国史大辞典のサンプルページ一覧
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「国史大辞典」「日本古典文学全集」「日本国語大辞典」「世界大百科事典」「日本大百科全書」など80種類以上の辞書・事典をパソコン、タブレット、スマートフォンで利用できます。
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冠位十二階(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
603年(推古11)に制定された日本最初の冠位制度で,律令位階制度の源流をなすもの。従来,豪族たちは大和朝廷において氏ごとに一定の職務を世襲し,その政治的特権の表象として特定の冠を襲用してきたが,これは,それとは別に個人を対象とし,昇進の原則をもつ新しい冠位制度であった。
飛鳥文化(国史大辞典)
文化史上、七世紀前半の推古朝を中心とする時期の文化をいう。七世紀後半の白鳳文化に先行する。朝鮮を経由して南北朝文化の積極的受容の行われたところに、先行および後続する時期の文化と異なる最大の特色が見出されるので、大陸文化との関連からまず見て行くこととする。
古墳文化(世界大百科事典・国史大辞典)
古墳時代は弥生時代に継続する時代である。弥生時代に始まった農耕生活は,比較的はやく,日本の大部分の地域にひろがっていったが,さらに鍬,鎌などの農具に鉄の刃先を使用するようになるまでには,若干の年月が経過した。やがて鉄器の普及などによって耕地の拡張がさかんになり
キリシタン(世界大百科事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
ポルトガル語のChristãoの発音がそのまま日本語になり,キリスト教(カトリック)およびその信者を指した。初め幾利紫旦,貴理師端,のち吉利支丹,切支丹,鬼理至端の文字があてられた。伝来15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島の
イエズス会(世界大百科事典・国史大辞典・集英社世界文学大事典)
カトリック教会内の司祭修道会の一つ。16世紀イグナティウス・デ・ロヨラによって創立された。耶蘇会とも書かれ,同会士はジェスイットJesuitとも呼ばれる。イグナティウスはマンレサの神体験後,パリ大学で出会った6人の同志P.ファーブル,ザビエル,D.ライネス,N.ボバディリャ
シャビエル(フランシスコ・ザビエル)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五〇六-五二。スペイン人イエズス会士。キリスト教(ローマ=カトリック)を日本に最初に伝えた。古記録には「しびえる」(寛永ころの日繰、祝日表)、「ジャヒエル」(『契利斯督(キリスト)記』)、「サベイリウス」(『西洋紀聞』)と表記され
今川氏真(国史大辞典・日本人名大辞典・日本大百科全書)
一五三八-一六一四 戦国時代の武将。上総介。天文七年(一五三八)義元の子として生まれる。母は武田信虎の女。永禄元年(一五五八)すでに駿河にその発給文書がみられ、国務の一部を委ねられていたが、同三年父義元の討死により家督を相続した。しかし氏真にとって、桶狭間の敗戦の打撃は
潜伏キリシタン(国史大辞典)
江戸幕府がキリスト教禁止令を出した慶長十八年(一六一三)から信仰を表明して復活した慶応元年(一八六五)までの約二百五十年間にわたり禁圧・迫害のため潜伏を余儀なくされたキリスト教信徒。宣教師の国外追放後も日本に残留潜伏した一部パードレ、イルマン
縄文時代(国史大辞典)
弥生時代以前の日本列島で土器が出現し使用された時代全体を縄文時代とする広義の見解と、その編年区分のうち最古の細隆線文土器・爪形文土器などが作られ使用された草創期は縄文土器文化以前の土器文化と考え、これを晩期旧石器時代・更新世最終末とする見解とがある。
弥生時代(国史大辞典)
弥生時代は、一般的には、狩猟採集社会である縄文時代に次ぐ時代、つまり水稲農耕が始まり、金属器をもつようになってから、古墳を標識とする古墳時代に入るまでの間とされている。弥生時代は、前期・中期・後期、または第I~V期に区分されている。かつてこの前期・中期・後期という区分に
古墳時代(国史大辞典)
弥生時代につづいた一時代について、その文化の代表的徴証である古墳の名を冠した時代区分の名称。古墳は三世紀終末あるいは四世紀の初頭に発達し、飛鳥時代はもとより奈良時代あるいは平安時代の一部にも存続したが、一応飛鳥時代などすでに確立されている時代区分と区別し
飛鳥時代(世界大百科事典・国史大辞典)
政権の所在地による日本史の時代区分法によって,推古天皇が豊浦宮で即位した592年から,710年(和銅3)の平城京遷都までの100余年間をいう。この間,孝徳朝に難波宮,天智朝に近江大津宮へ短期間都が移った以外,推古朝の豊浦宮・小墾田宮(おはりだのみや)
日本霊異記(日本古典文学全集・世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典・全文全訳古語辞典・日本国語大辞典)
仏教説話集。日本の説話文学集の始祖的作品。〈にほんれいいき〉とも呼び,正式書名は《日本国現報善悪霊異記》,通称《日本霊異記》,略して《霊異記》ともいう。奈良薬師寺の僧景戒/撰述。成立は最終年紀の822年(弘仁13)以後まもないころ
竹取物語(日本古典文学全集・世界大百科事典・国史大辞典)
平安時代の物語。一巻。『源氏物語』には「かぐや姫の物語」(「蓬生」)、「竹取の翁」(「絵合」)とあり、「竹取翁物語」と題した写本もある。成立時期・作者ともに未詳であるが、およそ10世紀前半、貞観(859~877)から延喜(901~923)までの間に、男性知識人によってつくられたと考えられている。
