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国史大辞典のサンプルページ一覧

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覚猷(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
平安時代の僧で、俗称鳥羽僧正。大納言源隆国の第9子で本名顕智。園城寺の覚円に師事し出家。1081年(永保1)四天王寺別当職に任ぜられたが、94年(嘉保1)園城寺に戻り、1121年(保安2)法印大和尚位に叙せられる。31年(天承1)鳥羽離宮内の証金剛院別当に任ぜられ、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称された。
宇治大納言物語(国史大辞典)
宇治大納言隆国が書いたと伝えられる散佚した物語。書名や内容の一部分が、中世の諸書に散見するので、そのころまでは伝存されていたのであろう。内容は説話的なもので、宮廷の和歌の話や、仏教説話などをふくんでいたらしい。現存の『今昔物語集』『打聞集』『古本説話集』『宇治拾遺物語』『小世継』などの
山東京伝(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七六一-一八一六 江戸時代後期の戯作者・浮世絵師。本名岩瀬醒、通称京屋伝蔵、別号醒斎・醒世老人・菊亭・菊軒など、画号北尾政演、狂号身軽折輔。宝暦十一年(一七六一)八月十五日江戸深川の質屋伊勢屋伝左衛門の長子として生まれる
恋川春町(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七四四-八九。江戸時代中・後期の戯作者。駿河小島藩一万石松平家の臣。本名は倉橋格、通称寿平、狂歌名は酒上不埓、寿山人とも号す。筆名は藩邸のある小石川春日町にかけ、また浮世絵師勝川春章の名に似せたものである。延享元年(一七四四)生まれる。二十歳の時に伯父倉橋忠蔵の養嗣子となって
難太平記(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
応永九年(一四〇二)二月、今川了俊(貞世)の著作。自筆本は知られない。『国書総目録』は十九部の諸本をあげており、承応改元のころの書写にかかる京都大学谷村文庫本が年記のある諸本中最古のもの。述作の根本精神は今川家の顕彰・保持にあり、そのために自分を含めた
吉田兼好(国史大辞典)
生没年不詳。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好。『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。
慈円(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一一五五-一二二五。鎌倉時代前期の天台宗の僧。初名道快、諡慈鎮、無動寺法印・吉水僧正とよばれた。久寿二年(一一五五)四月十五日生まれる。父は関白藤原忠通、母は藤原仲光の女加賀。同母兄に兼実・道円・兼房ら、異母兄に基実・基房・覚忠らがあった。二歳で母に、十歳で父に別れ、権中納言藤原経定の未亡人に養われた。
北村季吟(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸前期の国学者、俳人、歌人。通称久助。別号は芦庵、拾穂軒、湖月亭など。近江国(滋賀県)野洲郡(現、野洲市)の人で、医師北村宗円の長男として寛永元年12月11日に生まれる。若くして上京し、初め俳諧を安原貞室(1610―1673)に師事し、ついで貞室の師松永貞徳に従って
清少納言(日本大百科全書・新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
生没年未詳。平安時代中期の歌人、随筆家。966年(康保3)のころ生まれて1025年(万寿2)のころ没したと推測されている。父は歌人清原元輔であるが、母は明らかでない。966年に元輔は59歳であり、年齢に差のある異腹の兄姉、雅楽頭為成
一条天皇(国史大辞典)
九八〇-一〇一一。九八六―一〇一一在位。天元三年(九八〇)六月一日、円融天皇の第一皇子として誕生。母は藤原兼家の女の女御詮子(のちの東三条院)。諱は懐仁。永観二年(九八四)八月、従兄にあたる花山天皇の東宮に立った。時に五歳。
万葉仮名(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
日本語を表記するために、漢字の字音や字訓を利用して表音的に用いたもの。用法の上からは仮名の一種であって漢字本来の表意的な使い方とは異なるが、文字の形としては漢字であり、漢字を省画化した片仮名や略草化した平仮名とは異なる。奈良時代以前
第二次世界大戦(日本大百科全書・国史大辞典・日本国語大辞典)
第二次世界大戦とは、一般には、1939年9月の英独戦争に始まり、1941年6月の独ソ戦争、同年12月の太平洋戦争を経て、1945年5月ドイツの、同年8月日本の降伏で終わる戦争をいう。この戦争に先だつ第一次世界大戦は、ヨーロッパを舞台とし、1914年8月、ヨーロッパ諸国がイギリス・フランス・ロシアの
第一次世界大戦(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
第一次世界大戦(以下、大戦と略記する)は、1914年から1918年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。主要な強国のほとんどすべてを巻き込んでおよそ4年半の長期間に及び、しかも複雑多岐にわたる問題を当初からはらんで行われた戦争の性格を考えて、本項では、以下の構成をとった。
日米交渉(国史大辞典)
日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し
太平洋戦争(日本大百科全書・国史大辞典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。1931年(昭和6)の満州事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要な一部として含む。
