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  11. 江藤新平

ジャパンナレッジで閲覧できる『江藤新平』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典

日本大百科全書(ニッポニカ)

江藤新平
えとうしんぺい
[1834―1874]

幕末・維新期の政治家。佐賀の乱の首領。名は胤雄 (たねお)、号は南白 (なんぱく)。天保 (てんぽう)5年2月9日、佐賀藩下級武士の家に生まれる。国学者枝吉神陽 (えだよししんよう)に師事、しだいに尊攘 (そんじょう)運動に参加し、1862年(文久2)脱藩して京に上り、三条実美 (さんじょうさねとみ)らと交わった。しかし結局帰藩を命ぜられ、永蟄居 (えいちっきょ)に処せられた。1867年(慶応3)許されて郡目付 (こおりめつけ)となり、明治政府に登用され、出京して江戸軍監に任ぜられ、江戸遷都を主張した。ついで江戸府判事、江戸鎮台判事として民政兼会計営繕 (えいぜん)の任にあたり、1871年(明治4)文部大輔 (もんぶたいふ)、ついで左院副議長となり、フランス流の民法典編纂 (へんさん)に従事、1872年司法卿 (しほうきょう)となり、司法権の独立、警察制度の統一に尽くし、改定律例 (かいていりつれい)の制定を実現した。1873年参議に任ぜられたが、西郷隆盛 (さいごうたかもり)、板垣退助 (いたがきたいすけ)らと征韓論を主張して敗れ、10月下野した。翌年1月の民撰 (みんせん)議院設立建白書には、板垣退助、副島種臣 (そえじまたねおみ)らとともに署名した。2月佐賀征韓党に推されて首領となり、憂国党と結んで挙兵した。しかし政府軍によって鎮圧され、薩摩 (さつま)、土佐に逃れたが、捕らえられ、4月13日処刑された。近代的な法体系の導入や、地代、家賃の値下げ、問屋仲買の独占の廃止など、民衆の要求を反映した近代化政策を行いながらも、大久保利通 (おおくぼとしみち)や岩倉具視 (いわくらともみ)らが政権を牛耳 (ぎゅうじ)る有司 (ゆうし)専制体制を克服する道を誤り、士族の反乱にそれを求めることとなった。

[猪飼隆明]



世界大百科事典

江藤新平
えとうしんぺい
1834-74(天保5-明治7)

明治初年の政治家。佐賀藩士。佐賀郡八戸村に生まれる。名は胤雄,南白または白南と号する。1862年(文久2)脱藩して尊攘運動に参加し,藩庁より永蟄居に処せられる。67年(慶応3)許されて監察となり,明治政府の成立とともに68年(明治1)徴士として出仕。東征大総督府軍監となり,江戸鎮台判事として江戸開城直後の施政を担当。その後,会計官判事,東京府判事,佐賀藩権大参事,制度局御用掛を歴任して71年文部大輔,左院副議長をつとめ,72年司法卿となる。当時,その立法の知識は群を抜いており,司法卿時代に司法権の独立を主張して薩長派と対立し,また改定律例の制定やフランス法を直訳した《民法草案》など民法編集事業を推進した。73年参議となり,西郷隆盛,板垣退助らと征韓論を唱え,敗れて辞職。74年1月板垣らと民撰議院設立建白を政府に提起したが,2月佐賀に帰って征韓即時断行を主張して佐賀の乱の首謀者となる。政府軍に鎮圧され,再挙をはかるため脱走したが土佐甲浦で逮捕され,4月13日佐賀城内二の丸刑場にて梟首(きようしゆ)刑に処せられる。享年41。1916年正四位を贈られる。
[後藤 靖]

