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  11. 徳川家綱

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国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典

徳川家綱
とくがわいえつな
一六四一 - 八〇
江戸幕府第四代将軍。一六五一―八〇在職。三代将軍家光の長子。寛永十八年(一六四一)八月三日生まれる。生母は増山氏おらく(お楽)の方。幼名竹千代。正保元年(一六四四)十一月家綱と名のる。慶安四年(一六五一)四月二十日父家光の死により、わずか十一歳で将軍となる。その後三十年にわたり在職。延宝八年(一六八〇)五月八日死去。四十歳。法号を厳有院といい、墓は上野寛永寺(東京都台東区)にある。将軍就任当初は、由井正雪・丸橋忠弥らのいわゆる慶安の変など、浪人による幕府顛覆計画が続いて発覚し、将軍幼少に伴う幕政の不安感も認められる。しかし前代の遺老酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋に加えて、家光の遺命を受けて保科正之が将軍輔佐の地位につき、これら老臣の協議による政治運営体制が確立して、政情は安定していた。慶安の変後の対策として当局は浪人を弾圧することなく、その発生源である大名の廃絶を減少させるため、養子の制限をゆるめ、末期養子を認めることとしたのも、首脳部の自信の表われといえよう。またその後政略的な大名処分もほとんどなくなり、寛文五年(一六六五)には大名から差し出させていた証人も廃止した。幕府の諸制度の大綱は寛永十年代に定められたが、寛文年間にいっそう整備された。また寛文九年に至って度量衡制度の全国統一がはじめてなった。家綱の治世はこのように社会秩序の安定期であったが、その後半期に入ると、商品経済の発達の影響が社会全般にあらわれ、武士の経済の窮乏、百姓一揆増加の傾向をもたらし始めた。家綱は成長後も病弱のため政治を主導しえず、初期の元老らの死去・隠退後は、大老酒井忠清が譜代中の門閥として政治の実権をにぎった。この時期、寛文八年に社会各層にわたる厳しい倹約令を発したのをはじめ、諸領主・代官の行政監督の強化などに努めているが、身分格式の固定化などに妨げられて、幕政は新しい社会情勢に対応してゆく柔軟性を失っていた。その障碍の打破は、家綱の死後、その弟綱吉が五代将軍に迎えられて敢行した。→寛文・延宝期(かんぶん・えんぽうき)
[参考文献]
『徳川実紀』四・五、朝尾直弘「将軍政治の権力構造」(『(岩波講座)日本歴史』一〇所収)、藤井譲治「家綱政権論」(『講座日本近世史』四所収)、辻達也「「下馬将軍」政治の性格」(『横浜市立大学論叢』人文科学系列三〇ノ二・三合併号)
(辻 達也)


日本大百科全書(ニッポニカ)

徳川家綱
とくがわいえつな
[1641―1680]

江戸幕府第4代将軍。3代将軍家光 (いえみつ)の長男。母は増山氏で於楽之方 (おらくのかた)という。寛永 (かんえい)18年8月3日誕生。幼名は竹千代。1644年(正保1)家綱と命名。翌1645年従三位権大納言 (じゅさんみごんだいなごん)となる。1650年(慶安3)世子 (せいし)となって西の丸に移り、翌1651年家光の死去に伴い、わずか11歳で将軍となった。家綱は徳川氏初の幼将軍であり、かつ長じても病弱であったため、自ら政治を行うことは少なく、保科正之 (ほしなまさゆき)、酒井忠勝 (ただかつ)、松平信綱 (のぶつな)ら徳川一門、元老および老中による集団指導のもとで、文治政治が行われ、幕政機構の整備とともに、この期に幕藩体制が確立された。世継ぎ問題を残したまま延宝 (えんぽう)8年5月8日没。40歳。東叡山 (とうえいざん)に葬る。法号は厳有院 (げんゆういん)。正室は伏見宮 (ふしみのみや)貞清親王の女 (むすめ)(浅宮)。

[藤野 保]



世界大百科事典

徳川家綱
とくがわいえつな
1641-80(寛永18-延宝8)

江戸幕府4代将軍。3代将軍家光の長男。母は於楽之方(宝樹院)増山氏。幼名竹千代。1651年(慶安4)8月18日将軍宣下をうけ,11歳で将軍となる。このとき正二位内大臣に叙任。生来病弱で,家光の死の直後には慶安事件が起こるなど政情不安を招くが,保科正之や前代からの大老酒井忠勝,老中松平信綱,阿部忠秋らに補佐され,在職29年の間には幕府諸制度が整備された。63年(寛文3)家光の13回忌にあたって日光へ社参するが,前3代の将軍とは異なり一度も上洛しなかった。家綱の後年は明暦の大火を契機として幕府財政が悪化し,〈下馬将軍〉と呼ばれた酒井忠清の専断がみられるなど,幕政に緩みが見えはじめた。子がなく,弟の綱吉を嗣子とした。法号は厳有院殿。墓所は上野寛永寺。
[藤井 譲治]

