〔第一期〕
〔第二期〕
〔第三期〕
〔第四期〕
大津淳一郎『大日本憲政史』一―六、三宅雪嶺『同時代史』一―四、岡義武『近代日本政治史』、下村冨士男『日本全史』九、升味準之輔『日本政党史論』一―三、大久保利謙編『日本歴史大系』四、鳥海靖『日本近代史講義』
国史大辞典
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字義どおりには,1868年(慶応4・明治1)9月8日の明治改元から,1912年7月30日明治天皇の死にともない皇太子嘉仁(よしひと)親王が践祚し,大正と改元したときまでを指す。これは,明治天皇の践祚が1867年1月9日であるため,天皇の在位期間と一致せず,一世一元制の採用以前の時期を包摂できない。歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6)ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から,明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。さらに,明治時代を時期区分するとすれば,まず1877年の西南戦争までの明治維新期,ついで1890年までを自由民権運動と明治憲法体制の成立の時期として区切ることができ,さらに日清戦争を経て1900年前後までの帝国主義成立期,それ以後の日露戦争をはさむ帝国主義確立の時代に区分することが可能である。
ペリー来航を契機とする幕末の激動は,尊王攘夷運動から公武合体運動を経て討幕運動へ,京都朝廷を擁して新しい政治体制を創出しようとする政治勢力と,徳川幕藩体制を再編して将軍を中心とする支配体制を温存しようとする勢力とが直接対抗する政治情勢を軸に展開する。それはまた,都市の打ちこわしや〈世直し〉を志向する農民一揆の高まり,全国各地の新時代到来に期待する豪農・豪商層や〈ええじゃないか〉の狂乱に寄せる一般庶民の願望をも含めて,時代は大きく転回した。幕末の政局は15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い,あいついで王政復古の大号令の政変で維新政権が樹立され,さらに翌年の戊辰戦争へと連動し,これらのプロセスを経て天皇を中心とする明治新政府が出現した。1868年3月,五ヵ条の誓文によって新政府の基本方針が内外に宣言され,さらに版籍奉還,廃藩置県によって統一国家の課題を実現した。この間,維新政府は戊辰戦争で旧幕府勢力を圧倒し,やがて新政府の中枢には薩長土肥など討幕の中心勢力となった諸藩出身者が位置することになり,いわゆる藩閥政治が形成された。
明治政府の課題は,欧米諸列強に対抗しうる内実を早期に育成し独立国家として自立することにあった。そのためには,欧米列強の実態を認識し,これをモデルとするさまざまな改革に着手する必要があった。廃藩置県後に岩倉具視を正使として,新政府の中心人物である大久保利通,木戸孝允らが副使として出発した岩倉使節団は,不平等条約の改正交渉と欧米列強の実情を見聞することを使命とした。これ以後,政府は,徴兵令,地租改正,殖産興業,学制をはじめ,政治,軍事,経済などあらゆる部門での改革を推進した。しかし,性急な摂取の方法と負担の増大は,さまざまな社会的混乱や国民各層からの抵抗を巻き起こすことになった。国民皆兵をスローガンに掲げた徴兵令(1872)は,各種の免役規定があって,結局は農民の次三男を対象とする兵役であり,これへの反発が血税一揆となり,また,旧幕時代と変わらない負担を課すことになった地租改正(1873)や授業料や学校建設費を負担しなければならない学制(1872)など,政府の新しい政策に反対する一揆が頻発した。さらに,徳川幕藩制の基盤となった領主階級の特権を廃止するための秩禄処分や廃刀令が,士族層の反発を誘発してあいつぐ士族反乱となり,ついには西南戦争へと連動して政府を窮地に立たせることになった。
