国史大辞典のサンプルページ一覧
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発心集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
中世の仏教説話集。鴨長明の編著。流布本は八巻八冊、異本は五巻五冊である。長明が説話の蒐集に取りかかったのは、出家して、大原の別所にいたころからであろうが、成立の年次は明らかでない。おそらく『方丈記』の書かれた建暦二年(一二一二)よりは後であろう。流布本は百二話

保元物語(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集)
軍記物語の一つ。『保元記』ともいう。『平治物語』『平家物語』『承久記』とあわせ、四部合戦状とも呼ばれた。作者としては、葉室(藤原)時長(『醍醐雑抄』『参考保元物語』)、中原師梁(『参考保元物語』)、源瑜(『旅宿問答』(『続群書類従』雑部所収)、ただし『安斎随筆』

平治物語(国史大辞典・世界大百科事典)
軍記物語の一つ。『平治記』ともいう。『保元物語』『平家物語』『承久記』とあわせ四部合戦状(四部之合戦書)とも称される。作者としては、『保元物語』と同じく、葉室(藤原)時長(『醍醐雑抄』、『参考平治物語』凡例)、源瑜僧正(『旅宿問答』(『続群書類従』雑部所収)

西郷隆盛(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二七 - 七七 明治維新の指導的政治家。文政十年(一八二七)十二月七日鹿児島城下加治屋町で、父吉兵衛隆盛・母マサの長男として生まれた。諱は隆永。維新後は隆盛と改めた。幼名小吉、のち吉之介・善兵衛・吉兵衛・吉之助と称し、号は止水、のち南洲とした。家格は城下士の下級の

大山綱良(大山格之助)(国史大辞典・世界大百科事典)
一八二五 - 七七 幕末・維新期の薩摩国鹿児島藩士。初代鹿児島県令。通称は格之助、角右衛門ともいう。文政八年(一八二五)十一月六日、鹿児島藩士樺山善之進の次子として鹿児島に生まれ、のち大山四郎助の養子となった。家禄百三十六石。

大久保利通(大久保一蔵)(国史大辞典・世界大百科事典)
一八三〇 - 七八 明治維新の指導的政治家。諱は利済のち利通と改む。幼名は正袈裟、のちに正助・一蔵と称し、甲東と号す。天保元年(一八三〇)八月十日鹿児島藩士大久保次右衛門利世の長男として、鹿児島城下加治屋町に生まれる。

方広寺鐘銘事件(国史大辞典)
豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月

関ヶ原の戦い(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
国史大辞典関ヶ原の戦せきがはらのたたかい慶長五年(一六〇〇)に美濃関ヶ原で起った豊臣政権の主導権を争う戦闘。慶長三年八月豊臣秀吉が病没した後、遺児秀頼の成人までは五大老と五奉行による政務代行という体制をとることになったが、五大老筆頭の徳川家康は、政権

林羅山(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
江戸時代初期の儒学者。江戸幕府の儒官を代表する林家の始祖。名は信勝または忠、字は子信、通称ははじめ又三郎、のち道春という僧号で呼ばれた。羅山とは儒学者としての号で,中国広東省の羅浮山で宋代の学者が『春秋』を研学したとの故事に基づき

島原の乱(島原・天草一揆)(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代初期、松倉勝家領の肥前国島原と同国唐津寺沢堅高領の肥後国天草の領民が連帯し、少年益田(天草)四郎時貞を盟主に蜂起し、島原の原城にたてこもって幕府・諸藩兵と戦い、全員誅殺された大農民一揆。天草一揆ともいう。この一揆に対する

薩藩旧記雑録(日本歴史地名大系・国史大辞典)
島津家史料を中心として薩摩藩関係史料を編年集成したもの。原名『旧記雑録』、『薩藩旧記』は別称。幕末薩摩藩の史学者で記録奉行となった伊地知季安は文政ごろより長年にわたり島津家をはじめ藩内諸家の文書・記録類の書写収集整理につとめていたが、その子季通も弘化

生田万の乱(国史大辞典)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。

大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)

天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから

禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を

三十六人家集(三十六人集)(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
家集。藤原公任の『三十六人撰』所収の歌人三十六人の家集の総集。左右に排してあるので、一番左・右……の順序とすべく、したがって人麿集・貫之集・躬恒集・伊勢集・家持集・赤人集・業平集・遍照集・素性集・友則集・猿丸集・小町集・兼輔集

一条摂政御集(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一条摂政藤原伊尹の私家集。編者不詳。総歌数は百九十四首。成立年代は、その詞書から、伊尹死後二十年を経た正暦三年(九九二)八月二十二日以後と推定されるが、冒頭から第四十一首目までは、主人公を「大蔵史生倉橋豊蔭」という卑官に仮託して

拾遺和歌集(国史大辞典)
平安時代中期の第三番目の勅撰集。二十巻。撰者は花山院か。近臣の藤原長能や源道済の協力を考える説も古くからある。またほかに、協力者として曾禰好忠の名を挙げる説もある。藤原公任撰の『拾遺抄』の歌を全部収め、構成も踏襲している面があるので、何らかの形で公任も関与している

