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ジャパンナレッジで閲覧できる『戦国時代』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典

戦国時代
せんごくじだい
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)と織田・豊臣時代(安土桃山時代)との間に入る。この時代は、(一)中央国家権力の衰退、群雄の地方割拠(地方権力の樹立)による戦国争覇、(二)絶え間ない下位者による上位権力の打倒、一揆など民衆の実力の伸長を内容とする下剋上の社会状況、(三)荘園体制社会が克服され、在地領主制の展開と下人の存在で特徴づけられた中世社会が止揚されるなどを特徴としている。その点からいうと、信長の入京、あるいは、将軍義昭の追放は政治史上の一画期にすぎず、実はそれ以後、中央地域における元亀・天正の争乱という織田信長対反織田勢力の死闘が各地に展開され、その他地方での争乱状態はむしろ激化していく。それ故、天正十八年の豊臣秀吉の全国統一までを、戦国時代とする方が、全国的見地から見た場合、妥当性がある。また始期についても、応仁の乱に先立って、東国では享徳三年(一四五四)に享徳の乱が起り、上部権力の分裂による争乱が開始されるので、これまでさかのぼらせてもよいと思う。したがって、享徳三年から天正十八年までの百三十六年間をひとまず戦国時代と捉えておく。

〔時期区分〕

室町幕府(畿内・近国および西国)・鎌倉府(東国)のそれぞれの支配権力とその支配領域を考慮し、かつ画期に若干の幅を考えて、およそ次のようにほぼ半世紀ごとに時期区分する。

(一)第一期

 十五世紀中葉―十五世紀末葉。享徳三年の享徳の乱、応仁元年の応仁の乱、という両乱の開始から約半世紀。前者は鎌倉府において、鎌倉公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を誅殺したことに端を発し、東国の諸勢力が公方方・管領方に分裂して相争い、室町幕府は管領方を支援する。この内乱によって、鎌倉府体制は崩壊に向かう。後者は、将軍家・有力守護家ともに分裂し、細川勝元(東軍)・山名持豊(宗全、西軍)を将帥として、京都を中心に市街戦を展開し、この内乱は地方に波及していく。この時期は、室町幕府・鎌倉府体制の崩壊過程というべきもので、この時期を戦国時代からはずす見解もある。

(二)第二期

 十五世紀末葉―十六世紀中葉。長享二年(一四八八)長享の一揆(加賀一向一揆)の蜂起、延徳三年(一四九一、明応二年(一四九三)説もある)北条早雲の伊豆制圧、明応二年細川政元のクーデターなどの一連の重要事件を諸画期とし、本格的な戦国段階に入っていく。この時期各地で守護・守護代・国人などの新旧諸勢力が抗争し合い、下剋上による奪権、あるいはその逆に下剋上を抑圧するなどして地域権力を確立し、大名領国を形成していく。畿内・近国の個々に自立し得ない中小国人・土豪は、地域によって惣国一揆を形成し、集団として地域権力を構築する。また、これらの武家勢力に混じって、本願寺・延暦寺・高野山・粉河寺などの寺社勢力も武装兵力を貯えて、一つの宗教的地域権力を構築する。

(三)第三期

 十六世紀中葉―十六世紀末葉。天文十五年(一五四六)の後北条氏の河越合戦勝利、永禄二年の織田信長の入京、同三年越後長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻などの十六世紀中葉の画期をなす諸事件から天正十三年・同十五年の豊臣秀吉の惣無事令の発布、同十五年の九州制圧、同十八年の関東・奥羽の制圧に至る期間。この時期は明確な領国を形成した戦国大名間の国分け(領土確定)にもとづく同盟と抗争の時期で、関東では武田・上杉・後北条氏が周辺勢力を巻き込んで三つ巴の争覇を行い、次第に後北条氏が覇権を確立していく。畿内・近国では織田信長が徳川家康と同盟して、浅井・朝倉・三好・松永氏や本願寺などと激烈な抗争(元亀・天正の争乱)をして勝ち抜き、畿内政権を確立する。中国地方では大内氏を克服した毛利氏、九州では島津・大友氏などが大きな勢力となっていく。このように地域ごとの統一が促進されていく。最終的には、織田氏の遺産を継承した豊臣秀吉が、天正十三年・同十五年に関白の地位によって、各地の私戦を停止させるという惣無事令を発し、その違犯を理由に九州・関東・奥州の遠征を行い、天下統一を実現し、中央の軍事的制圧によって、各地の争乱に終止符を打った。

