国史大辞典のサンプルページ一覧

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説経節(東洋文庫・世界大百科事典・国史大辞典)
中世末の民衆の間に育った芸能,説経節のなかから,とくに著名な「山椒太夫」「苅萱」「信徳丸」「愛護若」「小栗判官」を選んでその語り口をそのままに伝え,「信田妻」を付載した
人日(日本国語大辞典・国史大辞典・平成ニッポン生活便利帳)
〔名〕(東方朔の「占書」に見える中国の古い習俗で、正月の一日から六日までは獣畜を占い、七日に人を占うところから)五節供の一つ。陰暦正月七日の称。七種(ななくさ)の粥を祝うのが慣例。人の日。《季・新年》*看聞御記‐応永二六年〔1419〕
僧尼令(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
『養老令』の篇目。同令の第七篇で、二十七条よりなる。『大宝令』の僧尼令もほぼ同内容。仏教教団の僧尼を統制する法典。日本令の母法である唐令には僧尼令はなく、道教の道士・道士女および仏教の僧尼を統制するための道僧格があった。日本僧尼令は唐道僧格から
鎌倉仏教(国史大辞典)
鎌倉仏教は新仏教の成立と南都仏教の復興に分けて論ぜられる。新仏教は法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗であるが、その成立の原因については仏教思想の変遷を主軸とする研究と、社会・経済の変遷に即して見る研究と
大乗仏教(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
インドで西暦紀元後に興起した新しい形態の仏教。サンスクリットでマハーヤーナMahāyānaという。Mahāとは「大きい」の意、yānaとは「乗物」を意味する。それ以前からあった保守的な仏教(いわゆる小乗仏教)では修行僧が独善的になる傾きがあったのに
邪馬台国(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
二、三世紀の日本列島内にあった小国の一つで、対馬国(のちの対馬島上県・下県郡、現在の長崎県上県・下県郡)以下二十八の小国を統属していた倭国連合の盟主国。二世紀末から三世紀前半まで女王卑弥呼が都としていた国。この国への道程は『魏志』倭人伝によれば諸
倭奴国王印(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代の天明四年(一七八四)、筑前国那珂郡志賀島(しかのしま)南岸の叶の崎(かなのさき、福岡市東区)から出土した「漢委奴国王」の印文をもった純金の印。その形は方形で、方平均二・三四七センチ、高〇・八八七センチの小さい印台の上に、蛇形ともみえる鈕が
役者評判記(歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典)
歌舞伎役者に対する芸評の書。広義には歌舞伎若衆の容色を品評する〈野郎評判記〉をも含めることもあるが、普通はこれと区別して、立役・敵役・若女方などすべての役柄の役者の技芸を批評する書物をいう。〈野郎評判記〉は明暦二(1656)年に始まると伝えられるが
年の市(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
年の暮に立つ市で、ところによっては暮市・節季市・斎満(いみて)市・ツメマチなどと呼ぶ。年取りや正月用の飾り物、料理や材料その他盆までに必要と見越される物を売買するために立つ市。もともと、その年の収穫物の処分、年貢皆済の折目にまつわる経済上の必要性と
小早川秀秋(国史大辞典・日本大百科全書)
一五八二 - 一六〇二 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の第五子。母は杉原七郎左衛門家次の女。天正十年(一五八二)近江長浜に生まれる。幼名辰之助。幼少から秀吉の養子となり高台院の膝下に養育され羽柴秀俊と名のり、同十九年参議に任じ
竹中半兵衛(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五四四 - 七九 戦国時代の武将。もとの名は重虎、通称は半兵衛。重元の子。天文十三年(一五四四)生まれる。竹中氏は美濃国(岐阜県)の豪族であり、当初は美濃国守護斎藤竜興の武将として仕えていたが、永禄十年(一五六七)八月、織田信長が斎藤竜興を攻め
立花宗茂(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
? - 一六四二 安土桃山・江戸時代前期の武将。筑後国三潴郡柳川を居城とした立花家の初代大名。大友氏の一族吉弘氏から出て、筑後の高橋氏を継いだ高橋鎮種(紹運)の子。鎮種の同僚で立花城城督の戸次(べっき)鑑連(道雪)の娘千代の婿として戸次家に入った
柴田勝家(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
? - 一五八三 安土桃山時代の武将。尾張国愛知郡に生まれる。織田信行(信長の弟)に属して信長と敵対したが、のち許されて信長の家臣となる。元亀元年(一五七〇)六角承禎・義治父子と戦って近江長光寺に籠城した際、飲料水を貯えた水甕を叩き割って決死の覚悟を
前田利家(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五三八 - 九九 安土桃山時代の武将。犬千代、孫四郎、又左衛門尉。天文七年(一五三八)尾張国愛知郡荒子村(名古屋市中川区荒子町)に前田利春(利昌)の四男として生まれる。幼少のころより織田信長に仕えたが、永禄二年(一五五九)同輩との争いから信長の勘気を
藤堂高虎(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五五六 - 一六三〇 江戸時代前期の伊勢国津藩主。幼名与吉、通称与右衛門。弘治二年(一五五六)生まれる。近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の地侍藤堂源助虎高の次男。母は多賀良氏の女とら(妙青夫人)。元亀元年(一五七〇)浅井長政に属し姉川の戦に
