を正当化する内容で、基本的人権を損なっていることを理由に、1948年に国会で失効を決議している。ところが、当初の閣議決定では、憲法や教育基本法に違反しないことを前提としているものの、道徳の教材などに使うことを否定していなかった。その後、別の質問に対して「教育現場での教育勅語の活用を促す考えはない」という新たな答弁書が出されたが、政府の統一見解がこれほどまでにコロコロと変わるのはあまりにも軽く、閣議決定の存在意義を疑わざるを得なくなる。
憲法や法律に適合していなかったり、歴史的事実を顧みず国民感情と大きく乖離したりしている閣議決定は、いくら時の内閣が統一見解だと示したところで、国民は受け入れることはできない。
閣議決定は、国の行く末を決める重要なもので、今のような軽い扱いは理不尽だ。日本だけではなく、世界の人々にとっても望ましいものになるように、本来の重みを取り戻してほしい。