[索引語]
江藤南白 民法草案 佐賀の乱


国史大辞典

江藤新平
えとうしんぺい
一八三四 - 七四
幕末・維新期の政治家。旧佐賀藩士。名は胤雄、字は新平、号は南白。天保五年(一八三四)二月九日、肥前国佐賀郡の八戸村(佐賀市八戸)に生まれた。父胤光は佐賀藩の下士、手明鑓(てあきやり)で郡目付役、母は浦氏。十六歳で藩校弘道館に寄宿、国学教諭枝吉神陽の尊皇論に傾倒して嘉永三年(一八五〇)義祭同盟に参加、安政元年(一八五四)弘道館を退学、「諭鄂羅斯檄」(嘉永六年)で攘夷論を、『図海策』(安政三年)で開国論をそれぞれ唱えた。安政六年藩の御火術方目付、万延元年(一八六〇)上佐賀代官手許、文久二年(一八六二)貿品方となる。同年六月、木戸孝允をたよって脱藩出京、姉小路公知を通じ皇権復帰を願う密書を上奏しようとしたが、前藩主鍋島直正から帰藩を命じられ永蟄居となった。長州再征に反対し、久留米の真木外記と通じていた。慶応三年(一八六七)永蟄居を許され郡目付役となる。同年暮、藩主直大(なおひろ)に先行して出京、明治元年(一八六八)二月江戸軍監として江戸に行き閏四月徴士となった。このころ江戸遷都を岩倉具視に建議した。五月江戸鎮台民政兼会計営繕判事、七月東京鎮将府会計局判事となり、由利公正の太政官札発行に反対、東京知府事烏丸光徳からは弾劾を受けた。十月に鎮将府廃止、会計局が会計官出張所として東京府に合併されることに反対し英米の三権分立を説き、新政府の負債を朝債であるとして国債とすることに反対した。同二年二月藩の参政・権大参事となり藩制改革を担当、軍制・民政改革を推進、恨みをかって兇徒に傷つけられた。同年十一月、中弁(従五位)となり制度局取調掛として四年七月文部大輔に転ずるまで、「国政改革案」をはじめ多くの官制改革案を草して中央集権化をはかった。同時にまた三年九月から制度局中弁として第一回の民法編纂にも参加していた。四年七月文部大輔として創設の文部省にあり、八月左院議員となり副議長(十二月、従四位)となった。同五年三月教部省御用掛兼勤となり、この間、左院の官制を整備した。五年四月司法卿(五月、正四位)となり、司法権の独立、司法制度の整備などに大きな影響を与えた。江藤が司法卿となる直前、民法編纂も司法省で行われることになって、彼のもとで、「改刪未定本民法」、「皇国民法仮規則」などが完成、五年十月から民法会議を主催、審議をすすめ、六年三月「民法仮法則」を完成、四月司法省を去り参議となった。司法省時代、井上馨・山県有朋などと対立があった。六年十月征韓論争に破れて下野し、翌年一月民撰議院設立建白に署名。帰郷後、二月佐賀の乱の指導的立場に推され、征韓党を率い政府軍と闘い、敗れて鹿児島・高知に逃れたが逮捕され、四月十三日佐賀城内で斬罪梟首された。年四十一。墓所は、佐賀市本行寺。大正元年(一九一二)九月罪名消滅、同五年復位追贈。→佐賀の乱(さがのらん)
[参考文献]
的野半介『江藤南白』、杉谷昭『江藤新平』(『人物叢書』八七)
(杉谷 昭)
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検索コンテンツ
1. 江藤新平画像
日本大百科全書
幕末・維新期の政治家。佐賀の乱の首領。名は胤雄たねお、号は南白なんぱく。天保てんぽう5年2月9日、佐賀藩下級武士の家に生まれる。国学者枝吉神陽えだよししんように
2. 江藤新平
世界大百科事典
1834-74(天保5-明治7) 明治初年の政治家。佐賀藩士。佐賀郡八戸村に生まれる。名は胤雄,南白または白南と号する。1862年(文久2)脱藩して尊攘運動に参
3. えとう‐しんぺい【江藤新平】
日本国語大辞典
政治家。佐賀藩出身。尊王攘夷運動に参加。維新後、司法卿として司法制度の確立に努める。参議となり、西郷隆盛らと征韓論を唱えたが、敗れて辞職し、民撰議院設立の建白に
4. えとうしんぺい【江藤新平】
国史大辞典
名消滅、同五年復位追贈。→佐賀の乱(さがのらん) [参考文献]的野半介『江藤南白』、杉谷昭『江藤新平』(『人物叢書』八七) (杉谷 昭)
5. 江藤新平
日本史年表
1874年〈明治7 甲戌〉 2・1 江藤新平 ら、佐賀で挙兵(佐賀の乱.3月1日、平定)。 1874年〈明治7 甲戌〉 4・13 没。
