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  11. 徳川家定

徳川家定

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川家定』の日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家定
とくがわいえさだ
[1824―1858]

江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶 (いえよし)の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下 (せんげ)。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘 (あべまさひろ)らに政務を一任した。1857年(安政4)10月、米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、のちにハリスの『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者をめぐって将軍継嗣 (けいし)問題が起こり、また日米の通商条約も勅許を得られず、政局が激動した。1858年4月、井伊直弼 (いいなおすけ)が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福 (よしとみ)(のち家茂 (いえもち))を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。

[井上勝生]



世界大百科事典

徳川家定
とくがわいえさだ
1824-58(文政7-安政5)

江戸幕府13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の嗣子。幼名政之助。家祥と称する。1853年(嘉永6)7月に宗家を相続,11月に将軍となり家定と改名した。アメリカ,ロシアなどとの和親条約締結後,57年(安政4)に通商を要求するアメリカ総領事ハリスを江戸城内に引見した。家定は病弱で子がなく,将軍継嗣問題が起き,一橋派と南紀派が対立した。58年井伊直弼の大老就任後,家定は紀州藩主慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))を継嗣とし,同年没した。
[森田 武]

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1. 徳川家定画像
日本大百科全書
江戸幕府第13代将軍。12代将軍家慶いえよしの第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下せんげ。内外多難で
2. 徳川家定
世界大百科事典
1824-58(文政7-安政5) 江戸幕府13代将軍。12代将軍家慶(いえよし)の嗣子。幼名政之助。家祥と称する。1853年(嘉永6)7月に宗家を相続,11月に
3. とくがわ‐いえさだ【徳川家定】
日本国語大辞典
江戸幕府第一三代将軍。家慶の四男。幼名政之助ついで家祥。嘉永六年(一八五三)将軍となる。生来虚弱で内外の政務は、阿部正弘・井伊直弼らに一任、子がなかったため将軍
4. とくがわいえさだ【徳川家定】画像
国史大辞典
一八二四―五八 江戸幕府第十三代将軍。一八五三―五八在職。文政七年(一八二四)四月八日誕生。十二代将軍家慶の四男、母は跡部正賢の女美津(本寿院)。幼名政之助、
5. 德川家定(とくがわいえさだ)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 28ページ
6. とくがわ-いえさだ【徳川家定】
日本人名大辞典
1824−1858 江戸幕府13代将軍。在職1853-58。文政7年4月8日生まれ。徳川家慶(いえよし)の4男。母はお美津の方(本寿院)。嘉永(かえい)6年将軍
7. 徳川家定・徳川家祥
日本史年表
) 将軍 家祥 、家定と改名(続実紀)。 1858年〈安政5 戊午〉 7・6( 8・14 ) 徳川家定没(発喪は同年8月8日)(維新史料綱要)。
8. 徳川家定花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 浅田宗伯
日本大百科全書
結び、1861年(文久1)幕府の侍医となり、和宮かずのみや、天璋院てんしょういん(第13代将軍徳川家定夫人)、第14代将軍徳川家茂いえもちなどの診治にあたった。
10. あつこ【任子】
日本人名大辞典
1823−1848 江戸時代後期,徳川家定の妻。文政6年9月5日生まれ。鷹司政煕(たかつかさ-まさひろ)の娘。文政11年6歳で将軍世子の家定と婚約。天保(てんぽ
11. あんせい【安政】
日本国語大辞典
どのため改元。安政七年(一八六〇)桜田門外の変ののち、三月一八日万延元年となる。将軍は一三代徳川家定、一四代家茂(いえもち)。出典は「群書治要」の「庶人安
