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長岡京

ジャパンナレッジで閲覧できる『長岡京』の世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

長岡京
ながおかきょう

784年(延暦3)から794年まで,山城国乙訓(おとくに)郡(現在の京都府向日(むこう)市,長岡京市,京都市,乙訓郡大山崎町)にあった古代の都城。

 奈良時代末期の781年(天応1),父光仁天皇からはからずも帝位をゆずられた山部親王(桓武天皇)は,旧都平城京を捨てて新都を建設し,人心を一新して律令体制をたてなおそうとした。それは,平城京時代70年間に強大になった寺院勢力などの旧弊を断ち切り,新しい政治を行うことをめざすことでもあった。この新しい都づくりの土地として,大和から遠く離れた長岡京が選ばれたのは,人口が10万~20万人という大都市にふくれあがった平城京では,それだけの人口を支える物資を確保するための輸送が不便となり,水陸の便のよい土地が選ばれたためとする説,桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)の実家である土師(はじ)氏の居地であったためとする説,桓武天皇が深く信頼を寄せた寵臣藤原種継や藤原小黒麻呂の母方や妻の実家の秦氏の居地であったためとする説などの理由が考えられている。

 長岡京は,山背国乙訓郡長岡村の地が選ばれたことから,長岡京と名づけられ,宮殿(長岡宮)の中心部分は向日市鶏冠井(かいで)町等にある。1955年以来発掘調査が行われ,長岡京の実態がしだいに明らかにされてきた。昭和30年代には,宮殿内の儀式を行う中心部分である大極殿をはじめとする朝堂院の一帯が明らかにされ,昭和40年代には天皇の住居にあたる内裏の一画が明らかにされてきた。昭和50年代以降は,長岡京全域への調査が進められ,長岡京の都市計画の街路(条坊)のようすも明らかにされた。その結果,長岡京は平安京へ移るまでの準備期間の仮の都としてつくられたものではなく,本格的な都づくりが行われ,主要部の造営はほとんど完成していたことが明らかとなった。さらに,朝堂院が縮小され,内裏と朝堂院が分離し,宮殿内の構造や都市としての町割りの構造などにいろいろ新しい要素が取り入れられ,新しい都づくりが意欲的に進められていたことも明らかになってきた。このため,長岡京が10年間で廃止され,平安京へ移されることになったのは,仮の都であったからではなく,突然やむをえない事情が起こったためと考えられる。その原因として,怨霊によるものとする説と洪水によるものとする説の二つがある。怨霊によるものとする説は,785年,長岡京の造営を中心的に進めた造営長官藤原種継が暗殺され,その容疑者として皇太子早良(さわら)親王が捕らえられ,無実を主張して憤死した事件以後,桓武天皇の周辺に不吉なことが相次いで起こり,その原因が早良親王の怨霊によるものと信じられたためであるとするものである。洪水によるものとする説は,長岡京が都としての立地が悪く,たび重なる洪水,とくに792年の長岡京左京部分が冠水した大洪水により,桓武天皇に長岡京を捨てる決心をさせたというものである。
[高橋 美久二]

[索引語]
桓武天皇 早良(さわら)親王


日本大百科全書(ニッポニカ)

長岡京
ながおかきょう

平安時代初期、山城 (やましろ)国乙訓 (おとくに)郡に置かれた都城。現在の京都府向日 (むこう)市・長岡京市付近にあたる。桓武 (かんむ)天皇は784年(延暦3)11月11日に平城京からこの地に遷都し、以来794年10月22日に平安京に遷 (うつ)るまでここに都した。政治の中心である宮城は向日市に、経済の中心である東西市 (とうざいいち)は長岡京市に、交通の中心であり都の玄関にあたる山崎津 (やまざきのつ)は大山崎町に、淀津 (よどのつ)は京都市にあった。南北は十条、東西は左右各四坊計八坊あったと考えられているが、他の意見もある(平安京は南北9.5条、平城京の左京は9条、右京は9.5条分あった)。長岡京が南北に長いのは、南東部の淀付近が低湿地であり、南西部が山であった関係であろう。北部の宮の一部も丘のため建物は建てられていなかった。

