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  11. 磐井の乱

磐井の乱

ジャパンナレッジで閲覧できる『磐井の乱』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

磐井の乱
いわいのらん
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と〓己呑(とくことん)を復興しようとした時、かねて反乱を計画して隙をうかがっていた筑紫国造磐井は、毛野臣の軍を防ぐため、新羅の貨賂(かろ)をうけ、火・豊二国に勢力をはり、外は高句麗・百済・新羅・任那の年ごとの貢物船を誘致し、内は任那に赴く毛野臣の軍をさえぎり戦った。よって天皇は大伴大連金村と物部大連麁鹿火・許勢(こせ)大臣男人に詔して、征討の将を選ばしめ、八月、金村の推した麁鹿火に斧鉞(ふえつ)を授け、「長門より東は朕が制し、筑紫より西は汝が制せよ」と命じた。同二十二年十一月、麁鹿火は大将軍としてみずから賊帥磐井と筑紫の御井郡に戦い、ついにこれを斬り、境界を定めた。十二月、磐井の子筑紫君葛子は父の罪により誅せられるのを恐れ、糟屋屯倉を献じ、贖罪を乞うたとある。この間一年有半に及んだごとく記され、翌年、毛野臣は安羅に至ったものの、任那復興に成功しなかったとある。この二十一年より二十三年にかけての毛野臣に関する外国関係記事は、『百済本記』などの記録によったものと思われるが、磐井反乱の伝承は国内記録によるものらしく、事件の核心は伝えているが、潤色が多い。『古事記』には、竺紫君石井が天皇の命に従わず、礼なきこと多く、物部荒甲と大伴金村の二人を遣わし、これを殺させたとあるのみで、『筑後国風土記』も基本はこれと変わらない。おそらくこの程度が事件の核心であったと推定される。ただ風土記には、生平の時に墓を造ったとあり、当時上妻県(筑後国八女郡)にあったその墓の状況を細かく記し、また磐井が豊前国上膳県(上三毛郡)に逃げ、その山中で終ったこと、官軍が怒って墓の石人石馬を打ち損じたことの二つの伝承を付加している。この墓については、福岡県八女市の岩戸山古墳がすべての状況によく適合し、八世紀のこの伝承は確かだと思われる。一般的にみて、雄略朝より継体朝にかけて国造の反乱が集中していることは、この間に、外に対しては、中国通交の杜絶後の百済・新羅に対する外交・軍事政策の転換、内にはそれに伴う部民制支配の質的な変化が急速に行われつつあったことから、この二つが国造層に重大な負担と脅威を与えたためと思われる。ことに筑紫に対してはそれが集中的に現われ、のちの例によってみれば、国造の率いる外征軍の構成にも、中央の部民制の浸透が著しく、国造の共同体を解体し、戸別の支配が進行していた形迹がある。また国造が新羅と通じていたことも、平安時代に大宰府貢綿が奪われたとき、「元来居〓止管内〓之輩」が新羅海賊に呼応したといわれ、また大宰少弐藤原元利万侶が新羅王に通謀し、国家を害せんと計ったとして糾明された事件もあることから、一概に否定はできないのではないか。ことに九州北部は新羅系文化の影響がつよいといわれている。→筑紫磐井(つくしのいわい)
[参考文献]
林屋辰三郎『古代国家の解体』、坂本太郎「継体紀の史料批判」(『日本古代史の基礎的研究』上所収)、三品彰英「継体紀の諸問題」(『日本書紀研究』二)
(平野 邦雄)


日本大百科全書(ニッポニカ)

