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  11. 太政大臣

ジャパンナレッジで閲覧できる『太政大臣』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

世界大百科事典・日本大百科全書・国史大辞典

世界大百科事典

太政大臣
だいじょうだいじん

令制における太政官(だいじようかん)の最高の官職で,日本固有の職。和訓では〈おおまつりごとのおおまえつぎみ〉といい,唐名では(大)相国。令では唐の三師(太師,太傅,太保),三公(太尉,司徒,司空)を兼ねる重職と位置づけられ,適任者のない場合には欠員とされ,〈則闕(そつけつ)の官〉ともいわれた。その具体的な職掌は令文にも記されておらず,〈非分掌之職〉であった。初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。857年(天安1)2月に藤原良房が人臣最初の太政大臣に任ぜられたのち,884年(元慶8)5月に光孝天皇はその職掌等について諸道博士等に諮問し,若干の意見の相違もあったが,基本点では格別に職掌とすべきもののない官という理解が多数をしめた。したがって以降も関白,摂政,内覧(ないらん)などの宣旨を別にうけないかぎり,太政大臣そのものでは実権のない官職として生きつづけた。

 明治時代に入って設置された太政官(だじようかん)においては,1871年(明治4)の官制改革で三条実美が太政大臣(だじようだいじん)となったが,85年に内閣制度ができて,太政大臣は廃された。
[佐藤 宗諄]

[索引語]
則闕(そつけつ)の官 太政大臣 大師(官職)


日本大百科全書(ニッポニカ)

太政大臣
だいじょうだいじん

太政官の最高の官職で、日本独自の官。和訓ではオオマツリゴトノオオマエツギミといい、唐名では(大)相国 (しょうこく)。令 (りょう)では唐の三師(太師、太傅 (たいふ)、太保)、三公(太尉 (たいい)、司徒、司空)を兼ねる重職とされ、適任者のない場合には欠員とされ、「則闕 (そっけつ)の官」といわれた。令文には「天子の道徳の師、四海の民の規範」などと記され具体的な職務が明記されておらず、「非分掌の職」と理解された。その初見は『日本書紀』天智 (てんじ)天皇10年(671)正月条で、大友皇子が任ぜられたことがみえるが、これは「百揆 (ひゃっき)を統 (す)べ、万機を親くす」る、いわゆる摂政 (せっしょう)に比すべき地位で、皇位継承予定者の地位をも示し、令制のそれとは大きく異なる。奈良時代には一時期太師 (たいし)と改称されたり、藤原仲麻呂 (なかまろ)や道鏡がこれに任ぜられたが、一般には名誉的な色彩が濃く、死後に与えられる贈官が原則であった。しかし857年(天安1)2月に藤原良房 (よしふさ)が任ぜられた例は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経 (もとつね)の太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問されたが、特筆すべき職掌のない「非分掌の職」という理解が多かった。したがって以降、関白・摂政・内覧などの宣旨を別に受けない限り、太政大臣そのものは名誉職的な官職として生き続け、幕末に至った。維新期には1871年(明治4)に復活し、85年まで存続した。

[佐藤宗諄]



国史大辞典

太政大臣
だじょうだいじん

(一)