[索引語]
厳有院殿
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検索コンテンツ
1. 徳川家綱画像
日本大百科全書
江戸幕府第4代将軍。3代将軍家光いえみつの長男。母は増山氏で於楽之方おらくのかたという。寛永かんえい18年8月3日誕生。幼名は竹千代。1644年(正保1)家綱と
2. 徳川家綱
世界大百科事典
1641-80(寛永18-延宝8) 江戸幕府4代将軍。3代将軍家光の長男。母は於楽之方(宝樹院)増山氏。幼名竹千代。1651年(慶安4)8月18日将軍宣下をうけ
3. とくがわ‐いえつな【徳川家綱】
日本国語大辞典
江戸幕府第四代将軍。家光の長男。幼名竹千代。慶安四年(一六五一)将軍となる。年少で病弱のため保科正之、松平信綱らが補佐、老中政治を確立。養子の禁緩和、殉死の禁な
4. とくがわいえつな【徳川家綱】画像
国史大辞典
一六四一―八〇 江戸幕府第四代将軍。一六五一―八〇在職。三代将軍家光の長子。寛永十八年(一六四一)八月三日生まれる。生母は増山氏おらく(お楽)の方。幼名竹千代
5. 徳川家綱
日本史年表
1651年〈慶安4 辛卯〉 8・18 家綱 、江戸で将軍宣下を受ける(江戸幕府日記)。 1680年〈延宝8 庚申⑧〉 5・8 没。
6. とくがわ-いえつな【徳川家綱】
日本人名大辞典
1641−1680 江戸幕府4代将軍。在職1651-80。寛永18年8月3日生まれ。徳川家光の長男。母はお楽の方(宝樹院)。慶安4年11歳で将軍となる。病弱のた
7. 徳川家綱[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:3件 『厳有院殿御送葬目録 1‐2』-『将軍家綱の画』-『四代将軍家綱と蓮華寺』門脇定吉
8. 葵紋1[図版]画像
国史大辞典
徳川家康 徳川秀忠 徳川家光 徳川家康 徳川家綱 徳川綱吉 徳川家宣 徳川吉宗 御紋控書 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. 德川家綱儉約 (見出し語:德川家綱)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 71ページ
10. 德川家綱爲征夷大將軍 (見出し語:德川家綱)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 5ページ
11. 徳川家綱印[図版]画像
国史大辞典
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12. 徳川家綱花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 徳川家綱廟
日本史年表
1698年〈元禄11 戊寅〉 9・6 寛永寺根本中堂に勅額下賜.江戸大火により 家綱廟 ・ 寛永寺 本坊など焼失( 勅額火事 )(実紀)。
14. 家綱公御元服記(著作ID:88642)
新日本古典籍データベース
いえつなこうごげんぶくき 徳川家綱元服記 家綱卿御元服記 林羅山(はやしらざん) 記録 正保二
15. いんげんりゅうき【隠元隆琦】(Yǐnyuán Lóngqí)
世界人名大辞典
寺に入る[55:明暦1].龍渓らによって京都妙心寺への住持が期待されたが実現せず,やがて将軍徳川家綱に謁見[58:万治1].幕府や後水尾天皇の帰依に支えられ,宇
16. あかしちぢみ【明石縮】
国史大辞典
伝えたのに始まるというから、明石縮は近世初めから発達し有名であったらしい。延宝三年(一六七五)、四代将軍徳川家綱から酒井忠清への賜物のなかに、京縮とともに明石縮
17. あきこじょおう【顕子女王】
日本人名大辞典
貞清(さだきよ)親王の第7王女。寛永16年11月10日生まれ。浅宮とよばれた。明暦3年4代将軍徳川家綱と結婚。乳がんにかかったが,侍医に直接診察をゆるさず,延宝
18. あさくさみよしちよう【浅草三好町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
内備考)、正保江戸絵図には「御馬屋」とある。「山谷荒波馬頭観音縁記」には寛文三年(一六六三)徳川家綱日光社参のとき荒波という名馬を取寄せ、江戸へ帰城後も浅草御厩
