1. 徳川家斉画像
日本大百科全書
江戸幕府第11代将軍。御三卿ごさんきょうの一つ一橋ひとつばし家の2代治済はるさだの四男。母は岩本氏で於富之方おふくのかたという。安永あんえい2年10月5日誕生。
2. 徳川家斉
世界大百科事典
1773-1841(安永2-天保12) 江戸幕府11代将軍。三卿の一橋治済(はるさだ)の長男。幼名豊千代。母は岩本氏。1781年(天明1)10代将軍家治の養子に
3. とくがわ‐いえなり【徳川家斉】
日本国語大辞典
江戸幕府第一一代将軍。一橋治済(はるさだ)の長男。幼名豊千代。家治の養子。天明七年(一七八七)将軍となる。田沼意次を排して松平定信を老中首座に起用し、寛政の改革
4. とくがわいえなり【徳川家斉】画像
国史大辞典
一七七三―一八四一 江戸幕府第十一代将軍。一七八六―一八三七在職。安永二年(一七七三)十月五日江戸城一橋屋敷で生まれる。御三卿の一橋治済の長男、母はおとみの方
5. 徳川家斉
日本史年表
6・11 徳川家斉 、江戸城吹上で角力を観覧(続実紀)。 1827年〈文政10 丁亥⑥〉 3・18 徳川家斉 、太政大臣に任じられる(続実紀)。 1837年〈天
6. 德川家齊(とくがわいえなり)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 25ページ
7. とくがわ-いえなり【徳川家斉】
日本人名大辞典
1773−1841 江戸幕府11代将軍。在職1787-1837。安永2年10月5日生まれ。三卿(さんきょう)の一橋治済(はるさだ)の長男。母はお富の方(慈徳院)
8. 徳川家斉[文献目録]
日本人物文献目録
『文恭公実録 2巻2冊』-『徳川十一代将軍偉行の記』栗本鋤雲『徳川家斉と其時代』岡部精一『徳川家斉公子の諸家相続に就いて』時野谷勝『徳川家斉の教論三章と文政の関
9. 葵紋2[図版]画像
国史大辞典
徳川家重 徳川家治 徳川家斉 徳川家慶 徳川末姫 立葵 二葉葵 御紋控書 見聞諸家紋 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.
10. 徳川家斉印[図版]画像
国史大辞典
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11. 徳川家斉花押[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
12. 徳川家斉元服官位記(著作ID:3634035)
新日本古典籍データベース
とくがわいえなりげんぶくかんいき 補任 天明二
13. 徳川家斉葬送並法会次第(著作ID:3634137)
新日本古典籍データベース
とくがわいえなりそうそうならびにほうえしだい 文恭院様御法会次第 記録 天保一二
14. あおやまただやす【青山忠裕】
国史大辞典
文化元年(一八〇四)、先に尊号事件によって失脚した松平定信のあと老中となった。文政十年(一八二七)将軍徳川家斉が太政大臣に任ぜられた時、忠裕は謝恩使として参内し
15. あかしじょうあと【明石城跡】兵庫県:明石市/明石城下
日本歴史地名大系
以後明治維新まで越前松平家が一〇代続いた。越前松平家は家門の家柄であり、直明以来代々六万石であったが、将軍徳川家斉の子斉宜が天保一一年(一八四〇)養子となって八
16. あかしはん【明石藩】
国史大辞典
家門・城持)が六万石で入部、以後、直常・直純・直泰・直之・直周・斉韶とつづいたが、十一代将軍徳川家斉の二十五男斉宣が斉韶の養子となり、天保十一年(一八四〇)家を
17. 赤門
日本大百科全書
唯一のものである。ここはもと加賀金沢前田家の上屋敷であり、1827年(文政10)に11代将軍徳川家斉いえなりの女むすめ溶姫が13代藩主前田斉泰なりやすに輿入こし
18. あかもん【赤門】
国史大辞典
東京都文京区本郷の東京大学構内にある。文政十年(一八二七)徳川家斉の娘溶姫が前田斉泰に嫁したとき、加賀前田家の上屋敷につくられたいわゆる御守殿門。切妻造本瓦葺
19. あこぎむらしんでん【赤萩村新田】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
当新田は星谷野を開墾して享保二〇年(一七三五)に高入れされたという(大網白里町史)。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足一五人を出した(「山辺郡人足控」大原
20. あさひめ【浅姫】
日本人名大辞典
