1. いわい の 乱(らん)
日本国語大辞典
継体天皇二一年、筑紫国造(くにのみやつこ)、磐井が起こした反乱。大和政権による朝鮮半島経営の失敗に基づき、経済的な負担の大きかった北九州地方住民の不満が爆発した
2. 磐井の乱画像
日本大百科全書
離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯
3. 磐井の乱
世界大百科事典
と考えられる。《日本書紀》編者は,近江毛野による任那復興の不成功を,1年有半にも及んだとする磐井の乱と結びつけて説明するために,《古事記》が記すような事件を核心
4. いわいのらん【磐井の乱】
国史大辞典
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と
5. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
、五経博士を貢上522(継体16)司馬達等、仏教を伝来〔扶桑略記〕527(継体21)筑紫国造磐井の乱531(継体25)継体天皇没す532欽明天皇即位〔元興寺縁起
6. いきのくに【壱岐国】長崎県
日本歴史地名大系
遣新羅使の宅麻呂、遣高麗副使の益麻呂らがおり、いずれも対外交渉にかかわっていることが留意される。五二七年の磐井の乱は九州の勢力が独立的な存在で、畿内の対外交渉権
7. いわとやまこふん【岩戸山古墳】福岡県:八女市/吉田村
日本歴史地名大系
むが、磐井が生前に墓(寿墓)を築いたとする逸文の記事と照合される。さらに頭部を欠く石馬などは磐井の乱の際に官軍が破壊したとする記事と照合される。被葬者が判明する
8. おうみ‐の‐けぬ【近江毛野】
日本国語大辞典
大和時代の武将。継体天皇二三年(五二九)、筑紫国造磐井の乱鎮圧後、新羅(しらぎ)に侵略された任那(みまな)を回復するため渡海したが失敗。翌年帰国の途中対馬で病死
9. 近江毛野
世界大百科事典
翌年任那王はかえって毛野を攻撃した。彼の失政が日本へ報告され,継体天皇の命で召還される途中対馬で病死した。→磐井の乱熊谷 公男
10. 糟屋屯倉
世界大百科事典
点と見る必要はないが,磐井の乱終息後これに近い時期のことであったと思われる。その所在地は筑前国糟屋郡内と考えられるが,その規模や郡内のいずこかは明らかでない。→
11. かすやのみやけ【糟屋屯倉】福岡県:糟屋郡
日本歴史地名大系
「日本書紀」継体天皇二二年一二月条にみえる屯倉。同書によると筑紫君磐井の乱ののち、磐井の息子である葛子が贖罪のために献上したという。六世紀に入り当屯倉をはじめと
12. かほぐん【嘉穂郡】福岡県
日本歴史地名大系
この古墳群の隆盛期をなすものである。後期中頃以降に王塚古墳・寺山古墳が築かれた背景には、六世紀前半に起こった磐井の乱後に、鎌・穂波屯倉の設置に伴って急成長した地
13. かみつまぐん【上妻郡】福岡県:筑後国
日本歴史地名大系
八女地域を本拠地とする地方豪族に筑紫君がおり、「日本書紀」「古事記」、前掲風土記逸文には筑紫君磐井の乱の記事がみえる。「日本書紀」継体天皇二一年六月三日条による
14. くまもとし【熊本市】熊本県
日本歴史地名大系
これは今日の熊本市春日町(旧飽田郡)か、飽田郡の私部郷か、託麻郡の三宅郷ではないかといわれている。おそらく磐井の乱で没落した勢力のあとに設置されたものであろう。
15. 継体・欽明朝の内乱
日本大百科全書
経たのち安閑、続いて宣化が即位し、両朝の並立に至ったとした。戦後、この喜田貞吉の見解を一歩進めて、磐井の乱―辛亥の変―両朝並立を、全国的規模で展開された内乱とと
16. けいたい・きんめいちょうのないらん【継体・欽明朝の内乱】
国史大辞典
