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明治維新

ジャパンナレッジで閲覧できる『明治維新』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

明治維新
めいじいしん

幕藩制を廃し、中央集権統一国家と資本主義化との出発点を築いた政治的・社会的変革。「明治維新」という歴史学の概念ができる起源は、当時の人が用いた「御一新 (ごいっしん)」ということばにある。お上の命令によって世の中が新しくなるという意味である。

[遠山茂樹]

日本資本主義論争

明治維新の科学的研究が進む契機となったのは、1920年代末から30年代前半にかけて、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が出した日本の革命戦略方針(一九二七年テーゼおよび一九三二年テーゼ)の理解をめぐって、マルクス主義学者の間に行われた論争であった。これは日本資本主義論争といわれ、論争点の一つが、明治維新の歴史的性格についてであった。山田盛太郎 (もりたろう)、平野義太郎 (よしたろう)、服部之総 (はっとりしそう)、羽仁 (はに)五郎ら(講座派とよばれた)は、明治維新はブルジョア革命ではなく、その結果として樹立された天皇制権力は、独占資本主義の段階でも、絶対主義である本質を変えてはいないと主張し、その論証を『日本資本主義発達史講座』で行った。これに対し大内兵衛 (ひょうえ)、向坂逸郎 (さきさかいつろう)、土屋喬雄 (たかお)ら(労農派とよばれた)は、明治維新は不徹底であるとはいえ、ブルジョア革命であり、天皇制権力はなし崩しにブルジョア権力に移行したと論じた。戦後の学界でも、この論争点は受け継がれ深められているが、研究の焦点は戦前と異なっている。絶対主義の形成といっても、西ヨーロッパのような15、16世紀の古典的なそれではなく、産業資本主義段階末期の世界資本主義に強く規制された19世紀なかばのそれが、明治維新の問題である。したがって、絶対主義=封建国家か、しからずんばブルジョア権力=資本主義国家かといった形式的な問題のたて方では解明できないと考えられ、両者の構造的関連が実証的に追究されている。

 歴史学の画期としての明治維新が、いつからいつまでの政治過程をさすかは、明治維新の本質をどう意義づけるかとかかわり、次の諸説がある。

〔1〕始期について
(イ)天保 (てんぽう)期(1830~43)、とくに大塩平八郎 (へいはちろう)の乱(1837)、あるいは幕府の天保の改革の失敗(1843)に置く考え。この考えは、明治維新を実現させた国内的条件、すなわち階級闘争の激化、幕府の施政の決定的な失敗、幕府に反抗する政治運動の出現を重視するという立場に基づいている。

(ロ)ペリー来航(1853)または安政 (あんせい)通商条約の締結(1858)に置く考え。明治維新を生起させた原因のうちで、国際的条件を重視する見解、また日本が資本主義の世界市場の一環に組み込まれたという世界史的観点にたっての見解である。

〔2〕終期について
(イ)西南戦争(1877)に置く考え。封建復帰を目ざす士族の反政府運動がこれをもって終わり、これ以降は、統一国家建設と資本主義化の路線をめぐる明治政府と自由民権運動との対抗が政治史の基本をなす新しい段階だとみる考え方である。

(ロ)自由民権運動の激化形態であり貧農が主体である秩父 (ちちぶ)事件(1884)に置く考え方。封建社会の基本的階級対立である封建領主対封建小農民の関係が、資本主義社会の基本的階級対立である寄生地主・資本家対小作人・賃労働者の関係へ転換する出発点をこの事件は示すとする見解に基づく考えである。

(ハ)大日本帝国憲法の発布(1889)に置く考え方。天皇制国家が機構のうえで整備、確立されたのは憲法発布によってであり、同時にこの時期、経済のうえでは原始的蓄積が進み、寄生地主制と産業資本主義の成立の土台がほぼできあがったことを重視する見解である。今日学界では、終期について(イ)と(ハ)の考え方が有力であるが、終期をどう考えるかによって、明治維新の性格のとらえ方は違ってくる。

[遠山茂樹]

幕府の倒壊

すでに天保年間には、幕藩制の解体傾向は顕著に現れた。農民は封建領主の年貢の生産だけに専心する存在ではなくなり、商品生産者、商品販売者の性格を増し、各地に農村工業、それも問屋制家内工業あるいはマニュファクチュア(工場制手工業)が生まれ、ブルジョア的地主、小ブルジョア的富農、半プロレタリア的貧農という新しい階層が農民身分のなかから形成され始めた。年貢の輸送・販売を中心に三都(江戸、大坂、京都)や各藩の城下町の特権的大商人が独占的に支配していた従来の商業機構は、農民の商品生産に依存する新興中小商人の勢力の台頭によって崩されつつあった。幕府・諸藩とも財政窮迫に悩み、その打開策としてとった貨幣経済の農村侵入の阻止、年貢の増徴、専売制の拡大が、農民・商人の反抗を招いて失敗に帰したのも、この時期である。百姓一揆 (いっき)は激発し、しかも領主に対する反抗だけでなく、村役人・地主に対する闘争も頻発し、村落秩序の根底から封建支配を揺るがした。加うるに都市では、物価騰貴に悩む下層民の蜂起 (ほうき)である「打毀 (うちこわし)」が起こり、一時封建支配が麻痺 (まひ)するという情況も現れた。

 こうした封建制崩壊の諸条件を政治抗争にまで結集せしめたのは、1853年(嘉永6)のペリー来航を契機とする対外問題の切迫であった。欧米列強が武力の威嚇をもってわが国に強要したものは、鎖国制度を撤廃し、資本主義の世界市場の一環に組み込むことであった。しかも彼らの圧力のもとで結んだ安政通商条約は、欧米諸国と清朝 (しんちょう)中国との間の条約を雛型 (ひながた)とする不平等条約であり、開国に反対する封建支配者との間に武力衝突も起こった。幕末に日本は欧米強国により植民地化される危険をもったといえる。

 この植民地化の危機の進行を押さえることのできた第一の条件は、封建支配者が鎖国復帰と攘夷 (じょうい)の実行の不可能を比較的早く悟ったことである。すなわち、通商条約締結をめぐって、幕府と雄藩、上層藩士と下層藩士の対立が激化し、攘夷を旗印とする幕閣批判の政治勢力が力をもったが、貿易は比較的順調に伸び、国内経済は当初若干の混乱はあったものの、商品経済発展の力をいっそう強める結果となり、大勢としては、農民・商人が武士の攘夷運動を支持することとならなかった。そのうえ幕府・諸藩の財政窮乏のため軍備充実は進まず、また1863年(文久3)の薩英 (さつえい)戦争、翌年の四国連合艦隊下関 (しものせき)砲撃事件という対外戦争の経験から、武士は彼我の武力の差を痛感するに至った。かくて幕府側にせよ、反幕派諸藩にせよ、指導者は、列国との接触を深め貿易に参加することによって、強兵と富国を実現しようとした。

 植民地化の危機が深まらなかった第二の条件は、列強側の事情にあった。在日外交団の指導的位置にあったイギリスは、アヘン戦争後の中国民衆の反英闘争、太平天国の乱、インドのセポイ(傭兵 (ようへい))の乱の鎮圧に東アジアでの武力を割かざるをえず、日本に対する武力行使には慎重であった。しかもイギリス対ロシア、イギリス対フランスの列強間の対立の増大のため、一国が独占的に日本に利権を設定することは困難であった。列強、とくにイギリスは、貿易発展の障害となっている封建制度の廃止を望んでいたが、民衆の力による革命、あるいは列国の直接干渉による実現は、むしろ市場の混乱をもたらすことになるとしてこれを避け、封建支配者内部の開明派を育成し、彼らの手で「上からの漸進的改革」を行わせることが望ましいと考えるようになった。

 1866年(慶応2)、米価をはじめ物価の暴騰、貢租の加重に悩む民衆は、江戸・大坂とその周辺地帯を中心に各地で一揆・打毀に立ち上がり、民衆の反封建闘争は江戸時代を通じ最大の高揚を示した。時あたかも幕府の第2回長州征伐の真っ最中であった。幕府が諸藩の大軍を動員しながら、当初の戦闘の敗北にくじけて早々に休戦を令したのは、財政窮迫に苦しむ諸藩が戦争の負担を嫌い、また内乱が下民の蜂起と外国の干渉を招くのを恐れたからであった。こうして薩摩藩ら雄藩を中心に、従来の幕閣専制を改めて、天皇の下での諸藩連合政権という形態によって、封建権力の統一と強化を図る工作が進行し、将軍徳川慶喜 (よしのぶ)の政権返上に続いて、1867年12月9日に王政復古の宮中クーデターが行われ、幕府は廃止され、天皇政権が樹立されたのである。

[遠山茂樹]

統一国家の樹立と諸改革

王政復古の直後、薩摩藩・長州藩の挑発によって引き起こされた戊辰 (ぼしん)戦争は、佐幕派勢力に打撃を与えただけでなく、天皇政府方を含めた藩全体の支配体制の解体を促進した。西ヨーロッパの絶対主義王権は、大規模かつ長期の内乱を通じて、強大な領主が他の領主を圧服して封建権力の統一を実現し、中央集権国家をつくりあげたものであるが、天皇は、古代以来の権威をもつとはいえ、実質の権力はなく、倒幕派雄藩によって「玉 (ぎょく)」として新しく担ぎ出されたものであったから、改めて諸藩の藩主・藩士層や豪商・豪農層の支持を取り付けるために、幕藩制に対する革新的な姿勢をとった。江戸城総攻撃開始を目前に出された五か条の誓文はその表れであった。1869年(明治2)正月、薩・長・土・肥4藩主が王土王民思想を強調し、土地と人民を形式上天皇に返すという建白をすると、他の藩主もこれに倣い、版籍奉還 (はんせきほうかん)が実現した。ついで1871年7月、詔勅の発布という形で廃藩置県を行い、さらに引き続いて華族(藩主と公卿 (くぎょう))と士族の封禄の整理を重ねたすえ、76年の金禄公債の支給によって、封禄制度を全廃した。藩制度と封禄制度の廃止―封建支配者の特権の主要なものの解消―が、戊辰戦争と、74~77年の西南一部地域の士族反乱という、封建支配者間の比較的小規模の内乱を経ただけで、しかも民衆の革命的蜂起なしに実現をみたのは、ヨーロッパの歴史と比較して顕著な特色であった。すでに藩体制は、財政的にも軍事的にも破産情況にあり、それを救済できる中央権力の確立が全封建支配者の要望であった。そして領主制の解体にあたっては、藩の借金の大部分は政府に肩代りされ、華士族には金禄公債支給によって多額の補償費が支払われ、その結果は、民衆に重い租税負担を負わせることとなった。公債の利子で自活できる層は、華族と旧上層藩士に限られていたが、中下層士族には、官吏・軍人・教員に転身する機会が独占的に開かれており、農工商に従事する者への士族授産には、政府から特権的保護が与えられていた。もとより彼らのなかには没落し、不平を抱く者も多かったが、統一国家の建設、中央政府の強化、欧米文化の摂取による強兵富国の実現という政府の方針に反対することはできなかった。幕末以来の欧米列強の圧力と民族独立の危機とを痛感していたからである。

 廃藩置県後、政府は文明開化の改革政策を積極的に展開し、国民各層の多数を政府支持に引き付けようとした。1872年、学制を発布し、身分にかかわらずすべての国民の義務教育制を定め、翌年には、国民皆兵を看板とする徴兵令を出して、武士軍隊を廃止し、さらに地租改正条例を定めて、農民に土地所有権を認め、これまでの現物年貢を金納地租に改めた。これらの大改革の性格をどのように評価するかは、明治維新がブルジョア革命であるかどうかの理解と深くかかわることである。評価のうえでの問題点の第一は、これらの改革が、天皇の絶対的権威を国民に浸透させる施策および政府の中枢を占める藩閥勢力が内部対立を重ねながらしだいに統一強化してゆく過程と相表裏していることである。第二は、諸改革は、欧米資本主義国家の制度を模範として制定され、法令の内容、制度のたてまえはブルジョア的性格のものであったが、それと実際の立案意図、実施においてもつ現実の機能の歴史的性格とは、いちおう区別して考える必要があることである。すなわち、小学校の設立・維持の費用がもっぱら地域住民の負担と授業料によってまかなわれたため、権力の厳しい強制にかかわらず、国民皆学の実はあがらなかった。四民平等をたてまえとする徴兵令も、実際には広範な免役規定をもち、兵役を負担するのは貧しい民衆の二、三男に限られていた。また地租改正は、現実には法令の規定するとおりの地価の算定方法がとられず、従来の年貢総額を確保するという前提にたっての権力の強制による押し付けの決定であった。したがって、改革はいずれも民衆の激しい反対を受けた。これら改革の法令がたてまえとするブルジョア的内容が現実に成果として現れるのは、すなわち、小学校就学率が学齢児童の50%を超え、徴兵制の免役規定が廃止されて国民皆兵の実をもち、地租改正の結果が寄生地主制と資本主義経済に安定的に結び付くのは、1890~1900年代であった。この時期は、自由民権運動の発展とその挫折 (ざせつ)を経過して、1889年大日本帝国憲法が発布され、藩閥専制が改められ立憲制が導入された反面、統帥権(軍隊の指揮権)をはじめとする天皇の絶大な大権が規定され、天皇を頭とする官僚機構が整備され、軍国主義が強化された。そして1894~95年の日清 (にっしん)戦争に勝利することで、植民地台湾を領有するという日本帝国主義が樹立する時期であった。