6. えとう-しんぺい【江藤新平】画像
日本人名大辞典
1834−1874 幕末-明治時代の武士,政治家。天保(てんぽう)5年2月9日生まれ。肥前佐賀藩士。枝吉神陽の義祭同盟にくわわる。文久2年脱藩し尊攘(そんじょう
7. 江藤新平[文献目録]
日本人物文献目録
生を憶ふ』久保大来『江藤新平』-『江藤新平』時野谷常三郎『江藤新平を救はんとせし俠者』板垣退助『江藤新平高知潜伏の一夜』杜山居士『江藤新平と佐賀の乱』山県保二郎
8. 江藤新平[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
9. 愛国公党
日本大百科全書
征韓論に敗れて下野した前参議の板垣退助たいすけ、後藤象二郎しょうじろう、副島種臣そえじまたねおみ、江藤新平しんぺいらが中心になって結成し、民撰みんせん議院設立建
10. 愛国公党
世界大百科事典
2度結成された。(1)自由民権政社。征韓論に敗れて下野した前参議板垣退助,後藤象二郎,副島種臣,江藤新平や政府高官の由利公正,岡本健三郎,小室信夫,古沢
11. あいこく‐こうとう[‥コウタウ]【愛国公党】
日本国語大辞典
〔一〕わが国で最初の政党。明治七年(一八七四)板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが結成。民選議院設立の建白書を左院に提出したが、三か月後党は解散。〔二〕
12. あいこくこうとう【愛国公党】
国史大辞典
具体的に実行するため、四日おいた一月十七日には、民撰議院設立建白書を、副島・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の四人の前参議、それに小室信夫・由利公正・岡本健三郎・
13. あいこくこうとう【愛国公党】 : 愛国公党/(一)
国史大辞典
具体的に実行するため、四日おいた一月十七日には、民撰議院設立建白書を、副島・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平の四人の前参議、それに小室信夫・由利公正・岡本健三郎・
14. 愛国公党〔明治初期〕
日本史年表
1874年〈明治7 甲戌〉 1・12 板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平ら、 愛国公党 結成。
15. アメリカ彦蔵自伝 2 210ページ
東洋文庫
とるため、外征の装備をととのえた。 注   いわゆる佐賀の乱は、征韓論に敗れて    下野した江藤新平(もと参議、司法卿)    を首領にして起こされた。しかし
16. アメリカ彦蔵自伝 2 248ページ
東洋文庫
意味している。それは、征韓論に敗れ    て下野した高官たちの有志(板垣、副島、    後藤象二郎、江藤新平ら)によって起草    されたものであった。    
17. アメリカ彦蔵自伝 2 288ページ
東洋文庫
一.西 ○右大臣岩倉具視の遭難。     全9  〔明治七〕       一一.一 ○佐賀にて江藤新平の乱。     〈…       四.一 ○台湾への出兵が
18. 板垣退助
世界大百科事典
73年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し,西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月ともに下野した江藤新平,後藤象二郎,副島種臣(そえじまたねおみ)らと民撰議院設
19. いたがきたいすけ【板垣退助】
国史大辞典
必ずしも西郷と同一ではなかったが、征韓派が敗れると、十月彼も下野した。翌七年正月同じく下野した江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと愛国公党を組織し、由利公正・小室
20. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