律令制で太政官の最高の官。音は「Daijŏ daijin(だいじょうだいじん)」(『日葡辞書』)とも。訓は「於保万豆利古止乃於保万豆岐美(おほまつりごとのおほまつぎみ)」(『和名類聚抄』)、「おほきおとど」(『伊勢物語』)、「おほきおほいどの」(『源氏物語』)とも。唐名は太師・大相国・相国など。唐の三師(太師・太傅・太保)が「師〓範一人〓、儀〓形四海〓」、すなわち天子の師範で天下の模範、また三公(太尉・司徒・司空)が「経〓邦論〓道、燮〓理陰陽〓」、すなわち国家を経営し道徳を論じて自然の運行まで穏やかにする、という理想的な人物たちと規定されていたのを、日本では太政官の筆頭にただ一人置いた太政大臣の資格としてそのまま規定した。さらに三師・三公についての「無〓其人〓則闕」、すなわちそれにふさわしい人物がいなければ欠員としてもよいという規定も添えたので、太政大臣は「則闕官」ともよばれた。しかし、かような規定は、大宝元年(七〇一)制定の『大宝令』で採用されたようであり、天智天皇十年(六七一)に大友皇子が最初に任じられたばあいや、次の持統天皇四年(六九〇)の高市皇子のばあいは、大和朝廷時代に皇太子が天皇に代わって実務をとるという伝統を継いだものとみられている。『大宝令』以後は、天武天皇の皇子たちが「知太政官事」に任じられて太政官を指揮し、太政大臣の肩書は藤原不比等やその子らに没後の贈官として与えられただけであったが、天平宝字元年(七五七)『養老令』施行後は、不比等の孫の仲麻呂が太政大臣の官名を唐ふうに「太師」と改めてみずから就任し、僧の道鏡も「太政大臣禅師」と称した。この二人のばあいは、後世から太政大臣の先例に数えられていないが、当時の朝廷が太政大臣を単に理想的な人物に贈られる肩書としてでなく、最高の権力を伴う官とみていたことは確かである。平安時代初期に藤原氏が政治の実権を握ると、文徳天皇は天安元年(八五七)幼い皇太子の後見としてその外祖父の藤原良房を太政大臣に任じ、翌年に皇太子が即位して清和天皇となると良房は政務を代行し、実質的には摂政を勤めるに至ったが、勅で正式に摂政に任じられたのは貞観八年(八六六)応天門の変に際してであった。ついで清和天皇も貞観十八年に良房の養子の右大臣基経を摂政として幼い陽成天皇に譲位したが、右大臣では摂政の職務にふさわしくないとして元慶四年(八八〇)太政大臣に任じられた。だが同八年に壮齢の光孝天皇が即位すると基経は摂政を辞任したため、太政大臣という官だけで引き続き政務をとることができるかどうかが改めて問題になり、朝廷では博士たちに諮問した。その結果は太政大臣に職務分担がないことを確認したものの、唐の三師・三公が尚書省と関係ないのに対して、太政大臣は太政官を従えて内外の政を総括する官職であるという解釈に落ちついた。光孝天皇についで仁和三年(八八七)若い宇多天皇が即位すると、基経はまた太政大臣の職務を問題にしていわゆる阿衡(あこう)の紛議を起し、新たに関白に任じられて政務に関与することとなった。したがって摂政・関白や、のちの藤原道長のように内覧という宣旨などを、別に賜わらない限り、太政大臣に任じられるだけでは実権がないのであって、これが武家政権時代に朝廷が平清盛・足利義満・豊臣秀吉らの就任を許容した理由でもあった。一方、朝廷では、明治に至るまで、天皇の元服の際には摂政の太政大臣が加冠の役を勤めるという慣例が続いていた。
[参考文献]
早川庄八「律令太政官制の成立」(『日本古代官僚制の研究』所収)、橋本義彦「太政大臣沿革考」(『平安貴族』所収)
(青木 和夫)

(二)

