〔時期区分〕
(一)第一期
(二)第二期
(三)第三期
〔研究史〕
〔時代の特徴〕
(一)権力の分散と統一
(二)戦国大名と惣国一揆
(三)荘園制の解体
(四)産業・技術・都市の発展
(五)宗教・文化
永原慶二『戦国の動乱』(小学館『日本の歴史』一四)、同編『戦国大名の研究』(『戦国大名論集』一)、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
1467年(応仁1)の応仁 (おうにん)の乱の開始から織田信長 (おだのぶなが)が全国統一に乗り出すまでのほぼ1世紀間をさす時代概念。室町幕府の存在を指標とする室町時代の後半とほぼ一致するが、各地に群雄が割拠して中央政権が無力化した日本歴史上もっとも顕著な戦乱の時代であったため、とくにこの時代概念が用いられる。
戦国時代の上限・下限についての理解はかならずしも一致していない。上限は1467年の応仁の乱の開始とするのが古くから行われている説であるが、乱後、将軍足利義尚 (あしかがよしひさ)が幕権強化に努力したため、ただちに戦国動乱という時代状況に突入したわけではない。実際には、1488年(長享2)加賀 (かが)の一向一揆 (いっこういっき)が守護の富樫政親 (とがしまさちか)を倒し、1491年(延徳3)伊勢宗瑞 (いせそうずい)(北条早雲 (ほうじょうそううん))が伊豆韮山 (にらやま)を奪って堀越公方 (ほりこしくぼう)足利政知 (まさとも)の子茶々丸 (ちゃちゃまる)を殺し、1493年(明応2)細川政元 (ほそかわまさもと)が将軍足利義材 (よしき)(足利義稙 (よしたね))を追放したあたりが画期とされるべきであろう。また下限も確定的ではない。1568年(永禄11)織田信長が足利義昭 (よしあき)を奉じて入京したときをもって下限とする説が古くから行われているが、むしろ1573年(天正1)信長が将軍義昭を追放して室町幕府が消滅したとき、もしくは1576年、信長が安土城 (あづちじょう)を築いてこれに移り、本格的に天下統一に乗り出したときを下限としたほうが実際的ということができよう。
いずれにせよ、この戦国時代はほぼ1世紀にわたるため、またその内部で小時期区分をすることも必要である。その点ではやはり1543年(天文12)の鉄砲伝来が重要な画期となっている。これを境にそれ以後は鉄砲の普及によって戦術面では足軽 (あしがる)鉄砲隊のような常備軍の編成が不可欠となり、小規模な地方領主の独立が不可能となって戦国大名の領国制が本格的に進展するとともに、有力大名相互間の戦いが激しくなって天下統一への動きが急速に高まってゆく。この1543年を小時期区分の境界とすることは、とくに定説といったほどのものではないが、そこに注目することによって戦国時代の推移が理解しやすくなるのは事実である。
戦国時代の前半は、諸勢力が室町幕府体制から離脱して自立の道を歩き出すところに基本的な特徴がある。早雲の堀越公方打倒はその典型といってよいが、西方ではこれに先だち1486年(文明18)出雲 (いずも)の前守護代尼子経久 (あまごつねひさ)が守護方の拠点月山城 (がっさんじょう)を奪って自立に踏み出した。従来足利一族として幕府とも緊密であった今川 (いまがわ)氏でも氏親 (うじちか)が幕府から離れて独立の道を歩み出した。大山崎 (おおやまざき)の油売りから身をおこして美濃 (みの)の大名となったといわれる斎藤道三 (さいとうどうさん)や、一国人からおこって主家大内 (おおうち)氏から独立し、やがて尼子・大内を圧倒した毛利元就 (もうりもとなり)も戦国前半期の代表的人物である。