こうした国内における諸矛盾は,対外政策の中にも投影されることになり,1873年に政府内で主張された征韓論は,政府内の派閥対立を背景にしながら,さらに不平士族の不満を対外問題の中で解消させようとのもくろみなどを複合させたものであり,岩倉使節団に参加して海外の実情を認識したグループの強力な反撃で阻止された。しかし,翌年には琉球の漁民が殺害されたことを理由として台湾出兵を強行し,さらに75年には朝鮮で江華島事件を引き起こし,翌年治外法権を包含する日朝修好条規を締結して朝鮮の開国を強要した。これら一連の対外政策は,外交上の懸案を解決するためであるよりも,国内における矛盾の爆発を対外出兵によって回避しようとする側面をもっていたことは否めない。
この間に政府は,欧米諸国の先進的な技術や生産方法の導入をはかり,貨幣制度の統一や,鉄道・電信,各種官営工場などの設立に努め,外人技師を雇って新しい技術を伝習させた。そうした政府の積極的な施策にもかかわらず,当時における日本経済の現状は,これら先進的技術や設備を活用する条件を欠き,たちまち赤字経営に直面し,1880年には工場払下概則を制定して,軍需工場を除く一連の官営工場や鉱山,炭鉱などを三井,三菱,古河などの政商に払い下げた。
こうした先進諸国を範とする近代化政策は,教育・文化の面でも必要とされ,欧米の教育制度や学問・思想が積極的に導入された。たとえば1872年(明治5)の学制は,欧米の学校制度をモデルとしており,また多数の御雇外国人(表参照)を政府顧問や学校教師,技師などに採用して先進的な学問・技術の直接的な摂取をはかろうとした。外国人の雇用は1874-75年ころ政府雇用者だけで520名に及び,のちには民間の雇用がふえて92年には570名に達するが,彼らは日本の近代化に不可欠の頭脳として尊重された。さらに多数の官費留学生の派遣をはじめ,旧藩主やその他の後援によって留学した者もかなりな数にのぼった(〈留学〉の項参照)。やがて1877年には東京大学が高級官僚や学者・技術者の養成機関として設立された。他方,幕末に洋学を学び,あるいは海外体験をもっていた人々によって海外事情が紹介され,外国書の翻訳もあいついだ。なかでも森有礼らが明六社を結成して《明六雑誌》を発刊し,あるいは演説会などを通じ封建思想や迷信を厳しく批判し,政治,経済,法律,教育,哲学,宗教,婦人問題など,あらゆる分野にわたって新しい考え方を展開した啓蒙的活動が注目される。また1873年には政府が外国からの抗議をうけてキリスト教禁制の高札を廃止し,キリスト教は自由に伝道できることになった。各地にプロテスタント派の教会や学校などがつくられ,それらはキリスト教精神にもとづく新しい人間観を教える場所となった。文学でも,その形式は江戸時代からの戯作小説の形式をとっていたが,題材の多くは何らかの意味で文明開化の風潮を反映するものであり,その作品は福沢諭吉の《学問のすゝめ》などとともに,多くの人々に愛読されて,開化の世相を広く伝える役割を果たした。
また,東京には洋館が出現し夜はガス灯がともり,鉄道馬車や人力車が走り,洋服姿の官員や紳士たちが闊歩(かつぽ)した。食生活でも牛肉やパンを食べるようになり,そのほかさまざまな面で新しい生活や風俗が出現した。しかし,そうした文明開化の世相は東京や大都市の一部に限られたものであり,地方の町や農村での生活はまだ江戸時代そのままの日常生活が続いていた。しかし,錦絵や〈おのぼりさん〉によって伝えられる文明開化の風俗と,書物や学校の教師などを通じて紹介された新しい思想は,やがて自由や民権の言葉とともに町や村々の文明開化を触発させていく契機になった。
1874年,前年の征韓論争に敗れて下野した板垣退助ら前参議が中心となって提出した民撰議院設立建白書は,藩閥政府の専制政治を批判し国会の開設を要求していた。これを契機に自由民権運動が起こり,高知の立志社をはじめ各地に士族中心の民権政社が結成され,新聞,雑誌などを通じて圧制政治を攻撃し民権自由の論陣を張った。77年西南戦争が勃発すると,九州の民権派の多くは西郷軍に投じ,立志社内部にも動揺が起こったが,片岡健吉らは建白書を提出して従来の国会開設の要求に加えて地主や農民たちの要求である地租軽減を訴え,さらに国民的課題である対等な条約改正を主張して自由民権論を一歩進めた。これ以後,民権運動は愛国社を中心に全国的な国会開設運動として展開され,知識人をはじめ豪農・豪商層や農民たちをも巻き込んだ運動として高まった。とくに80年には運動の広がりはピークに達し,各地から国会開設の建白が続々と提出され,政党の結成や自分たちの手になる憲法草案の作成を課題とするようになった(私擬憲法)。