開を行なったが、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と呼ばれ、また尾去沢鉱山の私有をめぐって司法卿江藤新平から追及を受けるなど内閣からの風当りが強く、同六年渋沢栄一と
21. いのうえこわし【井上毅】画像
国史大辞典
び東京にでて南校にはいり中舎長となった。四年官途について司法省十等出仕となる。五年六月司法卿江藤新平の渡欧に随員を命ぜられ、江藤は中止したが、井上らは渡仏し、さ
22. うなぎいけ【鰻池】鹿児島県:揖宿郡/山川町/鳴川村
日本歴史地名大系
また温室での熱帯植物育成にも利用される。明治七年(一八七四)西郷隆盛が湯治していた時、佐賀の乱で敗れた江藤新平が援助を求めて訪れ、西郷に一喝されたという話は有名
23. えうちむら【江内村】鹿児島県:出水郡/高尾野町
日本歴史地名大系
刻む水神碑は、同新地のささやかな記念となっている。明治七年(一八七四)佐賀の乱に敗れ鹿児島へ向かっていた江藤新平は、荒崎番所に在勤していた麓郷士によって二日間か
24. えだよし-しんよう【枝吉神陽】
日本人名大辞典
なる。尊王論をとなえ,嘉永(かえい)3年義祭同盟を結成。弟の副島種臣(そえじま-たねおみ)や江藤新平,大木喬任(たかとう),大隈重信らをそだてた。文久2年8月1
25. えとうげんくろう【江藤源九郎】
国史大辞典
二十五日、源作・はまの子として東京神田に生まれ、のち父の勤務の関係から奈良に移った。父源作は江藤新平の弟。同三十二年陸軍士官学校(第十一期)を卒業、日露戦争に出
26. えとう-げんくろう【江藤源九郎】
日本人名大辞典
1879−1957 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。明治12年2月25日生まれ。江藤新平の甥(おい)。大正14年歩兵第三十八連隊長,昭和2年陸軍少将。7年衆議
27. えとう-しんさく【江藤新作】
日本人名大辞典
1863−1910 明治時代の政治家。文久3年10月生まれ。江藤新平の子。明治18年大井憲太郎らとともに大阪事件で逮捕される。27年衆議院議員(当選6回,憲政本
28. えどふ【江戸府】
国史大辞典
た地方行政官庁。明治元年(一八六八)五月十二日に設けられ、徴士河田左久間・同土方大一郎・軍監江藤新平・同小笠原唯八らが、江戸府判事兼務を命ぜられ、ついで五月二十
29. 大木喬任
世界大百科事典
活動,1868年閏4月徴士として新政府に出仕,参与,外国事務局判事などを歴任する。同年9月,江藤新平とともに東京遷都を建議し,東幸に供奉を命ぜられる。同年12月
30. おおきたかとう【大木喬任】画像
国史大辞典
まもなく京都府判事、さらに軍務官判事となったが、七月には参与に再任された。これより先、閏四月江藤新平と連署で東京奠都の意見を岩倉輔相に提出、その実現に努力した。
31. おおき-たかとう【大木喬任】画像
日本人名大辞典
もと肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,勤王派として活躍した。維新後徴士となり,京都府判事,軍務官判事を歴任。江藤新平らとともに東京遷都を実現させる。東京府知事,
32. おおくぼせいけん【大久保政権】
国史大辞典
明治六年(一八七三)の征韓論による政府分裂によって、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣が参議を辞職して下野し、その後の政府は岩倉具視・大久保利
33. おおくぼとしみち【大久保利通】
国史大辞典
総括し、地方官を指揮する広汎な権限をもつものであり、世に大久保独裁といわれる時期を開いた。七年二月江藤新平・島義勇が佐賀の乱をおこすや、軍隊の指揮と反徒の処分の
34. おおくま-あやこ【大隈綾子】
日本人名大辞典
明治2年20歳で結婚。50年余夫をたすけて,賢妻の誉れがたかかった。また佐賀の乱で死刑となった江藤新平の子新作をひきとって世話をし,世にだしたことでも知られる。
35. おおのやまむら【大野山村】佐賀県:佐賀郡/富士町
日本歴史地名大系
宝瑞山金福寺は正応三年(一二九〇)創建と伝え、臨済宗南禅寺派で本尊は薬師如来。脱藩の罪で蟄居を命ぜられた江藤新平が元治元年(一八六四)から二年余この寺で生活し、
