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光明皇后

ジャパンナレッジで閲覧できる『光明皇后』の世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

世界大百科事典

光明皇后
こうみょうこうごう
701-760(大宝1-天平宝字4)

奈良前期の聖武天皇の皇后。諱(いみな)は安宿(あすかべ),出家して光明子という。藤原不比等の第三女,母は橘三千代。幼にして聡慧,早くから声誉高かったが,716年(霊亀2)16歳で皇太子首(おびと)皇子の妃となり,翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む。首皇子の即位により夫人となり,727年(神亀4)皇子(《本朝皇胤紹運録》は基王)を生み,直ちに皇太子に立てたが翌年夭死した。同じ年聖武天皇のもう1人の夫人県犬養広刀自に安積(あさか)親王が誕生したため,藤原氏は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ,それを防ぐ手段として,それまでは皇后が夫帝の死後女帝として即位するのが慣例であったことに着目し,安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変),三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元,729年(天平1)にはついに皇族以外から出て皇后となった。湯沐2000戸のほかに1000戸の封戸が給せられ,皇后宮職を設置,それに施薬院,悲田院を付置して飢病の徒を療養した。また仏教を厚く信仰し,興福寺に五重塔,ついで亡母三千代のために西金堂を造営,さらに皇后宮(藤原不比等の邸宅)の東北隅に隅寺(すみでら)(海竜王寺)を創立,両親の菩提を弔うため玄昉が将来した《開元釈教録》による一切経の書写を始めた。これはのち〈五月一日経〉(光明皇后願経)として完成する。738年(天平10)娘の阿倍皇女が皇太子となり,つづいて聖武天皇は国分寺の創建,盧舎那大仏像造顕の詔を発布するが,これらの事業はいずれも皇后の勧めによるといい,皇后宮は国分尼寺(法華寺)とされた。749年(天平勝宝1)7月聖武天皇が譲位すると,皇太后となって紫微中台(しびちゆうだい)を設置し,甥の藤原仲麻呂を長官に登用し,娘の孝謙天皇に代わって実質的に皇権を行使した。ついで756年に聖武太上天皇が没すると,その遺愛の品々を東大寺に献納したが(正倉院宝物),なかには自筆の《楽毅論》や《杜家立成》も含まれていた。さらに藤原仲麻呂が大炊(おおい)王を立太子させ,橘奈良麻呂ら反対派との対立が激化すると,両派の衝突回避に努力したが,それも空しく橘奈良麻呂の変が起こった。変後大炊王が淳仁天皇として即位すると,天平応真仁正皇太后の尊号を受けたが,仲麻呂の専権がピークとなる760年6月に没した。年60,大和国添上郡佐保山(〈諸陵式〉佐保山東陵)に葬られた。《万葉集》に歌数首がある。
[岸 俊男]

伝承

光明皇后は,女性でしかも皇后の身でありながら,仏の教えを実践した人として伝えられ,中世に入って仏教が庶民の間に浸透して行く中で,賛仰の対象となった。光り輝くほどに美しい女性であったという伝説は,光明子という名にも由来するが,法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられた(《七大寺巡礼記》)ためでもある。また皇后は浴室を建てて貴賤を問わず入浴させ,1000人のあかを落とそうと決意したが,1000人目に癩におかされた男があらわれたので,さすがにちゅうちょしたものの,勇を鼓してその体を洗い,さらに男の求めに応じて膿を吸ったところ,男は大光明を放って自分は阿閦(あしゆく)仏であると告げたという話(《宝物集》《元亨釈書》)は広く知られている。そのほか,諸芸にすぐれ,仏法の興隆に尽くしたとする伝説は多いが,仏教の盛時とされる天平時代の皇后を賛仰の対象としたところに,日本人の仏教信仰の一面があらわれている。
[大隅 和雄]