政府は,これに対して1880年に集会条例を公布して民権派の組織的活動に弾圧を加えたが,翌年政府が決定した北海道開拓使官有物払下げが世論の反発を招き(開拓使官有物払下事件),反政府運動は再び全国的な高まりを示した。この間にも政府は立憲制への転換を模索する必要に迫られ,その過程で,参議大隈重信の憲法意見がイギリス流の政党内閣制の採用と早期の国会開設を主張する内容であることが判明し,政府首脳に衝撃を与えた。政府はこうした状況を打開するために何らかの決断が必要になった。10月政府は詔書をもって1890年の国会開設を約束し,同時に官有物払下げの中止を決定し,他方,大隈参議とそれに同調する開明派官僚を政府内から一斉に追放した。政府はこの明治14年の政変(1881)により民権運動に一定の譲歩をする一方で,政府内の異端を排除して藩閥政府の態勢を整えるとともに,欽定憲法主義や天皇大権確立など立憲制採用の基本方針を決定し,翌年には参議伊藤博文を憲法調査のために渡欧させた。
他方,自由民権派は愛国社から国会期成同盟へと組織を変更しながら国会開設運動を推進してきたが,それが母体となって1881年10月に自由党が結成され,板垣退助を総理に推した。この自由党は一院制議会を構想し基本的人権の確立をめざして,地主や農民など農村部に主たる基盤をおいた。さらに翌年には,先に下野した大隈を総理に立憲改進党が組織され,これはイギリス流の二院制議会や財産による制限選挙を主張して漸進主義の立場をとり,都市の知識人や地方の商工業者などを対象に勢力を拡大しようとした。ここに自由民権運動は,一定の政綱を掲げる全国的な単一組織を通じて政治理念を民衆に訴え,その影響力を拡大できることになった。府県会をはじめ,末端の町村レベルでも政党の組織活動は活発になり各地に支部が生まれた。各政党は機関新聞や刊行物を利用して党の方針や政策を訴えるとともに,政府の内外政策を厳しく批判した。こうした民権派の活動は,西南戦争以後に,高進していたインフレーションによる経済活動の活性化や,地方の商工業者による新しい事業,地主や農民による農業経営の拡大など,地域社会の活気に依拠していた。
ところが1881年大蔵卿に松方正義が就任して財政改革に着手し,紙幣整理と増税政策を採用する,いわゆる松方デフレが進行すると,中小資本家や地主・農民は深刻な不況の中で生活破綻に追い込まれた(松方財政)。税金の滞納のため,土地や財産が競売に付され,83年以降土地を失う地主や農民が激増し,高利貸からの借金を返済できないで身代限りになる者も数万人を数えた。
こうした状況の中で,各地で自由民権運動から離脱する傾向は顕著になり,自由,改進両党が互いに相手の非難と中傷を繰り返して反目を続けていたこともあって,党勢は振るわず,政府による弾圧と分裂策が効を奏することになった。その一方で,1882年に福島県下の自由党員と農民たちが県令三島通庸の圧政に反対して立ち上がった福島事件をはじめ,東日本を中心に各地で激化事件が続発した。とくに,関東から東山・東海地方にかけての地域で貧窮化した農民が借金党や困民党を結成し,高利貸に対して借金の棒引きや長期の年賦返済などを要求して活動を始めており,地方自由党員の中には,これら貧窮農民を組織化して政府に対抗しようとする者も現れた。84年の群馬事件や秩父事件はその典型的な事件であった。自由党主流はこうした激動化する情勢に対応しきれず,とくに加波山事件のような党員によるテロリズムの暴発に直面すると,党の指導に自信を失い,84年10月の大会で党を解消してしまった。他方,改進党も党勢は振るわず,総理大隈ら幹部が党運営の方針をめぐる対立から脱党するに及んで,党活動はさらに停滞することになった。こうして自由民権運動は,政党による組織的活動を推進する条件を失い,国民各層の深刻な生活崩壊と政府の弾圧強化を前にして自滅した。