 奈良が廃都になったのは、仏教勢力からの絶縁、人心一新が理由とされるが、人口が増えすぎ、物資の輸送に有利な水運の便を欠いたのが最大の原因であった。これに対し、長岡京の山崎津や淀津には、当時大洋や瀬戸内海を航行する船がそのまま遡航 (そこう)してくることができた。また天皇の信任の厚い藤原種継 (たねつぐ)の母や藤原小黒麻呂 (こぐろまろ)の妻の実家は、山背 (やましろ)(山城)の葛野 (かどの)郡や乙訓郡に居住する裕福な渡来系氏族秦 (はた)氏で、この一族が遷都については協力を申し出て、誘致に努力したらしい。しかし、785年には遷都の首唱者で造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、これに関係したとされる早良 (さわら)親王の廃太子事件が起きた。この時代、大規模な蝦夷 (えみし)征討事業も行われたが、その経済的負担も大きかった。ところが完成近かった都も洪水や政争が続き、早良親王の怨霊 (おんりょう)に悩まされた桓武天皇によって、わずか10年で平安京へ都を遷すこととなった。

[中山修一]

発掘調査

長岡京址 (し)の発掘は、1954年(昭和29)末以来84年末現在で、調査回数はすでに400回を超え、年間2億円近い発掘調査費を使って何か所かにおいて発掘と整理が行われている。発掘が進むにしたがって、最初考えた北京極 (きょうごく)の地より2本北に北京極大路 (おおじ)が考えられるようになり、町割は平安京型よりは平城京型に近く、南北は三都のなかでいちばん長いが東西幅は平安京より狭いことが明らかになった。

 長岡宮域にあたる向日神社付近は古墳も破壊されずそのままに残っているほかは、どこの発掘でも柱穴や礎石下の根石をみいだすことができる。なかには10年の間にすでに建て直されている所も何か所かみられ、ほぼ全域に工事は進められていたことがわかった。京域では東西南北の大路小路もほぼ完成し、民家も約1万棟は建っており、人口も5万人はある田園都市的な整頓 (せいとん)された美しい街であったと推定されるようになった。

 木簡の出土数も1000枚を超え、墨書土器とともに重要な資料を提供している。出土瓦 (かわら)には、藤原京・平城京・難波 (なにわ)京・保良 (ほら)宮瓦と長岡京固有の瓦とがあり、瓦や礎石、柱などはその後そっくり平安京へ運ばれている。

[中山修一]