12. 安政の大獄画像
日本大百科全書
ょうの一派と溜間詰譜代大名との対立がクローズアップされた。ところが、病弱であった第13代将軍徳川家定いえさだの継嗣けいし問題を契機にこの2派の対立は一段と激化し
13. 安政の大獄
世界大百科事典
題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争である。1853年(嘉永6)に13代将軍となった徳川家定は,このときすでに30歳であったが1人の子女もなく,また政務
14. あんせいのたいごく【安政の大獄】
国史大辞典
大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将
15. 井伊直弼画像
日本大百科全書
づめ家門かもん大名、大広間詰外様とざま大名としだいに対立するに至った。この対立は第13代将軍徳川家定いえさだの継嗣けいし問題と絡んでいっそう先鋭となり、家門・外
16. 井伊直弼
世界大百科事典
主張し続けた徳川斉昭(なりあき)とは,意見を異にしていた。将軍継嗣問題は,1853年10月,徳川家定が13代将軍となったときから表面化した。直弼を中心とする譜代
17. いいなおすけ【井伊直弼】
国史大辞典
十二月米国の要求を容れるべしとの意見を連署して幕府に提出した。このころから政治問題化した十三代将軍徳川家定の継嗣に関し、血統論を唱えて紀州慶福(よしとみ)を推し
18. いい-なおすけ【井伊直弼】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)3年近江(おうみ)(滋賀県)彦根藩主井伊家15代となる。安政5年大老。13代将軍徳川家定の継嗣問題や,開国か攘夷(じょうい)かで前水戸藩主徳川斉昭
19. いいなおすけ【井伊直弼】
日本架空伝承人名事典
主張し続けた徳川斉昭(なりあき)とは、意見を異にしていた。将軍継嗣問題は、一八五三年一〇月、徳川家定が一三代将軍となったときから表面化した。直弼を中心とする譜代
20. いくしま【幾島】
日本人名大辞典
薩摩鹿児島藩の奥向勤務をへて近衛家につかえ,安政3年島津敬子(天璋院(てんしょういん))が将軍徳川家定と結婚したさい将軍夫人付老女として江戸城大奥にはいる。将軍
21. いしかわただふさ【石川忠房】
国史大辞典
道中奉行を兼ね、寛政の旧格を守って事務にあたった。同十一年留守居に進み、天保二年(一八三一)徳川家定に嫁ぐ鷹司任子を迎えに西上した。同七年正月十八日没。八十二歳
22. いのうえきよなお【井上清直】
国史大辞典
スの赴任以来その応接にあたり、同四年五月日米約定(下田条約)に調印、十月ハリスが登城して将軍徳川家定に謁見するのに立ち会い、十二月には目付岩瀬忠震とともに全権委
23. うたはし【歌橋】
国史大辞典
生没年不詳 幕末の大奥女中。第十三代将軍徳川家定の乳母。家定は虚弱なため、将軍就職(嘉永六年(一八五三)、三十歳)後まもなく養嗣問題が議せられていたという。そ
24. うたはし【歌橋】
日本人名大辞典
?−? 幕末,徳川家定の乳母。13代将軍家定(在職1853-58)の継嗣をめぐって紀伊(きい)和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)(のちの家茂(いえもち))を推す派と
25. おしがのかた【お志賀の方(2)】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期,徳川家定の側室。三之間勤めから中臈(ちゅうろう)となる。安政5年(1858)家定の死去後,位牌(いはい)をまもって菩提(ぼだい)をとむらい
26. おんきょういんどの【温恭院殿】
国史大辞典
徳川家定(とくがわいえさだ)
27. かえい・あんせいき【嘉永・安政期】
国史大辞典
危機感の社会的下降と拡大となった。阿部のあとをついだ堀田正睦の政治もそれをひきついだが、第十三代将軍徳川家定の継嗣問題を契機に、一橋慶喜(前水戸藩主徳川斉昭第七
28. かじしょうぞく【火事装束】
国史大辞典
が備えられていた。現に慶応三年(一八六七)十二月二十三日の江戸城二ノ丸の火災に際しては、将軍徳川家定の正室であった天璋院が率先火事装束に身を固め防火に努めたとい
29. かわだてきさい【河田〓斎】
国史大辞典
ンの米国国立文書館U.S.National Archivesに現存するという。翌二年正月将軍徳川家定に謁し、昌平黌儒官に登用され禄二百俵を与えられる。同六年正月
30. かわぶくろむら【川袋村】静岡県:磐田郡/竜洋町
日本歴史地名大系
八雲神社がある。同社は江戸時代牛頭天王社と称し、安政二年(一八五五)社領九石余を安堵されている(「徳川家定安堵状写」八雲神社旧蔵文書)。松林寺は前掲永禄三年の今
31. かんえいじ【寛永寺】東京都:台東区/旧下谷区地区/上野桜木町地図
日本歴史地名大系
建立された。またこれらの墓域には徳川家斉(文恭院)・徳川家治(浚明院)・徳川吉宗(有徳院)・徳川家定(温恭院)のほか、将軍の妻子・親族らが合祀されている(「寛永