この間に日本をめぐる国際環境も大きく変化した。日本は開国後の朝鮮に経済進出をはかり,政府内にも影響力を強めていたが,1882年の壬午軍乱を契機に清国の発言力が拡大し,ここに朝鮮をめぐる日清両国の対立が顕在化した。日本政府はこれ以後対清戦争を目標として本格的な軍備拡張にのりだし,84年朝鮮の開化派を支援して起こした甲申政変が失敗に終わって日本の朝鮮への影響力がさらに後退すると,日本国内では朝鮮に対する強硬論が強まり,福沢諭吉の有名な〈脱亜論〉はそうした風潮を象徴するものであった。このような国権論の台頭は,明治10年代を通じて広がった自由と民権の主張を後退させ,列強対立の国際政治の中でも中立主義や小国主義を主張してきた民権派内の議論も急速に国権論への傾斜を強めることになった。85年に旧自由党左派の大井憲太郎らが計画した大阪事件は,国内での革命に展望を失った民権派が朝鮮での革命を企図したもので,民権運動の屈折を示す事件であった。
自由民権運動が衰退する一方で,政府は着々と立憲制への転換のために準備を進めていた。1884年に宮中に制度取調局が設置され,前年にヨーロッパから帰国した伊藤が中心となって諸制度の整備を進めた。84年の華族令公布に始まり,89年の大日本帝国憲法,皇室典範の発布,さらに翌年の府県制・郡制の制定や教育勅語の渙発にいたる一連の施策は,天皇を中心とする独自な立憲体制の構築をめざすものであった。
その一方で,すでに1878年には参謀本部を新設して統帥権の独立を実現し,さらに82年には〈軍人勅諭〉を発布して軍人の紀律を厳正化し天皇の軍隊としての基礎を確立しようとしていた。また82年以降,軍備拡張政策を進めるとともに,兵制の改革に着手し,陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への編制替えを進め,装備の統一や徴兵令の改正など軍制全般の見直しが行われ,海軍でも鋼鉄艦を中心とする建艦計画の早期完成をめざした。こうして,明治憲法体制の整備に対応した軍制改革が全面的に展開され,予想される対清戦争の準備は着々と進められたのである。
憲法では,天皇の絶対性・神聖性を前提に統帥権をはじめ広範な天皇大権を規定して天皇に強大な権力を集中し,さらに皇室典範で天皇ならびに皇族の身分的位置の安泰を保証した。その他方で明治憲法の基本的人権についての規定は制限付きであり,民選議院である衆議院は特権階級の府である貴族院と対等な権限しか与えられなかった。さらに衆議院議員の選挙・被選挙権はいずれも一定の直接国税を納付する者に限られ,そのため当時は地租を納める地主階級の代表が多く選出される仕組みになっていた。また,この前後に制定された市制・町村制,府県制・郡制も地方有力者が発言権を確保できる体制になっていた。したがって明治立憲制は,貴族院を構成する皇族,華族,官僚,大地主や大ブルジョアジーなどの特権階級と,衆議院や各地方議会に代表を選出できる地主階級などの地方有力者を基盤として成立したものといえよう。
1890年に開設された第1帝国議会では,政府提出の予算案が自由,改進両党を中心とする民党側によって大幅に削減されて政府は窮地に立たされ,紛糾した。これ以後日清戦争までの初期議会では,藩閥政府を予算問題や外交問題で追及しようとする政党側と,解散や停会・詔勅策などによって軍艦建造費などを含む予算案の成立や条約改正の実現をはかろうとする政府側とが激しく対立し,政局は不安定なままに推移した。
1880年代以降,朝鮮をめぐる日清両国の対立が先鋭化する中で,イギリス,フランス,ロシアの極東進出も積極化するにいたった。とくにロシアがシベリア鉄道の建設に着手したことは,東アジアの国際政治に大きな波紋を投げかけることになった。日本政府の推進する条約改正交渉が難航してきた理由の一つは,日本との利害関係がもっとも大きいイギリス側の消極的な対応にあった。井上馨が外務卿,さらに外相としてとりまとめた妥協的な改正案は政府内外の反対運動の中で葬られ,続く外相大隈重信の交渉も同じ理由で不調に終わった。こうした経緯の後に日本政府は対等条約の締結をめざして改正交渉に臨むことになるが,イギリスがこれに応じたのは,ロシアの積極的な極東進出に対抗するためには極東政策の転換をはかる必要があったからにほかならない。