国史大辞典

長岡京
ながおかきょう
山背国乙訓(おとくに)郡に、延暦三年(七八四)―十三年まであった都。宮域は京都府向日(むこう)市に、東西市は同長岡京市に、港津は、大山崎町の山崎津にあり、『続日本紀』延暦六年十月丁亥条の詔が、長岡遷都の理由を「水陸の便なる」(原漢文)とするとおり、その地は交通の要衝であった。その他京都市にも京域は拡がっていた。長岡京の歴史は、『続日本紀』や『日本紀略』『日本逸史』などに詳しいが、京内外の地理的記述は少ない。『続日本紀』によれば、長岡京の造営は延暦三年六月に開始され、同四年正月までには、大極殿・内裏が完成し、元日朝賀の儀がとり行われている。これら宮域の中枢部の施設は、後期難波宮(聖武朝)から移建されたもので、朝堂院は他の正都にみられない八堂形式をとる。『続日本紀』延暦八年二月庚子条は西宮から東宮へ内裏が移建したことを伝え、内裏ははじめて朝堂院から独立する。この構造は平安宮へ引き継がれる。二官八省など諸官庁の整備も進み、延暦五年七月には太政官院が完成する(『続日本紀』)。発掘調査でも「春宮」の墨書土器の出土した朝堂院南方の官衙、池や石組溝を伴う総柱礎石建物が検出された大蔵跡と推定される北辺官衙などが判明しつつある。これら長岡京の造営は、造長岡宮使が担当し、中でも長官の一人藤原種継はその推進者であった。しかし種継は延暦四年九月二十三日、造営反対勢力によって暗殺される。桓武天皇はその首謀者を早良皇太子として捕え、死に追いやる。そしてこれがのちに廃都の原因となる。昭和二十九年(一九五四)の朝堂院南門跡での第一回の調査に始まる発掘調査の進展により、条坊については資料も整い、約千二百点の墨書土器や約二千三百枚の木簡も出土して、文書や記録の不備を補えるようになった。北京極大路は現在の阪急電鉄東向日駅の南を西に向かう道路付近に相当し、南京極大路は、淀の京都競馬場の馬場の中心付近を南東隅に、大山崎町円明寺を南西隅とするライン上にある。南北の中心大路である朱雀大路は、三ヵ所で、その西側の側溝が確認されている。東京極大路の東端と西京極大路の西端は、朱雀大路の中心からほぼ二一四五メートルの所を南北に通っている。また南北の京極大路の外溝の距離はほぼ五三五〇メートルあった。長岡京の東南部は淀川の三支流の合流点にあたる低湿地帯であり、西南部は天王山麓にあたり、ともに市街化されにくかった。その分だけ都は北へ延び、二条大路より北に十二の町が並ぶことになる(ちなみに平安京は二条大路の北には十町、平城京は左京は八町、右京は十町あった)。ところが、図上復原当時に二条大路と考えられていた道路を発掘したところ、道路部分が九メートルと狭く、小路並みの広さしかなかった。反対に三条条間小路と思われていた道路の道路面だけで、二五メートルもあり、したがってこの道を二条大路と推定する意見もある。一条・二条・三条大路以下の大路・小路のあて方については、まだ確定はみていない。道路の側溝も各地で発見され、建物や生活用井戸の見つかっている町の数も八十以上が確認された。東西市のうち東市は長岡京市の古市地区内の棚次・典薬・橋本・綾織・寮・皮田の芝などの名のあるところに推定されている。しかし、数次の棚次地区の発掘では、まだその跡らしいものは見つかっていない。朱雀大路を軸として、東市の推定地を右京に移してみると、五条大路と認められている道路の北が西市の推定地となる。この付近には一般民家とは考えられない細長い家跡も発見されている。ところが近年、南東五〇〇メートルの右京六条二坊四町で(表)「自司進〓〓」、(裏)「三年十一月」の記載のある木簡が発見され、西市(司)の有力な比定地となった。『続日本紀』によれば京下に七寺があったという。鞆岡廃寺、乙訓寺、宝菩提院廃寺、樫原廃寺、川原寺などがその候補に考えられるであろう。木簡や墨書土器の発見によって、太政官厨家が左京二条二坊六町に所在したことが明らかとなり、ほかに宮域の東側から数多くの官衙的遺構や遺物が発見されている。このように整備が進んだにもかかわらず、延暦十二年正月、長岡京の廃止が決定され、新京候補地の視察が行われる。その最大の原因は、延暦七年以後、桓武天皇夫人藤原旅子、母高野新笠、皇后藤原乙牟漏が相ついで亡くなり、安殿皇太子も病気がちであったことにある。同十一年六月、これらの不幸を亀卜したところ、無実の罪で死んだ早良皇太子の怨霊による祟りと出る。怨霊に対する恐れがわずか数キロ離れただけの葛野郡宇多村への遷都を決定させたとする説もある。平安京の名もそれに起因していようか。→長岡遷都(ながおかせんと),→平安遷都(へいあんせんと)
[参考文献]