〔研究史〕

『日葡辞書』にXencocu(戦国)、Tatacai no cuni(戦いの国)とあり、戦国とは戦争をしている国、戦争の起っている国の意に用いられている。また、『甲州法度』に「天下戦国之上者、抛〓諸事〓、武具用意可〓〓肝要〓」(二十六ヵ条本第十五条)とある。これら同時代の用法は必ずしも時代概念を意味するものではなかった。戦国時代の用法は、田口卯吉『日本開化小史』第六章が「南北朝の戦乱以後戦国に至るまで」とし、「諸国十分に分裂して全く戦国となり」とあり、時代概念として用いている。やがて、田中義成『足利時代史』は「かの応仁の大乱起こり、延いて海内に及んで、群雄割拠の勢いをなし、所謂戦国時代を現出せり」とし、応仁の乱以後を戦国時代と位置付けている。この用法は、文部省著作『小学日本歴史』に受け継がれ、戦国時代の章を設けて、応仁の乱後の百余年を幕府の命令が行われない天下騒乱の時代として国民に普及した。戦後の研究史は、この戦国時代を日本封建制史の重要な段階、ないしは過渡期と位置づけた。すなわち、中世前期封建社会として捉え、後期封建社会(江戸時代)への再編成期として、戦国時代を位置づけた(封建制再編成説、中村吉治)。また、中世を絶えざる封建制進化過程と捉え、近世幕藩制を純粋封建制と見る立場(純粋封建制成立論、藤田五郎・鈴木良一)からは、戦国時代を、純粋封建制成立の最後の過渡期として把握した。さらに、基本的には家父長制的奴隷制に基づく封建制以前の社会として把握し、近世幕藩制の成立をもって、封建制の成立とする論者(中世家父長的奴隷制論、安良城盛昭・佐々木潤之介)からは、戦国時代・戦国の争乱の基礎過程を、下人(奴隷)や小作農の封建小農民(農奴)への自立過程と把握した。また、必ずしも、封建制論争とは直接かかわりなく、近世大名の成立過程の過渡期として戦国大名を位置づける藩制史研究からの見解(伊東多三郎)などがあった。さらに、荘園制をどう見るかという観点から、中世を荘園制社会と大名領国制社会に二分割し、戦国時代は、領主制(在地領主制)の最高の発展段階として、大名領国制を位置づける見解(永原慶二)、あるいは、戦国時代を土地制度の面から解体期荘園制社会として位置づける見解などがある。近年、藤木久志によって、中世を自立救済にもとづく、私戦が承認された社会と見て、その激発である戦国争乱を経て、豊臣秀吉の天正十三年・同十五年に発する惣無事令(私戦停止令)によって、紛争の解決が国家に掌握されたとする見解が出され、戦国時代を自立救済社会の最後の段階に位置づける見解が出されている。

〔時代の特徴〕

以上のように、戦国時代の評価は日本封建制論争と分かち難く展開された。そして、さまざまな学説が並立するように、戦国時代は中世社会の諸矛盾が総括されるとともに、近世幕藩制社会が準備されるという二側面が複雑に絡み合い、一筋縄では捉え切れない社会である。以下、いくつかの特徴について列記しておこうと思う。

(一)権力の分散と統一

 幕府・守護体制、東国では鎌倉府・守護体制といわれる権力構造が享徳の乱・応仁の乱を画期として崩壊していく。各地域権力の自立化が進み、一国単位の支配者としての守護権力の継承をめぐって、守護・守護代・国人の激烈な権力闘争が行われ、勝利した者が戦国大名として勢力を得て、各地の自立した領主たちを系列化し、家臣団・旗下あるいは目下の同盟者に組み込んでいく。これらの戦国大名が、それぞれの領国を支配し、同盟と対立関係によって戦国の争覇が行われる。将軍や鎌倉公方の権力は衰え、戦国大名争覇の権威づけの「玉」の役割として争奪される。やがて、畿内・近国は織田氏、東国は後北条氏、中国地方は毛利氏にと、大きな統一の拡がりができ、やがて、豊臣秀吉によって全国統一がなし遂げられる。

(二)戦国大名と惣国一揆

 各地に成立した戦国大名は強力な直臣団を形成し、また服属した各地域の武士を与力(同心)衆として組織し、所領充行の権限を一元的に掌握して、所領を恩給するとともに、知行高に応じた軍役勤仕の体制を作りあげた。この知行高・軍役高の基準として後北条氏・武田氏・毛利氏などは貫高制を採用している。軍役を提供する階層は、常に臨戦体制にあるという状況下で、百姓上層にも拡大され、名主層は一部所持地の年貢免除と引き替えに「地衆」などという集団として軍事力の末端に組織された。また戦国大名は、領国内の裁判権を掌握し、家臣団や領国内各階層の紛争処理のための戦国家法を制定した。細川(細川政元)・今川・武田・伊達・相良・六角・結城などの各氏は成文法を持った。また、大内氏のように発布した個別法令を集成したもの、あるいは後北条氏・毛利氏のように成文法ないし集成法を持たない大名もあった。典型的な戦国大名の成立を見ない地域、とりわけ畿内・近国では国人・土豪などがほぼ郡規模の範囲で結集をとげ、自検断という形で地域の支配を集団的に合議制によって行う場合があった。これらは、国一揆・惣国・郡中惣などと呼ばれ、早くは文明十七年(一四八五)に成立した南山城三郡(久世・相楽・綴喜)の山城国一揆、乙訓郡中惣、伊賀惣国、紀ノ川下流域の紀州惣国、伊勢の小倭郷同名中、大和の宇陀郡中惣などがある。これらは、それぞれ管轄領域を「国」として認識して、領域の政治・経済・軍事の権限を集団的に掌握した。そして、守護や戦国大名の支配・侵攻に抵抗する場合が多かった。