重陽(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
9月9日の節供。陽数(奇数)の極である9が月と日に重なることからいい,重九(ちようきゆう)ともいう。中国行事の渡来したもので,邪気を避け,寒さに向かっての無病息災,防寒の意味もあった。菊花宴ともいい,685年(天武14)を起源とするが,嵯峨天皇のときには,神泉苑に文人を召して詩を作り,宴が行われていることが見え
七草(世界大百科事典・日本国語大辞典・日本大百科全書・国史大辞典)
七種とも書き,春の七草と秋の七草がある。春の七草〈せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草〉とうたわれたように,これらを春の七草と称し,この,ごぎょうはハハコグサ,はこべらはハコベ,ほとけのざはタビラコ,すずなはカブ,すずしろは大根とされる
入梅(日本大百科全書・日本国語大辞典・国史大辞典)
雑節の一つ。梅雨の時期に入る日をいい、暦にはその日を記す。旧暦時代には五月節芒種(ぼうしゅ)に入って第一の壬(みずのえ)の日を入梅とする説を用いた。現行暦では太陽の視黄経が80度に達した日をもって入梅とし、太陽暦の6月11日ごろにあたる。この日から梅雨が始まるわけではなく、およそこのころから雨期に入ることを
松平定信(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七五八-一八二九。江戸時代後期の将軍補佐兼老中。幼名は賢丸、字は貞卿、号は旭峯・楽翁・風月翁・花月翁など。徳川(田安)宗武の第三子(八代将軍徳川吉宗の孫)。宝暦八年(一七五八)十二月二十七日江戸田安邸に生まる。田安家血統の絶える恐れがあるにもかかわらず安永三年(一七七四)白河藩松平定邦の養子を命じられた。
太平記(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集・日本国語大辞典)
南北朝時代の軍記物語。40巻。 [山下宏明]成立。足利(あしかが)氏の一支族で九州探題として足利政権の確立に貢献した今川貞世(いまがわさだよ)(了俊(りょうしゅん))の著『難太平記(なんたいへいき)』によれば、暦応(りゃくおう)(1338~42)、康永(こうえい)(1342~45)のころ、法勝寺(ほっしょうじ)
枕草子(新編 日本古典文学全集・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典・国史大辞典)
平安中期の随筆。清少納言(せいしょうなごん)の作。跋文(ばつぶん)によると、清少納言が仕える一条(いちじょう)天皇の中宮定子(ていし)に、正暦(しょうりゃく)5年、長徳(ちょうとく)元年(994、995)のころに、中宮の兄藤原伊周(これちか)が紙を献上したことがあり
金々先生栄花夢(日本大百科全書・国史大辞典)
黄表紙。2巻2冊。恋川春町(こいかわはるまち)作・画。1775年(安永4)刊。「金々先生」とは当時の流行語で、流行の先端をいく金持ちの粋人を意味する。江戸でひともうけしようとする田舎者(いなかもの)金村屋金兵衛は、目黒不動で名物の粟餅(あわもち)を食べようとし
宇治拾遺物語(国史大辞典・新編 日本古典文学全集・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉時代の説話集。編者不詳。古写本・古活字本は二巻か、もしくはそれを更に四巻・八巻にわけてあるが、万治二年(一六五九)刊の流布本は十五巻。前者が本来の形であろう。建暦二年(一二一二)ころ成立の『古事談』から話を採っていることと
仏教(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
仏陀と称せられる歴史的人物ゴータマの創始した宗教。〔開祖ゴータマの生涯〕仏教の開祖は姓をゴータマGotama(瞿曇(くどん))、個人名をシッダッタSiddhatthaという。前四六三年ごろ(他の学説によるとそれよりも約一世紀以前)に釈迦(パーリPāli語でŚākiya、サンスクリットSanskrit語でSākya)
源頼朝(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
鎌倉幕府初代将軍。源義朝(よしとも)の三男。母は熱田(あつた)大宮司藤原季範(すえのり)の女(むすめ)。義朝は1143年(康治2)から45年(久安1)ごろにかけて、相模(さがみ)国鎌倉の館(やかた)を本拠として東国経営を進めていたが、のち上洛(じょうらく)して季範の女と結ばれた。
徒然草(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
鎌倉時代末期から南北朝時代の初めにかけて成立した随筆集。兼好(俗名卜部兼好)著。上下二巻。北村季吟の『徒然草文段抄』以後、序段以下二百四十三段に章段を分けて記すようになった。書名は、「つれづれ」、すなわち、することもない生活の退屈さ・寂しさを紛らわし
明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
明正天皇(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一六二三-九六。一六二九―四三在位。幼称は女一宮。諱は興子。後水尾天皇の第二皇女、母は皇后和子(東福門院)。嫡出の第一子で、将軍徳川秀忠の外孫にあたる。元和九年(一六二三)十一月十九日誕生。寛永六年(一六二九)十月二十九日内親王宣下が行われ、ついで十一月八日父天皇の突然の譲位決行により受禅
元明天皇(国史大辞典)
六六一-七二一。七〇七―一五在位。天智天皇の第四皇女。諱は阿陪(阿閉)。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘姪娘。斉明天皇七年(六六一)生まれる。草壁皇子の妃となり、文武・元正両天皇と吉備内親王を生む。慶雲四年(七〇七)六月文武天皇崩御し、七月十七日遺詔によって即位。これは不改常典による嫡子相承実現のための中継ぎ
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