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  11. 三条実美

ジャパンナレッジで閲覧できる『三条実美』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典

日本大百科全書(ニッポニカ)

三条実美
さんじょうさねとみ
[1837―1891]

幕末・明治前期の公卿 (くぎょう)、太政 (だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保 (てんぽう)8年2月7日、三条実万 (さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家 (ごせっけ)に次ぐ九清華 (きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従 (じゅ)五位上に叙せられ元服、侍従となり出仕。父実万は議奏 (ぎそう)、内大臣などを歴任し朝廷政治の中枢にあり、攘夷派 (じょういは)公卿として幕末政治に活躍した。実美も父の意を継ぎ、尊攘強硬派公卿として政治運動を展開、1862年(文久2)には千種有文 (ちぐさありふみ)、岩倉具視 (いわくらともみ)ら公武合体派の公卿を弾劾し排斥運動を姉小路公知 (あねがこうじきんとも)らと行った。同年権中納言 (ごんちゅうなごん)ついで議奏に昇進、10月には将軍徳川家茂 (いえもち)に対する攘夷の朝旨伝達と督促のため、姉小路公知とともに勅使として江戸に赴き、かつ朝使の待遇改善などの要求もあわせて行った。12月新設の国事御用掛。1862年から1863年にかけて尊攘運動の最盛期に、尊攘派公卿の代表的立場を占め、長州藩尊攘派と結び、攘夷親征、大和行幸 (やまとぎょうこう)などの画策にあたった。しかし1863年「文久三年八月十八日の政変」で朝議が一変し、攘夷派は参朝停止、官位剥奪 (はくだつ)となり、実美ら7人の攘夷派は京都を追放され長州藩に逃れた(七卿落 (しちきょうおち))。1865年(元治2)1月長州から大宰府 (だざいふ)に移されたが、1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターの結果、官位復旧、入京許可となり、12月27日入京、即日新政府の議定 (ぎじょう)の要職についた。1869年(明治2)7月右大臣、71年7月から太政大臣となり明治政府の最高官となった。1885年内閣制度実施に伴い内大臣に転じ、1889年黒田清隆 (くろだきよたか)内閣崩壊の際に一時期内閣総理大臣を兼任した。またこの間1883年には華族会館長となっている。廃藩前後から政治の実権が諸藩出身官僚に移ったあとも、公卿、諸侯層を代表し、種々の対立の調停者としての役割を果たした。しかし政治的決断力は弱く、1873年の征韓論争の際には、征韓派と反対派の対立の間に挟まり、処置に困って煩悶 (はんもん)、心痛のあまり発熱して病床につく事態ともなった。明治24年2月18日没。公爵。墓所は東京都文京区の護国寺にある。

[佐々木克]



世界大百科事典

三条実美
さんじょうさねとみ
1837-91(天保8-明治24)

幕末・維新期から明治前半期の公卿,政治家。京都梨木町の三条実万(さねつむ)の第4子。幼名は福麿(よしまろ)。母は土佐藩主山内豊策(とよかず)の三女紀子。和漢の学に通じ尊攘思想の持ち主であった富田織部(後藤一郎)に学んでその影響を強く受け,1853年(嘉永6)のペリー来航後の政治情勢の中では尊攘派急進公卿の一人に数えられた。62年(文久2)幕府に攘夷策実行を促す朝廷の正使となり,翌63年の文久3年8月18日の政変までは尊攘派公卿として活躍し,国事御用掛,京都御守衛御用掛,賀茂社行幸御用掛などを務めた。当時,彼の周辺には真木和泉や久坂玄瑞などがいた。政変後は〈七卿落〉の一人として長州さらに太宰府へ落ちのび,官位を剝奪された。67年(慶応3)12月ふたたび上洛,維新政府になると議定,関東監察使,副総裁,外国事務取調掛,議定兼輔相,右大臣などを歴任,69年(明治2)には永世禄5000石を下賜され,修史局総裁になった。71年には右大臣のまま神祇伯,宣教長官を兼ね,さらに太政大臣となって岩倉使節団を米欧に派遣した。73年,使節団帰国後の征韓論の分裂ではその収拾ができず,岩倉具視に委ね,いわゆる明治6年10月の政変をもたらした。以後85年の内閣制まで太政大臣の地位にあり,内閣制後は内大臣,一時内閣総理大臣を兼任した。公卿出身の岩倉が権謀術数の政治家なら,三条は政治力学の緩衝ないし利用しやすい政治家だったといえる。