1804*−? 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の娘。享和3年12月10日生まれ。母はお美尾の方。文政2年越前(えちぜん)福井藩主松平治好(はるよし)の嫡子(
21. 医学館
日本大百科全書
躋寿館は1772年(安永1)江戸の大火で類焼し、元孝の子元悳げんとくは1791年(寛政3)第11代将軍徳川家斉いえなりの援助を得て官立とし、名を医学館と改めた。
22. いけのはたなかちよう【池之端仲町】東京都:台東区/旧下谷区地区地図
日本歴史地名大系
訪問先の御用を勤め、水からくり竹細工物を献上した。清兵衛店の焼物師庄治郎も文政四―六年に将軍徳川家斉の訪問先御用を勤め、作品を買上げられた。家主の仙助も将軍の訪
23. いさごだむら【砂田村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
幕府領・旗本阿部領。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)でも同じ。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足一六人を出した(「山辺郡人足控」大原家
24. いさごむら【砂村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
あり、ほか大豆一一俵余を納めていた。家数二八・人数一四二、馬一四。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足二一人が徴用された(
25. いさ‐は【斑葉】
日本国語大辞典
その間に気泡があることによる場合とがある。特に観葉植物として珍重されるものもある。一一代将軍徳川家斉の好みによって流行したという。ふいり。ふいりば。*雑俳・柳多
26. いずしじょうあと【出石城跡】兵庫県:出石郡/出石町/出石城下
日本歴史地名大系
されている)。事件が老中首座松平康任に関連していたため(久寿の子小太郎の妻が康任の姪)、将軍徳川家斉は老中水野忠邦・寺社奉行脇坂安董に吟味を命じた。安董はこの仙
27. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
その所領に泉州二五ヵ村を含んでいたが、寛政七年(一七九五)嗣子なく収公された。のち文政六年(一八二三)に将軍徳川家斉により復活され、大鳥郡・泉郡で三三ヵ村、約一
28. いだ-きちろく【井田吉六】
日本人名大辞典
はじめ江戸の骨董(こっとう)商。文政8年(1825)から浅草で自作の陶器「吉六焼」を販売して名をたかめ,将軍徳川家斉(いえなり)の臨席のもとで席焼きもおこなった
29. 伊東燕晋
世界大百科事典
など軍記,記録物を読んだ。謹厳な人柄と風格が多くの客の支持を受け,1806年(文化3)の将軍徳川家斉墨田川御成りの節,弘福寺御膳所で上講,寄席に高座を設けること
30. いとう-えんしん【伊東燕晋(初代)】
日本人名大辞典
伊東派の祖。江戸湯島天神境内の自宅で「曾我物語」などの軍談を講釈,湯島の燕晋とよばれた。文化3年将軍徳川家斉(いえなり)に「川中島軍記」を御前講演。翌年非人頭(
31. いなばむら【稲葉村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
以後年々上納していた。年貢は寒川蔵(現千葉市中央区)に納めた。小間子牧付村の一つ。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足三人
32. いまいずみむら【今泉村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
われる(「新田場村々反別覚」富塚家文書)。領主は幕末も同じ(旧高旧領取調帳)。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足五八人を出した(「山辺郡人足控」大原家文書
33. いものくぼむら【神窪村】千葉県:八千代市地図
日本歴史地名大系
旗本小栗・富士領。各村級分はカノクホ、元禄郷帳はイモノクボと振仮名を付す。寛政七年(一七九五)将軍徳川家斉の小金牧鹿狩に際して勢子人足四人を課せられている(江野
34. 植崎九八郎上書
世界大百科事典
ている。しかし改革政治が彼の期待とは異なる方向へ展開したため,今度は1801年(享和1)将軍徳川家斉に改革政治批判をまとめた《牋策(せんさく)雑収》を上呈した。
