国史大辞典のサンプルページ一覧
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伴大納言絵詞(日本大百科全書・国史大辞典)
応天門の変を題材とする絵巻物。紙本著色。三巻。東京出光美術館蔵。国宝。貞観八年(八六六)閏三月十日の夜、応天門が炎上した事件について、大納言伴善男はこれは左大臣源信(みなもとのまこと)が放火したものとして告発した。しかし、のち真相が暴露し、伴善男が

信貴山縁起(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
平安時代後期の代表的絵巻。紙本著色。三巻。奈良県生駒郡平群町の朝護孫子寺蔵。国宝。九世紀末から十世紀初めに大和と河内の境にある信貴の山寺に籠り、毘沙門天を勧請して種々の奇瑞を行なった修行僧命蓮に関する三つの説話を生き生きと描き出す。現在、第二巻と第三

源氏物語絵巻(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
『源氏物語』の各帖から興味深い場面を抜き出してこれを絵画化し、本文の一部を詞書として添えた絵巻。『源氏物語』の絵画化は、原典の成立後間もなく始められたと思われ、以後各時代を通じ「源氏絵」として盛んに制作、愛好された。しかし現存の作例として最も古く

平家納経(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
広島県佐伯郡宮島町の厳島神社に伝わる平安時代末期の装飾経三十三巻。平清盛が一門の繁栄を祈願して、長寛二年(一一六四)九月、厳島神社の本地仏である十一面観音に奉納した経典であることから、「平家納経」の名で呼ばれる。平安時代半ばころから貴族社会では

大般若経(日本大百科全書・国史大辞典)
『大般若波羅蜜多経』(サンスクリットMahāprajñāpāramitāsūtra)の略称。唐の玄奘訳、六百巻。西暦紀元一世紀ころから般若経典と名づけられるものが個別的に幾つも作成されたが、それらを集大成して、上の標題を付したものである。したがって

三条実美(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一八三七-九一幕末・明治時代前期の政治家。諱は実美、字遜叔、幼名福麿、梨堂と号す。天保八年(一八三七)二月八日、贈右大臣三条実万の第四子として京都梨木町の邸で生まる。母は土佐藩主山内豊策の女紀子。生後洛東の農家楠六左衛門に保育され、帰邸後、家臣で

江藤新平(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一八三四-七四幕末・維新期の政治家。旧佐賀藩士。名は胤雄、字は新平、号は南白。天保五年(一八三四)二月九日、肥前国佐賀郡の八戸村(佐賀市八戸)に生まれた。父胤光は佐賀藩の下士、手明鑓(てあきやり)で郡目付役、母は浦氏。十六歳で藩校弘道館に寄宿

国債(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
国家が財政支出を支弁するために負担する金銭債務で、証券発行を伴うもののことをいう。以下、日本の国債について第二次世界大戦前を四期、戦後を二期に分けてその特徴を述べる。〔戦前〕(一)明治初年―二十六年(一八九三)維新政府は封建制度を解体し、資本主義の

長岡京(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
山背国乙訓(おとくに)郡に、延暦三年(七八四)―十三年まであった都。宮域は京都府向日(むこう)市に、東西市は同長岡京市に、港津は、大山崎町の山崎津にあり、『続日本紀』延暦六年十月丁亥条の詔が、長岡遷都の理由を「水陸の便なる」(原漢文)とするとおり

太政大臣(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
(一)律令制で太政官の最高の官。音は「Daijŏdaijin(だいじょうだいじん)」(『日葡辞書』)とも。訓は「於保万豆利古止乃於保万豆岐美(おほまつりごとのおほまつぎみ)」(『和名類聚抄』)、「おほきおとど」(『伊勢物語』)、「おほきおほいどの」

恵美押勝の乱(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)が道鏡を除くために起した反乱。仲麻呂は孝謙上皇の寵を得て同二年太保(右大臣)に任じ、恵美姓を賜わり、四年太師(太政大臣)に任ぜられ権勢を極めたが、同年六月七日、彼の支持者である叔母の光明皇太后が崩じた

律宗(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
南都六宗の一つ。渡来僧鑑真をもって宗祖とし、鑑真創建の唐招提寺を本所とする大乗律の一派。ただし鑑真以前、すでに律宗の名を用いた学問僧衆が諸大寺にいて、主に『四分律』を研究していたことは忘れられない。しかし鑑真によって東大寺戒壇院の創設が実現し、十師に

光明皇后(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
七〇一-六〇聖武天皇の皇后。大宝元年(七〇一)藤原不比等の三女として誕生。母は県犬養三千代。名は安宿媛(あすかべひめ)、また光明子とも伝えている。幼少のときから聡敏であったという逸話がある。霊亀二年(七一六)皇太子首(おびと)皇子の妃となり、やがて

遣渤海使(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
神亀五年(七二八)から弘仁二年(八一一)まで、十三回にわたって日本から渤海に派遣された公式の使節。渤海は旧高句麗領の大半を拠点とする高句麗人が周囲の靺鞨人を支配下に置いて六九八年自立したが、唐の冊封を受け、西北の突厥、南の新羅の外圧もあり、きびしい国

