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  11. 恵美押勝の乱

恵美押勝の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『恵美押勝の乱』の世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん

奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。

 かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に挽回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を剝奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。
[岸 俊男]

[索引語]
恵美押勝 藤原仲麻呂 淳仁天皇 道鏡 孝謙天皇 藤原久須麻呂 藤原良継 佐伯伊多智


日本大百科全書(ニッポニカ)

藤原仲麻呂の乱
ふじわらのなかまろのらん

奈良時代の反乱。恵美押勝の乱 (えみのおしかつのらん)ともいう。760年(天平宝字4)の光明皇太后 (こうみょうこうたいごう)死後、道鏡 (どうきょう)を寵愛する孝謙太上天皇 (こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂(恵美押勝)が擁立した淳仁天皇 (じゅんにんてんのう)の関係が険悪化し、762年には太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至る。764年、仲麻呂は太上天皇に申請して都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使 (ととくしきないさんげんおうみたんばはりまとうこくひょうじし)となり、管内の兵士の召集・簡閲(観閲)を認められた。しかしその数の改竄 (かいざん)が発覚し、天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印 (れいいん)を太上天皇側に奪われ、近江へ逃走する。道中で塩焼王 (しおやきおう)を偽立して今帝 (きんてい)としたが、追撃を受け、近江国高島郡勝野鬼江 (かちののおにえ)で斬殺された。乱後、淳仁天皇は淡路 (あわじ)に幽閉され、孝謙太上天皇が称徳天皇 (しょうとくてんのう)として重祚 (ちょうそ)する。

[〓川敏子]