1894年に入って朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が勢力を強め,朝鮮政府がその制圧のために清国へ派兵を要請したとの報道が伝えられると,日本政府はただちに出兵を決定し,ここに京城の周辺で日清両軍が相対峙することになった。7月,日本軍の攻撃開始で日清戦争は勃発し,年内に日本軍は遼東半島の主要部を占領した。そして議会は一致して戦争を支持し,国民も戦勝に熱狂した。翌95年4月に日清講和条約が締結されたが,6日後にロシア,フランス,ドイツによるいわゆる三国干渉に直面し,日本政府としては勧告どおり遼東半島を清国に還付するほかなかった。
この三国干渉は,列国の利害関心が極東に集中してきている現実を示すものであり,日本の各層に大きな衝撃を与えた。したがって日清戦後経営は,軍備拡張をはじめ産業の振興,台湾経営などを推進して日本を帝国主義的な強国に転化させることを課題とし,政府は清国からの巨額の賠償金を軍事費にあてるとともに,政党と公然と提携して各種の増税案や関係諸法案の成立をはかった。とくに1898年に開始された列強による中国分割競争は,日本の支配層に強い危機感を抱かせることになり,1900年の選挙権の拡大や伊藤博文による立憲政友会の創立は,緊迫する極東情勢に対応するために国内体制の再編・強化をめざすものであった。
おりから,中国では列国の帝国主義的侵略に反対する民衆反乱として義和団の乱が起こり,北京~天津の間を席捲した。公使館員や居留民を救出するため列国は共同して軍隊を派遣することになり,日本は大軍を派遣して義和団鎮圧の主力として活躍した。乱鎮圧の後,ロシアは満州(中国東北部)を軍事占領し,日本はこれに抗議するとともに,イギリスへの接近をはかり,1902年日英同盟の締結に成功した。政府の周辺では,元老伊藤博文らのように日露協商によって朝鮮問題の解決をはかろうとする意見もあったが,いち早くイギリスが自己の極東戦略の中での日本の軍事力を評価し,日本の側もロシアと対抗するためには大国イギリスの後援を絶対に必要とした。ロシアはこの同盟締結を契機に満州からの撤兵を約束したが,その中途で撤兵方針を変更したため,日本はロシアとの外交交渉によって満韓問題の解決をはかろうとした。しかし,両国の対立点は容易に調整できず,ついに04年2月日露戦争に突入した。戦闘は激戦の連続となり,双方ともに最大限の兵力を動員し莫大な軍需品を調達しての未曾有の消耗戦が展開された。そのため日本政府は巨額の軍費を必要とし,非常特別税として増税と新税の設置を進めたが,その過半は国債と,イギリス,アメリカからの外債とに依存した。翌05年3月の奉天の会戦は,日露両軍ともに最大限の兵力を結集して戦われ,日本側は軍事上,財政上からこの戦闘を限度として講和による戦争終結を期待した。ロシアも5月の日本海海戦による決定的な敗北と国内における革命運動の激化によって講和を必要とするにいたり,アメリカ大統領T.ローズベルトの斡旋で講和会議が開かれ,9月講和条約の締結をみた。
講和の内容が,領土割譲は樺太南半だけであり,償金はまったくないことに不満を抱く対外硬派は講和反対を唱えた。9月5日の調印の日に東京日比谷で開催された講和反対国民大会には,民衆が騒擾(そうじよう)化して日比谷焼打事件を引き起こしたのをはじめ全国的に非講和運動が展開された。戦争中,国民の多くは,開戦以後のあいつぐ勝報に熱狂し,旅順陥落や奉天会戦,さらに日本海海戦などの報道は国民を狂喜させ,ちょうちん行列や戦勝祝賀会などが各地で開かれていた。大国ロシアとの戦争は,国民各層の間に愛国心をかきたて,人々は重税や物価の高騰,さらに国債の引受けなど,国民生活にのしかかる重圧に耐えて,戦争に全面的に協力してきた。全国的に広がった非講和運動は,戦勝の成果への期待が裏切られたことへの不満の爆発であった。