[田中 彰]



国史大辞典

三条実美
さんじょうさねとみ
一八三七 - 九一
幕末・明治時代前期の政治家。諱は実美、字遜叔、幼名福麿、梨堂と号す。天保八年(一八三七)二月八日、贈右大臣三条実万の第四子として京都梨木町の邸で生まる。母は土佐藩主山内豊策の女紀子。生後洛東の農家楠六左衛門に保育され、帰邸後、家臣で尊攘志士の富田織部の訓育をうけた。また国学者谷森種松(善臣)、漢学者で志士池内大学(陶所)らに学ぶ。安政元年(一八五四)兄公睦の死で三条家をつぐ。はじめ花園家をつぐはずであったが、織部の推しで本家継承となった。この年十八歳で従五位上に叙され侍従となり、元服して加茂社臨時祭の舞人の役を勤仕した。同三年右近衛権少将、五年対米通商条約勅許問題で朝幕の衝突があり、大老井伊直弼の朝廷内反井伊派の弾圧で、父実万が辞官落飾となると、実美も政争の渦中にまきこまれ、父の立場をうけて尊攘派公家へと成長していった。文久二年(一八六二)、左近衛権中将、従三位、議奏加勢、ついで権中納言、議奏となる。この年は朝廷政権がようやく幕権を圧するようになり、公武合体をとる薩摩藩に対抗して長州藩が反幕尊攘へと急転し、京都政局の主導権をにぎると、実美は公家尊攘派の中心的地位に立つようになった。八月、尊攘派公家と連署して、公武合体派公家の頭目岩倉具視ら弾劾の意見書を関白近衛忠煕に提出、さらに幕府に対し攘夷督促の勅使派遣の建言を呈出し、九月勅使の役を命ぜられ、同志の姉小路公知が副使となり、土佐藩の山内豊信が守護にあたった。山内家とは姻戚関係があり、このあと土佐藩は三条家を通して朝廷へ運動をした。十一月江戸城にいって勅書を交付、このとき勅使待遇の慣例を改めて朝廷優位の体制とした。国事御用掛の設置でその一員となる。翌三年は将軍徳川家茂が上洛、三月加茂社・石清水社攘夷祈願の行幸で御用掛を勤める。五月幕府の攘夷決行の発令で攘夷熱は最高潮に達したが、薩摩藩ら公武合体派の策謀で、八月十八日尊攘派追放の政変がおこり、実美ら同派公卿七名(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌・錦小路頼徳・沢宣嘉)が長州藩とともに追われ、長州へ下る七卿落ちとなった。七卿は三田尻の招賢閣にいり、さらに山口に近い湯田に滞留した。八月七卿は官位を褫奪されたので実美は実(まこと)、または梨木誠斎の仮名を用いた。七卿が上京して君側を清掃することをはかっていたところに尊攘派志士の但馬生野挙兵の議が伝わり、沢宣嘉が単独で生野に脱走した。元治元年(一八六四)長州の京都反撃の挙兵上京が禁門の変で敗北に終ると長州藩は朝敵となり、五卿(錦小路病死)の立場も変わり、第一次長州征伐に長州藩が降服すると幕府側の長州処分に五卿引渡し問題がからんで微妙なものとなった。長州藩は激派の五卿擁立の危険もあるので、筑前藩に引受けの意向のあるのを好機にその五卿移転を決し、翌慶応元年(一八六五)二月、実美らを太宰府に移した。かくて五卿は延寿王院を仮寓として同三年十二月の王政復古を迎えた。二十七日帰京すると即日議定となり、翌明治元年(一八六八)正月九日岩倉具視と並んで副総裁となって新政府の要職についた。これは尊攘派公家としての閲歴と高い門地がしからしめたものであった。閏四月輔相となり、また関東監察使となって江戸に赴き鎮将として関東一円の政務にあたる。十月天皇を江戸改め東京に迎え年末帰京した。復古の功績で永世禄五千石を賜わる。二年七月右大臣、さらに四年七月太政大臣となる。六年秋征韓論政争で征韓派・非征韓派の間で窮地に陥り急病で岩倉右大臣に本職を摂行せしめたが、十八年太政官制廃止まで政府最高の地位にいた。太政官廃止で内大臣となる。二十二年黒田内閣退陣後一時首相を兼任。二十四年二月十八日病死。五十五歳。墓は東京都文京区の護国寺にある。公爵正一位。夫人は鷹司輔煕女治子。至誠の人柄で尊敬され、門地で維新政府の首相の地位についたが政治家としては決断に乏しく、実力者の岩倉に押されて名目的存在となった。歌集『梨のかた枝』(『続日本歌学全書』一二)がある。また、国立国会図書館憲政資料室には『三条実美文書』が所蔵されている。