 終期を1877年とするか89年とするか、いずれの見解をとるにせよ、明治維新とは、封建制から資本制への移行過程における政治的・社会的変革であり、その結果は、強力な天皇制官僚支配の確立と、軍国主義および寄生地主制と深く結び付いた日本資本主義の形成とをもたらしたということができよう。

[遠山茂樹]



世界大百科事典

明治維新
めいじいしん

19世紀後半,国内矛盾と世界資本主義の圧力とが結びつくなかで,幕藩体制が崩壊し,近代天皇制国家が創出され,日本資本主義形成の起点となった政治的,経済的,社会的,文化的な一大変革を総称していう。〈明治〉という表現は,《易経》の〈聖人南面して天下を聴き,明に嚮(むか)いて治む〉(原漢文,以下同)からとったとされている。この元号は1868年9月7日の夜,天皇睦仁(むつひと)が宮中の賢所で,儒者の選定したいくつかの元号候補からくじで〈明治〉を選び,翌8日の一世一元の詔で睦仁治世の元号と決まった。〈維新〉は《詩経》の〈周は旧邦と雖も(いえども),其命維(こ)れ新たなり〉や,《書経》の〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉などから用いられ,百事一新を意味する。そして,この〈明治〉と〈維新〉とは,1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書で,〈百度維新,宜しく治教を明らかにし,以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし〉と述べ,神道イデオロギーによって巧みに接合された。これが一般的な〈明治維新〉の語の由来の説明である。だが,幕末期長州藩で結成された諸隊のなかの被差別部落民で組織された隊にすでに〈維新団〉とか〈一新組〉とかいう名称がつけられており,彼らの解放の願望がこの〈維新〉や〈一新〉の言葉にはこめられていた,とみられる。その意味で,〈維新〉という語には,幕藩体制下に虐げられていた人びとの解放への思いが秘められていたのである。当時の民衆が,天皇によって選ばれた元号としての〈明治〉を,逆に下から読んで〈おさまるめい〉といったというエピソードは,民衆にとっての明治維新のあり方を示して示唆的である。

時期区分

明治維新をいつからいつまでとみるかは,維新変革をどうとらえるかによって多くの説がある。始期をいつとするかは,大きく天保期(1830-44)と開国期(1853-58)とに分けられる。天保期も1837年(天保8)の大塩平八郎の乱や幕府の天保改革の失敗(1843)など,いくつかの見解がある。天保期を明治維新の始期と考えるのは,幕藩体制内部に維新変革を引き起こす矛盾(農民的商品経済の発展や階級闘争の激化など)が全面的に顕在化したのがこの時期であるとみて,変革の内的要因に着目するからである。幕末・維新期の経済的発展や倒幕運動の階級的性格,あるいは明治維新の本質,さらには日本資本主義の構造や特徴などを,天皇制打倒の戦略・戦術とからめて,昭和初年にマルクス主義陣営で論じられたいわゆる〈日本資本主義論争〉以後は,こうした内的必然論のうえに立った見方の基礎がすえられ,それまでの〈黒船〉の偶然的な来航を機として明治維新は始まったとする観点が克服された。

 これに対して,開国期説は,1853年(嘉永6)のペリー来航,もしくは安政期(1854-60)の通商条約の締結(1858)を維新開始の時期とするが,この開国期説は,日本開国の背後に,産業革命以降の世界資本主義の発展があり,この世界資本主義に日本が包摂された決定的時点を明治維新の始期とみる考え方である。つまり,明治維新をめぐる国際的条件ないしは国際的規定性を重視する立場である。しかし,現在の明治維新の研究では,維新変革をめぐる内的要因か外的な国際的規定性かという二者択一の発想ではなく,この内外二つの要件がペリー来航を機に固く結びついて明治維新は始まり,それゆえに,ヨーロッパの後発国たるドイツ帝国の成立(1871)やイタリアの統一完成(1870)に相応じたアジアの後進的な近代国家=近代天皇制形成への変革が明治維新であったとする見方が強まっている。日本資本主義論争の成果を継承した戦後の明治維新論では,明治維新の本質ないし性格をめぐって,これを日本絶対主義の成立とみるか,ブルジョア革命と規定するかで論争が続けられたが,19世紀後半という世界史的な条件のなかでのこの変革は,いやおうなしにアジアにおける後発的な近代国家の形成ないし日本資本主義成立の起点となっているのであり,そのことと創出された近代天皇制国家の軍事的・専制的性格とをどのように統一的にとらえるかが理論的に要請されている。それは同時に,20世紀半ば以後現在にいたる第三世界の民族独立や近代的な統一国家の形成の理論的問題ともからむ課題を内包しているのである。

 終期については次のような多くの説がある。(1)1871年(明治4)説 廃藩置県で新しい国家統一がなされた。(2)1873年説 学制,徴兵令,地租改正などの一連の改革が始まり,また,大久保利通政権が成立し,さらに翌年からは自由民権運動が起こる。(3)1877年説 最大の士族反乱である西南戦争が鎮圧され,翌78年にかけて西郷隆盛,木戸孝允,大久保利通といういわゆる維新の三傑が没し,維新が終わったというイメージが強い。(4)1879年説 〈琉球処分〉が行われ,廃藩置県はここで完結する。そして,この時期までに近代国家としての日本の領域が確定した。(5)1881年説 明治14年の政変の年であり,この年あたりから国家権力が自己修正を遂げ,基盤も寄生地主や近代産業ブルジョアジーに移行する。(6)1884年説 秩父事件が起こり,自由民権運動は分裂・挫折する。また,この時期から幕藩体制的な階級対立(領主対農民)から資本主義社会の階級対立(寄生地主・資本家対小作人・労働者)へと変わる,とみる。(7)1889-90年説 大日本帝国憲法が制定され,教育勅語も出る。国会が開設され,体制が立憲的な国家形態へと変わる。

 以上のように多様であるが,(5)~(7)は自由民権運動を明治維新のなかに包みこんでいる見解である。明治維新と自由民権運動とを別個にみる見方でいえば,(3)が一般的であり,(4)はこれとあわせて考えてよいであろう。(7)の説は,さらに日清戦争および戦後経営をも含めて考えると,終期を1897年(明治30)前後にまで広げることが可能である。もし明治維新の終期を近代天皇制の確立とみる観点に立てば,(7)説を上述のようにより幅広くとるほうが説得的であるともいえよう。

明治維新の要件

明治維新の構成する政治力学的要件を比喩的にいえば,明治維新は,それを〈外から〉規定した外圧と,アンシャン・レジームとしての幕藩体制を〈内から〉,そして〈下から〉つき崩していった力,およびそうした状況のなかで明治天皇制国家を〈上から〉つくり出した力が,拮抗かつ交錯しながら19世紀後半のアジア,とりわけ東アジアのなかの日本という場で〈革命〉を構成した,とみてよい。

 この〈外から〉の力は,インドを植民地化し,中国を半植民地化しつつ,日本や朝鮮に開国を迫った列強資本主義であり,これが丸い地球を資本主義世界市場として完結せしめることは,不可避の客観的法則であった。もう少し詳しくいえば,17世紀のイギリスのピューリタン革命(1640-60)および名誉革命(1688-89),18世紀のアメリカの独立(1776)やフランス革命(1789-99)などを経て,欧米では近代的国家の形成と国民的統一が進行し,一方,18世紀から19世紀にかけては,産業革命の波がイギリスから欧米へと波及した。この産業革命の進行は,欧米における民主主義の発展と一体であり,そのなかから労働者階級が成長した。この発展する資本主義の波がアジアに押し寄せたとき,インドではセポイの反乱(インド大反乱,1857-59)が起こり,中国では太平天国による抵抗(1851-64)となった。明治維新は,客観的にはこうした外圧に対するアジア民族の抵抗のなかで遂行されたのである。つまりインドや中国の世界市場への組込まれ方が日本を規定し,また,日本の対応がやがて朝鮮にも影響を及ぼしているのである。イギリスやフランスがアジア諸民族の抵抗に手間どっている間に,アメリカの使節ペリーは日本へやってきた。したがって,1853年のこのペリーの来航は,世界資本主義の客観的な法則がアジアの状況のなかで貫かれたひとつの具体的表現とみなければならない。

 では〈内から〉,そして〈下から〉の力とは何か。近世中期以降の全国的な農民的商品経済の展開によって,幕藩体制の矛盾は,徐々にしかも確実に深化・拡大し,天保期にはすでに極限近くに達しつつあった。開国による貿易開始はこれに拍車をかけ,国内経済は大きく変動した。ブルジョア的発展を促進されたプラス地帯と,逆のマイナス地帯とが現出し,その地域的落差のなかで,幕末期の小ブルジョア経済は全国的規模で発展し,幕藩体制の個々の領域,分立的な各藩の網の目を解きほぐし,民族的統一への経済的条件は急速に準備されたのである。こうした経済変動のなかで農民や商人層の分化・分解はいちだんとすすみ,一部の地主・豪農商は民族的自覚を促され,彼らの政治運動の基盤も形成された。そして,農民一揆,打ちこわしは高まり,さまざまな形態をとった民衆運動は,波のうねりをみせながら明治維新の〈革命〉的な変革を背後で規定したのである。また,この力は,曲折しながらも自由民権運動へと継承・発展せしめられていく。〈上から〉の力は,この〈内から〉ないし〈下から〉の力や,前記の〈外から〉の力に対応しつつ,あるときにはこれを利用し,あるときには拮抗・弾圧し,幕藩体制に代わる近代天皇制国家の創出をすすめた力であり,維新官僚が中心となる。彼らは西南雄藩を背景にしつつ〈朝臣〉化し,〈朝臣〉化することによって天皇中心の価値体系をイデオロギー化し,欧米の近代的国家にならって中央集権的な官僚機構を整備し,天皇の絶対性をその権力の中核にすえたのである。

経過

ここでは明治維新を開国期(ペリー来航)から1877年(明治10)ないし79年(上述した〈終期〉の(3)(4)説)とみて,その大筋をみることとする。

 明治維新の経過は,大きく分けて,(1)開国から江戸幕府の倒壊までと,(2)新政府の成立による統一国家の形成,これに続く新政策の着手という2段階に分けられる。(1)は250年間強固な支配を保持していた幕藩体制が,外圧を契機にわずか15年で崩壊した過程であり,(2)は,伝統的権威にすぎなかった天皇を,薩長を中心とした西南雄藩出身の維新官僚が担うことによって政治的に絶対化し,欧米にならった近代国家へのドラスティックな改革を進めようとした過程である。しかも,この二つの過程には,列強資本主義による半植民地化の危機があったものの,鎖国から開国へ,将軍から天皇へ,分権から集権への転換が急速かつ短期間になされることによってその危機が克服され,天皇中心の中央集権国家の創出となったのである。そのことは同時に,幕藩体制から近代天皇制国家への転換として,明治維新に,連続と非連続,封建的要素と近代的要素との癒着とでもいうべき構造的な特質をもたらし,明治維新の本質ないし性格に,多くの理論的な論議をよぶ要因となった。