(三)荘園制の解体

 各地の公家・寺社・武家の遠隔地荘園は在地の武士・高利貸などによる代官請負制によって辛うじて収取を維持していたが、農民闘争の激化、代官の年貢滞納などによって有名無実化して、事実上は、各地の戦国大名や家臣の所領と化してゆく。しかし、収取の仕組みが名(みょう)体制を継承し、職(しき)の体系によって行われる点で、荘園制の枠組みで捉える根拠を提供している。また、広汎に借耕関係が成立し、加地子・作徳分(小作料)が成立してくる。

(四)産業・技術・都市の発展

 乱世にもかかわらず、中世における生産力発展は農業・商工業・鉱業などにおいて著しいものがあり、これらは大名の富国強兵などによって促進された。とりわけ治水技術や築城に伴う土木技術、鉱山開発による鉱業技術などの発展をみた。また、天文十二年の種子島への鉄砲伝来以来、鉄砲は次第に、戦国大名によって軍事利用され、天下統一の動きを促進した。また、木綿栽培技術の流入・普及は日本人の衣服を一変させた。生産力の発展は既存の都市の発展、新たな都市の成立をもたらした。大名城下町や港湾、さらに門前都市などが発展をとげ、分業・流通の上で重要な役割を果たすとともに、地域の経済発展をふまえて、畿内・近国には真宗・法華宗などの寺院を中心に市街地を環壕で囲った寺内町が各地でできた。また、三斎市・六斎市、宿・新宿などの市・宿が各地に生まれ、各地の交易をになった。

(五)宗教・文化

 天台宗・真言宗などの旧仏教は修験と結びついて信者を獲得し、曹洞宗・真宗などは、葬祭と結びついて庶民の中に教線を飛躍的に拡大した。また、日蓮宗も富裕都市民の中に浸透していった。宗教勢力の武装も顕著に見られ、本願寺・根来寺・延暦寺などは、戦国争覇の一角として活動した。とりわけ本願寺は門徒に指令して足利義昭を結節点とした反信長戦線の重要な部分をにない、本願寺顕如は法敵信長の打倒を指令し、北陸、畿内・近国で激烈な抗争を演じた(元亀・天正の乱)。天正八年の顕如の屈服(石山本願寺退去)によって、信長の畿内統一政権は確立した。中央から送進される荘園年貢の絶えた公家などは、守護などを頼って地方へ下り、大名も公家・僧侶・学者・芸能者・技能者などを積極的に招いたので、彼らは地方に根づき、地方の文化の興隆に寄与した。大内氏の山口、今川氏の駿府、朝倉氏の一乗谷、後北条氏の小田原など、都市文化が発展を遂げた。天文十八年イエズス会宣教師フランシスコ=ザビエル(シャビエル)の鹿児島来訪をきっかけとして、日本にキリスト教というヨーロッパの宗教が入ってきた。キリシタン宣教師の熱烈な布教とその平等思想は当時の人々に感銘を与え、西日本を中心に多くの信者が生まれ、戦国時代の文化の上に大きな刻印を残した。以上の点で戦国時代は争乱の時代と経済・文化の発展の時代の両面を持ち、荘園制、在地領主と下人の制、自力救済の社会などに見られる中世社会の特質を止揚して、近世幕藩制社会に架橋する時代であった。
→戦国大名(せんごくだいみょう)
[参考文献]
永原慶二『戦国の動乱』(小学館『日本の歴史』一四)、同編『戦国大名の研究』(『戦国大名論集』一)、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』
(峰岸 純夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)

戦国時代
せんごくじだい

1467年(応仁1)の応仁 (おうにん)の乱の開始から織田信長 (おだのぶなが)が全国統一に乗り出すまでのほぼ1世紀間をさす時代概念。室町幕府の存在を指標とする室町時代の後半とほぼ一致するが、各地に群雄が割拠して中央政権が無力化した日本歴史上もっとも顕著な戦乱の時代であったため、とくにこの時代概念が用いられる。

[永原慶二]