[参考文献]
土方久元『回天実記』、宮内省編『三条実美公年譜』、馬場文英編『三条実美公之記』(『七卿西竄始末』初編)、遠藤速太『三条実美公伝』、徳富猪一郎『三条実万公・三条実美公』
(大久保 利謙)
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検索コンテンツ
1. 三条実美画像
日本大百科全書
幕末・明治前期の公卿くぎょう、太政だじょう大臣、政治家。幼名福麿。天保てんぽう8年2月7日、三条実万さねつむの第4子として生まれる。家格は五摂家ごせっけに次ぐ九
2. 三条実美
世界大百科事典
1837-91(天保8-明治24) 幕末・維新期から明治前半期の公卿,政治家。京都梨木町の三条実万(さねつむ)の第4子。幼名は福麿(よしまろ)。母は土佐藩主山内
3. さんじょう‐さねとみ【三条実美】
日本国語大辞典
公卿、政治家。公爵。実万(さねつむ)の第四子。幼名福麿。少壮から尊王攘夷運動に参加。勅使として一四代将軍徳川家茂に攘夷督促の朝命を伝えた。以後長州藩と提携して活
4. さんじょうさねとみ【三条実美】画像
国史大辞典
国立国会図書館憲政資料室には『三条実美文書』が所蔵されている。 [参考文献]土方久元『回天実記』、宮内省編『三条実美公年譜』、馬場文英編『三条実美公之記』(『七
5. さんじょう-さねとみ【三条実美】
日本人名大辞典
1837−1891 幕末-明治時代の公卿(くぎょう),政治家。天保(てんぽう)8年2月7日生まれ。三条実万(さねつむ)の4男。尊攘(そんじょう)派公卿の中心人物
6. 三条実美[文献目録]
日本人物文献目録
としての三条実美』堀江秀雄『五箇条の御誓文と三条実美』尾佐竹猛『故内大臣正一位大勲位公爵三条実美公略履歴』-『三条公爵薨去』-『三条実美公』土方久元『三条実美
7. 三条実美[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. 三条実美
日本史年表
1863年〈文久3 癸亥〉 8・19( 10・1 ) 大和行幸中止となり、 三条実美 ら尊攘派公卿7名、長州へ逃れる( 七卿落ち )(維新史料綱要)。
9. さんじょうさねとみこうねんぷ【三条実美公年譜】
国史大辞典
三条実美の伝記。和装本。綱文一巻、本文二十九巻。岩倉具視の死後、宮内省で三条・岩倉の伝記編纂が開始され、明治三十四年(一九〇一)十月、宮内省蔵版として刊行され
10. 三条実美蔵書印[図版]画像
国史大辞典
梨堂図書 梨堂珍賞 三条氏図書記 三条家蔵書印 香雪閣珍賞記 香雪閣珍賞 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 『三条実美公年譜』
日本史年表
1901年〈明治34 辛丑〉 10・‐ 宮内省図書寮編纂 『三条実美公年譜』 刊。
12. 青木周蔵自伝 67ページ
東洋文庫
注 一青木の一等書記官心得任命の事情は、明治六年一月二日付、三条実美冤岩倉書簡によると、弁   理公使鮫島尚信はフランス、ドイツ両国の兼勤であったが、普仏戦争以
13. 青木周蔵自伝 119ページ
東洋文庫
改締の時機未だ至らざるを察知し、他日東京に於て会議を開くことに決し、其旨を政府に具申せり〔五年六月十七日、三条実美太政大臣宛〕。
14. 青木周蔵自伝 156ページ
東洋文庫
して挙て愴然たらしめたり。而して大隈伯臥褥中、即ち同月二十五日を以て、黒田内閣総理大臣〔清隆〕は其官を辞し、三条実美公内閣総理大臣〔臨時〕に任ぜられたり。初め大