磐井の乱
いわいのらん

6世紀前半に起こった筑紫君 (つくしのきみ)(国造 (くにのみやつこ))の反乱。『日本書紀』継体 (けいたい)天皇21年6月条によると、近江毛野臣 (おうみのけぬのおみ)は6万の軍隊を率いて任那 (みまな)に赴き、新羅 (しらぎ)に攻略されていた南加羅 (みなみから)と㖨己呑 (とくことん)を再興して任那にあわせようとした。新羅はひそかに反逆の志ある筑紫国造磐井に賄賂 (わいろ)を贈り、毛野臣の軍を防ぐよう勧誘した。磐井は、火(肥) (ひ)、豊 (とよ)の両国に勢力を張り、毛野臣の軍を遮った。8月になって、天皇は、大連 (おおむらじ)物部麁鹿火 (もののべのあらかび)に磐井を討つように命じ、翌22年11月に大将軍麁鹿火は磐井と筑紫の御井 (みい)郡(福岡県三井郡)で交戦しこれを斬 (き)った。12月、筑紫君葛子 (くずこ)は父に連座することを恐れて、糟屋屯倉 (かすやのみやけ)を献上して死罪を贖 (あがな)ったとある。

 一方、『古事記』では、継体天皇の御世、筑紫君石井 (いわい)が天皇の命に従わなかったので、物部荒甲 (あらかい)大連と大伴金村 (おおとものかなむら)連の2人を遣わしてこれを殺した、と簡単に記述されている。『筑後国風土記 (ちくごのくにふどき)』逸文(『釈日本紀 (しゃくにほんぎ)』所引)も『古事記』の理由と変わらないが、在地に密着した別伝を載せている。それによると、上妻県 (かみつやめのあがた)(福岡県八女 (やめ)郡の北東部)の南2里に筑紫君磐井の墓墳があり、それは磐井が生前から造営したもので周囲や別区に石人・石馬、石盾などの石造物を配置してあるという。また、磐井は官軍に勝てそうもないことを知って、ひとり、豊前 (ぶぜん)国上膳県 (かみつけのあがた)(福岡県筑上 (ちくじょう)郡の南部)に遁走 (とんそう)して死んだこと、官軍は磐井を逃がして怒りやまず、磐井の墓の石人・石馬を破壊して鬱憤 (うっぷん)を晴らしたと伝えている。

 磐井の反乱が『書紀』のいうように1年半に及ぶ大規模なものであったのか、またその反乱の原因に新羅がかかわっていたのかについては、『書紀』の記事には『百済本紀 (くだらほんぎ)』によって説明した部分、漢文的修飾を受けている部分が多く、史実は『古事記』の記事以上を出るものでないとする見解もある。ただ、考古学の方面から、岩戸山 (いわとやま)古墳(福岡県八女市吉田)が『筑後国風土記』の伝える磐井の墓のようすと適合することが証明され、しかもこの古墳を特徴づける石人・石馬の分布が、筑紫のみならず磐井が勢力基盤とした火・豊国にも及んでいることなど、『書紀』の一部の信憑 (しんぴょう)性を裏付けるものとなっている。この乱の意義については、従来、大和 (やまと)朝廷の朝鮮出兵の負担に耐えかねた地方豪族(国造)の反乱というのが通説であったが、近時、この乱は、畿内 (きない)王権とそれとは相対的に自立性をもった筑紫勢力(北部九州勢力)との外交権掌握をめぐる対立であり、筑紫勢力は畿内王権を離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯倉が設定され、筑紫勢力は、中央王権の一地方(国造)として秩序づけられることになる。

[小林敏男]



世界大百科事典

磐井の乱
いわいのらん

6世紀の初めに起こった筑紫国造(くにのみやつこ)の反乱。仁賢記以後,物語部分をもたない《古事記》だが,継体記にはとくに〈此の御世に筑紫君石井,天皇の命に従はずして礼なきこと多し。故,物部荒甲(あらかひ)の大連,大伴金村の連二人を遣わして,石井を殺したまひき〉と記す。《日本書紀》の記すところでは,継体21年(527)6月に近江毛野が6万の軍を率い,任那に赴き新羅に破られた南加羅・㖨己呑(とくことん)を復興しようとしたとき,かねて反乱の機をうかがっていた筑紫国造の磐井が,新羅の貨賂をうけ火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したので,天皇は大伴金村,物部麁鹿火,許勢男人らに征討を命じた。翌年11月に至って,大将軍の麁鹿火がみずから磐井と筑紫の御井郡で交戦し,ついにこれを斬ることをえた。12月磐井の子葛子は父の罪により誅せられることを恐れて,糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献じ贖罪を請うたとある。529年ようやく安羅に渡った毛野は目的の任那復興に成功しなかったというが,この527年から529年にかけての対外関係記事は《百済本記》などの記録によったものと考えられる。《日本書紀》編者は,近江毛野による任那復興の不成功を,1年有半にも及んだとする磐井の乱と結びつけて説明するために,《古事記》が記すような事件を核心として多くの潤色を施していると思われる。《釈日本紀》所引の《筑後国風土記》の記す事件も基本は《古事記》と変わらないが,磐井が豊前国上膳(かみつみけ)県に逃げ,その山中で終わったこと,そのため怒った官軍が磐井の生前に造っていた墓の石人石馬を破壊した話をも伝えている。《筑後国風土記》によれば,磐井の墓は上妻県(八女郡)の南2里にあり,墓の北東角には衙頭と称した一別区の存在したことがわかる。これらの点は福岡県八女市の岩戸山古墳の状況と合致しており,《筑後国風土記》のいう磐井の墓が岩戸山古墳を指すことはまちがいない。
[川口 勝康]