新撰万葉集(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
歌合の歌をすべて万葉仮名で抄録し、それに訳詩を加えた私撰詩歌集。菅原道真の撰になるもので、『菅家万葉集』ともよばれた。従来増補本のみであったが、昭和二十四年(一九四九)原撰本が出現した。原撰本は『日本紀略』『新撰朗詠集』『奥儀抄』などにもみるごとく、菅原道真の撰であり

新撰和歌(国史大辞典・日本大百科全書)
平安時代初期の私撰和歌集。『新撰和歌集』ともいう。撰者は紀貫之。巻一春秋・百二十首、巻二夏冬・四十首、巻三賀哀・二十首、別旅・二十首、巻四恋雑・百六十首の計四巻三百六十首から成る。巻頭に「新撰和歌序」「玄蕃守従五位上紀朝臣貫之上」として真名序を付す。

長秋詠藻(国史大辞典・日本国語大辞典・日本大百科全書)
歌人藤原俊成の家集。上・中・下三巻。書名の「長秋」は、俊成が皇太后宮大夫であったことから、皇后宮の唐名「長秋宮」にちなんだもの。伝本は四類に分けられる。第一類本は、治承二年(一一七八)三月に成立し、同年夏守覚法親王に進覧された俊成自撰の原形本の形を伝える本。

和漢朗詠集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安時代、貴族の間に口ずさまれた漢詩文の佳句、および和歌の詞華選集(アンソロジー)。藤原公任の撰として疑われない。二巻。成立年は不明であるが、藤原道長三女でのちに後一条天皇皇后となった女御威子の入内屏風に、倭絵(やまとえ)・唐絵(からえ)とともに配されていたものと

栄花物語(栄華物語)(国史大辞典・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安時代後期の歴史物語。四十巻(異本系三十巻)。『栄華物語』とも書く。『大鏡』とともに『世継』『世継物語』などとも呼ばれたため、時に両書は混同されたこともある。前三十巻の正編と、後十巻の続編の二部に大別され、まず正編が書かれた後

更級日記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
仮名日記文学。菅原孝標女の著。一巻。康平二年(一〇五九)ごろ成立。父の任国上総に伴われた作者が、ひそかに胸に抱いた『源氏物語』への憧憬の気持ちを日記の冒頭に記し、まず寛仁四年(一〇二〇)、十三歳の九月、上総介の任果てて上京する孝標一行の東海道旅の記を綴る。三ヵ月の旅は

陸奥話記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安時代十一世紀後半の天喜・康平年間(一〇五三―六四)に陸奥国北部で俘囚安倍氏が起した反乱、いわゆる前九年の役の顛末を漢文体で記した書。一巻。『陸奥物語』『奥州合戦記』などともよばれたらしい。著者・成立年代ともに未詳であるが、本文末尾に

本朝文粋(国史大辞典・世界大百科事典)
平安時代の漢詩文。藤原明衡編。十四巻。康平年間(一〇五八―六五)に成るか。弘仁期から長元期に至るまでの二百年間の詩文四百二十七篇を収める。書名は宋の姚鉉の『唐文粋』に倣い、わが国の文章の精粋を集めたことによる。平安時代中期から邦人の秀句の朗詠が行われ『和漢朗詠集』が

後拾遺和歌集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
第四代の勅撰和歌集。藤原通俊撰。二十巻。白河天皇の側近通俊は承保二年(一〇七五)九月、撰集の命を受けたが、右中弁蔵人頭の劇職にあって果たさず、参議に昇任した応徳元年(一〇八四)より着手、同三年春、一応の草稿を整え、源経信・康資王母らの協力を得て同年九月十六日に奏上し

江談抄(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代後期の説話集で、大江匡房の談話を集めたもの。「江談」の偏をとって『水言鈔』とも題される。信西入道(藤原通憲)の父藤原実兼の筆録とされてきたが、内容からみて筆録者は複数であると考えられる。成立は匡房の没年(天永二年(一一一一))を下限と見るべきであろうが

讃岐典侍日記(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代後期の仮名日記文学。藤原顕綱の娘長子の著。二巻、『本朝書籍目録』に三巻とあり、下巻・中巻欠落説もある。天仁元年(一一〇八)ごろ成立。康和二年(一一〇〇)堀河天皇に出仕し典侍となった作者が、嘉承二年(一一〇七)の堀河天皇の発病から崩御に至るまで

俊頼髄脳(国史大辞典・世界大百科事典)
歌学書。源俊頼著。もと五巻か。『今鏡』すべらぎの中および本書顕昭本奥書により、俊頼が関白藤原忠実の依頼で、その娘(のちの高陽院泰子)の后がね教育のため、天永二年(一一一一)から永久二年(一一一四)の間に述作したもの。『和歌童蒙抄』以下に『俊頼朝臣無名抄』