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  11. 徳川家慶

徳川家慶

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川家慶』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

徳川家慶
とくがわいえよし
一七九三 - 一八五三
江戸幕府第十二代将軍。一八三七―五三在職。寛政五年(一七九三)五月十四日生まれる。十一代将軍家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏、香琳院)。幼名松平敏次郎。同八年十二月家慶と称す。翌九年三月元服して従二位、大納言に任ず。文化六年(一八〇九)十二月、有栖川宮織仁親王の娘楽宮喬子と婚姻。文政五年(一八二二)三月正二位、内大臣、同十年三月従一位と転進し、天保八年(一八三七)四月二日、十一代家斉が隠居して統を継ぎ、左大臣に昇進。同年九月征夷大将軍宣下。嘉永六年(一八五三)六月二十二日没。七月二十二日発喪。六十一歳。諡名は慎徳院。増上寺(東京都港区芝公園)に葬られた。家慶の性格は温良謹慎と評されるが俊敏な人ではなく、周囲から「そうせい様」と陰口された。天保九年と嘉永五年に西ノ丸炎上、弘化元年(一八四四)に本丸炎上の災に遭った。家慶は四十五歳で将軍となったが、隠居の家斉側近が実権を握り「西丸御政事」が行われ、依然として賄賂・情実の政治がつづいた。家斉の死去後、老中首座水野忠邦は天保十二年四月から家斉側近ら数十名を排除し、五月十五日に享保・寛政の改革に復する旨の家慶の上意を令して天保の改革が始まった。倹約令を出し、日常生活の全般にわたる奢侈統制、風俗取締りの触を頻繁に発し、農民の副業調査・統制、人返し令、また諸物価の統制、銭相場引上げ、株仲間廃止、貨幣改鋳の中止などの総合的な低物価政策を強行し、のち嘉永四年に株仲間を改組・再興して幕府による直接的産業統制をはかろうとした。しかし、市況の沈滞、金融の梗塞への不満、時として苛酷にわたる厳しい取締りに対する嫌悪が広がり、株仲間解散などは諸藩の従わぬものも多く、一年あまりも経つと幕閣内部にも反改革勢力が生まれた。天保十四年に入って、六十七年ぶりに将軍の日光社参を実行し、印旛沼開発工事、巨額の御用金賦課を行い、そして江戸・大坂周辺上知令を出すが、これには領主・農民ともに反対に動き、発令一ヵ月も経たずに撤回し、水野忠邦は罷免された。対外関係では、天保八年にアメリカ商船モリソン号砲撃事件が起り、これを批判した渡辺崋山・高野長英らを捕え、蛮社の獄で弾圧した。しかし、アヘン戦争(一八四〇―四二年)で清国の敗戦が伝わると、同十三年に文政の打払令を撤回し、薪水給与令を公布して緊急避難措置をとり、他方で江戸湾防備、西洋砲術の採用、さらに鉄炮方の整備強化などをはかって軍制改革にふみ切った。弘化元年オランダ国王が親書で開国を勧告したが、幕府はこれを拒否した。しかし弘化・嘉永年間には仏・英・米の艦船がしばしば来航して通商を求めるようになり、海防はいよいよ急務となった。弘化二年に外交・国防を専管する海岸防備掛(海防掛)を新設し、翌三年には朝廷が対外問題について諭書を出して、はじめて政治に発言した。嘉永六年六月ペリーの率いるアメリカ軍艦が浦賀へ来り、携えてきた国書を受理したが、その対策も立たぬ中で、家慶は死去した。→天保・弘化期(てんぽう・こうかき),→天保の改革(てんぽうのかいかく)
[参考文献]
『徳川幕府家譜』坤(『徳川諸家系譜』一)、竹尾次春『幕府祚胤伝』八(同二)、『続徳川実紀』二、内藤耻叟『徳川十五代史』六、三上参次『江戸時代史』下、北島正元『幕藩制の苦悶』(中央公論社『日本の歴史』一八)
(高沢 裕一)