[索引語]
筑紫国造 近江毛野 磐井 岩戸山古墳
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検索コンテンツ
1. いわい の 乱(らん)
日本国語大辞典
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2. 磐井の乱画像
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離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯
3. 磐井の乱
世界大百科事典
と考えられる。《日本書紀》編者は,近江毛野による任那復興の不成功を,1年有半にも及んだとする磐井の乱と結びつけて説明するために,《古事記》が記すような事件を核心
4. いわいのらん【磐井の乱】
国史大辞典
六世紀初めに起った筑紫国造の反乱。『日本書紀』によると、継体天皇二十一年六月、近江毛野臣が六万の軍を率い、任那に赴き、新羅にやぶられた南加羅と
5. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
、五経博士を貢上522(継体16)司馬達等、仏教を伝来〔扶桑略記〕527(継体21)筑紫国造磐井の乱531(継体25)継体天皇没す532欽明天皇即位〔元興寺縁起
6. いきのくに【壱岐国】長崎県
日本歴史地名大系
遣新羅使の宅麻呂、遣高麗副使の益麻呂らがおり、いずれも対外交渉にかかわっていることが留意される。五二七年の磐井の乱は九州の勢力が独立的な存在で、畿内の対外交渉権
7. いわとやまこふん【岩戸山古墳】福岡県:八女市/吉田村
日本歴史地名大系
むが、磐井が生前に墓(寿墓)を築いたとする逸文の記事と照合される。さらに頭部を欠く石馬などは磐井の乱の際に官軍が破壊したとする記事と照合される。被葬者が判明する
8. おうみ‐の‐けぬ【近江毛野】
日本国語大辞典
大和時代の武将。継体天皇二三年(五二九)、筑紫国造磐井の乱鎮圧後、新羅(しらぎ)に侵略された任那(みまな)を回復するため渡海したが失敗。翌年帰国の途中対馬で病死
9. 近江毛野
世界大百科事典
翌年任那王はかえって毛野を攻撃した。彼の失政が日本へ報告され,継体天皇の命で召還される途中対馬で病死した。→磐井の乱熊谷 公男
10. 糟屋屯倉
世界大百科事典
点と見る必要はないが,磐井の乱終息後これに近い時期のことであったと思われる。その所在地は筑前国糟屋郡内と考えられるが,その規模や郡内のいずこかは明らかでない。→
11. かすやのみやけ【糟屋屯倉】福岡県:糟屋郡
日本歴史地名大系
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12. かほぐん【嘉穂郡】福岡県
日本歴史地名大系
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13. かみつまぐん【上妻郡】福岡県:筑後国
日本歴史地名大系
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14. くまもとし【熊本市】熊本県
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15. 継体・欽明朝の内乱
日本大百科全書
経たのち安閑、続いて宣化が即位し、両朝の並立に至ったとした。戦後、この喜田貞吉の見解を一歩進めて、磐井の乱―辛亥の変―両朝並立を、全国的規模で展開された内乱とと
16. けいたい・きんめいちょうのないらん【継体・欽明朝の内乱】
国史大辞典
内北部や尾張にもひろがっており、これらの広汎な地方の勢力によって大和の勢力を圧倒したとみる。磐井の乱は、九州北部の有力豪族である筑紫国造磐井のおこしたものである
17. 継体・欽明朝の内乱
世界大百科事典