[索引語]
光明子 隅寺 海竜王寺 五月一日経


国史大辞典

光明皇后
こうみょうこうごう
七〇一 - 六〇
聖武天皇の皇后。大宝元年(七〇一)藤原不比等の三女として誕生。母は県犬養三千代。名は安宿媛(あすかべひめ)、また光明子とも伝えている。幼少のときから聡敏であったという逸話がある。霊亀二年(七一六)皇太子首(おびと)皇子の妃となり、やがて神亀元年(七二四)二月皇子が即位して聖武天皇となると、彼女は夫人となった。同四年皇子が生まれ直ちに立太子したが、期待を裏切って翌年夭折した。ついで長屋王の変のあと、天平元年(七二九)八月それまでの慣習を破って臣下として皇后となった。その邸宅は父不比等の旧邸で平城宮の東に接していたが、ここを皇后宮とした(のち法華寺となる)。皇后はよく天皇を輔けて各方面に活躍し、いわゆる天平文化の発展に寄与するところが多かった。仏教に関してみると、興福寺に五重塔・西金堂を造営し、皇后宮に宮寺すなわち法華寺を創立し、天皇の病気平癒を祈って新薬師寺を造立し、また大規模な一切経の書写事業も行なった。このほか東大寺大仏の造顕は皇后の勧めによるものといわれ、国分寺の造営とくに尼寺の併置は皇后の関与するところであったと考えられる。皇后はまた社会救済事業にも尽くした。まず立后の翌年(天平二年)皇后宮職に施薬院をおいて薬草を病人に施し、同じころ孤児を収容する悲田院を設けた。こうした救済事業に関して、皇后が貧しい病人の垢を洗い、癩病患者の膿を吸いとったという話が伝えられている。皇后はまた天平の政界の焦点の一つでもあった。藤原氏の輿望を担って立后した皇后であったが、天平九年の疫病で武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の兄弟を失い、同十二年には宇合の子広嗣が反乱(藤原広嗣の乱)を起して、藤原氏の勢力は一時衰えた。その間、皇后の異父兄にあたる橘諸兄が政権を握ったが、やがて武智麻呂の子仲麻呂が皇后の庇護のもとに台頭した。そのころ聖武天皇は病気がちで、皇后が事実上宮廷に重きをなしたが、天平勝宝元年(七四九)その娘阿倍内親王が即位した。孝謙天皇である。そして光明皇后に付属する皇后宮職は拡大強化されて紫微中台と改められ、仲麻呂はその長官として太政官の権限を奪うほどの力をもったのである。天平勝宝八歳五月二日聖武太上天皇が崩じ、その七七忌の六月二十一日、光明皇太后は先帝の遺品の数々を東大寺に施入した。この献納物が今の正倉院宝物の中心であって、天平文化を知る貴重な文化財であるが、これらはまた天皇と皇后の私的生活の片鱗をうかがうに足る遺品でもある。特に『楽毅論』『杜家立成雑書要略』の二巻は皇后の筆で、その剛気な筆勢は皇后の性格を想起させるものがある。天平宝字二年(七五八)中台天平応真仁正皇太后の尊号が奉られ、同四年三月病床に伏し、六月七日崩じた。ときに年六十。大和国添上郡佐保山東陵に葬られた。
[参考文献]
林陸朗『光明皇后』(『人物叢書』七九)、岸俊男「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収)、滝川政次郎「紫微中台考」(『法制史論叢』四所収)、和田軍一「光明皇后と正倉院」(『南都仏教』六)
(林 陸朗)

佐保山東陵(さほやまのひがしのみささぎ)

 奈良市法蓮町にあり、奈良市街北辺の丘陵に位置し、聖武天皇の佐保山南陵の東に隣接する。『続日本紀』によると天平宝字四年(七六〇)六月癸卯(乙亥の誤りで十七日か)に佐保山に葬り、同年十二月勅して墳墓を山陵と称し、国忌の例に入らしめた。『延喜式』諸陵寮には「兆域東三町、西四段、南北七町、守戸五烟」とあり、遠陵とする。陵所は永禄年中(一五五八―七〇)に松永久秀の築いた多聞山城の郭内に入り、所伝を失ったが、明治十二年(一八七九)に現所を陵に治定した。
[参考文献]
上野竹次郎『山陵』上
(戸原 純一)