 さて,(1)の段階は,1853年のペリー来航に始まるが,列強資本主義による外圧は伝統的,非政治的な天皇を政治化させ,天保改革以後台頭した雄藩(とりわけ西南雄藩)がしだいにこれと結びつき,幕藩体制は分裂化した形となる。幕府もまた体制の立直しをめざして朝廷(天皇)の権威と結びつき,体制の主導権を握ろうとした。1858年の日米修好通商条約をはじめとするいわゆる五ヵ国条約の違勅調印と将軍継嗣問題をめぐる暗闘,それに続く公武合体論の競合によって,幕府と西南雄藩の対立はしだいに鋭角化していった。こうした状況下に,後期水戸学などの影響もあって,〈夷狄(いてき)〉への危機意識や幕藩体制の矛盾を敏感にうけとめた中・下層の武士層は,自覚的な地主・豪農層をも巻き込み,幕府の違勅調印に対しては〈尊王〉を,開国政策に対しては〈攘夷〉のスローガンを掲げて対抗した。ここに儒教的名分論としての〈尊王論〉と〈攘夷論〉とは結合し,尊王攘夷運動の展開となった。この尊攘運動の主体は,運動の進展とともにいっそう下降し,また,個人的術策から集団的行動へと形態も変化した。そして,〈天誅〉や各地の相つぐ挙兵など運動の激化と相まって,いっさいの価値の源泉を天皇に求めて観念化していった。しかし,文久3年8月18日の政変(1863)で,尊攘運動は一挙に挫折した。この尊攘運動の拠点であった長州藩は,第1次征長や四国連合艦隊の下関砲撃という局面に立たされたが,高杉晋作ら諸隊の決起で,藩の主導権をいわゆる俗論派から奪取し,挙藩軍事体制を整えた。一方,公武合体運動の雄であった薩摩藩は,薩英戦争(1863)の洗礼をうけることによって脱皮し,徐々に幕府から離れ,1866年(慶応2)には薩長同盟を結び,倒幕運動を推進しはじめた。この倒幕運動をすすめた薩長の討幕派は,尊攘運動の観念論からも,公武合体運動の妥協論からもぬけ出て,天皇に対しても民衆に対しても政治的リアリズムをもって対処し,むしろこれを操作した。こうした討幕派の発想は国際勢力との対応にも及び,討幕派はイギリスと結んで開国策を推し進め,公議政体論を基礎としつつフランスに頼ることによって徳川慶喜(第15代将軍)中心の新しい統一国家をつくろうとする幕府側の〈大君〉制国家プランを軍事力で叩きつぶした。1867年から翌年にかけての討幕の密勅,大政奉還,王政復古,鳥羽・伏見の戦,上野戦争などの過程がそれである。開国の先頭をきったアメリカは,本国の南北戦争(1861-65)で日本から後退し,国際勢力の主導権は,西南雄藩側を支持していたイギリスが握った。この間,幕府の倒壊を前にして,世直し一揆・打ちこわしは1866年の第2次征長期にピークに達し,翌67年には〈ええじゃないか〉運動と一揆が共存し,民衆は江戸幕府から天皇政権への転換にみずからの解放を託した。先述した民衆の〈一新〉〈維新〉への願望である。この民衆の〈一新〉への願望が,〈上から〉の変革によっていわゆる〈御一新〉となっていく過程が(2)の段階である。

 (2)の段階は,天皇中心の統一国家の形成であるが,それは王土王民思想(王土思想--天皇絶対のイデオロギー)と万国対峙(国際社会へのナショナルな対応)が重ね合わされるなかで進められた。近代国家のモデルを求めて岩倉使節団は,欧米12ヵ国を回覧し,ヨーロッパにおける大国や小国をつぶさに調査し,帰途,植民地化された東南アジアを目のあたりにして,〈脱亜入欧〉に日本近代化の方途を探し求めた。帰国直後の明治6年10月の政変(征韓論分裂,1873)によって,この外遊派は,大久保政権を成立せしめた。そして,すでに留守政府によって着手されていた学制,徴兵令,地租改正などの諸改革をいっそう推進する反面,士族反乱を抑え,諸改革に抵抗する民衆の一揆を弾圧して,急速に藩閥政府の官僚機構化を図った。征韓論分裂で下野した諸参議の民撰議院設立建白書の提出は,自由民権運動へのきっかけとなるが,欧米回覧で近代国家や民衆のあり方を知悉(ちしつ)していた明治藩閥政府は,つぎつぎに先手をうって権力主導の天皇制国家の創出をめざし,朝鮮・台湾問題にからめて近代国家の領域をも画定し,〈琉球処分〉によって国家の統一を完成した。

 この国家統一の過程にすでに自由民権運動の開始がなされているように,明治維新における権力の集中と構築が,同時にブルジョア民主主義を内包した自由民権運動と併存して進行するという二重構造をもっているところに,19世紀後半の世界史の潮流のなかにおけるアジアの後発国としての日本の明治維新ないし近代天皇制創出の特質がある,といえる。

明治維新観の変遷

ここにいう明治維新観とは,もとより維新研究史上での明治維新のとらえ方も含まれるが,もっと広く明治,大正,昭和の各時代の人びとが明治維新に抱いたイメージ的なものを指す。

 維新政府は〈王政復古〉論によって,天皇を維新の中心に位置づけようとしたが,戊辰戦争さなかの1868年8月に出された《復古論》(小洲処士)は,基本的には薩長側の立場をとってはいるものの,今度の変革は〈草莽(そうもう)〉,すなわち〈下人民〉から起こったもので,〈万民ノ心〉が変わらない限り〈武家ノ政道〉にもどることはない,といいきっている。〈王政復古〉論がいわば〈上から〉の見方とすれば,この〈草莽復古〉論は〈下から〉の維新論のはしりといえよう。明治政府の〈文明開化〉政策のもとで,明六社を中心とする開明的な知識人(ほとんどが官僚)によって,維新の開明性,進歩性の色あげがなされるが,自由民権運動が起こるや,政府の専制的性格はあらわになった。これに対し,明治10年代の民権派の人びとは,先の〈下から〉の維新論をいちだんと発展させ,明治維新は自由への第一歩であり,その〈維新の精神〉をひきついだ自由民権運動こそが〈第二の維新〉である,と主張した。民権運動が目標とした国会開設の原点は五ヵ条の誓文に代表される〈維新の精神〉に求められ,明治藩閥政府はそれを忘却したと攻撃されたのである。これは明治20年代前半の民友社の平民主義の主張にもうけつがれ,徳富蘇峰,人見一太郎,竹越与三郎(三叉(さんさ))らの主張に代表された。彼らは〈維新の精神〉こそが原点であって,今の政府は〈維新大革命の血脈に背くもの〉で,決して正統なあとつぎではない,と批判した。そして,これは明治憲法体制下の初期議会における民党の政府攻撃と対応していたのである。

 しかし,1894-95年の日清戦争とその勝利は,こうした事態を一変させた。明治維新-自由民権運動の延長線上に日清戦争がおかれ,日清戦争こそが明治維新の〈果実〉だ,とされたのである。日清戦争の勝利とその戦後経営は,明治政府の明治維新に対する正統性をイデオロギーとして民衆にまで浸透させることに成功した。〈上から〉の維新観が〈下から〉のそれを圧倒した,といってよい。圧倒された〈下から〉の維新観は,別の観点,つまり労働者階級の成長にともなう社会主義的な立場からの登場をまたなければならなかった。勝利を占めた〈上から〉の維新観は,明治30年代の佐幕派の維新論にももはや揺らぐことなく,むしろそれを許容する余裕すらもっていた。旧幕臣による江戸時代の再評価や幕府の衰亡を明治維新史の中軸においた幕府中心の維新史のとらえ方,あるいは東北諸藩を主に描かれた維新史の登場にも,すでに天皇制と固く結びついた〈上から〉の維新観はびくともしなかったのである。そして,日露戦争(1904-05)を経て天皇制が帝国主義的色彩を強めるのに呼応して,明治維新には,一方では日本の伝統的な民族的特質が強調され,神格化された天皇が中心軸におかれ,他方では開国以来欧米の文化を摂取した日本の〈文明的存在〉が主張されるとともに,官撰の明治維新史を編纂するために,1911年には文部省によって維新史料編纂会が設置された(1937年より《維新史料綱要》全10巻,39年より《維新史》全6巻を刊行)。この年は同時に大逆事件で幸徳秋水らが死刑に処せられた年であったのである。〈下から〉の維新観が再び時代思潮の表面に浮かびあがるのは,大正デモクラシー期のいわゆる〈大正維新〉の唱道によってであった。個人主義的な論調のうえにこの〈大正維新〉論は唱えられ,第1次・第2次護憲運動をとおして明治維新は大正デモクラシーの潮流に重ね合わされたのである。

 恐慌と大陸出兵によって幕が開けられた昭和初期の維新観は,三つの部分に分かれていた。第1は,大衆小説や古老の体験談,回顧談を含む〈維新もの〉ブームにみられるものであり,第2は,日本資本主義論争に代表されるマルクス主義的維新観である。この日本資本主義論争をとおして,明治維新は初めて科学的な分析のメスを入れられる基礎をもつにいたった。第3は,この第2の維新観と対極の位置にあった〈昭和維新〉観である。軍国主義化,ファシズム化の進むなかで,青年将校や右翼がこれを担い,彼らは維新の原理を絶対化された天皇のなかにみ,君臣の本義を明らかにするところに明治維新の本質があるとした。さらにこの〈昭和維新〉論は,〈アジアの維新〉とも重ね合わされ,〈大東亜共栄圏〉思想と二重写しにされたのである。1945年8月15日の日本の敗戦は,この〈昭和維新〉論がいかにあだ花であったかを人びとに知らしめた。そして,戦後には前記の科学的維新観のうえに立った明治維新論がいっせいに花を咲かせた。だから,戦後の維新観は,大衆小説といえどもこの科学的維新観の洗礼なくしては成り立たないし,そこでは維新の勝者のみならず敗者も描かれ,民衆の力や民衆のあり方が問われ,民衆にとって明治維新とは何であったのかが課題とされるにいたった。そして,明治維新は世界史の流れのなかで検討されはじめたのである。

 このように,維新変革のさなかからあった〈上から〉と〈下から〉の維新観は,明治,大正,昭和の各時代の時代思潮のなかでの長い相克を経て,〈下から〉の維新観の視座をようやく確立しえた,といえる。と同時に,この維新観の変遷は,それぞれの時代の維新観がすぐれて各時代の現代論であったことを物語っている。明治維新をどうみるかは,とりもなおさず明治,大正,昭和の時代をどうみ,どう生きるかという人びとの“生きざま”にかかわっていたのである。
[田中 彰]

[索引語]
維新 大教宣布の詔書 自由民権運動 日清戦争 尊王攘夷運動 尊攘運動 長州藩 薩摩藩 復古論 草莽復古論 徳富蘇峰 人見一太郎 竹越与三郎 維新史料編纂会 昭和維新論


国史大辞典

明治維新
めいじいしん

〔定義〕

明治維新とは、十九世紀後半、日本が幕藩体制から近代天皇制へと移行する転換点となった一大変革をいう。それは十九世紀の五〇―七〇年代、東アジアにおいて世界資本主義による外圧が幕藩体制の内部矛盾と結びつき、二世紀半以上続いた江戸幕府の支配体制を崩壊せしめ、近代天皇制の創出・形成および日本資本主義の生成・展開の出発点となった政治的、経済的、軍事的、社会的、文化的な変革の総称である。「明治維新」という語の出典は、「明治」が『易経』の「聖人南面而聴〓天下〓、嚮〓明而治」、また、「維新」は『詩経』の「周雖〓旧邦〓、其命維新」、あるいは『書経』の「旧染汚俗、咸与維新」などとされる。この「明治」と「維新」は、明治三年(一八七〇)正月三日の大教宣布の詔書が、「百度維新、宜〓〓治教〓以宣〓揚惟神之道〓也」というように、神道イデオロギーで接合された。「明治」の語は、慶応四年(一八六八)九月七日の夜、天皇睦仁が宮中の賢所で、五条・高辻らの菅家の堂上が上った勘文に就き、改元のための元号候補からくじで選んだ。これは翌八日の改元と一世一元の制の詔で睦仁治世の元号となった。「維新」に通ずる「一新」の語は、幕末期の幕府側の文書にも散見し、また、慶応期長州藩諸隊の中の被差別部落民の隊名に「一新組」「維新団」の呼称が付され、この「一新」や「維新」の語には、これら被差別部落民の解放の願望が込められていた、と思われる。維新政府はこの「一新」意識を「御一新」と表現し、天皇による上からの「御一新」を強調した。これに対し江戸的な心情をもつ庶民からは「上からは明治だなどといふけれど、おさまるめいと下からは読む」と皮肉られたという。