35. うめむら【梅村】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の大奥女中。西丸大奥中臈(ちゅうろう)として徳川家斉(いえなり)の世子家慶(いえよし)につかえる。延命院住職日道と知りあって密会をかさね,享
36. うわやしんでん【上谷新田】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
幕府領・旗本中川領。慶応二年(一八六六)の捉飼場五郷連印帳(渡辺家文書)では中川領と鶴牧藩領。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足四人を出した(「山辺郡人足
37. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
測量する1802(享和2)5月 蝦夷奉行を箱館奉行と改称1804(文化1)9月 レザノフ長崎に来航、貿易要求。徳川家斉の文化・文政時代始まる1805(文化2)3
38. えどてんめいしちねんうちこわし【江戸天明七年打毀】
国史大辞典
破壊しつくしたといってよい。翌七年春には米価は若干下落したのに、飢饉と世情不穏を尻目に、四月十一代徳川家斉の将軍宣下の儀式が行われて市中の米価高騰を煽り、五月初
39. えのきどしんでんむら【榎戸新田村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
れず、佐倉藩へ檍葉を食用とすることを願出ている(佐倉厚生園文書)。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足一三人が徴用された(
40. えべすむら【江弁須村】千葉県:成田市地図
日本歴史地名大系
に一揆に参加した(佐倉藩年寄部屋日記)。佐倉牧のうち内野牧付村の一。寛政七年(一七九五)将軍徳川家斉による小金原での鹿狩の時は下方村などとともに人足一五人が五の
41. えり画像
日本大百科全書
いっしょに地縫いしてから襟幅に絎くけて仕上げる絎け襟にする。 女の長着の襟を外折れにする風は、11代将軍徳川家斉いえなりのころから始まった。じみな表地の長着の襟
42. おいとのかた【お以登の方】
日本人名大辞典
?−1850 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。文化10年本丸御次として大奥にはいり,のち中臈(ちゅうろう)。3男2女を生んだ。信仰心があつく法蓮寺の日
43. おうたのかた【お宇多の方】
日本人名大辞典
?−1851 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。寛政4年本丸御次として大奥にはいり,中臈(ちゅうろう)となる。2男2女を生んだ。嘉永(かえい)4年8月7
44. おうめのかた【お梅の方(3)】
日本人名大辞典
?−1794 江戸時代後期,徳川家斉(いえなり)の側室。寛政4年大奥につかえる。将軍家斉の長女淑姫の守役となり,のち中臈(ちゅうろう)。6年5月1女を生むが,同
45. おおあみむら【大網村】千葉県:山武郡/大網白里町地図
日本歴史地名大系
文書)でも領主は同じ。旧高旧領取調帳では旧久喜藩領が出羽長瀞藩領となっている。寛政七年の将軍徳川家斉の鹿狩では勢子人足二三八人を出した(「山辺郡人足控」大原家文
46. おおくぼ-きょうなん【大久保狭南】
日本人名大辞典
1737−1810* 江戸時代中期-後期の儒者。元文2年生まれ。幕臣。徳川家斉につかえる。大内熊耳(ゆうじ)に師事し,江戸聖坂(ひじりざか)に居をかまえて郷土研
47. おおくぼしんでん【大久保新田】千葉県:習志野市地図
日本歴史地名大系
文久三年(一八六三)の改増で一一石余が加わった(旧高旧領取調帳)。寛政七年(一七九五)の一一代将軍徳川家斉の鹿狩で七ノ手の勢子を出した(安川家文書)。弘化三年(
48. 大御所時代
日本大百科全書
第11代将軍徳川家斉いえなりの治世中の文化ぶんか・文政ぶんせい・天保てんぽう(1804~44)にわたる時期をいう。この時代は寛政かんせいの改革と天保の改革に挟ま
49. 大御所政治
世界大百科事典
治基調とあまりにも対比的であるからにほかならない。高木 昭作 徳川家康 徳川秀忠 徳川吉宗 徳川家斉
50. おおせきしんでんむら【大関新田村】千葉県:八街市地図
日本歴史地名大系
含め一〇人で、最高が七石余、最低が二斗余、ほかは一石以上四石未満であった。寛政七年(一七九五)の将軍徳川家斉による小金原での鹿狩には、五番手詰に人足四人が徴用さ