内北部や尾張にもひろがっており、これらの広汎な地方の勢力によって大和の勢力を圧倒したとみる。磐井の乱は、九州北部の有力豪族である筑紫国造磐井のおこしたものである
17. 継体・欽明朝の内乱
世界大百科事典
を重大な政変(辛亥の変)と推定した。戦後,喜田の2朝併立論は林屋辰三郎によって,継体朝末年の磐井の乱とあわせて対朝鮮半島政策をめぐる全国的内乱状況としてとらえ直
18. 継体天皇
世界大百科事典
穂宮に都したという。天皇の治世は朝廷は終始朝鮮対策に追われ,任那4県の割譲,北九州の筑紫国造磐井の乱などもあって,朝鮮の形勢はますます非となっていったが,天皇は
19. こうげぐん【上毛郡】福岡県:豊前国
日本歴史地名大系
・下毛郡であろう。「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)によれば、継体天皇二一年から翌年にかけての磐井の乱後、磐井は独り「豊前国上膳県」に逃れたというが、上膳県は当郡
20. 古事記 371ページ
日本古典文学全集
臣下が袁本杼命を皇位継承者に定めたことをいう。系譜的記事のみの天皇記が続く中で、継体天皇の条では、いわゆる磐井の乱に触れていることが注目される。しかし、その詳し
21. こせのおひと【巨勢男人】
国史大辞典
男人は大連大伴金村・物部麁鹿火とともにこれを支持し、当時すでに大臣であったという。同二十一年筑紫国造磐井の乱にも金村・麁鹿火とともに遠征し、同二十三年九月没した
22. 石人石馬
世界大百科事典
記している。さらに磐井をとり逃がした兵士が,怒って石人の手や石馬の頭を打ち落としたとも記す(磐井の乱)。この磐井の墓が八女市にある岩戸山古墳であることは確かで,
23. ぞやまこうごいし【女山神籠石】福岡県:山門郡/瀬高町/大塚村
日本歴史地名大系
唐大尺を用いた可能性が高い。城内の施設は未確認である。耶馬台国女王卑弥呼の居城説(三世紀代)や磐井の乱(五二七年)と絡める説などがあったが、現在は古代山城とする
24. 筑後将士軍談[文献解題]福岡県
日本歴史地名大系
古蹟・墳墓を踏査し発掘・研究してまとめたのが本書で、今日入手できない史料も多く含まれ貴重。巻一―二〇に磐井の乱から豊臣秀吉の朝鮮出兵、巻二一―二八に関ヶ原合戦か
25. ちくごのくに【筑後国】画像
国史大辞典
ては、水沼・上妻・八女・山門の各県が知られる。六世紀初め、継体天皇二十一―二十二年に筑紫国造磐井の乱がおこる。朝鮮における百済対新羅の抗争と関連し、大和政権の朝
26. ちくぜんのくに【筑前国】画像
国史大辞典
単位である県(あがた)としては、岡・伊覩・儺(な)などの各県が知られる。六世紀初めの筑紫国造磐井の乱により糟屋屯倉が大和政権に献上され、つづいて穂波・鎌屯倉およ
27. ちくぜんのくに【筑前国】福岡県
日本歴史地名大系
を恐れ「糟屋屯倉」を献じたとある。これは献じられた土地を大和政権が屯倉として指定したもので、磐井の乱を契機として大和政権による支配が強化され、外交権の一元化がな
28. つくしのいわい【筑紫磐井】
国史大辞典
を磐井の墓、さらに東の乗場(のりば)古墳(六世紀後半)を磐井の子葛子の墓にあてる説もある。→磐井の乱(いわいのらん),→岩戸山古墳(いわどやまこふん) [参考文
29. つくしのくにのみやつこ【筑紫国造】
国史大辞典
されるが改まった別系であろう。『筑後国風土記』逸文にも筑紫君磐井の墓の大古墳のことがある。→磐井の乱(いわいのらん),→岩戸山古墳(いわどやまこふん),→筑紫磐
30. 日本書紀 312ページ
日本古典文学全集
「制」は国や部族を統御する意。カトルは古訓。→九二ページ注四。二十二年十一月、物部麁鹿火によって、磐井の乱は平定。記に「此の御世に、竺紫君石井、天皇の命に従はず