日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家慶
とくがわいえよし
[1793―1853]

江戸幕府第12代将軍。11代将軍家斉 (いえなり)の二男。幼名敏次郎。1837年(天保8)将軍職を継いだが、家斉在世中は家斉の大御所政治に実権を握られた。1841年、家斉の死後、老中水野忠邦 (みずのただくに)を首座に任用して幕政の改革を行った(天保 (てんぽう)の改革)。しかし、改革は急激にして、また各方面に厳格にすぎたため人心を失い、忠邦は2年余で失脚した。その後、阿部正弘 (あべまさひろ)を老中首座に起用し、有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、幕末の雄藩連合運動の素地をつくることとなった。1853年(嘉永6)6月のペリー来航に際しては病床にあり、外交を正弘と水戸藩主徳川斉昭 (なりあき)に任せて死去した。法号慎徳院。

[井上勝生]



世界大百科事典

徳川家慶
とくがわいえよし
1793-1853(寛政5-嘉永6)

江戸幕府12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の次男。母は押田氏の娘。幼名敏治郎。諡(おくりな)は慎徳院。1797年(寛政9)世子(せいし)となり西丸に入り,1837年(天保8)将軍職に就いたが,政治の実権はなお大御所家斉にあった。41年家斉の死後,家斉の側近勢力を排して幕政を親裁し,老中水野忠邦を重用して天保改革をすすめた。忠邦失脚後は阿部正弘を用いて海防問題の難局に当たったが,53年ペリーが浦賀に来航した直後に病没した。
[大口 勇次郎]