36. おかもとけんざぶろう【岡本健三郎】
国史大辞典
自由民権運動の最初の出発点になった民撰議院設立建白書の起草には、前参議の板垣退助・後藤象二郎・江藤新平ら、それに加えて、進歩的知識人の小室信夫・古沢滋が参加した
37. 尾去沢鉱山
世界大百科事典
政商岡田平蔵に払い下げた。この払下げには当時の大蔵大輔井上馨が深くかかわっているとして,司法卿の江藤新平が調査を開始したが,江藤が下野,佐賀の乱で死刑になったた
38. かいけいかん【会計官】画像
国史大辞典
筆生を置いた。長官には万里小路博房・中御門経之が歴任し、次官には大隈重信が任じ、判事の中には江藤新平がいた。新政当初の財政難に際し、太政官札の発行、大阪長堀の貨
39. かいてい‐りつれい【改定律例】
日本国語大辞典
明治六年(一八七三)に公布された刑法。三巻一四律三一八条。司法卿江藤新平が中心となり、フランスなどの刑法を参考にして新律綱領を修正、補充したもの。同一五年旧刑法
40. 敵討
世界大百科事典
〈新律綱領〉(1871)は敵討を原則として違法とする中国法の立場に転じ,笞五十とした。司法卿江藤新平は1873年(明治6)2月7日復讐禁止令を公布して敵討を禁じ
41. かつきけいごろう【香月経五郎】
国史大辞典
嘉永二年(一八四九)肥前国佐賀に香月三之允の長子として生まる。佐賀藩士として藩校弘道館に学び、副島種臣・江藤新平の影響をうけて尊攘思想を抱き、慶応三年(一八六七
42. かつき-けいごろう【香月経五郎】
日本人名大辞典
嘉永(かえい)2年生まれ。肥前佐賀藩士。藩校弘道館にまなび,のち欧米に留学。明治7年征韓論で敗れた江藤新平にしたがって帰郷。佐賀の乱では征韓党にくわわり挙兵の指
43. 加波山事件 民権派激挙の記録 3ページ
東洋文庫
こりしょり 明治七年(一八七四)一月十七日、古沢滋(迂郎)・岡本健三郎・小室信夫・由利公正・江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣の八人は連署して、有司専制の
44. 加波山事件 民権派激挙の記録 5ページ
東洋文庫
誤分かれて二となる。西郷・板垣の徒、快を翻して故山に帰る。しこうして民権拡張の説社会に湧く。江藤新平の佐賀に謀反し、西郷南洲の鹿児島に起ちしは、みな征韓論に基.
45. 加波山事件 民権派激挙の記録 7ページ
東洋文庫
同月=十三日辞表を出した。「位記返上仕り候」と但書を付してある。 征韓派の参議板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎らは、連快もって西郷にならう。以後、かれら
46. 加波山事件 民権派激挙の記録 8ページ
東洋文庫
この声を聞かざることすでに三年」の吟、このころのものである。江藤新平の佐賀に謀反し 明治七年(一八七四)二月一日、前参議元司法卿の江藤新平(一八三四-一八七四)
47. 加波山事件 民権派激挙の記録 122ページ
東洋文庫
。この際にあたり父もまた没せりという。 時に廟堂において、征韓論破裂し、西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らの諸氏、決然快を払うて野に下
48. 加波山事件 民権派激挙の記録 123ページ
東洋文庫
表し、天下すこぶる騒然たり。旧金沢藩士またしかり。すでにして板垣退助・後藤象次郎・副島種臣・江藤新平諸氏の民選議院設立の建白書は現われたり。すでにして江藤氏は佐
49. 加波山事件 民権派激挙の記録 335ページ
東洋文庫
俺にはやらせられまいよ』.と言って、暗に陰に働く力があることを灰かしていた。検事の柿原義則氏は江藤新平に関係ある人だと聞いたが、この検事も転任されてしまった。そ
50. かんのうらむら【甲浦村】高知県:安芸郡/東洋町
日本歴史地名大系
りで甲浦は物々しい空気に包まれ、明治七年には、佐賀の乱に敗れて高知へ潜入し阿波へ出ようとした江藤新平が甲浦で縛についている。明治以降の甲浦は鰹漁業に加えて、一時
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