ともかくも日露戦争によって日本は強国の仲間入りを果たすことになって,日露戦後経営では,まずロシアから譲渡された樺太南半や南満州の利権を接収し,朝鮮の保護国化を推進するなど,本格的な植民地経営に着手する必要に迫られ,さらに強国にふさわしい軍備の拡張と鉄道国有化や重工業の拡大・整備など,経済基盤の充実を課題とした。とくに,軍備拡張政策はロシアの報復に備えるための陸軍の増強と,やがて顕在化するアメリカを仮想敵国とする海軍力の充実が要請された。ここに,戦時における動員兵力を確保する方策として,義務教育と軍隊生活を連動させるために青年団の全国的な組織化が推進され,さらに在郷軍人会が強化されて,軍隊教育が国民生活全般に浸透させられることになった。その一方で,鋼鉄生産の自給や建艦技術の向上など,軍事生産の自立化のための施策が展開され,それらは日露戦争後の重化学工業発展を起動づける一条件となった。こうした戦後経営のための財源捻出は,戦争中の膨大な内外債の重圧の下では容易でなく,戦時下の非常特別税を永久税としてそのまま継続し,さらに増税政策を採用するほかなかった。
また,本格的な帝国主義国への転換をはかるためには,政治体制の再編が必要となった。ここに山県有朋ら元老層の支持を背景に主として官僚や軍部の利害を代表する桂太郎と,衆議院で多数を制する政友会の総裁で元老層との意思疎通もはかれる西園寺公望とが,交互に政権を担当する,いわゆる〈桂園内閣〉の時代が出現した。いずれの内閣も,日露戦争を契機に発言権を強めてきた金融資本の利害を反映した財政政策を展開し,軍拡と本格的な植民地経営を推進する点では共通していた。しかし,1907年の戦後恐慌を契機に官営工場や大規模な工場・鉱山などでストライキが続発し,中小ブルジョアジーによる廃税運動が起こり,厳しい社会主義取締りからいわゆる大逆事件を引き起こすなど,ようやく戦後社会の諸矛盾が噴出することになった。
一方,戦後の国際政治も複雑化した。日露戦争を通じて政治的・経済的には日本を支援してきたアメリカが,日本の排他的な南満州経営に反発し,日米両国の関係は急速に悪化した。日本は逆に旧敵国のロシアに接近して,1907年第1回日露協商を締結し,これ以後,両国は満州・蒙古地方をそれぞれ分割し独占的に支配しようとして協商を重ねた。こうした日本の外交姿勢は日米間の対立をいっそう深めることになった。さらに11年の辛亥革命は,日本の対中国政策の見直しを迫り,陸軍は懸案の朝鮮への2個師団増設を強く要求し,第2次西園寺内閣が推進しようとする行財政改革を脅かした。
こうして,内外情勢に困難さが強まる中で,1912年7月30日明治天皇は病没し,明治国家の発展と天皇の存在とを二重写しに意識してきた国民各層に大きな欠落感を抱かせることになった。そして,西園寺内閣が増師問題を理由に辞任した陸相の後任がえられず総辞職し,その後継首相に大正天皇の輔弼(ほひつ)の任に就いたばかりの桂太郎が選任されると,代議士有志や新聞記者,弁護士,それに財界人の一部も加わって憲政擁護会を結成し,護憲運動にのりだした。〈憲政擁護・閥族打破〉のスローガンの下に,運動はたちまちのうちに全国の各都市,さらに町や村々にも広がった。翌13年2月第3次桂内閣は,あいつぐ議会停会に憤激した民衆が政府系新聞社や警察・交番を襲撃して騒擾化する中で倒壊した。こうして,民衆が政治世界の表舞台にたちあらわれてついに特権内閣を退陣させた大正政変は,まさしく大正デモクラシーの幕開けを意味するものであり,それはまた時代が明確に明治から大正へ移ったことを人々に自覚させる事件となった。
こうした帝国主義期の日本を起動づけたものは,日本資本主義の急激な発展にあった。その場合,江戸時代の後半期から進行し,明治に入って全面的に展開するにいたった寄生地主制に規定されて低米価が維持され,さらに広範な貧窮農民の中から低賃金労働者が析出されることによって日本資本主義は支えられた。産業革命は日清戦争を前後にまず紡績を中心とする軽工業部門で開始され,重工業部門も製鉄業を基礎にして日露戦争後には造船,金属・機械工業などの部門で展開された。そして,貧しい農家出身の子女によって生産される綿糸・綿織物や雑貨などがアジア諸地域に輸出され,他方,生糸はアメリカ市場に輸出されて,それらの代金で軍拡のための武器や軍艦,精密な機械などを輸入するという特有な貿易構造が成立した。