時期区分

戦国時代の上限・下限についての理解はかならずしも一致していない。上限は1467年の応仁の乱の開始とするのが古くから行われている説であるが、乱後、将軍足利義尚 (あしかがよしひさ)が幕権強化に努力したため、ただちに戦国動乱という時代状況に突入したわけではない。実際には、1488年(長享2)加賀 (かが)の一向一揆 (いっこういっき)が守護の富樫政親 (とがしまさちか)を倒し、1491年(延徳3)伊勢宗瑞 (いせそうずい)(北条早雲 (ほうじょうそううん))が伊豆韮山 (にらやま)を奪って堀越公方 (ほりこしくぼう)足利政知 (まさとも)の子茶々丸 (ちゃちゃまる)を殺し、1493年(明応2)細川政元 (ほそかわまさもと)が将軍足利義材 (よしき)(足利義稙 (よしたね))を追放したあたりが画期とされるべきであろう。また下限も確定的ではない。1568年(永禄11)織田信長が足利義昭 (よしあき)を奉じて入京したときをもって下限とする説が古くから行われているが、むしろ1573年(天正1)信長が将軍義昭を追放して室町幕府が消滅したとき、もしくは1576年、信長が安土城 (あづちじょう)を築いてこれに移り、本格的に天下統一に乗り出したときを下限としたほうが実際的ということができよう。

 いずれにせよ、この戦国時代はほぼ1世紀にわたるため、またその内部で小時期区分をすることも必要である。その点ではやはり1543年(天文12)の鉄砲伝来が重要な画期となっている。これを境にそれ以後は鉄砲の普及によって戦術面では足軽 (あしがる)鉄砲隊のような常備軍の編成が不可欠となり、小規模な地方領主の独立が不可能となって戦国大名の領国制が本格的に進展するとともに、有力大名相互間の戦いが激しくなって天下統一への動きが急速に高まってゆく。この1543年を小時期区分の境界とすることは、とくに定説といったほどのものではないが、そこに注目することによって戦国時代の推移が理解しやすくなるのは事実である。

[永原慶二]

戦国争乱と大名領国制

戦国時代の前半は、諸勢力が室町幕府体制から離脱して自立の道を歩き出すところに基本的な特徴がある。早雲の堀越公方打倒はその典型といってよいが、西方ではこれに先だち1486年(文明18)出雲 (いずも)の前守護代尼子経久 (あまごつねひさ)が守護方の拠点月山城 (がっさんじょう)を奪って自立に踏み出した。従来足利一族として幕府とも緊密であった今川 (いまがわ)氏でも氏親 (うじちか)が幕府から離れて独立の道を歩み出した。大山崎 (おおやまざき)の油売りから身をおこして美濃 (みの)の大名となったといわれる斎藤道三 (さいとうどうさん)や、一国人からおこって主家大内 (おおうち)氏から独立し、やがて尼子・大内を圧倒した毛利元就 (もうりもとなり)も戦国前半期の代表的人物である。

 これに対して後期に入ると、北条氏康 (うじやす)、武田信玄 (たけだしんげん)、上杉謙信 (うえすぎけんしん)、今川義元 (よしもと)のような戦国大名の代表的人物が登場して互いに死闘を繰り返すとともに、軍事力のみならず権力基盤の強化を目ざして大名領国の支配体制を充実させていった。近江 (おうみ)の浅井長政 (あさいながまさ)、越前 (えちぜん)の朝倉義景 (あさくらよしかげ)、豊後 (ぶんご)の大友宗麟 (おおともそうりん)、土佐 (とさ)の長宗我部元親 (ちょうそがべもとちか)なども同様で、戦国時代後期は戦争の大規模化、激化とともに、新しい体制づくりが進む時期であった。その二つの面は互いに矛盾するものではなく、新しい体制・秩序をつくりだすことが争乱に勝ち抜く条件をつくりだすことでもあった。

[永原慶二]

民衆の動向

戦国時代は群雄の争覇とともに民衆の反権力闘争の高揚した時期でもある。一向一揆が富樫政親を打倒したのがその発端であるが、それ以降一向一揆は北陸地方のみならず、近畿・東海地方を中心に巨大な民衆勢力を形成した。一向一揆は惣村 (そうそん)結合を基盤としたが、大名領国支配に抵抗する土豪小領主層をも含み、本願寺 (ほんがんじ)と連絡、その指示を受けつつ各地で反権力的行動をとった。飛騨 (ひだ)・三河 (みかわ)地方も一揆勢力は強大で、松平家康(徳川家康)は1563年(永禄6)の三河一向一揆の蜂起 (ほうき)によって危機に追い詰められ、死闘のすえようやくこれを圧倒した。織田信長も長島 (ながしま)を拠点とした尾張 (おわり)・伊勢の一向一揆に手を焼き、弟(信興 (のぶおき))を長島攻撃の際に失ったほどであり、浅井・朝倉との争いでもつねに一向一揆に悩まされ、危地に追い込められることも少なくなかった。一向一揆の強さは農民の惣村結合ばかりでなく、職人・商人なども含むことによって、経済力・情報入手能力などをもち、長島・雑賀 (さいか)・石山 (いしやま)のような交通要地を抑えていたこと、さらに寺内町 (じないまち)のような一向宗寺院中心の農村都市を拠点として確保していたこととも深くかかわっており、宗教を媒介とした民衆の結合と抵抗の強烈さは戦国大名の最大の敵といってもよいほどであった。