を重大な政変(辛亥の変)と推定した。戦後,喜田の2朝併立論は林屋辰三郎によって,継体朝末年の磐井の乱とあわせて対朝鮮半島政策をめぐる全国的内乱状況としてとらえ直
18. 継体天皇
世界大百科事典
穂宮に都したという。天皇の治世は朝廷は終始朝鮮対策に追われ,任那4県の割譲,北九州の筑紫国造磐井の乱などもあって,朝鮮の形勢はますます非となっていったが,天皇は
19. こうげぐん【上毛郡】福岡県:豊前国
日本歴史地名大系
・下毛郡であろう。「筑後国風土記」逸文(釈日本紀)によれば、継体天皇二一年から翌年にかけての磐井の乱後、磐井は独り「豊前国上膳県」に逃れたというが、上膳県は当郡
20. 古事記 371ページ
日本古典文学全集
臣下が袁本杼命を皇位継承者に定めたことをいう。系譜的記事のみの天皇記が続く中で、継体天皇の条では、いわゆる磐井の乱に触れていることが注目される。しかし、その詳し
21. こせのおひと【巨勢男人】
国史大辞典
男人は大連大伴金村・物部麁鹿火とともにこれを支持し、当時すでに大臣であったという。同二十一年筑紫国造磐井の乱にも金村・麁鹿火とともに遠征し、同二十三年九月没した
22. 石人石馬
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記している。さらに磐井をとり逃がした兵士が,怒って石人の手や石馬の頭を打ち落としたとも記す(磐井の乱)。この磐井の墓が八女市にある岩戸山古墳であることは確かで,
23. ぞやまこうごいし【女山神籠石】福岡県:山門郡/瀬高町/大塚村
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唐大尺を用いた可能性が高い。城内の施設は未確認である。耶馬台国女王卑弥呼の居城説(三世紀代)や磐井の乱(五二七年)と絡める説などがあったが、現在は古代山城とする
24. 筑後将士軍談[文献解題]福岡県
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古蹟・墳墓を踏査し発掘・研究してまとめたのが本書で、今日入手できない史料も多く含まれ貴重。巻一―二〇に磐井の乱から豊臣秀吉の朝鮮出兵、巻二一―二八に関ヶ原合戦か
25. ちくごのくに【筑後国】画像
国史大辞典
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26. ちくぜんのくに【筑前国】画像
国史大辞典
単位である県(あがた)としては、岡・伊覩・儺(な)などの各県が知られる。六世紀初めの筑紫国造磐井の乱により糟屋屯倉が大和政権に献上され、つづいて穂波・鎌屯倉およ
27. ちくぜんのくに【筑前国】福岡県
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を恐れ「糟屋屯倉」を献じたとある。これは献じられた土地を大和政権が屯倉として指定したもので、磐井の乱を契機として大和政権による支配が強化され、外交権の一元化がな
28. つくしのいわい【筑紫磐井】
国史大辞典
を磐井の墓、さらに東の乗場(のりば)古墳(六世紀後半)を磐井の子葛子の墓にあてる説もある。→磐井の乱(いわいのらん),→岩戸山古墳(いわどやまこふん) [参考文
29. つくしのくにのみやつこ【筑紫国造】
国史大辞典
されるが改まった別系であろう。『筑後国風土記』逸文にも筑紫君磐井の墓の大古墳のことがある。→磐井の乱(いわいのらん),→岩戸山古墳(いわどやまこふん),→筑紫磐
30. 日本書紀 312ページ
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「制」は国や部族を統御する意。カトルは古訓。→九二ページ注四。二十二年十一月、物部麁鹿火によって、磐井の乱は平定。記に「此の御世に、竺紫君石井、天皇の命に従はず
31. ひうじ【肥氏】
国史大辞典