こうした産業革命の進行にともない,旧来の伝統的な職人の多くが没落し,貧しい農民の二三男や婦女子が都市に働きに出ることになり,都会の一画に下層社会が形づくられることになった。その一方で,官庁や銀行・会社などに勤めるサラリーマンが登場し,弁護士や新聞・雑誌記者,学生などとともに都市における新しい中間層を形成するにいたった。そして,明治20年代に入っての企業熱の勃興とともに,工場労働者は飛躍的に増大し,日清戦争後から労働争議が頻発し,労働組合も出現することになった。これに対して政府は1900年には治安警察法を制定していち早く弾圧体制を固めた。労働運動と並行して起こった社会主義運動も,01年に結成した社会民主党がたちまち結社禁止となって政党組織を通じての運動は展望を失った。しかし,社会主義協会や平民社によって社会主義の宣伝に努め,とくに日露戦争前から戦時中にかけて非戦論を主張し続けた社会主義者の活動は注目に値する。これがやがて日露戦争後の06年,日本社会党の結成となり,初めて公然とした活動を開始するが,党内に幸徳秋水らの直接行動論が優勢となり,翌年には結社禁止となった。これ以後政府の弾圧は強まり,1910年のいわゆる大逆事件によって,社会主義運動は〈冬の時代〉の中に窒息させられた。
この時代はまた,日本における近代文化の形成期としてとらえられるが,その思想や文化を根底から規定するものとして天皇制イデオロギーの枠組みがある。明治憲法の第3条が〈天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス〉と規定したことによって天皇の神聖性は絶対的なものとなり,1891年内村鑑三が教育勅語に拝礼しなかったとして第一高等中学校を辞任させられ,翌92年には帝国大学教授久米邦武が論文〈神道は祭天の古俗〉を攻撃されて非職になったことなどは,天皇制イデオロギーの強制力とそれへの批判的な主張はいっさい許されないという事実を証明するものであった。
明治10年代の自由民権論の中では,人民主権や抵抗権の問題も論じられたが,明治20年代に入ってはそうした主張を展開することは不可能となり,代わって三宅雪嶺の国粋保存主義や陸羯南(くがかつなん)の国民主義など,独自なナショナリズムが展開された。そして日清戦争を境に帝国主義的膨張論が優位にたち,高山樗牛(ちよぎゆう)の日本主義や浮田和民らの立憲帝国主義論などが唱えられた。その一方で,日清戦争後には労働問題をはじめ足尾鉱毒事件や廃娼問題などの社会問題に人々の関心が集まり,有力新聞の中にはこれら社会問題を積極的にとりあげて販売部数を拡大するものもあった。
しかし,日露間の緊張が高まると,人々の関心は対外問題に移り,急速に社会問題への関心は薄れた。そして,日露戦争後になると,対外的膨張論も多様な議論が展開され,必ずしも国家的目標として一致したものとはならなかった。他方,青年たちの関心の中で立身出世や成功の問題などが大きな比重を占め,それが金権主義の傾向とともに新しい社会的潮流をなした。1908年に発布された戊申詔書が,華美に流れる風潮を戒め,勤勉努力を強調したのも,日露戦争後に変化した人心をひきしめるためであり,町や村々で進められた地方改良運動や報徳社運動も,国民生活とその意識の立直しをめざすものであった。しかし,電灯がともり,活動写真や新しい演劇が人気を呼ぶという生活を体験し,自然主義文学の中に人間のありのままの姿を発見した人々をもう一度国家主義と儒教道徳の中に引き戻すことは至難の業であった。明治時代の終焉(しゆうえん)は,そうした生活意識の面でも着実に訪れていたのである。
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