〔明治維新の構成要件〕

明治維新を構成する政治力学的要件は、維新変革を「外から」規定した外圧と、幕藩体制を「内から」、そして「下から」つき崩し、倒壊せしめたエネルギー、およびそうした状況の中で明治天皇制国家を「上から」創出・形成した力が、構造的に結合して作動し、旧体制の温存と新体制の創出とが重層的かつ「非連続の連続」という形で展開したところに特質がある。それは十九世紀後半という世界史的状況の中、アジアとりわけ東アジアにおける「海国」日本という場で、内外諸勢力が拮抗・交錯して明治維新が遂行されたからである。この「外から」の力は、インドを植民地化し、中国を半植民地化しながら、日本や朝鮮に開国を迫った列強資本主義を指す。それは丸い地球を資本主義世界市場の連鎖として完結せしめる不可避的な法則性をもっていた。視野をもっと広くとっていえば、十七世紀のイギリスのピューリタン革命(一六四二―六〇年)および名誉革命(一六八八―八九年)、十八世紀のアメリカの独立(一七七六年)やフランス革命(一七八九―九九年)などを経て、世界史の潮流は近代的国家の形成と国民的統一の進行という形で発展した。それはイギリスの産業革命に端を発する資本主義と民主主義の波が、十八世紀から十九世紀にかけて欧米へと及んだことを意味し、十九世紀に至っては一八四八年(嘉永元)のいわゆる二月革命の実現となった。それは労働者階級の成長と彼らの政治舞台への登場をおそれるブルジョアジーの反動攻勢となり、また後発国の民族国家形成の動きを強めた。ロシアでは一八六一年(文久元)、農奴解放令が出されてツァーリズムからの解放運動が広がり、アメリカでは南北戦争(一八六一―六五年)によって奴隷解放が宣言された(一八六三年)。フランスのパリ=コミューンの成立は一八七一年(明治四)である。それは日本の廃藩置県と同年であり、ドイツ帝国成立の年でもあった。その前年、イタリアはほぼ統一を成し遂げていた。一八三九年からタンジマート(恩恵改革)を進めたトルコでは七六年憲法制定による立憲政治の導入が試みられた。資本主義・民主主義・民族運動が発展し、さらにその矛盾の中から労働者階級が成長し、十九世紀半ばからは世界はいちだんと大きく変貌し始めた。このような世界の潮流がアジアに押し寄せたとき、インドではセポイの反乱(一八五七―五九年)がおこり、中国ではアヘン戦争(一八四〇―四二年)や太平天国による民族的抵抗(一八五一―六四年)となった。そして北方からはロシアが迫り(〓琿条約は一八五八年)、フランスはインドシナの植民地化を企図し、アメリカは太平洋航路を開いて中国に迫ろうとした。外圧に対するこうしたアジア民族の状況の中で明治維新は遂行されたのである。アジア民族の抵抗は全体的には孤立分散してはいたが、主観的にはその関連が自覚され、いち早く情報は日本にもたらされ、危機意識を高揚させた。そして、客観的にはインドや中国の世界市場への組み込まれ方が日本を規定し、また、日本の対応がやがて朝鮮にも影響を及ぼすことになった。イギリスやフランスがアジア民族の諸抵抗に逢着し手間どる間に、アメリカの使節ペリーの率いる「黒船」が日本に来た。したがって、一八五三年の「黒船」来航とその後における日本の歴史的変革は、世界資本主義の法則がアジア的状況の中で日本に貫かれ、それに対する日本の対応=変革の発現形態として捉えることができよう。では、「内から」、そして「下から」の力とは何か。近世中期以降、農民的商品経済の展開によって、幕藩体制の矛盾は拡大・深化し、天保期には全国的にその矛盾が顕在化してきた。「黒船」来航=開国による貿易開始と情報ルートのいや応なしの開放は、これにいちだんと拍車をかけ、国内の経済・社会は激しく変動した。この激変の中で次第にブルジョア的発展を促進されたプラス地帯と、逆のマイナス地帯とが現出し、その地域的なさまざまな落差の中で幕末期の小ブルジョア経済は全国的な規模で発展した。それは幕藩体制の個々の領域、分立的な各藩の網の目を解きほぐし、商品流通や情報の伝達を容易ならしめるとともに、民族的統一への経済的社会的条件を急速に整える役割を果たしたのである。「黒船」来航以後わずか十五年にして、二世紀半以上続いた強固な幕府の支配体制が一挙に崩壊したゆえんである。この経済・社会の激動の中で、農民や商人層などの分解・分化はいっそう進み、支配階級たる武士層も分裂した。そして、中・下層武士や知識人、あるいは地主・豪農商層の一部は、外圧の危機感の中で急速に民族的自覚を促され、政治運動へと走った。ときあたかも高まる農民一揆や打ちこわしは、変転する政治運動と微妙に関連しつつ維新変革をその背後で規定したのである。また、この民衆運動は、曲折と変容を経ながらも、やがて明治十年代の自由民権運動へと継受・発展せしめられていく。「上から」の力は、この「内から」ないし「下から」の力や「外から」の外圧に対応しつつ、あるときはこれを利用し、あるときは拮抗・弾圧して幕藩体制にとって代わる明治天皇制国家を創出・形成する力を指し、討幕派―維新官僚―天皇制政治家という系譜をもつ勢力をいう。彼らは当初は西南雄藩という旧権力に拠りつつ、次第に上昇・転回して「朝臣」化し、「朝臣」化することによって天皇中心のイデオロギーのもとで欧米の近代的国家にならいながら、中央集権的な近代官僚機構を整備し、天皇をその権力の中核にすえて絶対化し、明治天皇制国家を創出・形成し、やがて確立していったのである。以上のような世界史的状況下での維新変革のプロセスは、後発国特有の「上から」の「文明」化による経済・軍事そして文化の強力的な集中となる。そして、この「文明」化は同時に「脱亜」の発想と表裏一体をなし、アジアへの侵略的性格を色濃くもつ。「上から」の「文明」化による近代天皇制の形成過程は、「内」における強力的な中央集権的専制と、「外」に対する軍事的侵略的指向を構造的性格たらしめたのである。

〔明治維新の前提〕

日本の近世、つまり幕藩体制は同時に鎖国の体制といわれる。しかし、この鎖国の体制は単に国を鎖すのではなく、長崎を窓として幕府が、中国とオランダを通してのアジアおよび西欧世界との貿易・情報を直接管轄すると同時に、朝鮮(対馬藩)・琉球(薩摩藩)・アイヌ(松前藩)のルートをも間接統制する形で、すべての貿易と情報を幕府が独占する、いわゆる「海禁」政策の体制だった、と最近の研究は指摘する。だが、日本はアジア大陸に沿う列島国家=「海国」であったから、常に外国船の来航や漂着に曝され、また、不時の漂流民も多く現出した。幕府は文政八年(一八二五)の異国船打払令(無二念打払令)あるいは天保十三年(一八四二)の薪水給与令でこれに対応し、漂流民の送還に対しては詳細な取調べと情報の拡散防止を図った。しかし、この漂流民による異文化接触の体験や断片的な情報は、藩や民衆に徐々に広がった。他方、蘭学から洋学へと移行していった体系的な知的情報は、シーボルト事件(文政十一年)・蛮社の獄(天保十年)などの弾圧事件にもかかわらず体制内に滲透し、各地の蘭学塾や洋学塾を通して一定の知識層が形成され、幕藩体制の情報独占体制は破綻していった。また、これらの情報ルートを通し、アヘン戦争での中国の敗北が伝えられるや、武士階級ないし知識層、さらには一部の豪農商層は衝撃を受け、外圧への危機感は広くかつ深刻に幕末の日本をおおった。この外圧に対する深刻な危機感が幕末日本の民族的自覚を促す下地となる。加えて、幕藩体制の矛盾に発する内在的な危機は、天保期に顕在化し、天保初年には全国的な飢饉と相まって各地の一揆・打ちこわしとなった。天保八年、大塩平八郎の乱が大坂に起るや、それはたちまち各地に波及し、越後柏崎の生田万の乱をはじめ連鎖反応を示した。このように顕在化する矛盾に対して、水戸藩や薩長土肥の西南雄藩はいち早く天保初年から藩政改革に着手したが、幕府もまた老中水野忠邦によって、天保十二年天保の改革を行い、体制の強化を図った。しかし、水野は失脚し、これを機に西南雄藩でも藩政改革は一進一退する。そして、弘化・嘉永期における支配層内部の分裂による激しい政争と外圧への対応の中で、中・下層の有能な改革派武士層登用の道が開かれていくのである。そこへ「黒船」来航となるのだが、ではなぜ明治維新において西南雄藩が主導権を握りえたのか。多くの要因を指摘することができるが、薩長土肥の西南雄藩に共通する基礎的な要素としては大略つぎのことが挙げられる。(一)幕府支配の政治・経済の中心地(江戸・大坂)から遠く離れ、外様藩の比較的大藩であったこと、(二)郷士制(長州藩は「住宅諸士」)という在郷武士的な存在を内包するような藩体制であったこと、(三)薩摩藩は琉球、長州藩は下関(対馬)、土佐藩は長崎ルート、肥前藩は長崎という交易・情報の窓をもっていたこと、(四)それだけにこの窓を通して外圧を敏感に受けとめ対応したこと、(五)上記の状況から藩内矛盾の顕在は天保藩政改革以後それをめぐる激しい政争と化し、嘉永・安政期には一段と激化し、そのため中・下士層からの人材登用の機会が多く、彼らが藩政の中枢に進出したこと、などである。これらの共通項に各藩の特殊事情、とりわけ、薩長両藩が薩英戦争、下関戦争で直接外国軍事力と対決して敗北した経験などが加わっている。

〔歴史的経過〕

ここでは明治維新の範囲を嘉永六年のペリー来航から明治十二年の「琉球処分」による日本の近代国家としての国境画定までとして、その歴史的経過を二期に分けて略述する。その第一期をペリー来航から江戸幕府倒壊までとし、さらにこれを(一)ペリー来航から大老井伊直弼暗殺まで、(二)尊攘運動から倒幕までに分ける。また第二期を維新政府樹立から「琉球処分」までとする。因みに第三期を明治十年代を中心とした自由民権期以降とすることも可能だが、本項では含めていない(後述「時期区分」の節を参照)。

第一期 ペリー来航から江戸幕府倒壊まで(嘉永六年―慶応三年)

(一)ペリー来航から大老井伊暗殺まで(嘉永六年―万延元年(一八六〇))