これに対して後期に入ると、北条氏康 (うじやす)、武田信玄 (たけだしんげん)、上杉謙信 (うえすぎけんしん)、今川義元 (よしもと)のような戦国大名の代表的人物が登場して互いに死闘を繰り返すとともに、軍事力のみならず権力基盤の強化を目ざして大名領国の支配体制を充実させていった。近江 (おうみ)の浅井長政 (あさいながまさ)、越前 (えちぜん)の朝倉義景 (あさくらよしかげ)、豊後 (ぶんご)の大友宗麟 (おおともそうりん)、土佐 (とさ)の長宗我部元親 (ちょうそがべもとちか)なども同様で、戦国時代後期は戦争の大規模化、激化とともに、新しい体制づくりが進む時期であった。その二つの面は互いに矛盾するものではなく、新しい体制・秩序をつくりだすことが争乱に勝ち抜く条件をつくりだすことでもあった。
戦国時代は群雄の争覇とともに民衆の反権力闘争の高揚した時期でもある。一向一揆が富樫政親を打倒したのがその発端であるが、それ以降一向一揆は北陸地方のみならず、近畿・東海地方を中心に巨大な民衆勢力を形成した。一向一揆は惣村 (そうそん)結合を基盤としたが、大名領国支配に抵抗する土豪小領主層をも含み、本願寺 (ほんがんじ)と連絡、その指示を受けつつ各地で反権力的行動をとった。飛騨 (ひだ)・三河 (みかわ)地方も一揆勢力は強大で、松平家康(徳川家康)は1563年(永禄6)の三河一向一揆の蜂起 (ほうき)によって危機に追い詰められ、死闘のすえようやくこれを圧倒した。織田信長も長島 (ながしま)を拠点とした尾張 (おわり)・伊勢の一向一揆に手を焼き、弟(信興 (のぶおき))を長島攻撃の際に失ったほどであり、浅井・朝倉との争いでもつねに一向一揆に悩まされ、危地に追い込められることも少なくなかった。一向一揆の強さは農民の惣村結合ばかりでなく、職人・商人なども含むことによって、経済力・情報入手能力などをもち、長島・雑賀 (さいか)・石山 (いしやま)のような交通要地を抑えていたこと、さらに寺内町 (じないまち)のような一向宗寺院中心の農村都市を拠点として確保していたこととも深くかかわっており、宗教を媒介とした民衆の結合と抵抗の強烈さは戦国大名の最大の敵といってもよいほどであった。
一向一揆以外でも、この時代の民衆は15世紀以来の惣村結合を基礎に反権力的・自治的な地縁結合組織を形成し、自律的な行動をとる場合が多かった。郡中惣 (ぐんちゅうそう)、惣国 (そうごく)などという形で、一郡さらには一国に及ぶ民衆が土豪・小領主をリーダーとして結集し、大名軍の侵入を阻止することさえあった。またそれほどでなくても、大名側の兵糧米 (ひょうろうまい)や人夫徴発に集団的に抵抗し、あるいは逃散 (ちょうさん)という戦術をもってこれを拒否することもしばしばであった。当時の農民は農業経営の集約化を進めるとともに、原料農産物の加工、販売などに広くかかわり、広域にわたる経済的・社会的連係を形成しつつあったので、自己の利害関係には敏感になり行動的となっていた。したがって戦国大名にとっては、そのような農民の抵抗力をどのようにして切り崩し、集団的行動のリーダーとなっている土豪・小領主的階層を下級家臣に取り込むかが切実な課題となっていた。戦国時代はこうした点で、権力者相互間の争いとともに、大名と民衆との間の緊張関係も極度に高まっていたのであり、下剋上 (げこくじょう)は従者が主君にかわるとともに、民衆の力の伸長という面で、この時代の社会相をよく示す概念である。
戦国時代は、一面からすると生産技術や経済が顕著な発展を遂げた時代であった。戦争が生産を刺激する面もあったが、基礎的には生産力の高まりが、大名領国制の展開を可能にしたといったほうが正確である。