健緒純(くみ)」の姓名を賜わり、火国の統治者に任命されたとの伝承がみえる。六世紀初頭の筑紫君磐井の乱以後、筑前に進出、筑紫火君となり(『日本書紀』欽明天皇十七年
32. ひごのくに【肥後国】熊本県
日本歴史地名大系
いずれもその名の地域の有力豪族であった。肥後北部と中央部をその名に負う勢力がみえないのは、彼らが磐井の乱にくみして没落したためと推測されている。六世紀大和朝廷は
33. ひぜんのくに【肥前国】長崎県
日本歴史地名大系
らぬものであったことは明らかといえよう。筑紫国の西部が火国のうちとされた背景には六世紀前半の磐井の乱があったという指摘があり、それによれば、筑紫国の北部一帯に勢
34. ぶぜんのくに【豊前国】福岡県
日本歴史地名大系
阿射弥勝は同郡呰見郷の有力者であろう。このような秦氏の豊前国への進出は、継体天皇二二年に起こった磐井の乱後に大和政権の支配が九州に及んできたことにより、具体的に
35. ぶぜんのくに【豊前国】大分県
日本歴史地名大系
日神(天照大神)の三女神が宇佐島に天降り、宇佐国造はこれを祖神として安心院盆地の高台に奉斎した。前述のように磐井の乱後、宇佐国造は急に衰え、宇佐盆地の北の丘に移
36. まえばるし【前原市】福岡県
日本歴史地名大系
これと相前後して後期群集墳の築造が開始される。小型前方後円墳はこれら後期群集墳の盟主墳として位置付けられ、磐井の乱以降における地域の社会体制の変容ぶりを示すもの
37. むなかたたいしや【宗像大社】福岡県:宗像市/旧玄海町地区/田島村
日本歴史地名大系
本拠とする豪族水沼君とする。水沼君が宗像神を祀るとされた背景について、継体天皇二一年に起こった筑紫君磐井の乱の平定後、大和政権が筑後地方や有明海の海人集団を支配
38. もののべうじ【物部氏】画像
国史大辞典
「物部八十氏」と称された。大伴金村大連とともに継体天皇の擁立に加わった物部麁鹿火は、筑紫君磐井の反乱(磐井の乱)に際し、大将軍として遣わされて磐井を斬殺した。つ
39. もののべ‐の‐あらかい【物部麁鹿火】
日本国語大辞典
麻佐良の子。継体・欽明朝に大連(おおむらじ)として大伴金村と政治を主導、武将として重きをなし、筑紫国造磐井の乱を鎮定。生没年不詳。
40. もののべのあらかひ【物部麁鹿火】
国史大辞典
任那四県の百済への割譲に際して宣勅使となるが、妻の諫めにより病と称してその任を辞した。同二十一年、筑紫君磐井の乱には大将軍として筑紫に遣わされ、磐井の軍勢と戦う
41. 物部麁鹿火
世界大百科事典
と称して辞任した。527年,筑紫国造磐井(いわい)が新羅遠征軍の行く手を阻んで軍を起こすと(磐井の乱),大伴金村の推挙により磐井征討の将となり,翌年筑紫御井で磐
42. やまがし【山鹿市】熊本県
日本歴史地名大系
ほかに鍋田横穴群・城横穴群がある。チブサンと臼塚古墳はかつて墳頂部に石人を有し、六世紀前半の磐井の乱以前はこの一帯も筑紫の君磐井の支配下に置かれていたことを推測
43. やまとせいけん【大和政権】
国史大辞典
された袁本杼(男大迹、継体)大王は、大和に迎えられて新たな権力を形づくったが、北九州における磐井の乱(五二七年)などを経て、欽明―推古朝には官人の機構や国制も整
44. 【総論】福岡県
日本歴史地名大系
せられた伽耶奪回のために発した軍兵を、筑紫君磐井が筑紫・豊・肥の兵を動員して阻止した。これが磐井の乱の始まりで、一年有余の戦乱は磐井方の敗北に終わった。磐井の墳
45. 【総論】宮崎県
日本歴史地名大系
のちの国名でいえば日向・大隅・薩摩の三国の地域になる。筑・豊・肥の三国は五二七年に起こった筑紫国造磐井の乱に関する記事に登場することから、かなり古い地域呼称だと
「磐井の乱」の情報だけではなく、「磐井の乱」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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