[索引語]
慎徳院
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1. 徳川家慶画像
日本大百科全書
江戸幕府第12代将軍。11代将軍家斉いえなりの二男。幼名敏次郎。1837年(天保8)将軍職を継いだが、家斉在世中は家斉の大御所政治に実権を握られた。1841年、
2. 徳川家慶
世界大百科事典
1793-1853(寛政5-嘉永6) 江戸幕府12代将軍。11代将軍家斉(いえなり)の次男。母は押田氏の娘。幼名敏治郎。諡(おくりな)は慎徳院。1797年(寛政
3. とくがわ‐いえよし【徳川家慶】
日本国語大辞典
江戸幕府第一二代将軍。家斉の次男。幼名敏次郎。天保八年(一八三七)将軍となる。家斉死後大御所政治を改め、水野忠邦に天保の改革を断行させたが急激にすぎて失敗。のち
4. とくがわいえよし【徳川家慶】画像
国史大辞典
一七九三―一八五三 江戸幕府第十二代将軍。一八三七―五三在職。寛政五年(一七九三)五月十四日生まれる。十一代将軍家斉の次男。母は側室お楽の方(押田氏、香琳院)
5. 徳川家慶
日本史年表
1843年〈天保14 癸卯⑨〉 4・13 徳川家慶 、日光社参のため出立(続実紀)。 1853年〈嘉永6 癸丑〉 6・22( 7・27 ) 没。
6. 德川家慶(とくがわいえよし)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 27ページ
7. とくがわ-いえよし【徳川家慶】
日本人名大辞典
1793−1853 江戸幕府12代将軍。在職1837-53。寛政5年5月14日生まれ。徳川家斉(いえなり)の次男。母はお楽の方(香琳院)。天保(てんぽう)8年将
8. 葵紋2[図版]画像
国史大辞典
徳川家重 徳川家治 徳川家斉 徳川家慶 徳川末姫 立葵 二葉葵 御紋控書 見聞諸家紋 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 徳川家慶印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
10. 徳川家慶花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 朝川善庵
日本史年表
1846年〈弘化3 丙午⑤〉 6・1 平戸藩の儒者 朝川善庵 、徳川家慶に謁見(続実紀)。 1849年〈嘉永2 己酉④〉 2・7 没。
12. あねがこうじのつぼね【姉小路局】
国史大辞典
寛政七年(一七九五)公家橋本実誠の娘として生まれる。名はいよ。文化六年(一八〇九)有栖川宮喬子(楽宮)の徳川家慶に入輿のとき従って江戸に下る。家斉の第二十女和姫
13. あねがこうじのつぼね【姉小路局】
日本人名大辞典
1795−1880 江戸時代後期の大奥女中。寛政7年生まれ。文化6年有栖川宮喬子(ありすがわのみや-たかこ)が徳川家慶(いえよし)にとつぐ際にしたがって江戸城大
14. あらまち【荒町】栃木県:真岡市/真岡三町
日本歴史地名大系
始めた。また真岡木綿の買継問屋株を手に入れ、小宅喜兵衛らとともに五人の仲間を形成した。同一四年将軍徳川家慶日光社参の際には、徳次郎宿(現宇都宮市)で助郷を勤め勤
15. あんどう-のぶより【安藤信由】
日本人名大辞典
男。義兄安藤信義の養子となり,文政12年陸奥(むつ)平藩(福島県)藩主安藤家4代となる。将軍徳川家慶(いえよし)の日光参拝にしたがった。弘化(こうか)4年6月5
16. いけのはたなかちよう【池之端仲町】東京都:台東区/旧下谷区地区地図
日本歴史地名大系
勧学講院権大僧都法印の号を与えられた(江戸名所図会)。新五郎店の平蔵は寛政年中(一七八九―一八〇一)から徳川家慶(当時世子)の訪問先の御用を勤め、水からくり竹細
17. いこうむら【伊興村】東京都:足立区地図
日本歴史地名大系
)。ほかに東叡山領固有の負担として寛永寺の山内掃除御用がある。天保一三年(一八四二)の例では徳川家慶の寛永寺参詣に際して当村から鍬持参の人足一八人が出役している
18. 出雲国一円本田新田一紙郷帳(元禄十年出雲国郷帳)[文献解題]島根県
日本歴史地名大系
天保九年閏四月一二日に松江藩主松平出羽守が本多下総守・牧野備前守宛に差出したものの控で、将軍徳川家慶の代替りの印知にあたって作成したものである。原則的な拠り所が
19. いちのやむら【市野谷村】千葉県:流山市地図
日本歴史地名大系
隔年に勤めた(享和三年小金町六拾七ヶ村高帳)。日光東往還が東部を縦断する。天保一四年(一八四三)の将軍徳川家慶の日光社参では「四月九日より迄御通行右ニ付大畔新田