福山敏男・中山修一・高橋徹『新版長岡京発掘』(『NHKブックス』四六四)、中山修一編『よみがえる長岡京』(『朝日カルチャーブックス』四一)、長岡京跡発掘調査研究所編『長岡京』(長岡京跡発掘調査研究所ニュース合本)、中山修一先生古稀記念事業会編『長岡京古文化論叢』、『向日市史』、山中章・清水みき「長岡京」(坪井清足編『古代を考える宮都発掘』所収)
(中山 修一)
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1. 長岡京
日本大百科全書
平安時代初期、山城やましろ国乙訓おとくに郡に置かれた都城。現在の京都府向日むこう市・長岡京市付近にあたる。桓武かんむ天皇は784年(延暦3)11月11日に平城京
2. 長岡京
世界大百科事典
ている。 長岡京は,山背国乙訓郡長岡村の地が選ばれたことから,長岡京と名づけられ,宮殿(長岡宮)の中心部分は向日市鶏冠井(かいで)町等にある。1955年以来発掘
3. 長岡京[市]
世界大百科事典
1972年乙訓(おとくに)郡長岡町が市制を施行,改称して長岡京市となる。人口7万9844(2010)。市名は隣接する向日(むこう)市など当地一帯に所在した古代の
4. ながおか‐きょう[ながをかキャウ]【長岡京】
日本国語大辞典
〔一〕桓武天皇が延暦三年(七八四)京都府長岡京市から向日市・大山崎町・京都市にまたがる一帯の地に造営した都。造長岡宮使藤原種継の暗殺、廃太子早良親王の非業の死な
5. ながおかきょう【長岡京】画像
国史大辞典
山修一・高橋徹『新版長岡京発掘』(『NHKブックス』四六四)、中山修一編『よみがえる長岡京』(『朝日カルチャーブックス』四一)、長岡京跡発掘調査研究所編『長岡京
6. ながおかきょう【長岡京】京都府:向日市
日本歴史地名大系
門を壊して長岡京に移すなど、苦肉の策もとりながら工事は続行されたが、同一一年六月には雷雨のため式部省南門が倒れ、八月には大雨で桂川などが氾濫した。延暦一二年正月
7. 長岡京(市)画像
日本大百科全書
こうたり、海印寺かいいんじ、乙訓の3村が合併、町制施行して長岡町となり、1972年市制施行、長岡京市と改称。西部は標高200~400メートルの西山にしやま山地が
8. 長岡京
日本史年表
甲子⑨〉 6・10 藤原種継らを 造長岡宮使 とし、 長岡京 の造営を開始(続紀)。 784年〈延暦3 甲子⑨〉 11・11 天皇、 長岡京 に移る(続紀)。
9. ながおか‐の‐みやこ[ながをか‥]【長岡京】
日本国語大辞典
「ながおかきょう(長岡京)〔一〕」に同じ。
10. 長岡京域検出井戸・建物遺構および側溝位置図[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. ながおかきょうし【長岡京市】京都府
日本歴史地名大系
から一一年間都であった長岡京に由来する。ただし長岡宮の所在地は向日市にあり、また遷都に先立って同年五月一六日に藤原種継らに調査させた「長岡村」も向日市である。当
12. 長岡京造営
日本史年表
785年〈延暦4 乙丑〉 7・20 長岡京造営 のため、諸国百姓31万4000人を和雇する(続紀)。 788年〈延暦7 戊辰〉 9・26 長岡京造営 に役夫を
13. 長岡京市の要覧
日本大百科全書
面積:19.17平方キロメートル総人口:8万0090人(男:3万8789人、女:4万1301人)世帯数:3万2491戸※面積は国土交通省国土地理院『平成27年全
14. 京都府長岡京市位置図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan 作図/小学館クリエイティブ
15. 造長岡京使 (見出し語:使)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 372ページ
16. あいだぐん【英田郡】岡山県
日本歴史地名大系
〓」と記されるものがある。長岡京跡からも延暦九年(七九〇)の紀年銘木簡が一点出土している。「和名抄」記載の郷は、英多・江見・吉
17. あおう‐こうみょうじ[あはふクヮウミャウジ]【粟生光明寺】
日本国語大辞典
京都府長岡京市粟生にある西山浄土宗の総本山、光明寺の通称。アオーコーミョージ〓[コ]
18. あおむら【粟生村】京都府:長岡京市
日本歴史地名大系
[現]長岡京市粟生 現長岡京市の西北部に位置する。光明寺背後の山より同門前の平地部を占める。西山の一部をなし、古くは荒野・山野であったと思われる。鎌倉後期成立の
19. あさくちぐん【浅口郡】岡山県
日本歴史地名大系
意味するか明らかでない。もう一点の藤原宮跡出土木簡は大宝令制下のもので、「備□□浅口郡」とある。なお長岡京跡からも当郡川村郷からの貢進物につけられた付札とみられ