19. あさのながのり【浅野長矩】
国史大辞典
子として生まる。母は内藤忠政の女。延宝三年(一六七五)三月父の遺領五万三千五百石を継ぎ、四月徳川家綱にはじめて拝謁、同八年八月従五位下内匠頭に叙任した。天和三年
20. 安宅船
日本史年表
1662年〈寛文2 壬寅〉 6・10 徳川家綱、江戸佃島で 安宅船 を観覧(実紀)。
21. あだちく【足立区】東京都地図
日本歴史地名大系
一六六五)で、鹿浜村(加々皿沼を含む)・堀之内村・沼田村・高野村(谷在家村を含む)の四ヵ村が徳川家綱によって寛永寺に寄進されている(東叡山資料・東叡山方書物之写
22. あとべ-よしたか【跡部良隆】
日本人名大辞典
江戸時代前期の武士。寛永8年生まれ。跡部良顕(よしあきら)の父。幕臣。慶安元年小姓組,翌年将軍徳川家綱の日光参詣に供奉する。延宝9年使番。貞享(じょうきょう)2
23. あべ-じゅんてい【安部順貞】
日本人名大辞典
江戸時代前期の医師。黒谷養南にまなぶ。小児科医として名声を博し,京都からまねかれて幕府の医官として幼少の徳川家綱付となった。寛永19年(1642)法印をさずけら
24. あめざわむら【雨沢村】長野県:上伊那郡/辰野町
日本歴史地名大系
正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻に「高三拾弐石 西沢村」とある。次いで寛文四年(一六六四)の鳥居忠則宛徳川家綱領知状并目録に伊那郡七五ヵ村のうちの一村として
25. 泡盛
世界大百科事典
て琉球焼酒(しようしゆ)(焼酎)の製造がはじまったとされ,泡盛の名は1671年尚貞王から将軍徳川家綱への献上品目録にはじめて見える。洋の東西を問わず,蒸留酒を移
26. あんどう-じんござえもん【安藤甚五左衛門】
日本人名大辞典
駿府城代(すんぷじょうだい)稲葉正吉の家老。明暦2年近臣松永喜内と通謀して正吉を殺し自殺にみせかけたが,将軍徳川家綱が死因をしらべさせた結果真相がわかり,同年8
27. いいだまちごちようめ【飯田町五丁目】東京都:千代田区/旧麹町区地区地図
日本歴史地名大系
水路は寛文期(一六六一―七三)までに埋立てられ、改めて屋敷割がなされた。定火消秋山十右衛門正俊、四代将軍徳川家綱の傅役内藤筑後守重種の屋敷などがあった。その後大
28. いけいそうえつ【怡渓宗悦】
国史大辞典
江戸時代の茶道の石州流怡渓派(怡渓流)の祖。大徳寺二百五十三世。江戸品川東海寺高源院の開祖。四代将軍徳川家綱の茶道の師範で、石州流をひらいた片桐貞昌や、その老臣
29. いこうむら【伊興村】東京都:足立区地図
日本歴史地名大系
。江戸時代初めは幕府領。天和元年(一六八一)以後、一部が東叡山寛永寺領となる。まず天和元年に徳川家綱正室高厳院供養料として約三〇〇石、さらに貞享元年(一六八四)
30. いしだむら【石田村】静岡県:静岡市/旧有渡郡・庵原郡地区
日本歴史地名大系
戦国期は石田郷と称された。寛永九年(一六三二)幕府領、寛文四年(一六六四)久能山東照宮領となったとみられ(「徳川家綱領知判物」久能山東照宮文書など)、変化なく幕
31. いしはら-のぶよし【石原信由】
日本人名大辞典
藩士。寛文8年藩主酒井忠直の命により渾天儀(こんてんぎ)(天球儀)作製役となる。渾天儀は将軍徳川家綱に献上され,10年日光東照宮に奉納された。元禄(げんろく)4
32. 出雲大社画像
世界大百科事典
った。近世には,社殿の造営は1609年(慶長14)に豊臣秀頼により,67年(寛文7)には将軍徳川家綱によって行われたが,現在の社殿はその次の1744年(延享1)
33. いずもたいしゃ【出雲大社】島根県:簸川郡/大社町/杵築宮内村
日本歴史地名大系
たものの一つ。二重亀甲剣花菱紋蒔絵文台・硯箱(附外箱一合)は、寛文七年の造営・遷宮の際に将軍徳川家綱が寄進。紙本墨書出雲大社文書は二三七通、三六冊、四帖。年代的
34. いせじんぐう【伊勢神宮】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
たとされる。外玉垣の内に四丈殿(もと斎内親王侍殿と称する。正遷宮の中絶とともに廃絶、元禄五年徳川家綱の母の寄付により再興)がある。内玉垣の内に蕃垣御門(もとは内