20. いなげむら【稲毛村】千葉県:千葉市/稲毛区地図
日本歴史地名大系
化に反対する嘆願書をほか一二村と提出した(宇那谷区有文書)。嘉永二年(一八四九)の一二代将軍徳川家慶の鹿狩に際し勢子三二名を負担(永野家文書)、同三年には江戸湾
21. いまいむら【今井村】千葉県:千葉市/中央区地図
日本歴史地名大系
納合は米七八石余・永六貫六一三文余。年貢米は寒川蔵納め。用水は宮崎村の大池を利用。嘉永二年の一二代将軍徳川家慶の鹿狩では勢子一四名を出した(永野家文書)。継立場
22. ウィレム2世(Willem II)
世界人名大辞典
法改正委員会を設け議長にトルベッケを任命.大幅に更新された憲法が同年中に成立した.なお,将軍徳川家慶に,P.F.J.B.v.ジーボルト起草の親書を送って開国を助
23. ういむら【宇井村】栃木県:那須郡/南那須町
日本歴史地名大系
。山間地ではあったが、長者川支流の水を引き水稲栽培が行われていた。天保一四年(一八四三)将軍徳川家慶日光社参の際には日光街道今市宿の当分助郷(勤高五〇石)を勤め
24. うらそえ-ちょうき【浦添朝熹】
日本人名大辞典
(摂政(せっせい))をつとめ,王子の位をおくられる。1842年慶賀正使として江戸で12代将軍徳川家慶(いえよし)と会見。香川景樹(かげき)に和歌をまなび,沖縄三
25. うらわまち【浦和町】埼玉県:浦和市地図
日本歴史地名大系
きないとして、道中奉行所宛に本陣役免除の訴えをしている(「願書」浦和宿本陣文書)。天保一一年徳川家慶の日光社参にあたり先発した水戸藩主徳川斉昭は、江戸深川の邸を
26. 江戸参府
日本史年表
1850年〈嘉永3 庚戌〉 3・15 オランダ商館長、徳川家慶に謁見(最後の 江戸参府 )(続実紀)。
27. 江戸参府紀行 288ページ
東洋文庫
また西の丸にも奥・表坊主がいたし、ほかの広間にも掃除や湯茶のことを司る広間坊主などがいた。将軍の世子 徳川家慶。 一七九三-一八五三。時の将軍家斉の四男。母は押
28. おおおか-ただよし【大岡忠愛】
日本人名大辞典
大岡忠移(ただより)の子。文政11年三河(愛知県)西大平藩主大岡家6代となる。大番頭(おおばんがしら),将軍徳川家慶(いえよし)の鹿狩御用掛,奏者番をつとめた。
29. おおみやし【大宮市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
人・宰領四二人であった(同年「土呂村野猪鹿狩人足宰領一覧」同文書)。嘉永二年(一八四九)将軍徳川家慶が下総小金原で鹿狩を行った際、大宮鷹場の村々から一千三〇〇人
30. おおわだむら【大和田村】栃木県:芳賀郡/二宮町
日本歴史地名大系
幕府領となり、改革組合村では幕府領・旗本松平領の二給で、家数一〇。天保一四年(一八四三)将軍徳川家慶日光社参の際には日光街道徳次郎宿(現宇都宮市)の当分助郷(勤
31. おかくのかた【お加久の方】
日本人名大辞典
1803−1826 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。享和3年5月11日生まれ。文政3年西丸御次,翌年中臈(ちゅうろう)となり,1男1女を生んだ。文政9
32. おきんのかた【お金の方】
日本人名大辞典
1819−1843 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。文政2年生まれ。江戸京橋の菓子屋風月堂の娘という。大奥へはいり将軍家慶の寵愛(ちょうあい)をうけ,
33. おくさわむら【奥沢村】栃木県:大田原市
日本歴史地名大系
熊川上流に巻川用水を開削、翌五年三月に通水に成功(「願書」室井昭文書)。天保一四年(一八四三)の将軍徳川家慶の日光社参の際には今市宿当分助郷が課され、勤高は佐久
34. おことのかた【お琴の方(2)】
日本人名大辞典
?−1855 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。兄の紀伊(きい)和歌山藩付家老水野忠央(ただなか)がいだく,大名になるという野望をかなえようと大奥にはい
35. おさだのかた【お定の方】
日本人名大辞典
?−1847 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。将軍家慶の生母香琳院の姪(めい)で部屋子となり,西丸御次から中臈(ちゅうろう)にすすむ。2男1女を生んだ
36. おざわまたむら【小沢又村】千葉県:夷隅郡/大多喜町地図
