祇園祭の巡行に参加した古い記録があるものの、火事で焼失するなどの理由で途絶えてしまった鉾や山のことを、「休み山」や「休み山鉾」と呼んでいる。昔は「焼山(やけやま)」といっていたそうだが、昭和期に入ってから、郷土史家の松田元が復活への期待を込めて「休み山」と呼び、それが定着したという。
現在、そんな松田氏や保存会の人が抱いてきた願いを、実現しようとする活動が活発になりつつある。まず、幕末の禁門の変で鉾本体を焼失し、1864(元治元)年以来は巡行への参加が途絶えていた「大船鉾」が、150年ぶりの復活を果たした。祇園祭には「船鉾」という、復活した「大船鉾」とよく似た鉾があり、これらはもともと対に意味を持つ関係だった。「船鉾」は「出陣船」として祇園祭前祭(さきまつり)に巡行し、復活した「大船鉾」のほうは、「凱旋船」として祇園祭後祭(あとまつり)に巡行するのが本来のあり方だったのだ。贅沢なことに、2014(平成26)年からは、蘇った大船鉾とともに後祭も復活し、前祭と後祭の巡行が二度行なわれるようになった。
残る休み山は「布袋山(ほていやま)」と「鷹山」の二基である。布袋山は室町期の明応年間に巡行の記録が残る山で、現在は祇園祭の期間中、ご神体の布袋像と童子像を祀る「居祭(いまつり)」を続けている。一方、室町期の応仁の乱以前に巡行していた古い記録のある「鷹山」は、1826(文政9)年に大雨で懸装品(山や鉾を飾る幕)が損傷し、続けて禁門の変で残りの大半を焼失させてしまった。こちらも焼け残ったご神体と懸想品で「居祭」を続けてきたが、2015(平成27)年にお囃子が190年ぶりに復活し、2020年代の完全な再興に挑戦中だ。2017年には大火で一部焼損したお囃子の鉦をもとにし、新たな鉦の鋳造が進められている。祇園祭に京都を訪れた際には再興を応援するためにも、ぜひ居祭の会所も訪ねていただきたい。
復活を果たした大船鉾の山鉾建ての様子。ほとんどの柱や貫が真新しい。荒縄の綱絡みという伝統技法によって、釘を使用せずに固定している。
現在、そんな松田氏や保存会の人が抱いてきた願いを、実現しようとする活動が活発になりつつある。まず、幕末の禁門の変で鉾本体を焼失し、1864(元治元)年以来は巡行への参加が途絶えていた「大船鉾」が、150年ぶりの復活を果たした。祇園祭には「船鉾」という、復活した「大船鉾」とよく似た鉾があり、これらはもともと対に意味を持つ関係だった。「船鉾」は「出陣船」として祇園祭前祭(さきまつり)に巡行し、復活した「大船鉾」のほうは、「凱旋船」として祇園祭後祭(あとまつり)に巡行するのが本来のあり方だったのだ。贅沢なことに、2014(平成26)年からは、蘇った大船鉾とともに後祭も復活し、前祭と後祭の巡行が二度行なわれるようになった。
残る休み山は「布袋山(ほていやま)」と「鷹山」の二基である。布袋山は室町期の明応年間に巡行の記録が残る山で、現在は祇園祭の期間中、ご神体の布袋像と童子像を祀る「居祭(いまつり)」を続けている。一方、室町期の応仁の乱以前に巡行していた古い記録のある「鷹山」は、1826(文政9)年に大雨で懸装品(山や鉾を飾る幕)が損傷し、続けて禁門の変で残りの大半を焼失させてしまった。こちらも焼け残ったご神体と懸想品で「居祭」を続けてきたが、2015(平成27)年にお囃子が190年ぶりに復活し、2020年代の完全な再興に挑戦中だ。2017年には大火で一部焼損したお囃子の鉦をもとにし、新たな鉦の鋳造が進められている。祇園祭に京都を訪れた際には再興を応援するためにも、ぜひ居祭の会所も訪ねていただきたい。
復活を果たした大船鉾の山鉾建ての様子。ほとんどの柱や貫が真新しい。荒縄の綱絡みという伝統技法によって、釘を使用せずに固定している。