 弘化元年(一八四四)、オランダ国王ビレム二世は、将軍あての親書で日本に開国を勧告した。鎖国下、日本とヨーロッパとの貿易を独占していたオランダは、西欧諸国の日本進出を懸念し、独占的な既得権を守ろうとしたのである。だが幕府は「祖法」をたてにこれを拒否した。さらにオランダは嘉永五年、アメリカの対日使節派遣計画の情報を日本へ伝え、日本とオランダの条約締結を提議したが、幕府はこれも拒否した。そして、オランダの予告通り嘉永六年六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官・海軍代将マシュウ=カールブレイス=ペリーは四隻の「黒船」を率いて浦賀沖に出現した。ペリーはその前年、アメリカの東海岸ノーフォークの港を発して大西洋を南下し、ケープ=タウンからコロンボ、シンガポールを経、香港・上海で態勢を整え、琉球・小笠原諸島を経由して浦賀に来た。琉球・小笠原を基地化することをふまえて日本に来航したのである。ペリーの来日目的は、第一に、日本沿岸で遭難あるいは避泊したアメリカ船乗組員の生命・財産を保護すること、第二は、それらの船舶への薪水・食糧の補給港を求めること、第三は、日米両国の貿易を勧告することであった。彼はその実行を軍艦と大砲の威力で日本に迫った。その背後にはアメリカにおける産業革命の進展に伴う中国市場への進出問題があり、北太平洋ないし日本近海での捕鯨業の補給港・避泊港の確保問題があった。つまり、ペリーの率いる「黒船」来航は、ロシア・イギリス・フランスなどの列強資本主義のアジア進出ないし西欧世界秩序の普遍化の一環であったのであり、アメリカの太平洋進出の延長線上にアメリカ海軍主導の外交法権によって日本の開国を実現しようとしたのである。さきにオランダ国王の開国勧告を拒否した幕府は、その直後の弘化二年七月、海防掛を置いた。海防掛は安政五年(一八五八)七月の外国奉行の設置で廃止されるが、その十三ヵ年の間、幕府内部の有能な実力吏僚登用の道となった。彼らは沿岸防備のための軍事や経済改革、さらには蝦夷地開発などの諸改革の推進に大きな役割を果たした。西南雄藩も天保改革以後急速に海防問題に取り組んだ。この幕府と西南雄藩との外圧への対応如何は、その後の両者のあり方と関わる。老中阿部正弘は御三家の一つ水戸藩前藩主徳川斉昭を海防参与とし、越前藩主松平慶永(春岳)や薩摩藩主島津斉彬に接近し、いわゆる協調政策をとった。それは外圧を「祖法」を越えた危機とみたからである。だから阿部は、「黒船」来航の事態を「国家之一大事」とし、一方では嘉永六年六月、朝廷にこれを報告し、他方では諸大名以下幕府有司・儒者・浪人・町人に至るまで広く意見を徴した。それは朝廷(天皇)という伝統的名分的な権威を危機内に引き込むことによって権力の集中を図ろうとし、反面、外圧の危機感の底辺への拡大によって、揺らぎつつある幕藩体制の再編・強化を意図したものにほかならない。さきの海防掛を通しては川路聖謨(としあきら)・水野忠徳(以上、勘定奉行)、土岐頼旨・筒井政憲(以上、大目付・海防掛)、堀利煕・永井尚志・大久保忠寛(以上、目付・海防掛)、岩瀬忠震(ただなり、目付・勝手掛・海防掛)、竹内保徳(箱館奉行)、井上清直(下田奉行)、江川英竜(海防掛)、高島秋帆、勝海舟らが登用され、彼らはその後幕府の開明吏僚として活躍する。それは格式や身分にこだわらない人材登用でなければ国家的危機への対応が不可能であったことを示すと同時に、外圧と内政の接点で、政治の担い手が上層から中・下層の実力吏僚層へ移行し、幕藩的な枠組を越えて新しい官僚的な実力吏僚層が生み出されていく過程でもあった。これらの新しい官僚的実力吏僚層によって幕府は「祖法」のタテマエ論はタテマエとしつつも、実際の外交交渉においては徐々に現実対応の方策をとったのである。世にいう「ぶらかし」策である。それが現実のプロセスでは、安政元年の日米和親条約から下田条約(安政四年)、さらに安政五年の日米修好通商条約をはじめとするいわゆる安政五箇国条約の調印となる。この通商条約問題は第十三代将軍徳川家定の継嗣選定という内政問題とからんだ。一橋慶喜を次期将軍に推す一橋派と紀州藩主徳川慶福をかつぐ紀州派(南紀派)との暗闘の中で、井伊直弼が大老職に就くや、独断専行、第十四代将軍に慶福(のち家茂)を決め、アロー戦争(第二次アヘン戦争、一八五六―六〇年)などの情報で威嚇と督促を重ねる初代駐日アメリカ総領事タウンゼント=ハリスとの間に安政五年六月十九日、勅許を得ないままに日米修好通商条約を調印した。井伊はそれを「臨機の権道」とみ、朝廷から政治を委任された征夷大将軍としての幕府のとるべき道だとし、責任は一身に負うとしたのである。継嗣問題で敗れた一橋派は、井伊の違勅調印を理由に、「違勅」に対しては「尊王」を、「開国調印」に対しては「攘夷」をとなえた。本来名分論としては別個であった「尊王」と「攘夷」とが、「尊攘」というひとつづきのものとなり、反井伊・反幕閣の政治スローガンとなった。時の孝明天皇も激怒して譲位の意向をもらし、「戊午の密勅」を水戸藩へ下した。朝廷内部でも上級佐幕派の公家と下級尊攘派の公家とが対立し、後者は「列参」という集団威圧行動をとった。それは朝廷の政治勢力化であり、天皇の政治化を意味した。条約勅許問題はその後の政局の争点となって引きつがれていく(慶応元年十月、勅許)。井伊はこの反対運動にいわゆる安政の大獄という血の粛清で応えた。そして、その弾圧の返り血を浴び、大老井伊は万延元年三月三日、桜田門外に横死した。ところで、「黒船」来航の情報は、たちまち全国に伝わり、至るところで一種のパニック状態を引き起した。予感されていた危機が現実のものとして伝達されたのである。幾種類もの「黒船」や世界地図の瓦版などが人々の間で広く読まれ、危機感の拡大とともに世界へと関心が向けられた。「自由貿易」を旗印とする外圧による開国は、後発国日本にとってはそれ自体が不平等であったし、領事裁判権や関税自主権の欠如、さらに和親条約から引きつがれた最恵国条款などがその不平等の内実を規定した。不平等の内容は中国(清)が列強との戦争によって敗北後に結んだ南京条約(一八四二年)・天津条約(一八五八年)・北京条約(一八六〇年)などよりはやや緩和されていたが、そのことは市場価値としての中国と日本との相違および軍事力行使の有無とも関連していたのである。中国においては、これらの問題を機に支配層の漢人官僚によって洋務運動がおこり、同治中興(一八六二―七四年)は列強と清国支配層との癒着を急速に進めた。開国による貿易は、開港場に設けられた居留地を中心に、いわゆる居留地貿易(商館貿易)として開始された。そこは日本の行政権の及ばない日本の中の異国だった。イギリス系のジャーディン=マセソン商会、デント商会などの巨大商社をはじめ、アメリカのウォルシュ=ホール商会などが活躍し、横浜を中心に幕府の御用商人三井(越後屋)や上州出身の中居屋重兵衛などの江戸商人や地方新興商人が店を構え、生糸や茶、のちには蚕種などの取引をした。輸出に直結する産品の生産地帯では経営が拡大・発展してマニュファクチュアが展開した。しかし、生糸の値段の高騰により、それを原料とする絹織物生産は危機に面し、物価の上昇と相まって不穏な状態が各所に現出した。輸入品は毛織物・綿織物などの加工産品や軍艦・武器などだった。加えて、貿易通貨のメキシコ=ドル(メキシコ銀・洋銀)と日本の貨幣との金銀比価の相違によって、良質の日本貨幣は海外に流出し、それを防ぐための貨幣改鋳は物価高騰に拍車をかけた。こうした経済的混乱と全国的な商品流通による地域的落差の現出が幕藩体制の崩壊をいっそう進めるとともに、武士層の分裂や農民・商人層の階層分化を促進し、その中で中・下層武士層は政治化し、自覚的な豪農商層、知識人が輩出して、尊攘・倒幕運動の基盤を形成した。

(二)尊攘運動から倒幕まで(文久元年―慶応三年)

 大老井伊の横死のあとをうけて久世(広周)・安藤(信正(信睦))政権が成立し、公武合体運動は展開する。この久世・安藤政権の評価は分かれている。肯定的な評価は政権それ自体よりも安藤個人に対してであり、否定的な見解は安藤自身よりも当時の情勢に対するこの政権のあり方に比重がおかれている、といえる。さて、公武合体運動は、外圧下、政治化した朝廷(公)と幕府(武)および雄藩(武)という三勢力の間で二つの「武」が相拮抗しながら「公」に結びつこうとした政治運動である。幕府のいう「公武一和」は幕藩体制の再強化であり、雄藩側からの公武合体運動は幕権への割り込み策であった。文久・元治期は、この公武合体運動と尊攘運動とが対立・交錯し、かつ尊攘運動が破産する波瀾の時期である。前述のように尊王攘夷は、当初は反井伊・反幕閣のスローガンであったが、この尊攘イデオロギーは後期水戸学などの影響もあって、すべての価値の源泉を天皇に求め、天皇を絶対化していった。そこには「夷狄」への危機意識や幕藩体制の矛盾が敏感に受けとめられていた。イデオロギーとしての尊攘は、あくまで君臣の義、華夷内外の弁という名分論であった。しかし、文久二年、朝廷に国事御用掛が新設され、翌年、国事参政・国事寄人がおかれ、学習院に尊攘派が進出し、現実に朝廷に尊攘派勢力が結集して天皇の政治化、朝廷の政治勢力化が進み、反面、外圧の危機が次第に半植民地化の危機として認識され始めるや、尊攘運動は客観的にはナショナルな側面をもたざるをえなくなったのである。開国に伴う経済変動がこれに拍車をかけた。それは尊攘運動における攘夷が、一面では目的ではなく手段化されていくことと表裏をなしている。文久三年五月十日の攘夷期限の日における長州藩の外船砲撃は、伊藤博文ら長州藩士がロンドンへ向けてひそかに横浜港を出航したことと時期を一にしていた。攘夷運動は外圧を否定的に媒介する形で維新変革の主体を形成する役割を担ったのである。この尊攘運動は、文久三年八月十八日の政変と翌元治元年(一八六四)の禁門の変で挫折・転回する。攘夷の不可能を、公武合体運動の中軸薩摩藩は生麦事件(文久二年)に端を発する翌文久三年の薩英戦争で思い知らされ、尊攘運動の中心長州藩は下関の外船砲撃事件、翌元治元年の四国連合艦隊の下関攻撃(下関戦争)によって身をもって体験したのである。対する幕府は、文久二年、幕政改革を推進した。一橋慶喜が将軍後見職に、松平慶永が政事総裁職に就いた。そして、職制改革、参勤交代の緩和、軍制改革、さらに学制、近代洋学へと展開する諸改革を行なった。その政治路線はその後の幕政の基本となり、やがて慶応三年の大政奉還路線、「大君」制国家構想へと連なっていく。ところで、慶応期の討幕派は、公武合体運動と尊攘運動との対立と交錯、そしてその転回の上に成立した政治勢力である。討幕派は一方では尊攘運動の系譜を引きつつ天皇をギョク(玉)として絶対化するとともに、他方では公武合体運動が天皇を相対化して政治的に利用したことをも自己論理の中に取り込み、天下万人(人心)の納得するものこそ「勅命」だというように、人心を座標軸にすることによって天皇を相対化してタマ(玉)として利用する発想に立っていた。薩長の討幕派は慶応二年正月、坂本竜馬(土佐)を仲介として薩長同盟を結び、第二次幕長戦争を企図する幕府と対抗した。薩長同盟は勝敗二局面をも見すえた軍事攻守同盟であり、のちには薩長による西日本市場掌握によって幕府と対抗する経済路線へと発展するものであった。この薩長討幕派は、尊攘運動の観念性や公武合体運動の妥協性からも抜け出て、天皇に対しても民衆に対しても政治的リアリズムをもって対処し、むしろこれらを自己論理の中で操作する存在だった。それは国際勢力に対しても同じである。討幕派は雄藩連合をもって「中立」を標榜するイギリスと結びつつ開国路線を進め、公議政体論を基礎とし、フランスに頼ることによって徳川慶喜(第十五代将軍)中心の新しい統一国家=「大君」制を構想する幕府勢力を軍事力で打ち破り、勝利を占めた。そこには、尊攘運動を通して外圧を否定的媒介として政治的主体を形成した討幕派と、それなしにフランスに癒着しようとした幕府との差が、結果として現われていた。それは慶応三年から翌四年(明治元年)にかけての、大政奉還と討幕の密勅、王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦に端を発する戊辰戦争の過程にみることができる。幕府倒壊によって二百有余年の江戸幕府の支配が終ると同時に、古代以来の摂政・関白や征夷大将軍などの官職が廃止された。これをとりまく国際勢力のうち、開国で先頭をきったアメリカは、本国の南北戦争で日本から後退し、国際勢力の主導権は、西南雄藩側を支持していたイギリスが握ったのである。以上みてきた倒幕運動・幕府倒壊の後景には、「世直し」一揆の高揚があった。幕末期の一揆(都市騒擾・村方騒動を含む)の年平均件数を元号ごとに示すと、嘉永四五・三、安政五四・五、万延九一・〇、文久四八・三、元治五〇・〇、慶応一一三・七となり、とりわけ慶応二年は一八五件が数えられている。この「世直し」一揆の中には倫理的な禁欲や思想性をもった組織的な集団行動もみられ、「世直し」による民衆のユートピア世界をつくろうとする意識もひそんでいた。慶応三年には東海道筋・名古屋一帯から京坂・山陽道筋に及ぶ地域は「ええじゃないか」の民衆の集団乱舞が席捲した。そこに討幕派の政治工作を指摘する説は早くからあるが、いまや崩れようとする幕藩体制への不満と不安、変革への予感、そして「世直し」のかなたのユートピア世界への願望とが交錯し、伊勢神宮のお札の降下という宗教的契機が、民衆の鬱屈・蓄積したエネルギーを倒錯した形で爆発させたとみるべきだろう。「世直し」にミロク(弥勒)信仰がからんでいたとすれば、そこに人々が米の豊熟した幸福にみちたミロク世の到来を期待したとしても不思議ではない。それが倒幕運動と重なれば、民衆が薩長討幕派にみずからの解放を夢みたことも否定できない。しかしその倒幕の最終段階で「世直し」一揆のエネルギーの大半が「ええじゃないか」に転じ、「ええじゃないか」と「世直し」一揆とが併存する形で幕府倒壊の終末を迎えたのである。それは民衆の下からの「世直し」=「一新」期待のエネルギーが、上からの「御一新」のチャンネルに流し込まれていくこととも関連する。