32. きんだい【近代】画像
国史大辞典
契機とする外圧と開国をめぐる政治紛争とであった。安政五年(一八五八)の日米修好通商条約の調印問題は、将軍徳川家定の継嗣問題と結合して、封建支配者内部の対立抗争を
33. きんだい【近代】 : 近代/〔嘉永六年(一八五三)―明治十年(一八七七)〕
国史大辞典
契機とする外圧と開国をめぐる政治紛争とであった。安政五年(一八五八)の日米修好通商条約の調印問題は、将軍徳川家定の継嗣問題と結合して、封建支配者内部の対立抗争を
34. くさつしゅく【草津宿】滋賀県:草津市
日本歴史地名大系
書)。また同三年に将軍徳川家茂も上洛に際し、当宿で休憩をとっている(黒羽文書)。嘉永二年には徳川家定に嫁いだ一条忠良の養女寿明君が宿泊した(膳所藩資料館所蔵文書
35. こうぶがったいうんどう【公武合体運動】
国史大辞典
ださせまいと朝廷に運動した。その結果、外交に対する朝廷の発言権はたかまった。さらに、十三代将軍徳川家定の継嗣をめぐって対立する二派、つまり紀州派(南紀派)と一橋
36. 講武所
日本大百科全書
講武所規則覚書を公示し、入所手続などを定め、将来は陪臣や浪人にも開放するとした。開業には将軍徳川家定いえさだが老中以下を率いて臨み、以後、幕府の武芸・洋式訓練・
37. こうぶしょ【講武所】画像
国史大辞典
命じた。同三年二月久貝正典・池田長顕が講武所主役となり、同年四月築地に講武所が竣工、十三日将軍徳川家定出御のもと開校式が行われた。この時、剣術十一名・槍術十名・
38. 近衛忠凞
世界大百科事典
うけて,斉彬の養女敬子(すみこ)をみずからの養女とし,56年(安政3)12月,近衛家から将軍徳川家定に嫁がせた。これは,斉彬や松平慶永が推した一橋慶喜を将軍継嗣
39. さいごうたかもり【西郷隆盛】
国史大辞典
って江戸に行き、庭方役として政界の裏面工作に従った。同四年徒目付となり、斉彬の意をうけて将軍徳川家定の継嗣に一橋慶喜を擁立する運動をし、越前藩士橋本左内とともに
40. 堺雅人
イミダス 2018
04年、NHK大河ドラマ「新選組!」の山南敬助役で注目を集め、08年、NHK大河ドラマ「篤姫」の徳川家定役の好演で、一躍知名度を上げた。また、同年に映画「アフタ
41. さかい-まさと【堺雅人】
日本人名大辞典
ンジに参加し,看板役者として活躍。NHK大河ドラマ「新選組!」の山南敬助役,同じく「篤姫」の徳川家定役で人気となる。21年「クライマーズ・ハイ」「アフタースクー
42. さんじょうさねつむ【三条実万】画像
国史大辞典
この間に年頭勅使として七回江戸城に臨み、時には小禄廷臣の救済を折衝した。特に嘉永六年十一月勅使として徳川家定に将軍の宣旨を伝えた時、ペリー来航の外患と京都警衛の
43. しまづなりあきら【島津斉彬】
国史大辞典
羅騒動)」の轍をふまず、反対派の人々をも罰せずに用いて藩力の分裂を避けた。彼は養女篤姫を将軍徳川家定の御台所として幕府への発言力を強めたが、ペリー来航により外交
44. しまづ-なりあきら【島津斉彬】
日本人名大辞典
藩営の工場集成館を設立し,殖産興業,富国強兵策をすすめる。養女篤姫(あつひめ)(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして,幕府への発言力をつよめる。将軍継嗣問題では西
45. 将軍継嗣問題
日本大百科全書
ペリー来航直後に就任した13代将軍徳川家定いえさだ(在位1853~58)の継嗣決定をめぐる政争。一橋慶喜ひとつばしよしのぶ・紀州徳川慶福よしとみ両擁立派が対立し
46. 将軍継嗣問題
世界大百科事典
江戸幕府の末期,13代将軍徳川家定の継嗣をめぐる紛争。12代家慶(いえよし)がペリー初度来航の1853年(嘉永6)に死ぬと,次の家定は病弱で非常時の将軍にふさわ
47. しょうぐんけいしもんだい【将軍継嗣問題】
国史大辞典
幕末、十三代将軍徳川家定の後継者選定をめぐる政争。嘉永六年六月三日(一八五三年七月八日)のペリー来航を契機として、対外的な危機の意識は一挙に亢進、これを克服し
48. シーボルト先生 3 その生涯及び功業 56ページ
東洋文庫
幕府は勿論諸大名にも召聰さる、を得ず、続に一私人の宅に出入し、市中の間に奔走するのみなりしが、安政五年将軍徳川家定脚気を患ひて重症となり、幕府の医官ども為す知ら
49. シーボルト先生 3 その生涯及び功業 61ページ
東洋文庫
)等に居り、後に麹町三丁目に移る。天保十三年徳川幕府より蘭書翻訳手伝を命ぜられ、安政五年将軍徳川家定が脚気に罹り、漢方医たる侍医輩為すべき様を知らざりしとき、同
50. シーボルト先生 3 その生涯及び功業 12ページ
東洋文庫
257遠山金四郎(景晋)皿一127戸川播磨守皿一73常磐屋五右衛門皿一124徳川篤敬H-237徳川家定H-157,皿一56徳川家重皿一197徳川家斉1-187,
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