日本歴史地名大系
面白村岩井原と山論したが、以降も山論が絶えなかった(大沼家文書)。弘化五年(一八四八)に将軍徳川家慶の下総小金牧鹿狩御用として西畑郷および筒森郷など三八ヵ村に猪
37. おつゆのかた【おつゆの方】
日本人名大辞典
?−1888 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。家慶の生母お楽の方,同側室お定の方の親類にあたりその縁で大奥にはいる。中臈(ちゅうろう)となったが,子供
38. おはなのかた【お波奈の方】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。文政2年(1819)西丸御次として大奥につかえる。2女を生んだが,その後の消息はあきらかでない。江戸出身。
39. おふでのかた【お筆の方】
日本人名大辞典
?−1844 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。3男2女を生んだが,5人とも早世した。天保(てんぽう)15年6月20日死去。
40. おみつのかた【お美津の方】
日本人名大辞典
1807−1885 江戸時代後期,徳川家慶(いえよし)の側室。文化4年生まれ。文政7年政之助(のち将軍家定)を生んだ。御年寄上座まですすんだ。嘉永(かえい)6年
41. かえい【嘉永】
日本国語大辞典
江戸末期孝明天皇の代の年号。弘化五年(一八四八)二月二八日改元。嘉永七年(一八五四)一一月二七日安政と改元。将軍徳川家慶(いえよし)、家定の時代。出典は「宋書志
42. かすだむら【粕田村】栃木県:真岡市
日本歴史地名大系
切知行。旧高旧領取調帳でも幕府領二〇石余と小田切領五〇〇石の相給。享保一三年(一七二八)将軍徳川家慶の日光社参の際は、日光街道徳次郎宿(現宇都宮市)の当分助郷を
43. かつしかく【葛飾区】東京都地図
日本歴史地名大系
)以降は堀切村の花菖蒲が江戸近郊の新名所となる。遊覧式花菖蒲園の祖である小高園には一二代将軍徳川家慶・家定父子が鷹狩の際休息に立寄り、また尾張藩主徳川斉荘から親
44. 甲子夜話 1 354ページ
東洋文庫
付・徳川家歴代将軍法号一覧11109875432112徳川家慶 慎徳院徳川家斉徳川家治徳川家重徳川吉宗徳川家継6徳川家宣徳
45. かなさきしゅく【金崎宿】栃木県:上都賀郡/西方村/金崎村
日本歴史地名大系
九ヵ村が定助郷となった。当宿は例年四月一三日例幣使の小休所として利用された。天保一四年四月の徳川家慶の日光社参に関して、前年一月に水野忠邦が小休、以後諸藩役人の
46. かみすがまたむら【上菅又村】栃木県:芳賀郡/茂木町
日本歴史地名大系
家数一五で縄量二千七〇〇房を作り、代銭一一貫文余を稼ぐ計画を立てている(尊徳全集二三)。同年徳川家慶の日光社参に際し、領内他村とともに助郷役として奥州街道白沢宿
47. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 7ページ
東洋文庫
小字は銈之允、弘化三年四月二十七日、忠恭公の嗣子となり、その女を配された。 八月十五日、はじめて大将軍徳川家慶公に謁した。十二月十六日従四位下侍従に叙任し、若狭
48. くずうまち【葛生町】栃木県:安蘇郡/葛生町
日本歴史地名大系
によれば、野州石灰の江戸市中販売値段は、一斗二升入俵で金一両につき五〇俵であった。天保一四年徳川家慶の日光社参の際、日光街道今市宿の当分助郷を命じられている(「
49. くろこうち-しょうさい【黒河内松斎】
日本人名大辞典
祖父節斎に長沼流軍学をまなぶ。江戸の藩邸で備後(びんご)(広島県)福山藩士らに兵法をおしえ,将軍徳川家慶(いえよし)の前で操練もおこなった。のち番頭(ばんがしら
50. くわのがわむら【桑野川村】栃木県:芳賀郡/二宮町
日本歴史地名大系
町七反余・下々畑三反余・屋敷二反余)であった(尊徳全集二一)。天保一四年(一八四三)には将軍徳川家慶の日光社参に際して日光街道徳次郎宿(現宇都宮市)の当分助郷(
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一七七三-一八四一江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方(岩本氏、慈徳院)。徳川豊千代と称したが、天明元年(一七八一)閏五月、十代将軍家治の世子と
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