国史大辞典

恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん
天平宝字八年(七六四)九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)が道鏡を除くために起した反乱。仲麻呂は孝謙上皇の寵を得て同二年太保(右大臣)に任じ、恵美姓を賜わり、四年太師(太政大臣)に任ぜられ権勢を極めたが、同年六月七日、彼の支持者である叔母の光明皇太后が崩じたことが失権の端緒となった。上皇は五年十月近江の保良宮に行幸、翌年五月まで滞在したが、その間に病み、道鏡が看病して治癒したので、彼を寵するようになった。押勝が擁立した淳仁天皇が、上皇の道鏡寵愛を批判したので、上皇は怒り、国家の大事と賞罰を行う大権とを手中におさめ、天皇に小事のみを委ねた。したがって押勝の権勢は次第に衰退した。翌七年押勝の専権をかねてから憎んでいた藤原良継・佐伯今毛人・大伴家持らの貴族は反押勝のクーデターを計画したが、事前に洩れ、良継が罪を一身に負うた。押勝は権勢回復を企て、六年十二月息三人を参議とし、その一人真光には大宰帥を兼ねさせていたが、八年正月、一族を右虎賁率(右兵衛督)、美濃・越前などの守に任じ、九月二日にはみずから都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、各国の兵を集めて反乱態勢を固めたが、十一日逆謀が洩れ、上皇は先手をうち淳仁天皇の手もとの中宮院鈴印を収めた。押勝は息訓儒麻呂(くずまろ)に鈴印を奪わせたが、上皇は坂上苅田麻呂を遣わしてこれを射殺させた。押勝は宇治を経て近江国高島郡に逃げ、塩焼王を立てて天皇とした。愛発(あらち)関より越前へ脱出しようとして、官軍にはばまれて果たさず、高島郡三尾崎で官軍と戦ったが藤原蔵下麻呂(くらじまろ)の援軍に敗られ、勝野鬼江で石村石楯(いわれのいわたて)に斬られ、一族ら三十四人も滅んだ。時に九月十八日。淳仁天皇は十月九日に廃位させられ、淡路の一院に幽閉されたが、天平神護元年(七六五)十月脱走を企てて捕えられ、翌日怪死した。押勝に代わり道鏡が権勢を得た。→藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
[参考文献]
岸俊男『藤原仲麻呂』(『人物叢書』一五三)、北山茂夫「藤原恵美押勝の乱」(『日本古代政治史の研究』所収)、角田文衛「恵美押勝の乱」(『律令国家の展開』所収)
(横田 健一)
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1. 恵美押勝の乱
世界大百科事典
奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇とし
2. えみのおしかつのらん【恵美押勝の乱】
国史大辞典
[参考文献]岸俊男『藤原仲麻呂』(『人物叢書』一五三)、北山茂夫「藤原恵美押勝の乱」(『日本古代政治史の研究』所収)、角田文衛「恵美押勝の乱」(『律令国家の展開
3. 愛発関
世界大百科事典
生等のとき閉鎖され,京における反乱者の東国逃亡の防止をめざした。764年(天平宝字8)9月恵美押勝の乱のとき,押勝は子息辛加知が国守を務める越前に愛発関を通り入
4. あわじのくに【淡路国】兵庫県
日本歴史地名大系
は廃帝淳仁天皇をはじめとして、天皇家の人々の配流の地となる。淳仁は天平宝字八年(七六四)の恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)後、押勝を滅ぼして政権を握った孝謙太上天
5. 印刷画像
世界大百科事典
陀羅尼は梵語dhāraṇīの音訳で,仏教経典の呪文を意味する。奈良朝の称徳女帝は764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱の平定後に発願して高さ4寸5分の木製小三重塔
6. いんさつ【印刷】
国史大辞典
明証ある世界最古の印刷物の伝存するものは、わが法隆寺に伝わった「百万塔陀羅尼」で、天平宝字八年(七六四)、恵美押勝の乱が平定されたとき、称徳天皇が仏恩を謝するた
7. 隕石画像
世界大百科事典
でも《続日本紀》天平宝字8年(764)9月18日条に〈是夜有星,落于押勝臥屋之上〉とあり,恵美押勝の乱の折に星がおちたとあるものなどはしばしば引用されるが,いず
8. 淡海三船
世界大百科事典
陰道巡察使,文部少輔などを経て,763年ころ歴代天皇の漢風諡号(しごう)を撰定し,764年恵美押勝の乱のときには造池使として近江にあり功をあげて正五位上に進む。
9. おうみのみふね【淡海三船】
国史大辞典
六年正月文部少輔、八年八月美作守。同年九月正五位上勲三等近江介、当時造池使として近江におり、恵美押勝の乱鎮圧の功による。のちに中務大輔。天平神護二年(七六六)二
10. おおなかとみのきよまろ【大中臣清麻呂】
国史大辞典
天平宝字六年(七六二)十二月に参議、同七年正月に左大弁、同八年九月に神祇伯、翌天平神護元年(七六五)正月に恵美押勝の乱の功で勲四等を与えられ、同年十一月に従三位
11. おおのうじ【大野氏】
国史大辞典