20. あたか【安宅】石川県:小松市/旧能美郡地区/安宅町
日本歴史地名大系
江沼郡潮津駅(現加賀市)と能美郡比楽駅(現美川町)の中間に位置し、駅馬五疋が置かれる定めであった。年欠の長岡京跡出土木簡のうちに、「安宅駅戸主財豊成戸五斗」とあ
21. あみだじ【阿弥陀寺】京都市:右京区/生田村地図
日本歴史地名大系
の建立であることが明らかとなった。喚鐘にも同年の銘がある。寺伝によると、粟生光明寺(現京都府長岡京市)や京都知恩院の僧侶が隠居して住持となったという。当寺所蔵の
22. あむかごう【奄可郷】島根県:隠岐国/周吉郡
日本歴史地名大系
東急本は「安無加」、名博本は「アンカ」と訓を付す。長屋王家木簡に「隠伎国周吉郡奄加里□部方男螺六斤和銅七年」、長岡京跡出土木簡に「隠伎国周吉郡奄可郷蝮王部益
23. あやべごう【綾部郷】岡山県:美作国/苫東郡
日本歴史地名大系
「和名抄」高山寺本に「安也倍」と訓ずる。郷域は加茂川中流域の河岸段丘を中心とする、現津山市綾部一帯と考えられる。長岡京跡出土木簡に「□綾部□」とある。同書による
24. あんようじ【安養寺】京都府:久世郡/久御山町/御牧郷
日本歴史地名大系
のち現在地に移転したという。観音堂(現本堂、本尊十一面観音)があり、弥陀次郎の開創という。粟生(現京都府長岡京市)の光明寺の釈迦如来の化身である托鉢僧の左頬に焼
25. 恵解山古墳
日本大百科全書
京都府長岡京ながおかきょう市勝竜寺しょうりゅうじおよび久貝くがい2丁目に所在する古墳時代中期の古墳。桂かつら川右岸の低地に立地する京都盆地西部では最大規模の前方
26. いげのやまこふん【恵解山古墳】京都府:長岡京市/勝竜寺村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市勝竜寺 桂川の支流小畑川・犬川両河川合流点の西方に位置する前方後円墳。標高一九メートル前後の低地にあり、地形的には犬川によって形成された谷底平野の
27. 石川垣守
世界大百科事典
となった。伊予守,右京大夫,刑部卿などを歴任。正四位上に叙され,晩年に造長岡宮使・別当として長岡京造営の任を担った。宮内卿で没した。また仏心に厚く道璿(どうせん
28. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
のとしては、大部(丈部か)富賀満により建立され定額寺となり、かつ山城国乙訓郡海印寺(現京都市長岡京市、九世紀半ばに権少僧都道雄が鎮護国家のため建立した華厳宗道場
29. いずみさんみゃく【和泉山脈】大阪府:総論地図
日本歴史地名大系
ら八世紀には、山地南麓の紀ノ川河谷を奈良県五條市から和歌山市加太間を南海道が通過していたが、長岡京・平安京の時期になると、石川谷を南下して紀見峠を越えるルートに
30. 伊勢物語 114ページ
日本古典文学全集
〔二〕 延暦三年(七八四)奈良より長岡に遷都。同十三年山城に遷都、平安京と称す。「この京」とは長岡京か平安京か不明瞭だが、平安京を意識していると見てよい。平安都
31. 伊勢物語 159ページ
日本古典文学全集
などの解もある。今の京都府向日市辺りの地で、七八四年、平城京より遷都、七九四年に平安京に遷都される間、長岡京があった。ここでは、平安京に遷った後の「ゐなか」と見
32. いたごう【井田郷】静岡県:伊豆国/那賀郡
日本歴史地名大系
「和名抄」諸本にみえる郷名。訓を欠くが、イタであろう。延暦一〇年(七九一)一〇月一六日の長岡京跡出土木簡(「木簡研究」二〇―五九頁)に「那賀郡井田郷」とみえる。
33. 逸文(風土記) 439ページ
日本古典文学全集
)の祭神。以下は後補の文章か。乙訓坐火雷神社(延喜式内社)。乙訓神社と略称。現在の角宮神社(長岡京市井ノ内)が該当するか(志賀剛)。『続紀』の大宝二年(七〇二)
34. いでごう【井手郷】石川県:加賀国/石川郡
日本歴史地名大系
鶴来町近くまで広げるかで(日本地理志料)二説に分れる。郷名は井堰があったことにちなむのであろう。長岡京跡出土木簡に「(表)(異筆)井出郷戸主別宇治万呂(以下欠損
35. いなりづかこふん【稲荷塚古墳】京都府:長岡京市/井内村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市井ノ内 小西 井ノ内集落の西南方、標高四〇メートル余の台地上に営まれた南面する前方後円墳。全長四五メートル、後円部径二八メートル、前方部幅二〇メー
36. いなりやまこふんぐん【稲荷山古墳群】京都府:長岡京市/長法寺村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市長法寺 長法寺集落の南方、走田神社の裏山にあたる標高一一〇メートル前後の丘陵上に営まれた、古墳後期の群集墳。三基の円墳が丘陵の頂部(一号墳)および