15. 青木周蔵自伝 159ページ
東洋文庫
     条約実施時延期の手続及其理由書  明治二十二年十二月十三・十四の両日を以て総理大臣三条実美公躬ら露西亜・独逸及び合衆国の三  公使を訪問し、明年二月十
16. 青木周蔵自伝 354ページ
東洋文庫
一 政府要人、とくに長州系要人への工作で、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視はじめ、長州出身の木一尺井上、伊藤、山県、桂太郎などに、ベルリンから書翰で、或いは帰国
17. あかぎただはる【赤木忠春】
国史大辞典
嘉永三年(一八五〇)宗忠の死後、京都布教を開始。市中において講釈と病気治癒を行うとともに、上層公家とも接触、三条実美も一時門下であった。教祖の「七箇条」の訓戒の
18. あかさかくいちがいのへん【赤坂〓違の変】
国史大辞典
征韓派の参議西郷隆盛・板垣退助らは辞職した。征韓派の敗北は、閣議での対立の激化を心痛して病気となった三条実美に代わって内閣を主宰した岩倉の画策によるところが大き
19. あかづまじんじゃ【赤妻神社】山口県:山口市/下宇野令村
日本歴史地名大系
祭は毎年四月二五日に官祭として行われていたが、現在社殿は廃絶している。近くに頼徳の墓があり、その後方に三条実美らが発起して立てた顕彰碑がある。
20. あかまむら【赤間村】福岡県:宗像市/旧宗像市地区
日本歴史地名大系
二代藩主黒田忠之の代には藩主の別邸である御茶屋が設けられ、慶応元年(一八六五)長州落ちしていた尊攘派三条実美ら五卿が西遷の折滞在した(「宗像市史」など)。上ノ番
21. あさくさぶんこ【浅草文庫】画像
国史大辞典
され、同十七年太政官文庫の創立とともにその管理に移り、現在はすべて内閣文庫に所蔵されている。三条実美筆と伝える「浅草文庫」長方双郭朱印を毎冊首に押してあるので、
22. あさくらはちまんぐう【朝倉八幡宮】山口県:山口市/下宇野令村
日本歴史地名大系
―四九)の年号のある太鼓もあり、これは文明一三年に張替えを行ったものである。幕末、山口湯田へ三条実美ら尊攘派の七卿が落ちのびたことがあったが、三条らは朝倉八幡に
23. 姉小路公知
世界大百科事典
1852年,元服して従五位上となり,58年,侍従に任じられ従四位下となった。62年10月,勅使三条実美の副使として江戸へ下り,幕府に攘夷実行の勅命を伝えた。同年
24. あねがこうじ‐きんとも【姉小路公知】
日本国語大辞典
幕末の公卿。尊王攘夷を主張し、日米修好通商条約の勅許に反対。三条実美(さねとみ)の副使として江戸に下って攘夷断行を幕府に求める。のち京都朔平門外で暗殺された。天
25. あねがこうじきんとも【姉小路公知】
国史大辞典
母は中院通繁の女。幼名は靖麿。安政四年(一八五七)三月家督を継ぎ、のち正四位下右近衛権少将に進んだ。少時より三条実美と親交あり、長じて通商条約調印の勅許に反対し
26. あねがこうじ-きんとも【姉小路公知】画像
日本人名大辞典
天保(てんぽう)10年12月5日生まれ。尊攘(そんじょう)派の公卿の中心的人物。文久2年勅使三条実美(さねとみ)の副使として江戸にいき,幕府に攘夷決行を督促。ま
27. アメリカ彦蔵自伝 1 282ページ
東洋文庫
許しているのは、いかなる理由によるのか、と返答を要求したということである。 注   このたびの勅使は三条実美(議奏、権    中納言)、副使は姉小路公知(右近衛
28. アメリカ彦蔵自伝 2 24ページ
東洋文庫
御所から閉め出された。もちろん大和行幸も中止と決せられる。 一朝にして事の破れた尊攘派、その巨頭たる三条実美をはじめとする七人の公卿は、在京の長州藩士および激派
29. アメリカ彦蔵自伝 2 34ページ
東洋文庫
ぎわめている。政変の後    に、このような処罰を幕府が行なったこ    とはない。長州に去った七卿(三条実美    ほか)の官爵がけずられたに過ぎないの   
30. アメリカ彦蔵自伝 2 75ページ
東洋文庫