 一向一揆以外でも、この時代の民衆は15世紀以来の惣村結合を基礎に反権力的・自治的な地縁結合組織を形成し、自律的な行動をとる場合が多かった。郡中惣 (ぐんちゅうそう)、惣国 (そうごく)などという形で、一郡さらには一国に及ぶ民衆が土豪・小領主をリーダーとして結集し、大名軍の侵入を阻止することさえあった。またそれほどでなくても、大名側の兵糧米 (ひょうろうまい)や人夫徴発に集団的に抵抗し、あるいは逃散 (ちょうさん)という戦術をもってこれを拒否することもしばしばであった。当時の農民は農業経営の集約化を進めるとともに、原料農産物の加工、販売などに広くかかわり、広域にわたる経済的・社会的連係を形成しつつあったので、自己の利害関係には敏感になり行動的となっていた。したがって戦国大名にとっては、そのような農民の抵抗力をどのようにして切り崩し、集団的行動のリーダーとなっている土豪・小領主的階層を下級家臣に取り込むかが切実な課題となっていた。戦国時代はこうした点で、権力者相互間の争いとともに、大名と民衆との間の緊張関係も極度に高まっていたのであり、下剋上 (げこくじょう)は従者が主君にかわるとともに、民衆の力の伸長という面で、この時代の社会相をよく示す概念である。

[永原慶二]

技術と経済の発展

戦国時代は、一面からすると生産技術や経済が顕著な発展を遂げた時代であった。戦争が生産を刺激する面もあったが、基礎的には生産力の高まりが、大名領国制の展開を可能にしたといったほうが正確である。

 農業面では、台地上に長い水路を引いて、これまでは水不足のため放置されていた可耕地を開発するようになった。15世紀以来荘園領主 (しょうえんりょうしゅ)の年貢取り分が低落するのと反比例して、在地に留保される剰余部分が増大し、また隠田 (おんでん)を増やすこともできたため、有力農民は耕地を貸し出して加地子 (かじし)をとることが広く可能となった。それにつれて彼らのなかでは開発や耕地の改良に対する関心が高まり、農民の生産意欲も高まった。大名側も富国政策の根本として、大河川の氾濫 (はんらん)防止のための築堤や水路開鑿 (かいさく)に力を入れた。またこのころ新種作物として木綿 (もめん)の栽培が急速に広まった。従来の衣料原料たる麻 (あさ)・苧 (からむし)に比べて、木綿が強度、保温、肌ざわりなどの点で性能的に優れていることは15世紀のうちに認識され、応仁前後から朝鮮木綿、唐木綿の輸入が盛んになり兵衣にも珍重されたが、16世紀に入ったころから日本でもたちまち各地で栽培されるようになったのである。従来、木綿栽培は三河中心に開始されたとされているが、近年の研究では、九州から関東に至る各地での栽培・商品流通の事実が確認されている。木綿は兵衣・庶民衣料原料として普及したほか、船の帆布としても用いられ、従来の草編み帆に比べて風を通さないため船足を早めるうえで威力を発揮した。木綿栽培は施肥・収穫などに細心の管理が必要なため、集約性の高い小農民経営に適合的な作物として、この時代の農業動向を特徴づけるものである。

 15世紀の日明貿易 (にちみんぼうえき)の中心的輸出品としての刀剣の大量生産をきっかけに、たたら製鉄の技術・生産力も高まったが、この時代には鉄砲・武器生産と結び付いて一段と飛躍した。また石見 (いわみ)(島根県)の大森銀山や但馬 (たじま)(兵庫県)の生野銀山 (いくのぎんざん)など銀鉱石の採掘と灰吹法 (はいふきほう)という新技術による精錬、佐渡 (さど)、甲斐 (かい)、駿河 (するが)などをはじめとする諸金山も目覚ましい発展を遂げた。鉄砲使用の開始に伴い鋳鉄・鍛造技術が発達し、火薬製造法も大名側の秘密保持努力にもかかわらずたちまち各地に普及した。そのほか築城に必要な石積、大鋸挽 (おがひき)、城郭設計など建築関係技術の向上も顕著であった。戦国大名はこの種の技術をもった職人群を積極的に保護し、武器の生産にあたらせるとともに、たとえば城攻めにあたり金掘りの掘鑿 (くっさく)技術を使って敵方の城内井戸の水を抜いてしまうといった形で軍事力にも活用した。