農業面では、台地上に長い水路を引いて、これまでは水不足のため放置されていた可耕地を開発するようになった。15世紀以来荘園領主 (しょうえんりょうしゅ)の年貢取り分が低落するのと反比例して、在地に留保される剰余部分が増大し、また隠田 (おんでん)を増やすこともできたため、有力農民は耕地を貸し出して加地子 (かじし)をとることが広く可能となった。それにつれて彼らのなかでは開発や耕地の改良に対する関心が高まり、農民の生産意欲も高まった。大名側も富国政策の根本として、大河川の氾濫 (はんらん)防止のための築堤や水路開鑿 (かいさく)に力を入れた。またこのころ新種作物として木綿 (もめん)の栽培が急速に広まった。従来の衣料原料たる麻 (あさ)・苧 (からむし)に比べて、木綿が強度、保温、肌ざわりなどの点で性能的に優れていることは15世紀のうちに認識され、応仁前後から朝鮮木綿、唐木綿の輸入が盛んになり兵衣にも珍重されたが、16世紀に入ったころから日本でもたちまち各地で栽培されるようになったのである。従来、木綿栽培は三河中心に開始されたとされているが、近年の研究では、九州から関東に至る各地での栽培・商品流通の事実が確認されている。木綿は兵衣・庶民衣料原料として普及したほか、船の帆布としても用いられ、従来の草編み帆に比べて風を通さないため船足を早めるうえで威力を発揮した。木綿栽培は施肥・収穫などに細心の管理が必要なため、集約性の高い小農民経営に適合的な作物として、この時代の農業動向を特徴づけるものである。
15世紀の日明貿易 (にちみんぼうえき)の中心的輸出品としての刀剣の大量生産をきっかけに、たたら製鉄の技術・生産力も高まったが、この時代には鉄砲・武器生産と結び付いて一段と飛躍した。また石見 (いわみ)(島根県)の大森銀山や但馬 (たじま)(兵庫県)の生野銀山 (いくのぎんざん)など銀鉱石の採掘と灰吹法 (はいふきほう)という新技術による精錬、佐渡 (さど)、甲斐 (かい)、駿河 (するが)などをはじめとする諸金山も目覚ましい発展を遂げた。鉄砲使用の開始に伴い鋳鉄・鍛造技術が発達し、火薬製造法も大名側の秘密保持努力にもかかわらずたちまち各地に普及した。そのほか築城に必要な石積、大鋸挽 (おがひき)、城郭設計など建築関係技術の向上も顕著であった。戦国大名はこの種の技術をもった職人群を積極的に保護し、武器の生産にあたらせるとともに、たとえば城攻めにあたり金掘りの掘鑿 (くっさく)技術を使って敵方の城内井戸の水を抜いてしまうといった形で軍事力にも活用した。
生産力の増強とともに、流通・交通条件の進展も著しい。大名側の軍事的必要から交通路・宿駅制度が整えられただけでなく、大名は本城・支城下をはじめとする領内の市場に商人を招致する繁栄策をとり、必要な諸物資を供給させるとともに、年貢物の換貨も行った。大名領国は自己完結的な分業体系をもつ経済圏ではなかったから、他領との交易も欠かせなかった。こうしたことから商人は領国を越えた広範囲の活動を行い、領内市場を市日 (いちび)を追って巡回もした。大名は農民に対して段銭 (たんせん)・棟別銭 (むねべつせん)のように精銭で直接納入させる賦課を行うことが多いため、生産物の販売や精銭・悪銭の交換規準にも注意を払って取引の円滑を図った。そうしたことによって、戦国時代の経済は、戦乱の連続という一面の事実にもかかわらず、活況を呈し、大名もまたそのような経済力を組織することによって軍事力を強化した。
こうした状況の下で有力大名の城下として、小田原(北条)、駿府 (すんぷ)(今川)、甲府(武田)、春日山 (かすがやま)(上杉)、山口(大内)、豊後府内(大友)などの都市的発展と並んで、領国の主要な港津も都市としての景観を十分に整えるようになった。特定の大名領下の都市と異なって、水陸の交通幹線上に位置した堺 (さかい)、博多 (はかた)、尾道 (おのみち)、大津、小浜 (おばま)、敦賀 (つるが)、桑名 (くわな)などの港津都市はとりわけ発展し、堺・博多に至っては1000戸以上の町屋が軒を連ね、有力商人が市政を掌握した。また本願寺の石山(大坂)、伊勢神宮の山田、善光寺の長野など有力寺院の門前町もこれに次いだ。