長崎の日本聖公会において、日本人として最初の洗礼を受けた。明治に及んでは、上京して太政官小史となり、また三条実美の祐筆もつとめた。その死去は明治三十六年、八十四
31. アメリカ彦蔵自伝 2 209ページ
東洋文庫
官と表現していることは興味ふかい。当    時は太政官の制度がつづいており、太政    大臣は三条実美、そして左大臣は欠員で、    つぎに岩倉が右大臣となって
32. アメリカ彦蔵自伝 2 212ページ
東洋文庫
別冊の通り定められたこと、この旨通達する。会議の日限は追って通達する。          太政大臣三条実美」 五月二日。次に掲げるものは、天皇の言葉(憲法および
33. ありふく-じゅんすけ【有福恂允】
日本人名大辞典
幕末-明治時代の武士,士族。天保(てんぽう)2年生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩士。三条実美(さねとみ)らの七卿落ちのとき御用掛をつとめる。維新後は
34. 安政五年十一月十四日賀茂社御法楽(著作ID:4389700)
新日本古典籍データベース
かもしゃごほうらく 花山院家厚(かざんいんいえあつ) 三条西季知(さんじょうにしすえとも) 三条実美(さんじょうさねとみ) 等 詠 和歌 安政五
35. アーネスト・サトウ伝 178ページ
東洋文庫
る。(n) 長州征伐 下関海峡で外国商船を砲撃していた過激尊皇攘夷派の長州藩とこれにつながる三条実美ら七卿は一八六三年(文久三年)に京都を追われ(いわゆる七卿落
36. イギリス公使館焼打事件
日本大百科全書
そんのうじょうい派志士らの攘夷実行事件。御殿山ごてんやま事件ともよぶ。1862年10月、勅使三条実美さねとみ、姉小路公知あねがこうじきんともは幕府に攘夷の実行を
37. イギリス公使館焼打事件
世界大百科事典
仕掛けて全焼させた事件。江戸滞在中の彼ら長州藩尊王攘夷派の志士たちは,幕府に攘夷を督促する勅使三条実美,姉小路公知を迎えてますます意気があがり,御楯組を結成して
38. イギリスこうしかんやきうちじけん【イギリス公使館焼討ち事件】
国史大辞典
二月十二日萩藩士高杉晋作らがイギリス公使館を焼討ちした事件。御殿山事件ともいう。同年十月勅使三条実美・姉小路公知が攘夷の断行を幕府に促すために東下して以来、江戸
39. イギリスこうししゅうげきじけん【イギリス公使襲撃事件】
国史大辞典
た折から、大いに驚いた新政府は、外国事務局督晃親王を知恩院に派遣してパークスを慰問し、副総裁三条実美・同岩倉具視も連署してこれに謝した。かくて三月三日パークスは
40. いしかわ-じゅんじろう【石川潤次郎】
日本人名大辞典
土佐高知藩士。武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党に加入。元治(げんじ)元年藩命により京都に出,三条実美(さねとみ)の別邸の警護にあたる。同年6月5日池田屋
41. いたみ-しんいちろう【伊丹真一郎】
日本人名大辞典
士。元治(げんじ)元年藩命により長門(ながと)(山口県)にいき,幕長戦争後の事態収拾のため,三条実美(さねとみ)ら五卿の太宰府(だざいふ)移動につくす。慶応元年
42. いとう-こうのすけ【伊藤甲之助】
日本人名大辞典
武市瑞山(たけち-ずいざん)の土佐勤王党にくわわる。文久3年京都で姉小路公知(あねがこうじ-きんとも),三条実美(さねとみ)の警護にあたり,八月十八日の政変後の
43. いとうひろぶみもんじょ【伊藤博文文書】
国史大辞典
昭和八年(一九三三)―十一年、二十四冊として刊行された。(三)諸家の来翰は、皇族・岩倉具視・三条実美・木戸孝允・大久保利通らの重要人物のものは巻子仕立てとなって
44. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
文書は井上馨宛の来翰三千五百通、関係書類千三百点余からなる幕末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有朋
45. いまなか-さくべえ【今中作兵衛】
日本人名大辞典