第二期 維新政府の樹立から「琉球処分」まで(明治元年―十二年)

 民衆の「世直し」=「一新」の期待が、天皇による「王政復古」「百事御一新」にきりかえられていく論理は、九州鎮撫総督の旨を受けた長崎裁判所(当時は維新政府の行政機関)の慶応四年三月の「御諭書」にみられる。そこでは「御一新」とはすべてが新しくなることにはちがいないが、「中々其リクツニハイカヌゾ」と戒め、天皇と「御日様」とが結びつけられている。そして、王土王民論を前提として天皇支配の正当=絶対性が主張されたのである。同じ時期、江戸城総攻撃の前日たる三月十四日には、いわゆる「国威宣揚の宸翰」とともに五箇条の誓文が発せられた。それはこの時点の政治状況を反映したすぐれて政治的な綱領であった。そこでは「会議」「公論」の尊重や国際性がうたいあげられていたが、翌日のいわゆる「五榜の掲示」では旧幕府時代の徒党・強訴・逃散の禁止があらためて確認されていたのである。国際性といえば、維新政府は、幕末期徐々に受容されていた国際法としての「万国公法」と世界の通義(公義)としての「宇内之公法」とを混用した。混用することによって維新政府の開国和親の方針の正当化を図ったのである。この維新政府は、幕府のもっていた「大君」制国家構想の頂点にあった「大君」(将軍)を天皇におきかえるとともに、五箇条の誓文を官制化した政体書(慶応四年閏四月)によって国家機構を三権分立で粉飾しつつ、天皇・太政官に帰一させた。めざすところは「明天子賢宰相ノ出ヅルヲ待タズトモ、自ラ国家ヲ保持スルニ足ルノ制度」(岩倉具視)の確立であり、近代天皇制国家の創出だった。藩という地方の体制を消滅させるために、版籍奉還(明治二年)や藩制の改革がなされ、中央軍事力としての親兵を設置した(明治四年二月)上で明治四年七月、廃藩置県が断行された。その背景には高官暗殺、脱籍浮浪の徒の横行、さらに山口藩諸隊の反乱(長州藩脱隊騒動)、それと結びつく農民一揆など、反政府運動の重層的な広がりと内乱化への危機があった。また、対外的にも統一国家の政府としての支配の実態をもつ中央集権的な政権の樹立が急がれたのである。身分差別の賤称も「四民平等」の旗印によって廃止された。だが、「一君」のもとでの「万民」は、華族を含め新たな官尊民卑の身分秩序で律せられていった。廃藩置県後程なくの明治四年十一月、明治政府は岩倉遣外使節(横浜出航時、四十六名。これに留学生その他が加わる)を米欧十二ヵ国に派遣した。国書捧呈、条約改正の予備交渉、制度・文物の調査・研究がその目的だった。条約改正交渉には失敗したものの、使節は天皇中心の近代的国家の形成を「万国対峙」の中でどう実現するか、その国家モデルの選択肢を先進諸国に求め、大国や小国をつぶさに聞見した。そして、その帰途、植民地化された東南アジアを目のあたりにし、「文明」化=「脱亜」の方途をまさぐった。帰国直後の明治六年十月の政変(「征韓」論の分裂)は倒幕運動以来、薩長土肥を中心に構成されていた政治勢力の決定的な分裂となった。すでに薩長土肥の藩閥も、藩閥の枠内では流動的になっていた。新しい藩閥は形成されつつあった官僚機構とより強く結びつく形でつくられていく。政府の主導権を握ったのは外遊派=新薩長派の大久保利通・木戸孝允らの官僚派であり、下野勢力は西郷隆盛・板垣退助らに代表されるいわゆる征韓派だった。この征韓派はやがて士族派と民権派とに分裂する。外遊派=新薩長派は内務省(六年十一月設置。内務卿は大久保)を中軸にし、工部・大蔵両省を両翼とした大久保政権に結集した。大久保政権は「万国」に「対峙」するため、「宇内」の「公義」にかなう「万国公法」に拠りつつ、いかに早く「文明」化する道を歩むかを課題とした。だから、「文明」化は権力的に先取りする形で強行された。それは「文明開化」を力と化すことであった。殖産興業政策をはじめとする大久保政権の一連の政策はそのためのものである。すでに留守政府によって着手されていた学制・徴兵制・地租改正などの改革はいっそう推進された。旧幕藩の軍事産業と主要鉱山の国営化が実行され、官営模範工場を通して機械制生産の技術が導入された。工部省を中心に多くの御雇外国人が高給で抱えられた。この大久保政権は旧幕府時代の文化蓄積の上に立つ旧幕臣出身の実務官僚によってその政権の裾野を支えられていたのである。他方、無用とされた士族は秩禄処分によって解体を進められ、反面、旧大名の有産化が図られた。地租改正によって農民(地主)の私的土地所有は認められたが、旧貢租に匹敵する地租は確保された。明治十年一月、地租率三%が二・五%に下げられることにより士族反乱と農民一揆は分断され、かつ弾圧された。諸隊反乱の鎮圧強行後の徴兵制度によって天皇制軍隊は創出され、警察制度も確立されていった。日本国内の租借地・居留地などの国権の回復が徐々に進められ、また、明治七年の台湾出兵、明治八年の江華島事件につぐ翌年の日朝修好条規(江華条約)の調印などで、東アジアへの強硬姿勢は強められた。それは列強のアジア政策を、「文明」化しつつあった日本が代行する形での「脱亜」政策の実行であった。日本の「文明開化」とはこうした内外政策を巧みに関連させ、かつ正当化する自己論理の上に立つものであった。明治二年七月、北海道には開拓使がおかれ、実験場として開発が進められた。明治八年、ロシアとの間には樺太・千島交換条約が結ばれ、翌年にかけては小笠原諸島の帰属問題も解決した。明治十二年には、琉球はさきの台湾出兵の延長線上で、外務省から内務省の管轄に移され、軍事的圧力のもとで「琉球処分」が断行された。沖縄県の設置である。ここに統一国家としての明治天皇制国家の国境は画定した。それは最終の士族反乱としての西南戦争が鎮圧された二年後であり、大久保政権の中心人物大久保利通暗殺の翌年だった。明治六年十月の政変の翌年一月、民撰議院設立建白書が左院に提出され、これに端を発する自由民権運動は、士族反乱終熄のあとを受けて、その基盤も地方の豪農商層へと広がり、本格化する。「有司専制」の政府の体質が厳しく問われたのである。国会開設・地租軽減・不平等条約の撤廃という三大綱領がかかげられて運動の組織化が進められた。明治十一年、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる三新法が公布されるや、これを逆手にとった豪農商層=地方名望家層は、いくたの弾圧法にもかかわらず民権運動をいちだんと広げていったのである。明治政府の権力強化策としての「富国」化が、同時に、自由民権運動というブルジョア民主主義運動を高揚させ、政府との対決を深めていくというパラドキシカルな現象を呈するのである。近代天皇制の形成・確立を目指す明治政府が、上からのブルジョア化政策を進めて権力強化を図ろうとすれば、同時にそれに対決するブルジョア民主主義運動が高まるという二律背反の構図は、十九世紀後半の東アジア後発国日本における明治維新という変革の必然的かつ構造的な性格といえよう。再言すれば、権力による上からの「文明開化」は、自由民権運動を引き起し、「文明開化」によって政府が権力の絶対性を強めれば、抵抗はいよいよブルジョア民主主義運動として権力との対決姿勢を強めていくというこの二律背反の重層的なかつ癒着性をもつ構図が、明治維新の性格を複雑にし、そのことが明治維新を絶対主義の成立かブルジョア革命かという、二者択一的な発想での論争を長く繰り返させたゆえんといってよい。明治維新は十九世紀後半の東アジアにおける後発国日本の近代の起点としての一大変革であり、この二律背反的な重層的癒着的構造こそがその特質であり、それはこの時点におけるアジアの近代的「革命」の一型態であった、といえるのである。

〔時期区分〕

明治以降、明治維新は偶然的な「黒船」来航に始まると捉えられてきたが、昭和初年の日本資本主義論争によって、この「黒船」の世界史的意義が明らかにされ、そのことは逆に日本の一国史的な内的発展の段階を問う契機となった。そして、外圧に対応する内発的必然性を重視する視点が打ち出されたのである。これを受けて第二次世界大戦後の明治維新史研究では、維新の開始期を「黒船」来航以前の天保期とする説が一般化した。この天保期説も天保八年の大塩平八郎の乱、あるいは幕府の天保の改革の失敗(天保十四年)を指標とするなど、諸説に分かれる。しかし、一九六〇年(昭和三十五)前後からそうした見方の再検討が始まり、維新変革の国際的規定性があらためて問題とされた。それは十九世紀後半という世界史の中に日本の明治維新を位置づけ、東アジアにおける維新の意味を問い直すことであった。したがって、それは国内的要因と国際的規定性を統一的に捉えることであり、この両者の構造的連関の中で維新の特質を探ろうとするものであった。かくして、明治維新の始期は「開国」とされたのである。この開国期説は、ペリー来航の年(嘉永六年)もしくは安政の通商条約締結・開港(安政五―六年)の時期を指す。では終期はどこにおかれているのか。列挙すれば大略つぎのようになる。(一)明治四年説。これは廃藩置県によって幕藩体制が一掃され、新政府による統一国家が成立した、とみる。(二)明治六年説。学制や徴兵令・地租改正などの一連の改革令ないし明治六年十月の政変を画期とみる。(三)明治十年説。最後の士族反乱たる西南戦争を指標とする。この年から翌年にかけての西郷・木戸・大久保という「維新の三傑」の死は維新終末のイメージと重なる。以後は明治七年の国会開設要求に始まる自由民権運動の新たな段階に入った、とみるのである。(四)明治十二年説。「琉球処分」が指標となる。本項もこの年を終期としているが、それは「琉球処分」で廃藩置県は完成し、近代国家としての統一がなり、また、「琉球処分」は日本の近代的統一国家形成過程における、旧体制と国際的条件がきり結ぶ最後の結節点だったとみるからである。内外条件を統一的に捉えようとする始期に対応する終期説でもある。(五)明治十四年説。明治十四年の政変を重視する。旧領主階級と政商に基盤をおいた国家権力が、この政変あたりから自己修正を遂げ、次第に基盤を寄生地主と政商・特権ブルジョアジーの系譜をひく近代産業ブルジョアジーへ移行し始めた、とみる。(六)明治十七年説。秩父事件が指標となる。領主対農民という幕藩体制の基本的階級対立が、この事件から寄生地主・資本家対小作人・労働者という資本主義社会の基本的階級対立へ転換した、とみる。秩父事件を自由民権運動の決定的な転換とみる見方とも重なる。(七)明治二十二―二十三年説。大日本帝国憲法の制定と教育勅語の渙発によって明治憲法体制とそのイデオロギーの支柱が形成され、また、帝国議会も開かれ、このころまでに資本主義の土台もほぼでき上がる、とみる。以上の終期説のうち、(三)もしくは(七)説が一般的にはとられている。本項の(四)説は(三)説を包み込んでいると考えてもよい。(五)ないし(七)説はいずれも自由民権運動を明治維新のなかに含めているが、維新期と民権期を別個に取り扱うかどうかは明治維新の性格規定並びに民権運動の性格規定とも関連する。さらに(七)説にしても日清戦争(明治二十七―二十八年)とその「戦後経営」をも含めて幅広く画期をとることも可能である(法体系による「三十二年体制」説とも重なる)。いずれにせよ、これらの諸説は明治維新と近代天皇制国家(日本資本主義、ひいては日本帝国主義)との関わり方を問うことになる。いずれの説をとるにせよ、日本の近代国家の出発点が明治維新におかれ、その維新変革のプロセスがその後の明治国家や近代天皇制の性格や構造を決定づけた、とみる点では共通している。