戦国時代は戦乱の時代として、社会的には無秩序、下剋上といった傾向が強調されやすいが、政治・社会思想の面ではむしろ新しい秩序観念が形成された。戦乱の時代を生き抜くために、民衆は地域的連帯を意識的にも組織的にも強め、無法な支配に対しては抵抗し自衛するという傾向が強くなった。そのため新しい領域支配者としての戦国大名も、実力だけでなく、いわば民衆の合意を取り付けうるような政治形態・政治思想を発展させる必要に迫られた。またそうした政治の安定が、急激に膨張した家臣団を統轄してゆくためにも欠かせない条件であった。戦国大名が領国法を制定していったことはその端的な現れである。領国国家に所属するいかなる階層・集団も守らなければならない国法を制定し、その法秩序を維持する公権力として、大名の立場は個別の在地領主の権力とは異なる公権力、すなわち「公儀」と観念され、それが強調されるようになった。鎌倉時代の在地領主層は、基本的には同族団的権力であって、私的性質にとどまっていたが、戦国大名はその立場を公儀とすることによって、質的飛躍を遂げた。このことは一向一揆や新たに伝えられたキリシタン信仰の民衆への浸透に対決しつつその支配を正当化してゆくためには欠かせないことであった。したがって、そうした公儀的権力の行使者たる大名には、器量=能力とともに、撫民 (ぶみん)思想が要求され、武人としての胆力とか、家臣に対する情義といったモラルにとどまらない政治思想が欠かせなくなった。戦国時代の現実が伝統的な国家体制の解体として進行したにもかかわらず、戦国時代後期に入って、大名領国制の進展とともに全国統一への方向が展望されるようになると、大名たちが将軍・天皇への連係の必要を改めて強く意識し、統一に向けた動きを取り出すこともその一つの現れであった。織田信長も出発点においては小戦国大名の一人にすぎなかったが、軍事的成功に伴って「天下」を意識し、天皇への接近をとりわけ積極化していった。
以上のように、戦国時代は、まだ江戸時代のような全国統合とその基礎となった全国統一の検地、兵農分離、統一的知行制 (ちぎょうせい)などが行われていない点で中世的な性質をもち、中世の最終段階に位置づけるべきであろうが、反面、近世社会を生み出すような諸条件が、政治・経済・社会・思想のあらゆる分野において生み出されつつあった活力に満ちた時代ということができる。
世界大百科事典
日本史時代区分の一つで室町後期に一致する。
通常,応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年(永禄11)までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。すなわち始期については伊勢長氏(北条早雲)が伊豆堀越公方足利茶々丸を追った1491年(延徳3)とする意見があり,近年は将軍足利義尚の時期はまだ室町幕府の力が相当に残っていたことに注目して,93年(明応2)細川政元が将軍義稙(よしたね)を追放したときをもって始期とする説も出されている。また終期については信長が義昭を追放した1573年(天正1)を妥当とする説が有力であり,さらに76年の信長の安土移転を画期とする説も出されている。幕府の存在を基準とする時代区分からすれば,戦国時代という区分は室町時代後期と一致するわけで,それを時代の特徴に応じてとくに戦国時代としているのであるから,その点からすれば73年を終期とすることが穏当であるともいえる。しかし戦国時代に続く安土桃山時代の始期を信長の安土移転からとすれば76年説が浮上することにもなる。信長権力の歴史的性格について,伝統的な見解では,これを豊臣秀吉権力と一体的にとらえて戦国大名と区別する見方が強かったため,戦国時代の終期は68年とする説が有力であったが,近年では信長権力はなお諸他の戦国大名と異なるものではないとする説が有力なため,68年説よりも73年もしくは76年説が重視されているのである。