今中仁左衛門の3男。筑前(ちくぜん)福岡藩士。元治(げんじ)元年月形洗蔵らと長州へいき,幕府軍の撤退と三条実美(さねとみ)ら5卿を太宰府へうつすことに尽力。翌慶
46. いわくらけんがいしせつ【岩倉遣外使節】
国史大辞典
大久保・木戸ら政府首脳部が多数海外に赴くことに異論があったが、参議西郷隆盛・同板垣退助が、太政大臣三条実美を輔佐して国事を処理することとし、使節団と留守政府との
47. 岩倉具視画像
日本大百科全書
幕末・明治前期の政治家。公卿くぎょうとして三条実美さんじょうさねとみとともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言ごんちゅうなごん堀河康親ほりかわやすち
48. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
決した。岩倉はこの日、新政府の参与、ついで議定となった。明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦の後、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相となるなど以後終始、
49. いわくら-ともみ【岩倉具視】画像
日本人名大辞典
実現し,議定,副総裁として新政府の中枢にすわる。明治4年特命全権大使となり欧米各国を歴訪。帰国後,三条実美(さねとみ)太政大臣の代理として征韓論をしりぞける。自
50. 岩倉具視[文献目録]
日本人物文献目録
倉公実記』多田好問『勤王志士遺文集 1』-『歴史の人物を抉る』田村栄太郎『実録維新十傑 8 三条実美・岩倉具視』伊藤痴遊『岩倉公と京都』岩倉公旧跡保存会(編刊)
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三条実美(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せ
江藤新平(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・維新期の政治家。佐賀の乱の首領。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。天保(てんぽう)5年2月9日、佐賀藩下級武士の家に生まれる。国学者枝吉神陽(えだよししんよう)に師事、しだいに尊攘(そんじょう)運動に参加し、1862年(文久2)脱藩して
松尾芭蕉(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄(げんろく)期(1688~1704)に活躍した井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)、芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃(じょうるり)、俳諧(はいかい)の分野を代表する三大文豪として
光明皇后(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
奈良前期の聖武天皇の皇后。諱(いみな)は安宿(あすかべ),出家して光明子という。藤原不比等の第三女,母は橘三千代。幼にして聡慧,早くから声誉高かったが,716年(霊亀2)16歳で皇太子首(おびと)皇子の妃となり,翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む
大伴金村(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
五世紀末から六世紀前半へかけての大和朝廷の有力者。武烈・継体・安閑・宣化朝の大連。大伴談(かたり)の子。磐・咋・狭手彦の父。仁賢天皇の死後、権勢強大な平群氏を滅ぼし、武烈天皇を即位させた。武烈の死後、あとをつぐ皇族がないため、金村は群臣とはかって
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