 生産力の増強とともに、流通・交通条件の進展も著しい。大名側の軍事的必要から交通路・宿駅制度が整えられただけでなく、大名は本城・支城下をはじめとする領内の市場に商人を招致する繁栄策をとり、必要な諸物資を供給させるとともに、年貢物の換貨も行った。大名領国は自己完結的な分業体系をもつ経済圏ではなかったから、他領との交易も欠かせなかった。こうしたことから商人は領国を越えた広範囲の活動を行い、領内市場を市日 (いちび)を追って巡回もした。大名は農民に対して段銭 (たんせん)・棟別銭 (むねべつせん)のように精銭で直接納入させる賦課を行うことが多いため、生産物の販売や精銭・悪銭の交換規準にも注意を払って取引の円滑を図った。そうしたことによって、戦国時代の経済は、戦乱の連続という一面の事実にもかかわらず、活況を呈し、大名もまたそのような経済力を組織することによって軍事力を強化した。

 こうした状況の下で有力大名の城下として、小田原(北条)、駿府 (すんぷ)(今川)、甲府(武田)、春日山 (かすがやま)(上杉)、山口(大内)、豊後府内(大友)などの都市的発展と並んで、領国の主要な港津も都市としての景観を十分に整えるようになった。特定の大名領下の都市と異なって、水陸の交通幹線上に位置した堺 (さかい)、博多 (はかた)、尾道 (おのみち)、大津、小浜 (おばま)、敦賀 (つるが)、桑名 (くわな)などの港津都市はとりわけ発展し、堺・博多に至っては1000戸以上の町屋が軒を連ね、有力商人が市政を掌握した。また本願寺の石山(大坂)、伊勢神宮の山田、善光寺の長野など有力寺院の門前町もこれに次いだ。

[永原慶二]

政治・社会思想

戦国時代は戦乱の時代として、社会的には無秩序、下剋上といった傾向が強調されやすいが、政治・社会思想の面ではむしろ新しい秩序観念が形成された。戦乱の時代を生き抜くために、民衆は地域的連帯を意識的にも組織的にも強め、無法な支配に対しては抵抗し自衛するという傾向が強くなった。そのため新しい領域支配者としての戦国大名も、実力だけでなく、いわば民衆の合意を取り付けうるような政治形態・政治思想を発展させる必要に迫られた。またそうした政治の安定が、急激に膨張した家臣団を統轄してゆくためにも欠かせない条件であった。戦国大名が領国法を制定していったことはその端的な現れである。領国国家に所属するいかなる階層・集団も守らなければならない国法を制定し、その法秩序を維持する公権力として、大名の立場は個別の在地領主の権力とは異なる公権力、すなわち「公儀」と観念され、それが強調されるようになった。鎌倉時代の在地領主層は、基本的には同族団的権力であって、私的性質にとどまっていたが、戦国大名はその立場を公儀とすることによって、質的飛躍を遂げた。このことは一向一揆や新たに伝えられたキリシタン信仰の民衆への浸透に対決しつつその支配を正当化してゆくためには欠かせないことであった。したがって、そうした公儀的権力の行使者たる大名には、器量=能力とともに、撫民 (ぶみん)思想が要求され、武人としての胆力とか、家臣に対する情義といったモラルにとどまらない政治思想が欠かせなくなった。戦国時代の現実が伝統的な国家体制の解体として進行したにもかかわらず、戦国時代後期に入って、大名領国制の進展とともに全国統一への方向が展望されるようになると、大名たちが将軍・天皇への連係の必要を改めて強く意識し、統一に向けた動きを取り出すこともその一つの現れであった。織田信長も出発点においては小戦国大名の一人にすぎなかったが、軍事的成功に伴って「天下」を意識し、天皇への接近をとりわけ積極化していった。

 以上のように、戦国時代は、まだ江戸時代のような全国統合とその基礎となった全国統一の検地、兵農分離、統一的知行制 (ちぎょうせい)などが行われていない点で中世的な性質をもち、中世の最終段階に位置づけるべきであろうが、反面、近世社会を生み出すような諸条件が、政治・経済・社会・思想のあらゆる分野において生み出されつつあった活力に満ちた時代ということができる。

[永原慶二]