このように戦国時代の始期・終期については見解が分かれるが,いずれにせよこの時代はほぼ1世紀にわたる激動期であり,それはさらに前後の2時期に区分されよう。その画期の求め方にも異説はあるが,1543年(天文12)の鉄砲伝来の年を中心に前後に区分するのが妥当と思われる。鉄砲の伝来とその普及が戦術の変化ばかりでなく,大名間の優勝劣敗をうながし,統一政権成立への道を開くことになるため,それ以前とは社会動向は急速に変わってくるのである。また主要な戦国大名のうち,北条早雲・氏綱,今川氏親,大内義隆,斎藤道三などは前期の人であり,北条氏康,毛利元就,武田信玄,浅井長政,朝倉義景,大友宗麟,長宗我部元親などは後期の人である。後者の時期に戦国時代の社会構造,権力形態を総括的に特徴づける大名領国制が本格的展開を見たことをもってしても,この区分の妥当性は首肯されるであろう。
戦国時代は,今日もっとも広く用いられている時代区分である〈中世〉の末期に位置づけられ,〈近世〉への移行期とされる。たしかにそうした視点から見れば,戦国時代は大きな歴史的転換期であって,そこには転換期とよぶにふさわしい顕著な社会動向が特徴的に現れている。その第1は下剋上と戦国大名の登場である。下剋上の社会動向はすでに15世紀の土一揆の動きに顕著に現れていたが,戦国時代においては民衆の反権力的動きのみならず,国人領主の反守護的動き,守護の反将軍的動きなど,諸階層がそれぞれ自立ないし自治を求めて,上部権力から独立してゆくようになった。そのような下剋上的動向は民衆の反権力・自治的動きを基盤にしつつ,支配階級諸層の中にひろく拡大し,全体として中央集権型の幕府体制を崩壊に導いてゆくのである。戦国大名は,こうした社会動向の中にあって,その系譜が守護・守護代・国人領主のいずれに発するにせよ,室町幕府体制から離脱して独自の地域権力を創出した点において,下剋上の旗手であったが,他面彼らは地域権力として国人領主や民衆諸層の下剋上的動きと対決することを課題とした権力でもあった。いずれにせよ戦国大名は下剋上動向の中から生まれ,下剋上動向を止揚することを歴史的課題とした権力であるということができる。戦国大名の領国支配体制の基本的特徴は,その課題にいかに対応するかという点におかれていた。
戦国期の時代動向の第2の特徴は,顕著な経済発展とそれをふまえた都市の発達である。農業生産の面では,領国経済力の強化をめざす戦国大名の新開(しんがい)の奨励,治水灌漑事業の推進によって新田畠の増加が顕著になるとともに,木綿栽培が開始され,その需要が急速に拡大した。鉱工業面では,これも大名の富国強兵策とのかかわりで金銀山の開発が各地で進められるとともに,中国地方を中心とした砂鉄=たたら生産が飛躍をとげた。またそれと不可分の関係で,武器生産を主とする鍛冶・鋳物業も発展した。さらにそうした生産諸力の発展にともない商業も急速な発展をとげ,大名に結びついた特権商人が,軍事物資調達のため中央地帯と領国とのあいだを活発に往復するとともに,堺,尼崎,兵庫,淀,大津,小浜,敦賀,桑名などをはじめとする交通拠点は,大名城下とともに都市として発展し,隔地間取引を主とする商人群がそこを中心に活動するようになった。
第3の特徴は,民衆のさまざまな形をとった反権力的動向の活発化である。これも下剋上的社会動向の一面にほかならないが,とりわけ一向一揆に代表される民衆の動向は,大名権力の存亡にかかわるほどに巨大な力をもち,その鎮圧・解体が織豊統一政権成立の基本的条件であった。したがってそれは単なる下剋上的風潮の問題というより,激しい階級闘争の展開として注目する必要があろう。通常一向一揆は1488年(長享2)の加賀門徒による守護富樫政親打倒に注目する傾向が強いが,16世紀に入るとその中心はしだいに畿内とその周辺地域に収斂する傾向が明らかとなる。戦国後期には,石山本願寺を頂点とする門徒勢力は,摂津や近江,あるいは伊勢長島,紀伊雑賀などをはじめとする各地の一向一揆をひろい戦略的視野から系統的に動かし,毛利,浅井,朝倉などの大名とも連係をとりつつ信長の中央進出に対抗するに至っている。この時代,九州にはキリシタンが伝えられてキリシタン信徒もしだいにその数を増すが,反権力的性格の面では,一向門徒がきわだった強さを示し,農民・商工業者を中心に,地侍・国人などをも含む地域的民衆権力としての性格を強め,畿内では河内の富田林に代表されるような寺内町を結集拠点とする形も見られた。