31. ひうじ【肥氏】
国史大辞典
健緒純(くみ)」の姓名を賜わり、火国の統治者に任命されたとの伝承がみえる。六世紀初頭の筑紫君磐井の乱以後、筑前に進出、筑紫火君となり(『日本書紀』欽明天皇十七年
32. ひごのくに【肥後国】熊本県
日本歴史地名大系
いずれもその名の地域の有力豪族であった。肥後北部と中央部をその名に負う勢力がみえないのは、彼らが磐井の乱にくみして没落したためと推測されている。六世紀大和朝廷は
33. ひぜんのくに【肥前国】長崎県
日本歴史地名大系
らぬものであったことは明らかといえよう。筑紫国の西部が火国のうちとされた背景には六世紀前半の磐井の乱があったという指摘があり、それによれば、筑紫国の北部一帯に勢
34. ぶぜんのくに【豊前国】福岡県
日本歴史地名大系
阿射弥勝は同郡呰見郷の有力者であろう。このような秦氏の豊前国への進出は、継体天皇二二年に起こった磐井の乱後に大和政権の支配が九州に及んできたことにより、具体的に
35. ぶぜんのくに【豊前国】大分県
日本歴史地名大系
日神(天照大神)の三女神が宇佐島に天降り、宇佐国造はこれを祖神として安心院盆地の高台に奉斎した。前述のように磐井の乱後、宇佐国造は急に衰え、宇佐盆地の北の丘に移
36. まえばるし【前原市】福岡県
日本歴史地名大系
これと相前後して後期群集墳の築造が開始される。小型前方後円墳はこれら後期群集墳の盟主墳として位置付けられ、磐井の乱以降における地域の社会体制の変容ぶりを示すもの
37. むなかたたいしや【宗像大社】福岡県:宗像市/旧玄海町地区/田島村
日本歴史地名大系
本拠とする豪族水沼君とする。水沼君が宗像神を祀るとされた背景について、継体天皇二一年に起こった筑紫君磐井の乱の平定後、大和政権が筑後地方や有明海の海人集団を支配
38. もののべうじ【物部氏】画像
国史大辞典
「物部八十氏」と称された。大伴金村大連とともに継体天皇の擁立に加わった物部麁鹿火は、筑紫君磐井の反乱(磐井の乱)に際し、大将軍として遣わされて磐井を斬殺した。つ
39. もののべ‐の‐あらかい【物部麁鹿火】
日本国語大辞典
麻佐良の子。継体・欽明朝に大連(おおむらじ)として大伴金村と政治を主導、武将として重きをなし、筑紫国造磐井の乱を鎮定。生没年不詳。
40. もののべのあらかひ【物部麁鹿火】
国史大辞典
任那四県の百済への割譲に際して宣勅使となるが、妻の諫めにより病と称してその任を辞した。同二十一年、筑紫君磐井の乱には大将軍として筑紫に遣わされ、磐井の軍勢と戦う
41. 物部麁鹿火
世界大百科事典
と称して辞任した。527年,筑紫国造磐井(いわい)が新羅遠征軍の行く手を阻んで軍を起こすと(磐井の乱),大伴金村の推挙により磐井征討の将となり,翌年筑紫御井で磐
42. やまがし【山鹿市】熊本県
日本歴史地名大系
ほかに鍋田横穴群・城横穴群がある。チブサンと臼塚古墳はかつて墳頂部に石人を有し、六世紀前半の磐井の乱以前はこの一帯も筑紫の君磐井の支配下に置かれていたことを推測
43. やまとせいけん【大和政権】
国史大辞典
された袁本杼(男大迹、継体)大王は、大和に迎えられて新たな権力を形づくったが、北九州における磐井の乱(五二七年)などを経て、欽明―推古朝には官人の機構や国制も整
44. 【総論】福岡県
日本歴史地名大系
せられた伽耶奪回のために発した軍兵を、筑紫君磐井が筑紫・豊・肥の兵を動員して阻止した。これが磐井の乱の始まりで、一年有余の戦乱は磐井方の敗北に終わった。磐井の墳
45. 【総論】宮崎県
日本歴史地名大系
のちの国名でいえば日向・大隅・薩摩の三国の地域になる。筑・豊・肥の三国は五二七年に起こった筑紫国造磐井の乱に関する記事に登場することから、かなり古い地域呼称だと