遣隋使(世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典)
推古天皇八年(六〇〇)から同二十二年にかけて、前後六回にわたって日本から隋に派遣された公式の使節。使の派遣回数とその年次についてはほかに三回説・四回説・五回説があるが、『隋書』倭国伝・同煬帝紀と『日本書紀』推古紀の記述すべてを生かすと、(一)六〇〇年

十七条憲法(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
日本最古の理論的政治思想を示す文章。『日本書紀』推古天皇十二年(六〇四)四月条に「皇太子、親ら肇(はじ)めて憲法(いつくしきのり)十七条作りたまふ」(原漢文)とあって、その次に十七条の全文が掲げられており、これによって古来聖徳太子の作とされてきた

明治維新(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
〔定義〕明治維新とは、十九世紀後半、日本が幕藩体制から近代天皇制へと移行する転換点となった一大変革をいう。それは十九世紀の五〇―七〇年代、東アジアにおいて世界資本主義による外圧が幕藩体制の内部矛盾と結びつき、二世紀半以上続いた江戸幕府の支配体制を崩壊

大伴金村(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
五世紀末から六世紀前半へかけての大和朝廷の有力者。武烈・継体・安閑・宣化朝の大連。大伴談(かたり)の子。磐・咋・狭手彦の父。仁賢天皇の死後、権勢強大な平群氏を滅ぼし、武烈天皇を即位させた。武烈の死後、あとをつぐ皇族がないため、金村は群臣とはかって

磐井の乱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と己呑(とくことん)を復興しようとした時、かねて反乱を計画して隙をうかがっていた筑紫国造磐井は、毛野臣の軍を

任那(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
朝鮮半島南部の洛東江中・下流域から蟾津江流域に及ぶ古代小国家群の総称。慶尚北道西南部をふくみ、現在の慶尚南道より全羅南道にわたる。『日本書紀』では、「比自・南加羅・・安羅・多羅・卓淳・加羅」の七国(神功紀)、あるいは「加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・

昭和時代(世界大百科事典・国史大辞典)
元号をもって時代区分することは学問的ではないが、一般にはしばしば用いられている。この時代は次のように時期区分することができる。(一)昭和元年(一九二六)―五年この時期はむしろ前時代の延長と考えるべきである。政治的には政党政治の全盛期であったが

明治時代(国史大辞典・世界大百科事典)
明治元年(一八六八)から同四十五年七月三十日、明治天皇の死により大正と改元されるまでの四十四年間余りの時期をいう。慶応四年(一八六八)が改元で明治元年となったのは九月八日であったが、その年の正月一日以後を明治時代に含めて呼ぶのが普通である。明治天皇の

戦国時代(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)

徳川家慶(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七九三-一八五三江戸幕府第十二代将軍。一八三七―五三在職。寛政五年(一七九三)五月十四日生まれる。十一代将軍家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏、香琳院)。幼名松平敏次郎。同八年十二月家慶と称す。翌九年三月元服して従二位、大納言に任ず。文化六年

徳川家斉(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七七三-一八四一江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方(岩本氏、慈徳院)。徳川豊千代と称したが、天明元年(一七八一)閏五月、十代将軍家治の世子と

徳川家継(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七〇九-一六江戸幕府第七代将軍。一七一二―一六在職。六代将軍家宣の第三子。生母は勝田氏(於喜世、月光院)。宝永六年(一七〇九)七月三日、江戸城内山里の別殿で誕生。幼名世良田鍋松。世良田の称は徳川氏発祥の地、上野国新田郡世良田郷(群馬県新田郡尾島町)

徳川家宣(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一六六二-一七一二江戸幕府第六代将軍。一七〇九―一二在職。甲府宰相徳川綱重の長子。生母は田中氏(於保良、長昌院)。寛文二年(一六六二)四月二十五日、江戸谷中千駄木邸に生まれる。幼名虎松。綱重が正室を迎える前の誕生であったため、憚って家臣の新見正信の子

徳川家綱(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一六四一-八〇江戸幕府第四代将軍。一六五一―八〇在職。三代将軍家光の長子。寛永十八年(一六四一)八月三日生まれる。生母は増山氏おらく(お楽)の方。幼名竹千代。正保元年(一六四四)十一月家綱と名のる。慶安四年(一六五一)四月二十日父家光の死により

十返舎一九(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一七六五-一八三一江戸時代後期の戯作者。本名重田貞一、幼名市九、十返舎は香道の黄熟香の十返しにちなむ。十偏舎・十偏斎・重田一九斎とも称した。明和二年(一七六五)に生まれる(月日未詳)。駿河府中(静岡)の千人同心あるいは六十人同心の子ともいわれるが

曲亭馬琴(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一七六七-一八四八江戸時代後期の小説家。本名は滝沢興邦、のちに解(とく)、隠居して篁民と称す。幼名は倉蔵・左七郎。通称は左吉(瑣吉)・清右衛門。別号は彫窩坊・大栄山人・著作堂主人・蓑笠漁隠・飯台陳人・乾坤一草亭・魁蕾(傀儡)子・玄同・笠翁・蟹行山人な