戦国時代の政治・軍事過程は,戦国大名による地域権力の形成とその相互間の抗争という形をとって展開した。中央地帯では,細川政元の将軍義稙追放以後,細川家も分裂し,一時細川高国と大内義興の連合権力が中央をおさえるが,やがて政元の養子澄元の子であった晴元が京都を支配する。しかし1550年三好長慶が入京して晴元と戦い,畿内国人を組織しつつ京都・堺をおさえた。60年(永禄3)前後に長慶は全盛期を迎えるが,これもまもなく将軍義輝を殺害した松永久秀にとって代わられるという形で,幕府の衰退と権力交替がめまぐるしく進行した。この間,東国方面では小田原を拠点とした後北条氏が,早雲,氏綱,氏康と漸次力をのばし,武蔵の上杉氏を追って伊豆・相模・武蔵にわたる大領国を形成,関東管領上杉の名跡を継承した越後の上杉謙信および甲斐の武田信玄と三つどもえの争いを展開した。東海方面では駿河の今川,三河の松平(徳川),尾張の織田,美濃の斎藤氏がそれぞれ勢力をのばしたが,今川,斎藤を滅ぼした信長が67年岐阜に進出した。中国地方では,戦国初期以来尼子氏が山陰に力をのばし,防長2国からさらに勢力拡大をはかる大内氏および安芸の国人領主から戦国大名化した毛利元就と争覇戦をくりかえしたが,元就が勝利を握り,中国地方,瀬戸内海にわたる一大勢力を確立した。四国では守護大名細川氏の衰退に代わって,土佐で長宗我部氏が強大化し,九州では大友,島津の守護系二大勢力とともに,佐賀の竜造寺氏など新興大名も登場した。
こうして各地域ごとに新旧勢力の交替や大名間の優勝劣敗が進む間に,信長は73年将軍義昭を追い,越前の朝倉義景,近江の浅井長政を倒すとともに,その翌年には頑強に抵抗を続け,信長もそれまでしばしば敗北を喫していた伊勢長島一揆の鎮圧に成功した。ついで75年信長は家康と連合して三河長篠で武田勝頼を破って背後の不安を絶つと,76年には近江安土に城を築き,ここに進出した。安土進出の意図は,なお摂津の石山本願寺を頂点として大きな力をもつ畿内一向一揆と対決するとともに,これと結ぶ中国地方の最大の勢力毛利氏を制圧しようとするところにあった。信長はこの目標に従って80年石山本願寺を屈服させたものの,毛利制圧を実現しえないまま,82年本能寺の変に倒れた。義昭追放によって室町幕府が名実ともに消滅してから信長の死に至る10年間は,安土時代というべき時期であるが,実質的にはなお戦国争乱期の延長線上にあった。
戦国時代は一面では戦乱連続の世であるが,半面では諸大名がそれぞれ公的立場を強め,領国支配体制を発展させることにつとめたため,多くの大名が分国法を作成したり,中央から儒学者,禅僧,芸能者などを招いたりして領国文化の繁栄をはかり,それを通じて大名権威の強化をはかった。大内氏の城下山口,今川氏の駿府,朝倉氏の一乗谷をはじめとする城下で都市的・貴族的文化が栄えたのはその代表例であり,豊後の大友氏や信長は,新しく伝えられたキリシタン信仰や同文化にも強い関心を示した。また西欧人の渡来によって伝えられた鉄砲と不可分の火薬の調合法もきわめて大きな社会的意義をもち,築城と結びついて発達した土木技術とともに,この時代の物質文化を代表するものといえる。
→中世社会
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