明治時代前期の太政官制において天皇を補佐する最高の官職。廃藩置県直後の明治四年(一八七一)七月二十九日太政官職制の制定により、左右大臣・大納言などの職が廃止となり、太政官の中の正院に太政大臣・納言・参議などが設置された。太政大臣は正二位相当官で、一人に限り、その職務は「天皇ヲ補翼シ庶政ヲ総判シ祭祀外交宣戦講和立約ノ権海陸軍ノ事ヲ統知ス」と定められた。正院において天皇が万機を総判するのを納言とともに輔弼し、参議の参与を得て庶政を奨督するもので、勅書に加名〓印するのを任とした。同日右大臣であった三条実美が太政大臣に任命された。同年八月十日の官制等級改定で、太政大臣・左右大臣(納言に代えて再び設置)・参議の三職は、天皇を補翼する重官として諸省長官(一等官)の上に置かれ、等を設けないことが明記された。さらに六年五月二日の太政官職制の改正で、太政大臣の職務は「天皇陛下ヲ輔弼シ万機ヲ統理スル事ヲ掌ル、諸上書ヲ奏聞シテ制可ノ裁印ヲ〓ス」とされた。このように太政大臣は国務を総括すべき職掌にあったが、現実には内閣の議官たる参議が藩閥勢力を代表する実力者として政治運営の実権を握ったため、太政大臣の指導力は弱体であった。明治十八年十二月二十二日太政官制が廃止され内閣制度が創設されて、太政大臣は廃官となり、三条実美は内大臣に転じた。→太政官(だじょうかん)
[参考文献]
内閣官房編『内閣制度九十年資料集』、内閣制度百年史編纂委員会編『内閣制度百年史』上、林茂・辻清明編『日本内閣史録』一
(鳥海 靖)
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検索コンテンツ
1. おおき‐おおいどの[おほきおほいどの]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*源氏物語〔1001~14頃〕若菜上「おほきおほいどのの君たち、頭弁・兵衛佐・大夫の君など」
2. おおき‐おおいもうちぎみ[おほきおほいまうちぎみ]【太政大臣】
日本国語大辞典
オホキオホイマウチキミ」易林・書言・言海【太政大臣】易林・書言
3. おおき‐おおとの[おほきおほとの]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*夜の寝覚〔1045~68頃〕一「殿におはしつきておほき大殿に、けふはじめて御文きこえ給ふべき日とらせ給て」
4. おおき‐おとど[おほき‥]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*伊勢物語〔10C前〕一〇一「おほきおとどの栄花のさかりにみまそかりて」*蜻蛉日記〔974頃〕下・天延二年「
5. おおきまつりごと‐の‐おおまちぎみ[おほきまつりごとのおほまちぎみ]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*日本書紀〔720〕天智一〇年正月(寛文版訓)「大友皇子を以て、太政大臣(ヲホキ政ノオホマチキミ)に拝す」
6. おおさえ‐の‐きみ[おほさへ‥]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕太政大臣(だいじょうだいじん)をいう。*原中最秘鈔〔1364〕下「太政大臣事〈略〉同和名おほきおほいまうち君。おほさへのきみ。おほきおとどおほまつりのつか
7. おおまつりごと‐の‐おおまえつぎみ[おほまつりごとのおほまへつぎみ]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*観智院本類聚名義抄〔1241〕「太政大臣 オホマツリゴトノオホマヘツキミ」名義【大政大臣】名義
8. おおまつりごと‐の‐おおまつぎみ[おほまつりごとのおほまつぎみ]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)」に同じ。*二十巻本和名類聚抄〔934頃〕五「大政大臣 本朝式職員令云大政大臣〈於保万豆利古止乃於保万豆岐美〉」和名
9. おほき-おとど【太政大臣】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕《「大き大臣」の意》太政大臣。⇒だいじゃうだいじん
10. おほき-おほいどの【太政大臣】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕太政大臣。⇒だいじゃうだいじん
11. おほき-おほいまうちぎみ【太政大臣】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕太政大臣。⇒だいじゃうだいじん
12. だいじゃう-だいじん【太政大臣】
全文全訳古語辞典
「左右を経ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる」〈平家・1・鱸〉(平清盛は)左大臣右大臣を経験せずに内大臣から太政大臣従一位に昇進する。「太政大臣」の職務 太
13. 太政大臣
世界大百科事典
高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任
14. だいじょう‐だいじん[ダイジャウ‥]【太政大臣】
日本国語大辞典
」*読本・椿説弓張月〔1807~11〕後・二五回「太政大臣(ダイジョウダイジン)以下、四五十人の官職を止め」(2)「だじょうだいじん(太政大臣)(2)」に同じ。
15. 太政大臣(だいじょうだいじん)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 406ページ
16. 太政大臣(だいじょうだいじん)
日本大百科全書
は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経もとつねの太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問された
17. だじゃう-だいじん【太政大臣】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕⇒だいじゃうだいじん
18. だじょう‐だいじん[ダジャウ‥]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕(1)「だいじょうだいじん(太政大臣)(1)」に同じ。*中家実録〔1285頃か〕一「太政官 駄譲願〈略〉太政大臣之太政之訓、尤同唱也」(2)天皇の政務をと
19. だじょうだいじん【太政大臣】
国史大辞典
唐ふうに「太師」と改めてみずから就任し、僧の道鏡も「太政大臣禅師」と称した。この二人のばあいは、後世から太政大臣の先例に数えられていないが、当時の朝廷が太政大臣
20. だんじょう‐だいじん[ダンジャウ‥]【太政大臣】
日本国語大辞典