世界大百科事典

戦国時代
せんごくじだい

日本史時代区分の一つで室町後期に一致する。

始期と終期

通常,応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年(永禄11)までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。すなわち始期については伊勢長氏(北条早雲)が伊豆堀越公方足利茶々丸を追った1491年(延徳3)とする意見があり,近年は将軍足利義尚の時期はまだ室町幕府の力が相当に残っていたことに注目して,93年(明応2)細川政元が将軍義稙(よしたね)を追放したときをもって始期とする説も出されている。また終期については信長が義昭を追放した1573年(天正1)を妥当とする説が有力であり,さらに76年の信長の安土移転を画期とする説も出されている。幕府の存在を基準とする時代区分からすれば,戦国時代という区分は室町時代後期と一致するわけで,それを時代の特徴に応じてとくに戦国時代としているのであるから,その点からすれば73年を終期とすることが穏当であるともいえる。しかし戦国時代に続く安土桃山時代の始期を信長の安土移転からとすれば76年説が浮上することにもなる。信長権力の歴史的性格について,伝統的な見解では,これを豊臣秀吉権力と一体的にとらえて戦国大名と区別する見方が強かったため,戦国時代の終期は68年とする説が有力であったが,近年では信長権力はなお諸他の戦国大名と異なるものではないとする説が有力なため,68年説よりも73年もしくは76年説が重視されているのである。

 このように戦国時代の始期・終期については見解が分かれるが,いずれにせよこの時代はほぼ1世紀にわたる激動期であり,それはさらに前後の2時期に区分されよう。その画期の求め方にも異説はあるが,1543年(天文12)の鉄砲伝来の年を中心に前後に区分するのが妥当と思われる。鉄砲の伝来とその普及が戦術の変化ばかりでなく,大名間の優勝劣敗をうながし,統一政権成立への道を開くことになるため,それ以前とは社会動向は急速に変わってくるのである。また主要な戦国大名のうち,北条早雲・氏綱,今川氏親,大内義隆,斎藤道三などは前期の人であり,北条氏康,毛利元就,武田信玄,浅井長政,朝倉義景,大友宗麟,長宗我部元親などは後期の人である。後者の時期に戦国時代の社会構造,権力形態を総括的に特徴づける大名領国制が本格的展開を見たことをもってしても,この区分の妥当性は首肯されるであろう。

時代動向の特徴

戦国時代は,今日もっとも広く用いられている時代区分である〈中世〉の末期に位置づけられ,〈近世〉への移行期とされる。たしかにそうした視点から見れば,戦国時代は大きな歴史的転換期であって,そこには転換期とよぶにふさわしい顕著な社会動向が特徴的に現れている。その第1は下剋上と戦国大名の登場である。下剋上の社会動向はすでに15世紀の土一揆の動きに顕著に現れていたが,戦国時代においては民衆の反権力的動きのみならず,国人領主の反守護的動き,守護の反将軍的動きなど,諸階層がそれぞれ自立ないし自治を求めて,上部権力から独立してゆくようになった。そのような下剋上的動向は民衆の反権力・自治的動きを基盤にしつつ,支配階級諸層の中にひろく拡大し,全体として中央集権型の幕府体制を崩壊に導いてゆくのである。戦国大名は,こうした社会動向の中にあって,その系譜が守護・守護代・国人領主のいずれに発するにせよ,室町幕府体制から離脱して独自の地域権力を創出した点において,下剋上の旗手であったが,他面彼らは地域権力として国人領主や民衆諸層の下剋上的動きと対決することを課題とした権力でもあった。いずれにせよ戦国大名は下剋上動向の中から生まれ,下剋上動向を止揚することを歴史的課題とした権力であるということができる。戦国大名の領国支配体制の基本的特徴は,その課題にいかに対応するかという点におかれていた。

 戦国期の時代動向の第2の特徴は,顕著な経済発展とそれをふまえた都市の発達である。農業生産の面では,領国経済力の強化をめざす戦国大名の新開(しんがい)の奨励,治水灌漑事業の推進によって新田畠の増加が顕著になるとともに,木綿栽培が開始され,その需要が急速に拡大した。鉱工業面では,これも大名の富国強兵策とのかかわりで金銀山の開発が各地で進められるとともに,中国地方を中心とした砂鉄=たたら生産が飛躍をとげた。またそれと不可分の関係で,武器生産を主とする鍛冶・鋳物業も発展した。さらにそうした生産諸力の発展にともない商業も急速な発展をとげ,大名に結びついた特権商人が,軍事物資調達のため中央地帯と領国とのあいだを活発に往復するとともに,堺,尼崎,兵庫,淀,大津,小浜,敦賀,桑名などをはじめとする交通拠点は,大名城下とともに都市として発展し,隔地間取引を主とする商人群がそこを中心に活動するようになった。