また天平十二年(七四〇)の藤原広嗣の乱に持節征夷大将軍となってこれを平定している。そのほか鎮守判官大野横刀、恵美押勝の乱に活躍する大野真本、陸奥国伊治城の築城に
12. かみぐん【香美郡】高知県
日本歴史地名大系
香美郡にもその遺跡がある。「続日本紀」天平宝字八年(七六四)一〇月九日条に淳仁天皇の弟池田親王が、恵美押勝の乱後淳仁天皇が廃されて淡路に流されたのに関連して土佐
13. かみつみちのひたつ【上道〓太都】
国史大辞典
地方豪族出自の官人が国司兼国造という特異な初例となる。宮内大輔にも任じられた(卒伝)。同八年の恵美押勝の乱における向背は不詳だが、翌天平神護元年(七六五)八月の
14. 外衛府
世界大百科事典
)2月,大将以下の官員の数と官位相当とが定められたが,実際の設置は前年(天平宝字8)9月の恵美押勝の乱の直後にさかのぼるとみられる。近衛府・中衛府とともに地方豪
15. がいえふ【外衛府】
国史大辞典
と、前年の天平宝字八年(七六四)十月条に大将百済王敬福らの官人の名がみえており、同年九月の恵美押勝の乱の直後にはすでに設置されていたと考えられる。近衛府・中衛府
16. きうじ【紀氏】画像
国史大辞典
桓武朝にかけては広純・家守が参議、船守・古佐美が大納言となった。また軍事面でも諸人は征越後蝦夷副将軍、船守は恵美押勝の乱に戦功をたてて近衛大将まで進み、広純は陸
17. きびのまきび【吉備真備】
国史大辞典
ようやく天平宝字八年(七六四)正月の人事で、造東大寺司長官として中央に帰った。ここで同年九月に勃発した恵美押勝の乱では、従三位に昇叙され、中衛大将を兼ねて押勝の
18. 吉備由利
世界大百科事典
奈良時代後期の後宮の女官。由利の官歴は《続日本紀》に比較的に詳しく,764年(天平宝字8)9月の恵美押勝の乱鎮圧の後に従五位下から正五位上に昇り,《正倉院文書》
19. 軍制
世界大百科事典
軍団兵士が対外戦争に動員されることはなかったが,東北地方の蝦夷の征討や,藤原広嗣の乱(740),恵美押勝の乱(764)などには,その武力が駆使されている。しかし
20. 系図
世界大百科事典
上進させている(《日本書紀》)。淳仁天皇の761年(天平宝字5)には氏族志の編纂事業をさせているが,恵美押勝の乱などのため完成しなかった。桓武天皇も799年(延
21. 元号
世界大百科事典
天意のあらわれとみるのと同じく,災異を天の誡めとみる考え方に基づいている。災異改元は,奈良時代には恵美押勝の乱や凶作などを理由に行われた天平神護の改元(765)
22. 孝謙天皇
世界大百科事典
〉と宣言する。かくして淳仁天皇を擁立する藤原仲麻呂派との対立が激化し,ついに764年9月に恵美押勝の乱が起こったが,追討軍を発遣して仲麻呂一族を湖西に敗死させ,
23. こうけんてんのう【孝謙天皇】
国史大辞典
賞罰のことを行うと宣言した。淳仁天皇と結んだ藤原仲麻呂は次第に窮地におちいり、八年九月兵乱(恵美押勝の乱)を起した。上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、淳
24. こうけんてんのう【孝謙天皇】
日本架空伝承人名事典
という。仲麻呂が淳仁天皇に働き掛けて諫言させると、孝謙上皇は激怒。七六四年に仲麻呂は反乱(恵美押勝の乱)を起こしたが、鎮圧されて処刑、淳仁天皇は廃されて、淡路島
25. こだい【古代】画像
国史大辞典
波京遷都、天平勝宝八歳の諸兄の失脚、その翌天平宝字元年の橘奈良麻呂の反乱未遂事件、同八年の恵美押勝の乱、宝亀元年(七七〇)の称徳女帝の死に伴う僧道鏡の追放という
26. さえきうじ【佐伯氏】画像
国史大辞典
とって佐伯門と称された。これがのちの藻壁門である。奈良時代では正三位大宰帥となった佐伯今毛人、恵美押勝の乱平定に活躍した佐伯伊多智などが有名だが、橘奈良麻呂の変
27. 坂上氏
世界大百科事典
武芸の才を愛されて正四位上にのぼり,その子苅田麻呂(かりたまろ)が764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱に武将としての功あって大忌寸(おおいみき)の姓を授けられ,
28. さかのうえうじ【坂上氏】画像
国史大辞典
延暦四年六月以降大宿禰と、それぞれ賜姓された。坂上氏は代々武を尚ぶ家柄として知られ、奈良時代には恵美押勝の乱に功を立てた苅田麻呂、平安時代初期は蝦夷征討で名高い
29. 坂上苅田麻呂
世界大百科事典
でに朝廷軍事力の中核として,牡鹿(道嶋)嶋足らとともに,彼の名があげられている。764年の恵美押勝の乱には,授刀少尉として奮戦,朝廷軍大勝の因をなした。功により
30. さかのうえのかりたまろ【坂上苅田麻呂】画像
国史大辞典
犬養の子で田村麻呂の父。天平宝字元年(七五七)橘奈良麻呂が乱を企てたとき武勇を警戒されたほど。同八年の恵美押勝の乱に際し正六位上授刀少尉として中宮院の鈴印を守っ
31. さんげん【三関】
国史大辞典
がおきた時などに固関使を派遣し、関を閉鎖し警固にあたっている。天平宝字八年(七六四)九月の恵美押勝の乱に際し、愛発関をめぐり攻防戦が展開され、撃退された押勝が進
32. しぞくし【氏族志】
国史大辞典
興」とあるように、天平宝字八年の恵美押勝の乱などの事件に遭遇し、完成させることができなかった。菅原陳経の『菅原御家記』に『氏族志抄』の書名がみえ