37. いのうえ・けいすけ【井上敬介】[現代人名-囃子方]
能・狂言事典
太鼓方観世流 長岡京市 1955 2004 小寺俊三に師事
38. いのうちくるまづかこふん【井ノ内車塚古墳】京都府:長岡京市/井内村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市井ノ内 頭本 井ノ内集落の西方、西山山塊から東へ舌状に延びる台地上に営まれた、古墳後期の前方後円墳。南面する小墳で、前方部は府道向日―善峰線に面し
39. いのうちむら【井内村】京都府:長岡京市
日本歴史地名大系
[現]長岡京市井ノ内・西の京・滝ノ町 西山山塊のなだらかな丘陵部から小畑川に至る平地に位置する。南は今里村・粟生村、北は上里村(現京都市西京区)。井之内・井ノ内
40. いのへごう【井上郷】徳島県:阿波国/名東郡
日本歴史地名大系
「和名抄」伊勢本・東急本は「井乃倍」と読む。長岡京跡出土木簡に「阿波国名方郡井上庸」とあるのが初出である。「阿府志」は「渭ノ津・渭ノ山ト云ハ井上ノ残ル詞ナリ(中
41. いはらごう【井原郷】兵庫県:丹波国/氷上郡
日本歴史地名大系
訓は「為波良」。平城宮跡出土木簡に「(表)氷上郡井原郷上里赤搗米五斗」「(裏)上五戸語部身」とあり、長岡京跡出土木簡に「丹波国氷上郡□原郷米五斗□米」とみえ、前
42. いまざといせき【今里遺跡】京都府:長岡京市/今里村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市今里 乙訓寺のある台地上およびその東側の台地下の緩傾斜面に位置する、縄文時代から古墳時代に至る集落跡。昭和四一年(一九六六)、乙訓寺跡の発掘調査中
43. いまざとおおつかこふん【今里大塚古墳】京都府:長岡京市/今里村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市今里 長岡天満宮の北約六〇〇メートルの位置にある巨石古墳。標高三五メートル前後の低台地上に営まれた径四五メートル、高さ五・五メートルの円墳で、墳丘
44. いまざとくるまづかこふん【今里車塚古墳】京都府:長岡京市/今里村
日本歴史地名大系
[現]長岡京市今里 今里集落の東端部、標高二六―二八メートルの平地に営まれた、東面する前方後円墳。封土は早くに削平されたが、昭和五四年(一九七九)に実施された発
45. いまざとのいち【今里市】
国史大辞典
平安時代、平安京の南西にあたる今里、すなわち現在の京都府長岡京市域内今里付近に立った市。『醍醐雑事記』によると、はじめ康治元年(一一四二)十一月に饗庭川の北岸
46. いまざとむら【今里村】京都府:長岡京市
日本歴史地名大系
[現]長岡京市今里・柴の里・野添・一文橋・うぐいす台 現長岡京市北部の平地部に位置する。南は開田村、北は井内村で、井内村西部の山麓部に飛地がある。乙訓寺が村内に
47. いむなみごう【忌浪郷】石川県:加賀国/江沼郡
日本歴史地名大系
推定郷域内には富塚丸山古墳や富塚古墳群、七世紀末から八世紀初頭の建立と推定される弓波廃寺があり、長岡京跡出土木簡に「(表)忌浪郷戸主□下豊成戸米五斗」「(裏)延
48. 岩成友通
世界大百科事典
戦国末期の武将。三好三人衆の一人。三好長慶の一族。1566年(永禄9)三人衆の先鋒として山城勝竜寺城(現,長岡京市)を奪取,68年9月に織田信長に明け渡すまで当
49. 宇佐美貴史[Jリーグ・アウォーズで、ベストヤングプレーヤー賞を受賞]
イミダス 2018
獲得。18歳7カ月での受賞は、04年の森本貴幸に次ぐ若さ。 1992年5月6日、京都府生まれ。長岡京サッカースポーツ少年団を経て、2005年ガンバ大阪ジュニアユ
50. うさみ-たかし【宇佐美貴史】
日本人名大辞典
1992− 平成時代のプロサッカー選手。平成4年5月6日生まれ。ポジションはFW・MF。平成17年長岡京SSからガンバ大阪ジュニアユースに入団。21年高校2年で
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(世界大百科事典・日本国語大辞典)
共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為征蝦狄也」とあり、軍事基地として
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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