35. いたみ-かつしげ【伊丹勝重】
日本人名大辞典
江戸時代前期の武士。寛永14年生まれ。甲斐(かい)(山梨県)徳美(とくみ)藩主伊丹康勝の3男。徳川家綱に小姓としてつかえ,承応(じょうおう)2年兄の徳美藩主伊丹
36. いたみごうちょう【伊丹郷町】兵庫県:伊丹市
日本歴史地名大系
大坂と有馬(現神戸市北区)を結ぶ大坂道に沿う。初め伊丹町(慶長国絵図・正保郷帳)や伊丹村(「徳川家綱判物」「徳川綱吉判物」「徳川吉宗判物」内閣文庫蔵)とよび、別
37. いたみまち【伊丹町】兵庫県:伊丹市/伊丹郷町
日本歴史地名大系
正保郷帳、寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)などに記載される伊丹町や、将軍徳川家綱・綱吉・吉宗などの領知判物にある伊丹村は伊丹郷町全体をさ
38. いっそう-はちろうえもん【一噌八郎右衛門】
日本人名大辞典
京都から江戸にうつり,天海につかえる。藤堂侯,水戸侯ら諸侯の邸に出入りし,のち水戸侯の推挙で将軍徳川家綱のお抱えとなり,一噌を姓とした。元禄(げんろく)16年3
39. いながき-しげうじ【稲垣重氏】
日本人名大辞典
1641−1712* 江戸時代前期の武士。寛永18年生まれ。幕臣。明暦2年徳川家綱につかえ,書院番,小姓組頭をへて,延宝9年堺奉行,貞享(じょうきょう)5年持弓
40. いわざきむら【岩崎村】栃木県:今市市
日本歴史地名大系
帳)。慶安郷帳に武蔵岩槻藩領として村名がみえ、田一一五石・畑一〇一石余。承応二年(一六五三)徳川家綱によって大猷院領として寄進された一村とみられ、以後日光領。寛
41. 隠元画像
日本大百科全書
らの反対も強く、結局、摂津(大阪府)普門寺に迎えられた。1658年(万治1)江戸に赴き、将軍徳川家綱とくがわいえつなに謁見、翌1659年酒井忠勝さかいただかつら
42. 隠元
世界大百科事典
た。58年(万治1)江戸に行き湯島の麟祥院に寄寓していたが,同年11月竜渓の尽力があって将軍徳川家綱に謁している。幕府は山城宇治に寺地を授け,寺領400石を与え
43. いんげんりゅうき【隠元隆〓
国史大辞典
同年九月摂津富田の普門寺に移った。竜渓の奔走により万治元年(一六五八)十一月参府登城して将軍徳川家綱に謁し、大老酒井忠勝の勧めもあって日本永住を決意し、幕府から
44. 隠元隆琦
日本史年表
、長崎に来航(通航一覧)。 1658年〈万治元(7・23) 戊戌⑫〉 11・1 隠元隆琦 、徳川家綱に謁見(江戸幕府日記)。 1659年〈万治2 己亥〉 6・‐
45. いん-じゅんし【尹順之】
日本人名大辞典
1592−1666 朝鮮王朝の官僚。宣祖25年生まれ。寛永20年通信正使として,将軍世継ぎ(徳川家綱)誕生の祝賀と日光東照宮への献額などのため来日。日朝の友好を
46. いんばぐん【印旛郡】千葉県
日本歴史地名大系
承応元年公津村(現成田市)の名主木内惣五郎(佐倉宗吾郎)は、佐倉藩の年貢取立てに苦しむ領民の代表として将軍徳川家綱に窮状を訴えたという。のち宗吾供養堂(現成田市
47. うめはら-しげひさ【梅原重寿】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代前期の蒔絵(まきえ)師。梅原久音の子。延宝8年(1680)4代将軍徳川家綱の廟(びょう)が上野寛永寺につくられたとき,幸阿弥長房らとともに参加。
48. 運敞
日本大百科全書
学ぶ。智山派の第一座を経て、1661年(寛文1)に智山派第7世能化のうけ(総主)となる。将軍徳川家綱とくがわいえつなの帰依きえを得て寺域を贈られ、また後水尾ごみ
49. 回向院
日本大百科全書
する。1657年(明暦3)の明暦めいれきの大火(振袖ふりそで火事ともいう)による焼死者を将軍徳川家綱の命によりここに葬り、増上寺ぞうじょうじ第23世遵誉じゅんよ
50. 越後騒動
世界大百科事典
家老小栗美作は光長の異母弟市正(いちのかみ)の子万徳丸(15歳)を推して光長の承諾を得,将軍徳川家綱に謁して三河守綱国とした。市正の弟永見大蔵や家老荻田主馬らは
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