 第3の特徴は,民衆のさまざまな形をとった反権力的動向の活発化である。これも下剋上的社会動向の一面にほかならないが,とりわけ一向一揆に代表される民衆の動向は,大名権力の存亡にかかわるほどに巨大な力をもち,その鎮圧・解体が織豊統一政権成立の基本的条件であった。したがってそれは単なる下剋上的風潮の問題というより,激しい階級闘争の展開として注目する必要があろう。通常一向一揆は1488年(長享2)の加賀門徒による守護富樫政親打倒に注目する傾向が強いが,16世紀に入るとその中心はしだいに畿内とその周辺地域に収斂する傾向が明らかとなる。戦国後期には,石山本願寺を頂点とする門徒勢力は,摂津や近江,あるいは伊勢長島,紀伊雑賀などをはじめとする各地の一向一揆をひろい戦略的視野から系統的に動かし,毛利,浅井,朝倉などの大名とも連係をとりつつ信長の中央進出に対抗するに至っている。この時代,九州にはキリシタンが伝えられてキリシタン信徒もしだいにその数を増すが,反権力的性格の面では,一向門徒がきわだった強さを示し,農民・商工業者を中心に,地侍・国人などをも含む地域的民衆権力としての性格を強め,畿内では河内の富田林に代表されるような寺内町を結集拠点とする形も見られた。

政治・軍事過程

戦国時代の政治・軍事過程は,戦国大名による地域権力の形成とその相互間の抗争という形をとって展開した。中央地帯では,細川政元の将軍義稙追放以後,細川家も分裂し,一時細川高国と大内義興の連合権力が中央をおさえるが,やがて政元の養子澄元の子であった晴元が京都を支配する。しかし1550年三好長慶が入京して晴元と戦い,畿内国人を組織しつつ京都・堺をおさえた。60年(永禄3)前後に長慶は全盛期を迎えるが,これもまもなく将軍義輝を殺害した松永久秀にとって代わられるという形で,幕府の衰退と権力交替がめまぐるしく進行した。この間,東国方面では小田原を拠点とした後北条氏が,早雲,氏綱,氏康と漸次力をのばし,武蔵の上杉氏を追って伊豆・相模・武蔵にわたる大領国を形成,関東管領上杉の名跡を継承した越後の上杉謙信および甲斐の武田信玄と三つどもえの争いを展開した。東海方面では駿河の今川,三河の松平(徳川),尾張の織田,美濃の斎藤氏がそれぞれ勢力をのばしたが,今川,斎藤を滅ぼした信長が67年岐阜に進出した。中国地方では,戦国初期以来尼子氏が山陰に力をのばし,防長2国からさらに勢力拡大をはかる大内氏および安芸の国人領主から戦国大名化した毛利元就と争覇戦をくりかえしたが,元就が勝利を握り,中国地方,瀬戸内海にわたる一大勢力を確立した。四国では守護大名細川氏の衰退に代わって,土佐で長宗我部氏が強大化し,九州では大友,島津の守護系二大勢力とともに,佐賀の竜造寺氏など新興大名も登場した。

 こうして各地域ごとに新旧勢力の交替や大名間の優勝劣敗が進む間に,信長は73年将軍義昭を追い,越前の朝倉義景,近江の浅井長政を倒すとともに,その翌年には頑強に抵抗を続け,信長もそれまでしばしば敗北を喫していた伊勢長島一揆の鎮圧に成功した。ついで75年信長は家康と連合して三河長篠で武田勝頼を破って背後の不安を絶つと,76年には近江安土に城を築き,ここに進出した。安土進出の意図は,なお摂津の石山本願寺を頂点として大きな力をもつ畿内一向一揆と対決するとともに,これと結ぶ中国地方の最大の勢力毛利氏を制圧しようとするところにあった。信長はこの目標に従って80年石山本願寺を屈服させたものの,毛利制圧を実現しえないまま,82年本能寺の変に倒れた。義昭追放によって室町幕府が名実ともに消滅してから信長の死に至る10年間は,安土時代というべき時期であるが,実質的にはなお戦国争乱期の延長線上にあった。

文化の動向

戦国時代は一面では戦乱連続の世であるが,半面では諸大名がそれぞれ公的立場を強め,領国支配体制を発展させることにつとめたため,多くの大名が分国法を作成したり,中央から儒学者,禅僧,芸能者などを招いたりして領国文化の繁栄をはかり,それを通じて大名権威の強化をはかった。大内氏の城下山口,今川氏の駿府,朝倉氏の一乗谷をはじめとする城下で都市的・貴族的文化が栄えたのはその代表例であり,豊後の大友氏や信長は,新しく伝えられたキリシタン信仰や同文化にも強い関心を示した。また西欧人の渡来によって伝えられた鉄砲と不可分の火薬の調合法もきわめて大きな社会的意義をもち,築城と結びついて発達した土木技術とともに,この時代の物質文化を代表するものといえる。
→中世社会
[永原 慶二]

[索引語]
織田信長 戦国大名 下剋(刻,極)上 一向一揆
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34. えつおうぶせん【越王無顓】(Yuèwáng Wúzhuān)
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44. かくかい【郭隗】(Guō Wěi)
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