〔明治維新観の変遷〕

明治・大正・昭和の各時代における維新論はすぐれて現代論である。ここにいう明治維新観はその意味では維新史研究上の狭義の維新論のみならず各時代の人々の抱いた広義の維新のイメージをも含む。維新政府はみずからの正当(正統)性として「王政復古」論を主張したが、これに対し、戊辰戦争のさなか、維新の変革は草莽、つまり民間の側から起ったとする「草莽復古」論もみられた。明治政府の「文明開化」政策のもとで、明六社を中心とする明治啓蒙思想家(ほとんどが官僚)によって維新の開明性・進歩性が強調されたが、政府は「王政復古」論を『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で編纂し、また刊行した。他方、自由民権運動の側は、五箇条の誓文の一ヵ条一ヵ条を論拠にして国会開設を主張し、民衆の側からの維新論をさらに発展させ、明治維新は「自由」への第一歩であり、その「維新の精神」を引き継いだ民権陣営こそが「維新革命」の正統な後継者であり、民権運動は「第二の維新」だと主唱したのである。この第二維新論は民友社の平民主義の主張にも受け継がれ、明治二十年代前半の思潮として人々を広くとらえた。そこには近代天皇制を維新の延長線上で正当(正統)化しようとする明治政府の側からの維新論への批判を含んでいたのである。しかし、第二維新論は日清戦争によって大きく転回した。日清戦争こそが「第二の維新」の実現であり、維新の「果実」だとされたのである。日清戦争の勝利はその「戦後経営」とともに、政府の明治維新に対する正当(正統)性を、イデオロギーとして民衆にまで滲透させることに成功した。ただ体制・反体制側のいずれもが維新変革それ自体の意味は評価し、「維新の精神」が近代日本の原点であることを認めていたことは留意しておかねばならない。明治三十年代以降、佐幕派の維新論、すなわち旧幕臣による江戸時代の再評価や幕府の衰亡史を維新史の中軸とする幕府中心の明治維新史、あるいは東北諸藩を主として描いた維新史の登場にも、すでに体制側の維新観はゆらぐことなく、それを許容する余裕すらもっていた。そして、日露戦争を経て天皇制が帝国主義的色彩を強めつつ完成するのに呼応して、明治維新に民族的特質を指摘し、神格・絶対化された天皇中心の国体論の伝統性が強調される反面、開国以来欧米の文明を摂取した日本の「文明的存在」が主張された。こうした支配の思想のもとで、明治四十四年薩長中心の維新史料の蒐集と官撰の明治維新史の編纂を目指した維新史料編纂会が設置された(昭和十二年より『維新史料綱要』全十巻、『維新史』全六巻などを刊行)。こうした枠組を突き破る社会主義的維新観も明治三十年代以降の労働者の階級的成長と相まって芽生えつつあった。大正期におけるいわゆる大正デモクラシーの潮流は、第一次・第二次護憲運動を背景に、再び「第二の維新」としての「大正維新」を唱導せしめた。そこには個人主義の論調や立憲思想による憲政史的維新観がみられた。こうした状況の中ではじめて世界史的な概念として明治維新を「一種のブルジョア革命」と規定する見方が登場するのである。これをさらに厳密に規定し、かつ方法論をも深めていったのが、昭和初年の日本資本主義論争だった。これはマルクス主義(史的唯物論)陣営内の戦略論とからみつつ、幕藩体制の階級的矛盾、民族的矛盾としての外圧、天皇制権力の性格やイデオロギー、あるいは地主・小作制や日本資本主義の構造などの諸問題を通して維新分析の方法を提起し、封建国家から近代国家へ移行する転換点としての明治維新の位置づけと性格を解明しようとするものであった。しかし、論争は日本の急速な軍国主義化によって中絶をよぎなくされた。代わって、維新の原理は、君臣の本義を明らかにし、忠孝の道によって、絶対化された天皇への回帰にあるとする皇国史観による維新論が横行し、軍部・右翼の理論的リーダーたちは「昭和維新」論をとなえた。そして、この「昭和維新」論は「東亜の維新」でもあるとされ、「大東亜共栄圏」の思想と二重写しにされたのである。これらの左右両翼の維新観の中にあって、大衆小説や古老の体験談・回顧談を含む「明治維新物」ブームもおこる。つまり、昭和初期の維新観は、第一にこの「明治維新物」ブームにみられる維新観が広く人々を捉え、一方に唯物史観による維新観、他方に軍部・右翼の皇国史観による「昭和維新」論という配置を示した。そして、この皇国史観による維新観が時代を圧倒した。昭和二十年の第二次世界大戦の敗戦は、この皇国史観的な維新論を破産せしめ、対極にあった唯物史観による維新観を復活させた。それは日本資本主義論争の発想と方法を継受したものだったが、天皇制の変容という戦後情況下での問題意識のすえ直しが必ずしも十分でなかったためか、維新論は明治維新は絶対主義の成立かブルジョア革命かという二者択一の形で受けとられ、論争はこの問題に集約された。その後、問題意識は明治維新と帝国主義との関連に移されはしたものの、日本の一国史的発展と十九世紀後半の世界史的規定との重層的構造の複雑性をいかなる概念で統一的に捉えるかは、論議されつつも課題を残して現在に至っている。また、明治維新をナショナルな側面から捉えて民族革命とみる見方もある。一方、体制側は昭和二十一年初頭、五箇条の誓文をいわゆる「天皇人間宣言」(新日本建設に関する詔書)の冒頭に引用し、それがあたかも「新日本」建設の指針であるかのごとく強調した。そして、六〇年安保闘争の盛りあがりを教訓として、国家行事としての「明治百年祭」を計画し実行した。明治百年記念式典は昭和四十三年十月二十三日に挙行された。それは維新変革の意義を後景に追いやり、「明治」のバラ色幻想を基調に、「明治百年」と「現代」とを直結するイデオロギー操作で、一世紀間の近代日本の矛盾や戦争をなるべくおおいかくそうとしたものにほかならなかった。それは当時のアメリカを中心とした「日本近代化」論にも支えられていた。早くから明治維新再評価論は提起はされていたものの、政府の「明治百年祭」に対応して、「自由民権百年」が市民運動として対置され、昭和五十六年から数次にわたって全国集会が開かれた。しかし、市民にとっての自由民権運動の歴史的意義は強調されたが、明治維新との関連は必ずしも明確ではなかった。他方、国民の中流化意識の肥大化の中で、マス=メディアでは明治維新など変革期が題材とされることが多くなった。そこでは民衆をリードする英雄的人間像に力点がおかれ、また権力による勧善懲悪主義がドラマの基調とされ、歴史変革と民衆エネルギーとを乖離させる役割を果たした。この間、高度な技術革新による社会の急変貌と世界情勢の激変による価値観の多元化と国際化および日本の「経済大国」化に伴い、近代の起点としての明治維新の見方もますます複雑化した。いまや明治維新のもつ世界史的な意味とその重要性、多元的総合的評価の必要性が強調される中で、明治維新の訳語としてMeiji Restoration,Meiji Revolution,Meiji IshinあるいはMeiji Reformのいずれがよいか問われているのである。現代論としての明治維新観は、いま長い研究史の上で世界史的国際的視野と比較の中での再検討を迫られている、といえるだろう。
[参考文献]
遠山茂樹『明治維新』初版・改版(『岩波全書』)、同『明治維新と現代』(『岩波新書』青六九八)、井上清『日本現代史』一、堀江英一『明治維新の社会構造』、坂田吉雄『明治維新史』、小西四郎『日本全史』八、岡義武『近代日本政治史』一、原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店『日本歴史叢書』)、信夫清三郎『日本政治史』一・二、大久保利謙『明治維新の政治過程』(『大久保利謙歴史著作集』一)、永井秀夫『明治国家形成期の外交と内政』、永井道雄・M・ウルティア編『明治維新』、丸山真男『日本政治思想史研究』、植手通有『日本近代思想の形成』、下山三郎『明治維新研究史論』、石井孝『明治維新の国際的環境』初版・増訂、芝原拓自『日本近代化の世界史的位置』、石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』、加藤祐三『黒船前後の世界』、荒野泰典『近世日本と東アジア』、丹羽邦男『明治維新の土地変革』、田中彰『明治維新』(小学館『日本の歴史』二四)、同『明治維新観の研究』、同校注『開国』(『日本近代思想大系』一)
(田中 彰)
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検索コンテンツ
1. 明治維新
日本大百科全書
れ、論争点の一つが、明治維新の歴史的性格についてであった。山田盛太郎もりたろう、平野義太郎よしたろう、服部之総はっとりしそう、羽仁はに五郎ら(講座派とよばれた)
2. 明治維新画像
世界大百科事典
るアジアの後発国としての日本の明治維新ないし近代天皇制創出の特質がある,といえる。 明治維新観の変遷 ここにいう明治維新観とは,もとより維新研究史上での明治維新
3. めいじ‐いしん[メイヂヰシン]【明治維新】
日本国語大辞典
蘇峰〉一「明治維新創業の政府は正に是れ天地開闢の時に於て森羅万象を抱容したる星雲の非常なる速力を以て宇宙を回転したるが如く」*幕府衰亡論〔1892〕〈福地桜痴〉
4. めいじいしん【明治維新】 : 近代
国史大辞典
明治維新〕 幕府は対外主権者として民族的独立の維持に失敗したため倒幕運動が始まり、戊辰戦争を通じて天皇を擁する雄藩連合政権が誕生した。幕府は討幕軍を叛徒とす
5. めいじいしん【明治維新】
国史大辞典
着性をもつ構図が、明治維新の性格を複雑にし、そのことが明治維新を絶対主義の成立かブルジョア革命かという、二者択一的な発想での論争を長く繰り返させたゆえんといって
6. 【明治維新】めいじ(ぢ) い(ゐ)しん
新選漢和辞典Web版
《国》慶応三年(一八六七)に、将軍徳川慶喜(よしのぶ)が政権を天皇にかえしてから、明治の新政府が成立し、封建制から立憲君主制へと移った政治の改革をいう。
7. めいじいしんからだいしんいんせっちまでのしほうせいど【明治維新から大審院設置までの司法制度】 : 司法制度/(一)
国史大辞典
(一)明治維新から大審院設置までの司法制度  明治維新直後から全国的、統一的裁判機関創始に向けて、さまざまな動きが紆余曲折を辿りつつ展開された。明治元年(一八
8. めいじいしんかんのへんせん【明治維新観の変遷】 : 明治維新
国史大辞典
化に伴い、近代の起点としての明治維新の見方もますます複雑化した。いまや明治維新のもつ世界史的な意味とその重要性、多元的総合的評価の必要性が強調される中で、明治維
9. めいじいしんきのてんのう【明治維新期の天皇】 : 天皇
国史大辞典
明治維新期の天皇〕 明治維新が、実質では古代天皇制への復帰ではなく、新しい絶対主義君主制の創立であったにもかかわらず、「王政復古」とよばれたのは、倒幕の志士
10. めいじいしんご【明治維新後】 : 清
国史大辞典
明治維新後〕
11. めいじいしんのこうせいようけん【明治維新の構成要件】 : 明治維新
国史大辞典
明治維新の構成要件〕 明治維新を構成する政治力学的要件は、維新変革を「外から」規定した外圧と、幕藩体制を「内から」、そして「下から」つき崩し、倒壊せしめたエ
12. めいじいしんのぜんてい【明治維新の前提】 : 明治維新
国史大辞典
明治維新の前提〕 日本の近世、つまり幕藩体制は同時に鎖国の体制といわれる。しかし、この鎖国の体制は単に国を鎖すのではなく、長崎を窓として幕府が、中国とオラン
13. 明治維新物
世界大百科事典
明治維新前後の史実に取材した歌舞伎,新劇などを総称していう。代表作の中でもっとも早く現れたものは,1875年(明治8)東京新富座の河竹黙阿弥作《明治年間東(あず
14. めいじいしんもの【明治維新物】