平中物語(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典・日本古典文学全集)
平安時代の歌物語。作者不明。『貞文日記』『平中日記』ともいい、『平仲物語』とも書く。成立は『後撰集』と相前後し、950年(天暦4)ごろであろう。内容は平貞文(?―923)を主人公とする歌物語で、39段よりなり、短歌150首、長歌一首、連歌二首を含む。平貞文は右近中将平好風
日本の雑誌 1(国史大辞典)
日本の雑誌 草創期の雑誌 日本最初の新聞・雑誌といわれる『官板バタビヤ新聞』と『ジャパン=パンチ』が現われたのは、ともに文久2年(1862)のことだった。前者は半紙半折1葉を1号分とした小冊子で、江戸幕府の蕃書調所が海外の情報を伝えるために木活字で印刷発行したものだ。
金太郎(国史大辞典)
伝説的人物。源頼光の郎等なる勇猛の士として、『今昔物語集』二八、『古今著聞集』九、『酒呑童子』(御伽草子)などに公時の名がみえる。江戸時代初期の金平浄瑠璃では主人公金平の父として語られ、その一つたる寛文四年(一六六四)刊の『漉根悪太郎』では坂田民部金時と称され、足柄山で山姥が奉った子とされる。
徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
桶狭間の戦(国史大辞典)
永禄三年(一五六〇)五月十九日、織田信長が今川義元を尾張田楽狭間に奇襲し、敗死させた戦い。駿河・遠江の守護大名今川氏は門地・実力および領国の地理的条件から、上洛して将軍を補佐し、実権を握る条件に恵まれていた。義元はまず三河を掌中に収め、ついで領国に分国法を定め、北条氏康と
文禄・慶長の役(国史大辞典)
文禄元年(一五九二)から慶長三年(一五九八)にかけ、豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支をとって「壬辰・丁酉の倭乱」と呼び、明では日本が侵入した明の辺寨(朝鮮)をおさえるという意味で、「万暦朝鮮の役」と呼ぶ
雅楽(世界大百科事典・国史大辞典)
古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽
能楽(国史大辞典)
南北朝時代に始まった日本の代表的な古典芸能。歌と舞を主要素とする歌舞劇で、猿楽の能をさす。創成期の猿楽などが演じた歌と舞による劇形式の芸を「能」といい、「猿楽の能」のほか「田楽の能」や類似の芸「延年の能」も存在したが、室町時代以後は猿楽の能が主流となったので単に「猿楽」
今川義元(国史大辞典・世界大百科事典)
一五一九-六〇 戦国時代の武将。治部大輔。父は今川氏親、母は中御門宣胤の女。永正十六年(一五一九)に生まれ、幼時より出家させられ、承芳と称し、駿河国善徳寺にいたが、天文五年(一五三六)家督を相続した兄氏輝が早世すると、兄の玄広恵探と家督を争い、六月十日これを倒して家督を
常陸国風土記(国史大辞典・日本古典文学全集)
和銅六年(七一三)五月の詔制に応じて撰進されたとみられる常陸国の地誌。巻頭に「常陸国司解 申古老相伝旧聞事」とあって、常陸国司から「解」の形式で提出された文書であることが知られる。はじめに常陸国全般にかかる総括的な記事が置かれ、ついで新治・筑波・信太・茨城・行方
本能寺の変(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正十年(一五八二)六月二日、明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自刃させた反逆事件。備中高松城を囲んでいた豊臣秀吉からの戦況報告で織田・毛利両軍の全面的対決を決意した信長は五月十七日、徳川家康の供応にあたっていた光秀にも出陣を命じた。すぐに光秀は本拠近江坂本城に帰り
明智光秀(国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
安土桃山時代の武将。明智氏は美濃の名門土岐氏の庶流とされているが、光秀の出自や素性は詳らかでない。通称十兵衛。越前で朝倉義景に仕えたらしいが、永禄十一年(一五六八)七月足利義昭が朝倉氏のもとから織田信長を頼って美濃に赴いたとき、光秀は細川藤孝とその工作をしたらしく
弘前城(国史大辞典)
青森県弘前市下白銀町に中心部のある城。築城当初は高岡城と呼ばれた。平城。津軽平野南部の盆地状地形の中の台地北端に位置する。慶長八年(一六〇三)に大浦(津軽)為信が起工し同十六年為信の子信枚の時に一応の完成を見た。為信はもと大浦城におり元亀二年(一五七一)ごろから津軽統一への歩みを開始したが
五節供(国史大辞典)
国史大辞典五節供ごせっく江戸時代に行われた一年五度の節供。五節句とも書く。人日(じんじつ、正月七日)・上巳(じょうし、三月三日)・端午(たんご、五月五日)・七夕(しちせき・たなばた、七月七日)・重陽(ちょうよう、九月九日)の称。これを一般には、七種(
塙保己一(国史大辞典)
一七四六-一八二一。江戸時代後期の国学者、平曲家。延享三年(一七四六)五月五日武蔵国児玉郡保木野村(埼玉県児玉郡児玉町)の農家荻野宇兵衛の長子として出生。荻野氏は参議小野篁七代の後孫武蔵守孝泰の末裔といい、母きよの生家は同国加美郡藤木戸村(同児玉郡上里町)名主斎藤氏。
塙忠宝(国史大辞典)
一八〇七-六二。江戸時代末期の和学者。通称次郎、名は瑤、温故堂と号す。保己一の四男として文化四年(一八〇七)十二月八日江戸表六番町に生まれる。文政五年(一八二二)九月父のあとを継いで和学講談所御用掛となり、以後、不慮の死を遂げるまでの四十一年間にわたってその経営を統管し