長宗我部元親(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五三八 - 九九 戦国時代の武将。土佐国の大名。幼名弥三郎、のち宮内少輔、羽柴土佐侍従。長宗我部国親の長男として天文七年(一五三八)長岡郡岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。幼少時は姫若子といわれた柔和な性格で国親は心痛していたという。永禄三年
滝川一益(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
一五二五 - 八六 安土桃山時代の武将。左近将監。大永五年(一五二五)滝川一勝の子として生まれる。織田信長に仕え、伊勢国司北畠氏との戦いに参加。永禄十二年(一五六九)大河内城攻撃の功によって北伊勢五郡を与えられ、付近一帯の指出検地を行なっている
吉川元春(国史大辞典・日本大百科全書)
一五三〇 - 八六 戦国時代の武将。毛利元就の次男で通称少輔次郎、のち治部少輔・駿河守と称す。享禄三年(一五三〇)生まれる。母は吉川氏(法号妙玖)。天文十六年(一五四七)吉川興経と養子契約ができ、同十九年安芸国山県郡大朝新荘の火ノ山城に入り、吉川氏
七五三(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
小児の年祝い。江戸時代以来、男児は三歳と五歳、女児は三歳と七歳とを主とし、十一月十五日に晴着をまとって所の氏神社に詣り、無事成育を祈願した習俗。そのため七五三の名ができた。十一月は古来の祭り月、十五日は重い式日である。元来男女とも三歳で髪置、男五歳は
酉の市(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
11月酉の日の鷲(おおとり)(大鳥)神社の祭礼に立つ市。この祭りを〈酉のまち〉〈おとりさま〉などともいう。露店で縁起物の熊手などが売り出されることで有名。鷲神社は武運長久の神として武士にも信じられたが,庶民の間では商売繁昌・開運の神として信仰されて
島津忠良(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一四九二 - 一五六八 戦国時代の薩摩国の武将。父は島津(伊作)善久。母は新納是久の娘常盤。幼名は菊三郎。通称は三郎左衛門尉。明応元年(一四九二)生まれる。父善久の没後、母常盤の再嫁した相州家島津運久の家督を継承し、相模守を名乗り、本領伊作とともに
蒲生氏郷(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
一五五六 - 九五 安土桃山時代の武将。会津若松城主。利休七哲の一人。幼名鶴千代、忠三郎、賦秀(やすひで)、洗礼名レオン。弘治二年(一五五六)近江国蒲生郡日野(中野)城主で六角氏の重臣賢秀の第一子として生まれる。永禄十一年(一五六八)織田信長に降った
北条氏康(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五一五 - 七一 戦国時代の武将。相模国小田原城主。通称は新九郎。従五位下左京大夫。隠居後は相模守、また御本城様・本城などと敬称され、太清軒と号した。永正十二年(一五一五)に生まれる。父は北条氏綱、母は養珠院宗栄とみられる。享禄三年(一五三〇)に
朝倉孝景(国史大辞典・日本大百科全書)
(一)一四二八 - 八一 室町時代の武将。越前国守護代。正長元年(一四二八)四月十九日、家景の嫡子として生まれる。幼名小太郎。孫右衛門尉、のち弾正左衛門尉と称し、教景のち繁景、そののち孝景を名乗る。敏景とするものは『朝倉始末記』系統のものである
黒田孝高(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
一五四六 - 一六〇四 安土桃山時代の武将。初名孝隆、のち孝高、致仕後政成に改む。幼名万吉、長じて官兵衛、勘解由と称し、剃髪して如水軒円清居士と号した。はじめ小寺氏を称したが、のち黒田姓に復した。天文十五年(一五四六)十一月二十九日、播磨国飾東郡姫路
浅井長政(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
一五四五 - 七三 戦国時代の武将。近江国の大名。はじめ賢政、のち長政と改名。通称新九郎、備前守と称した。天文十四年(一五四五)誕生。父久政、母は井口氏。永禄三年(一五六〇)十六歳で家を継いだ。久政隠退は重臣たちの強要によるものと伝えられている
北斉書(国史大辞典)
中国北朝の北斉の正史。李百薬ら奉勅撰。本紀八巻、列伝四十二巻、計五十巻。貞観十年(六三六)完成奏上。はじめ隋代に李徳林が紀伝体の『斉書』を編し、編年体の王劭『斉志』と並び行われていたが、唐初貞観三年、太宗の命により先行五朝(北斉・北周・梁・陳・隋)
魏書(国史大辞典)
中国、南北朝時代北朝の魏一代のことを記した正史。帝紀十二巻、列伝九十二巻、志十巻、合わせて百十四巻、一巻の中を上・下または一・二…に分けたもので数えれば、帝紀十四、列伝九十六、志二十の計百三十巻となる。その中で、志は後れて成ったので、伝の後に列せられ
陳書(国史大辞典)
中国南朝陳(五五七―八九年)の正史。姚察・姚思廉父子撰。本紀六巻、列伝三十巻。はじめ陳代に顧野王・傅縡・陸瓊らの陳史が未完成で存し、姚察も陳史の編纂に任じたが、陳亡後姚察は隋に入って『梁書』と併行して刪改撰集を進め、大業二年(六〇六)死去す
梁書(国史大辞典)
中国南朝梁の正史。本紀六巻、列伝五十巻。梁代すでに沈約・周興嗣・鮑行卿・謝昊の手で百篇の梁史が作られ、続く陳では許亨『梁書』五十三巻や何之元・劉の編年体『梁典』三十巻などができた。さらに陳の祠部郎中兼知国史(のち吏部尚書)姚察は梁・陳両朝史の編纂を
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