歌舞伎事典
 歌舞伎狂言の一系統。明治維新前後の史実に取材したもの。代表作の中で、もっとも早く現れたものは、明治八(1875)年六月東京・新富座の河竹黙阿弥作《明治年間東日
15. えんげき【演劇】 : 演劇/〔近代・現代(明治維新から現代まで)〕
国史大辞典
〔近代・現代(明治維新から現代まで)〕 文明開化の波は歌舞伎の欧化改良運動を生み、演劇改良会も結成(明治十九年)されたが、実質的には活歴劇・散切物を派生したく
16. きんだい【近代】 : 近代/〔第一期(明治維新期)〕
国史大辞典
〔第一期(明治維新期)〕 明治五年の「学制」によって近代学校制度が創設される以前であり、江戸時代以来の諸藩の管理のもとに、藩校や寺子屋などがなお存続していた時期
17. 一外交官の見た明治維新[文献解題]長崎県
日本歴史地名大系
E・M・サトウ著 解説 イギリスの外交官による明治日本の回想録。 活字本 岩波文庫
18. いちがいこうかんのみためいじいしん【一外交官の見た明治維新】
国史大辞典
⇒日本に於ける一外交官(にほんにおけるいちがいこうかん)
19. こうゆうい【康有為】(Kāng Yǒuwéi)
世界人名大辞典
強学報》[95],《時務報》[96]の刊行につながり,光緒帝に抜擢されての戊戌変法となった.明治維新を解説した《日本変政考, 1898》,ピョートル1世を模範に
20. アイ画像
世界大百科事典
広島・長州藩などでは〈藍座〉を設置し,他国藍の移入を禁じて自国藍の奨励と自給体制の確立を目ざしている。明治維新後も全国的な需要増により藍生産は拡大し,阿波藍は1
21. IHI(株)画像
日本大百科全書
幕末の1853年(嘉永6)水戸藩が江戸・隅田すみだ川河口の石川島に開設した洋式造船所にさかのぼる。明治維新で官営となったが、1876年(明治9)平野富二とみじの
22. あいおいちょう【相生町】京都市:上京区/京極学区地図
日本歴史地名大系
その後の変遷は不詳。明治二年(一八六九)四丁目と新池洲の二町が合併して現町が成立したという(坊目誌)。明治維新前は禁裏六丁町組の元立本寺跡八町組に属した。
23. あいおいちょう【相生町】京都市:中京区/梅屋学区地図
日本歴史地名大系
その外よろつの革細工師なり」とあり、「切付屋町」の由来をうかがえる。他の町名については不詳。明治維新前、上古京下一条組の両替町九町組に属し、一七軒役を負担。
24. あいぜんじちょう【愛染寺町】京都市:上京区/正親学区地図
日本歴史地名大系
屋の形成と町名の記載がなく、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「あいぜんじ丁」と出る。明治維新前は上古京上西陣組の新シ町であった新柳馬場八町組に属し、一八
25. 愛知(県)画像
日本大百科全書
るにつれて人口も増え、1684年(貞享1)には家数5986軒、町人の数5万4000人となり、明治維新直後には武士の数3万人、全体では8~9万人の町になった。一方
26. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
幕府に奉還し、代わって保科正之が二三万石で会津に入り、同氏は元禄九年(一六九六)松平姓と改め明治維新に至る。蒲生氏郷は文禄元年(一五九二)黒川城(現会津若松市)
27. あいづのこてつ【会津小鉄】
国史大辞典
津侯松平容保が京都守護職に任ぜられてから、会津部屋に奉公し、会津の小鉄といわれた。侠気があり明治維新の京都騒乱には、会津方軍夫を指揮して功があった。明治になって
28. アイヌ
日本大百科全書
までを和人優位期、それ以後を和人支配期とそれぞれ性格づけることができよう。佐々木利和開拓以後明治維新以降のアイヌは、幕末以来急速に進められていた内民化政策をいっ
29. あいのちょう【相之町】京都市:下京区/豊園学区地図
日本歴史地名大系
同商売の美濃屋利助、御打物所の藤原有吉などの有名商店があった(天保二年刊「京都商人買物独案内」)。明治維新以前は下古京三町組の新シ町で構成する四条七町半武蔵組一
30. あいのやむら【相野谷村】宮城県:桃生郡/河北町
日本歴史地名大系
六代一四六年間続いたが、安永二年(一七七三)に大立目氏の所領となり、以後六代九四年間の支配が続き明治維新をむかえた(河北町誌)。字旧会所脇に八幡神社があり、康正
31. あいらぐん【姶羅郡】
国史大辞典
余りは桑原郡に組み入れたと思われる。天正年間(一五七三―九二)に帖佐郡を始良郡と改称、江戸時代は始羅に作り、明治維新の際、古郡名をとって姶良郡に改称、さらに明治
32. 白馬節会
世界大百科事典
引き,天皇,群臣の前を7匹ずつ3組にして引き回してゆく。応仁の乱以後,一時行われなくなったこともあるが,明治維新に廃絶されるまで引きつづき行われた。一方,白馬神
33. あおきし【青木氏】画像
国史大辞典
なった。二代の重兼は酒井忠勝の外孫を養子とした。以後、代々江戸城中柳間に詰めた。十四代重義で明治維新をむかえ、子爵を授けられた。 [参考文献]『寛政重修諸家譜』
34. 青木繁
日本大百科全書
の天才的油彩画家。明治15年7月13日、福岡県久留米くるめに生まれる。父は旧有馬ありま藩士で明治維新の際は勤皇党であった。高等小学校の同級に坂本繁二郎がいた。久
35. あおしまじんじゃ【青島神社】宮崎県:宮崎市/折生迫村
日本歴史地名大系
「青島大明神」「歯朶浮島」「加茂都久志磨」「淡島」とも称したが(「飫肥藩神社調」宮崎県史蹟調査など)、明治維新時に青島神社と称した。現在島には橋が架かり歩行で参
36. 青物市
世界大百科事典
が江戸城納入の補助機関となることで一応の解決を見た。こうして江戸への野菜類の集荷が進められ,明治維新を迎えることになる。→青果市場伊藤 好一 青物問屋
37. 青物市場画像
日本大百科全書
神田かんだ、千住せんじゅ、本所ほんじょ、京橋、二本榎にほんえのき、品川などに青物市場ができたが、明治維新後、廃止・統合された。そのほか、大坂の天満市てんまいち、
38. あおやま【青山】
国史大辞典
・権田原・御露次町・百人組屋敷に通ずる小路が合する六道の辻(明治神宮外苑)の俚俗名があった。明治維新後、青山御所・第一師団司令部・陸軍大学校・青山練兵場・青山共
39. あおやま【青山】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
青山に所在したのは明治年間なので採用できず、赤坂・青山対照の土地状況説も付会・憶測の説と考えられる。明治維新後は南西部へも広域冠称地名となって広がった。昭和四一
40. 青山氏画像
日本大百科全書
さやま藩主となった青山氏宗家と、美濃みの郡上ぐじょう藩主(幸成ゆきなり系)の2家で、そのまま明治維新に至った。宗家の忠成ただなりは徳川氏の駿河するが、遠江とおと
41. あおやまかげみち【青山景通】
国史大辞典
文政二年(一八一九)の生まれ。幼名は直意、通称は稲吉。平田篤胤の門に入り、また書を三好想山に学び、明治維新後は神祇事務局、神祇官の権判事、神祇少祐に任ぜられ、神
42. あおやまがくいんこうないいせき【青山学院構内遺跡】東京都:渋谷区/青山南町七丁目地図
日本歴史地名大系
長谷川久三郎の屋敷があり、元禄八年(一六九五)に相対替により伊予西条藩松平家の上屋敷となって明治維新に至る(沿革図書・「東京府志料」)。西条藩松平家は、紀州藩主
43. あおやまきたまちななちようめ【青山北町七丁目】東京都:渋谷区地図
日本歴史地名大系
の一角が上知となったが、なお広大な敷地で(沿革図書)、庭園は名園として知られた(渋谷区史)。明治維新後は開拓使二号用地となり、明治五年旧幕臣屋敷と合併して青山北
44. あおやまみなみちようななちようめ【青山南町七丁目】東京都:渋谷区地図
日本歴史地名大系
ると、当地は伊予西条藩松平家上屋敷・但馬出石藩仙石家下屋敷・信濃高島藩諏訪家下屋敷であった。明治維新後松平邸は開拓使一号用地となり(東京府志料)、明治五年開墾地
45. あかいけじんじゃ【赤池神社】宮崎県:東諸県郡/国富町/木脇村
日本歴史地名大系
分知領となり領主秋月種封が社領一五石を奉納、その後も歴代領主の信仰が厚く奉納が相次いでいる。明治維新の際に祭典料米が廃止され、赤池大明神を赤池神社と改称した(木
46. あかえまち【赤絵町】佐賀県:西松浦郡/有田町/有田皿山
日本歴史地名大系
郡目附・取納役罷出、手形之外例之通」とある。佐賀藩の庇護と厳重な監督のもとに一六軒の赤絵屋は明治維新まで持続されたが、明治四年(一八七一)廃藩置県により御用赤絵
47. 赤子養育仕法
日本大百科全書
および東北地方の諸藩がとくにこの仕法に熱心で、藩政改革の一環として実施されている。この思想は明治維新後も存続し、1869年(明治2)2月には日田ひた県(現大分県
48. 赤坂(東京)
世界大百科事典
そのうち1632年より幕末まで存在した紀州徳川家上屋敷は最も広大なものであった。松崎 欣一 明治維新当初,神田雉子町の名主斎藤月岑(げつしん)は,その日記に,溜
49. あかさか【赤坂】
国史大辞典
推定される。江戸時代は紀州徳川家などの大名邸(多くは中・下屋敷)、幕臣宅、寺社が大部を占め、明治維新後は台地が離宮、軍施設、邸宅街(青山には墓地、練兵場のち神宮
50. あかさか【赤坂】 : 赤坂/(一)
国史大辞典
推定される。江戸時代は紀州徳川家などの大名邸(多くは中・下屋敷)、幕臣宅、寺社が大部を占め、明治維新後は台地が離宮、軍施設、邸宅街(青山には墓地、練兵場のち神宮
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明治維新と同じ戦・乱・変カテゴリの記事
シャクシャインの戦い(世界大百科事典)
1669年(寛文9)6月,北海道日高のシブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点に松前藩の収奪に抵抗して起きた近世最大のアイヌ民族の蜂起。近世初頭以来日高沿岸部のシブチャリ地方のアイヌ(メナシクル(東の人の意)の一部)とハエ(現日高町,旧門別町)地方
禁門の変(蛤御門の変)(国史大辞典・世界大百科事典)
元治元年(一八六四)七月、京都での尊攘派の勢力挽回を策した長州軍と京都を守る会津・薩摩藩を中心とする公武合体派軍との軍事衝突。元治甲子の変または蛤御門の変ともいう。文久三年(一八六三)八月十八日の政変は、それまで京摂間で猛威を
天狗党の乱(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期水戸藩尊攘激派(天狗党)による筑波山挙兵とそれを契機に起った争乱。天狗の呼称は水戸藩藩主徳川斉昭が天保度の藩政改革を実施した際、改革を喜ばない門閥派が改革派藩士を批難したところから発したもので、改革派には軽格武士が多かったから
大塩平八郎の乱(日本大百科全書・国史大辞典)
江戸後期、大坂で大塩平八郎らが救民のため挙兵した反乱。1828年(文政11)の九州大洪水より、断続的に天災による諸国異作が続き、36年(天保7)は未曽有の大飢饉であった。この打ち続く凶作・飢饉により米価高騰し、大坂市中には飢餓による死者が続出する。
生田万の乱(国史大辞典)
天保八年(一八三七)六月一日の明け方、平田篤胤の元塾頭生田万らが桑名藩領柏崎陣屋(新潟県柏崎市)に乱入した事件。柏崎騒動ともいう。柏崎陣屋は桑名藩の越後領四郡六万石の総支配所で、大役所・預役所・刈羽会所の三役所があり、郡代以下五十数名で領政を担当していた。
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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