〔名〕「だいじょうだいじん(太政大臣)(1)」に同じ。*天草本平家物語〔1592〕一・一「ロクハラ ノ ニュウダウ サキ ノ Danjo
21. 太政大臣
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 401ページ
22. 太政大臣上日 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 1120ページ
23. 太政大臣封 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
封祿部 洋巻 第1巻 31ページ
24. 太政大臣爲准三宮 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
封祿部 洋巻 第1巻 327ページ
25. 太政大臣補任 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 481ページ
26. 太政大臣資人 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
封祿部 洋巻 第1巻 352ページ
27. 辭太政大臣 (見出し語:太政大臣)
古事類苑
政治部 洋巻 第1巻 1400ページ
28. だいじょうだいじん【太政大臣】
国史大辞典
⇒だじょうだいじん
29. 太政大臣(だじょうだいじん)
日本大百科全書
太政大臣
30. だいじょうだいじん‐ぜんじ[ダイジャウダイジン‥]【太政大臣禅師】
日本国語大辞典
一時的に設置した官職名。僧で太政大臣の職にある人。同天皇の寵愛を受けた僧道鏡がこれに任じられた。*続日本紀‐天平神護元年〔765〕閏一〇月二日・宣命「故是を以て
31. 太政大臣禪師(だいじょうだいじんぜんじ)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 414ページ
32. だじょうだいじんぜんじ【太政大臣禅師】
国史大辞典
藤原仲麻呂(恵美押勝)が反を起して敗死したが、押勝は太政大臣に相当する令外官の大師であった。代わって道鏡が同二十日に大臣禅師に任ぜられ、さらに翌年閏十月二日に太
33. 太政大臣再任
日本史年表
1149年〈久安5 己巳〉 10・25 藤原忠通 を再び太政大臣とする( 太政大臣再任 の初例)(本朝世紀)。
34. 太政大臣公相五百回忌追慕和歌(著作ID:3581531)
新日本古典籍データベース
だいじょうだいじんきんすけごひゃっかいきついぼわか 追善和歌/明和三年十月十二日 和歌 
35. 太政大臣現在補任(著作ID:357062)
新日本古典籍データベース
だいじょうだいじんげんざいぶにん 補任 
36. 太政大臣叙任式例(著作ID:281685)
新日本古典籍データベース
だいじょうだいじんじょにんしきれい 補任 
37. 太政大臣稱一人 (見出し語:一人)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 405ページ
38. 左大臣家歌合/長保五年(著作ID:1151231)
新日本古典籍データベース
さだいじんけうたあわせ/ちょうほうごねん 御堂七番歌合 入道前太政大臣家歌合 法成寺歌合 太政大臣殿卅講歌合 長保五年五月十五日左大臣道長歌合 大中臣輔親(おお
39. 太政大臣等座次 (見出し語:座次)
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 517ページ
40. 忠平家前栽合(著作ID:1400095)
新日本古典籍データベース
ただひらけせんざいあわせ 小一条太政大臣家歌合 太政大臣家前栽合 貞信公/太政大臣殿歌合 歌合 延長五
41. 小倉百人一首(91) 歌人/九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
もねむ定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/きり九条良経くじょうよしつね(後京極摂政前太政大臣ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん・藤原良経ふじ
42. 小倉百人一首(96) 歌人/入道前太政大臣(藤原公経)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
ならで ふりゆくものはわがみなりけり定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/はなさ入道前太政大臣にゅうどうさきのだいじょうだいじん(藤原公経ふじわらのきんつ
43. 小倉百人一首(76) 歌人/藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
(決まり字):歌を特定する字(音)/わたのはらこ藤原忠通ふじわらのただみち(法性寺入道前関白太政大臣ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん)菱川
44. 菅贈太政大臣歌集(著作ID:144990)
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かんぞうだいじょうだいじんかしゅう 菅原道真(すがわらみちざね) 詠 仲田顕忠(なかだあきただ) 編 歌集 
45. 菅贈太政大臣歌集(著作ID:145006)
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46. 菅原贈太政大臣歌集(著作ID:338216)
新日本古典籍データベース
すがわらぞうだいじょうだいじんかしゅう 菅原道真(すがわらみちざね) 詠 鱸貞治(すずきさだはる) 編 歌集 文化一二刊
47. 贈太政大臣信長公をいためる辞(著作ID:1083767)
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ぞうだいじょうだいじんのぶながこうをいためることば 贈太政大臣信長公をいためる辞 近衛前久(このえさきひさ) 
48. 被任太政大臣其闕以他人任大臣例(著作ID:4400062)
新日本古典籍データベース
だじょうだいじんににんぜられそのけつたにんをもってだいじんににんずるのれい 
49. 藤原基房任太政大臣大饗記(著作ID:3900478)
新日本古典籍データベース
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50. 文政十年任太政大臣御祝儀楽之記(著作ID:487263)
新日本古典籍データベース
ぶんせいじゅうねんにんだいじょうだいじんごしゅうぎがくのき 西四辻公尹(にしよつつじきんまさ) 雅楽 
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