33. しょうそういん【正倉院】奈良県:奈良市/奈良公園地区/若草山
日本歴史地名大系
がるものもある。出蔵は奈良時代から厳しく限られた場合にのみ許されたらしいが、天平宝字八年、恵美押勝の乱に際して四〇〇点近い武器類が出蔵されたまま戻されぬことをは
34. しょきしょうえん【初期荘園】
国史大辞典
ただこの方式では中央政界の変遷如何では経営に政治的圧力のかかる危険性があったため、天平宝字八年(七六四)の恵美押勝の乱後は東大寺三綱の手に経営が移ったが、国家の
35. 続日本紀 3 108ページ
東洋文庫
海中に投げこんだ。〔鎌束は〕これによって取調べをうけ断罪され、獄に下った。〔その後天平宝字〕八年の乱(恵美押勝の乱〉で獄囚が充満したため、〔獄から出して〕近江国
36. 続日本紀 4 211ページ
東洋文庫
〔天平〕宝字年間に授刀将曹(本書3、巻二十五注天参照)に任じられ、〔天平宝字〕八年(七六四)〔の恵美押勝の乱の時〕に恵美訓儒麻呂(藤原訓儒麻呂)が勅使を劫やかし
37. 書物の歴史 30ページ
文庫クセジュ
現在のところ、開版年代のはっきりした、世界最古の現存印刷物とされている。天平宝字八年(七六四年)、恵美押勝の乱が平定されたとき、当時の女帝称徳天皇が、三宝加護の
38. 実忠
世界大百科事典
1丈上方に切り上げて光背を立て,764年には高さ8丈3尺の巨大な露盤を東塔に据えた。同年の恵美押勝の乱に当たっては良弁の命で新薬師寺の西野に土塔を建立,また称徳
39. じっちゅう【実忠】画像
国史大辞典
)にはその目代となる。時に良弁は、東大寺別当・大僧都を兼任し、造東大寺司にも関与していた。恵美押勝の乱後には、西大寺や西隆寺の建立など、一連の仏事興隆事業に参画
40. 授刀衛
世界大百科事典
せしめたが,新たに授刀衛を置き,授刀舎人を管理せしめたものと考えられる。この後,764年の恵美押勝の乱に,授刀衛の官人は孝謙上皇方にあって活躍し,乱後上皇が重祚
41. じゅとうえい【授刀衛】
国史大辞典
武上皇の死後中衛府に所属することとなった授刀舎人四百人を管轄したと思われる。天平宝字八年の恵美押勝の乱にあたってはその官人・舎人の多くが孝謙上皇方にあって活躍し
42. すがうらむら【菅浦村】滋賀県:伊香郡/西浅井町
日本歴史地名大系
須賀神社があり、祭神淳仁天皇。天平宝字三年(七五九)淳仁天皇が当地に保良宮を営んだとか、同八年恵美押勝の乱後同天皇が隠棲したとの伝説がある。もと保良神社・菅浦大
43. すがじんじゃ【須賀神社】滋賀県:伊香郡/西浅井町/菅浦村
日本歴史地名大系
[現]西浅井町菅浦 祭神は淳仁天皇。天平宝字三年(七五九)淳仁天皇が当地に保良宮を営んだという所伝、同八年恵美押勝の乱後に同天皇が隠棲したという伝説がある。もと
44. すずかのせきあと【鈴鹿関跡】三重県:鈴鹿郡/関町
日本歴史地名大系
並に来帰れり。故、関に置らしむ」とまうす。重要な事件には関を閉じる固関が行われ、長屋王事件・恵美押勝の乱・薬子の乱・菅原道真の左遷・将門の乱・保元の乱などの時に
45. 瀬田唐橋
世界大百科事典
なることが多かった。672年の壬申の乱では大友皇子側はここで最後の決戦をいどみ,764年の恵美押勝の乱では孝謙上皇側がいち早く瀬田橋を焼き落としたことが戦局を大
46. たかしまちょう【高島町】滋賀県:高島郡
日本歴史地名大系
にかけて存在したと考えられている。安曇川町三尾里はその遺称地といわれる。壬申の乱の三尾城、恵美押勝の乱の際の勝野鬼江・三尾崎などの地名も当地域にかかわると思われ
47. 田村第
世界大百科事典
皇太子に擁立し,亡男真従(まより)の妻粟田諸姉をめあわせ,邸内に住まわせたので,田村宮とも称された。恵美押勝の乱後における田村第については,光仁天皇が田村旧宮で
48. 田原
世界大百科事典
字荒木(あらき)に山滝(さんりゆう)寺跡があり,奈良前期の瓦が散在している。764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱のとき,追討軍が〈田原道〉を通ったことが,文献史
49. 東海道名所記 2 297ページ
東洋文庫
 ら伝説(一〇二頁) 草津、佐々木四郎高綱伝説(一〇九頁)、李伯水死   譚(一一二頁)、恵美押勝の乱(コニ頁)、壬   申の乱(一一二頁)、比良明神の縁起(二
50. とうさんどう【東山道】滋賀県:総論
日本歴史地名大系
い。「日本書紀」の壬申の乱の記事に勢多橋がみえるのはこのためで、その後も橋が存続したことは恵美押勝の乱の記事で知られ、勢多橋経由の道は奈良時代を通じて東山道と北
「恵美押勝の乱」の情報だけではなく、「恵美押勝の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
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河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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