新版 日本架空伝承人名事典

光明皇后
こうみょうこうごう
701‐760(大宝1‐天平宝字4)
 奈良前期の聖武天皇の皇后。いみな安宿あすかべ、出家して光明子という。藤原不比等の第三女、母は橘三千代。幼にして聡慧、早くから声誉高かったが、七一六年(霊亀二)一六歳で皇太子おびと皇子の妃となり、翌々年阿倍皇女(孝謙天皇)を生む。首皇子の即位により夫人となり、七二七年(神亀四)皇子(『本朝皇胤紹運録』は基王)を生み、直ちに皇太子に立てたが翌年夭死した。同じ年聖武天皇のもう一人の夫人県犬養広刀自に安積あさか親王が誕生したため、藤原氏は天皇家との外戚関係が絶えることを恐れ、それを防ぐ手段として、それまでは皇后が夫帝の死後女帝として即位するのが慣例であったことに着目し、安宿媛の立后を画策した。そのため反対派の長屋王を誣告によって排除し(長屋王の変)、三千代の出身地河内国古市郡から瑞亀を献上させて天平と改元、七二九年(天平一)にはついに皇族以外から出て皇后となった。湯沐二〇〇〇戸のほかに一〇〇〇戸の封戸が給せられ、皇后宮職を設置、それに施薬院、悲田院を付置して飢病の徒を療養した。また仏教を厚く信仰し、興福寺に五重塔、ついで亡母三千代のために西金堂を造営、さらに皇后宮(藤原不比等の邸宅)の東北隅に隅寺すみでら(海竜王寺)を創立、両親の菩提を弔うため玄昉が将来した『開元釈教録』による一切経の書写を始めた。これはのち「五月一日経」(光明皇后願経)として完成する。七三八年(天平一〇)娘の阿倍皇女が皇太子となり、つづいて聖武天皇は国分寺の創建、盧舎那大仏像造顕の詔を発布するが、これらの事業はいずれも皇后の勧めによるといい、皇后宮は国分尼寺(法華寺)とされた。七四九年(天平勝宝一)七月聖武天皇が譲位すると、皇太后となって紫微中台しびちゅうだいを設置し、甥の藤原仲麻呂を長官に登用し、娘の孝謙天皇に代わって実質的に皇権を行使した。ついで七五六年に聖武太上天皇が没すると、その遺愛の品々を東大寺に献納したが(正倉院宝物)、なかには自筆の『楽毅論』や『杜家立成』も含まれていた。さらに藤原仲麻呂が大炊おおい王を立太子させ、橘奈良麻呂ら反対派との対立が激化すると、両派の衝突回避に努力したが、それも空しく橘奈良麻呂の変が起こった。変後大炊王が淳仁天皇として即位すると、天平応真仁正皇太后の尊号を受けたが、仲麻呂の専権がピークとなる七六〇年六月に没した。年六〇、大和国添上郡佐保山(「諸陵式」佐保山東陵)に葬られた。『万葉集』に歌数首がある。
[岸 俊男]
伝承
 光明皇后は、女性でしかも皇后の身でありながら、仏の教えを実践した人として伝えられ、中世に入って仏教が庶民の間に浸透して行く中で、賛仰の対象となった。光り輝くほどに美しい女性であったという伝説は、光明子という名にも由来するが、法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられた(『七大寺巡礼記』)ためでもある。また皇后は浴室を建てて貴賤を問わず入浴させ、一〇〇〇人のあかを落とそうと決意したが、一〇〇〇人目に癩におかされた男があらわれたので、さすがにちゅうちょしたものの、勇を鼓してその体を洗い、さらに男の求めに応じて膿を吸ったところ、男は大光明を放って自分は阿閦あしゅく仏であると告げたという話(『宝物集』『元亨釈書』)は広く知られている。そのほか、諸芸にすぐれ、仏法の興隆に尽くしたとする伝説は多いが、仏教の盛時とされる天平時代の皇后を賛仰の対象としたところに、日本人の仏教信仰の一面があらわれている。
[大隅 和雄]
東大寺の成るに及んで后以謂ひたまふらく、大像大殿皆已に備足せり、帝外につとめたまひ、我れ内に営む、勝功鉅徳加ふべからざるなりと。且くほここころあり。一夕閤裏の空中に声あって曰く「后誇ることなかれ。妙触宣明、浴室澣濯、其の功言ふべからざるのみ」と。后怪み喜びたまひ、乃ち温室を建てて貴賤をして浴を取らしむ。后又誓って曰はく「我親ら千人の垢をのぞかん」と。君臣之を憚る。后の壮志沮むべからず、既にして九百九十九人を竟へたまふ。最後に一人あり、徧体疥癩にして臭気室に充つ。后、垢を去くにはばかる。又自ら思って言るるよう「今千数に満つ、豈に之を避けんや」と。こらへて背をりたまふ。病人の言く「我れ悪病を受けて此の瘡を患ふること久し。適々良毉あり教へて曰く『人をして膿を吸はしめば必ず除愈を得ん』と。而れども世上深悲の者無し、故に我が況痼此に至れり。今后、無遮の悲済を行じたまふ、又はなはだ貴し。願はくは后、意あれや」と。后已むことを得ずして瘡を吸ひ膿を吐きて頂より踵に至るまで皆遍し。后病人に語って曰はく「我れ汝が瘡をふこと慎んで人に語ること勿れ」と。時に病人大光明を放って告げて曰く「后、阿閦仏の垢を去くこと又慎んで人に語ること勿れ」と。后驚いて之を視たまふに、妙相端厳にして光耀馥郁たり。忽然として見えず。后驚喜無量、其の地に就いて伽藍を構へ、阿閦寺と号さしめたまふ。
元亨釈書巻十八
ソモソモ、比丘尼のはしまりは、(中略)我朝にては、(中略)其後、聖武天王の御后、光明皇后もあまにならせたまひ、とらんに(都藍尼)と申奉る。彼とらんの上ラウ女ほうたち、しゆつりほたい(出離菩提)のために伊勢熊野へマウて給ふより、いせひくに熊野ひくにと世に申ならはし侍る。そのゝち、国々にも尼寺おほくはしまり、悪ガウの女人をみちひき、ねんふつをすゝめ、ぼだいの行おなし侍る。
比丘尼縁起
天皇甚驚かせ給ひ。「鹿は春日明神のつかはしめ。殊更御母光明皇后御願ンによってあはれみ深く。鹿を殺せし者あらば。大垣のつみにおこなふといましめ給へば。鹿にあやまち有し事いまだ聞ず。取リ分ケ東大寺は母皇后の御建立。其門前にて怪き事いか成凶事か出来らん」と。叡慮をなやましおはします。
猿丸太夫鹿巻毫初段
垢摺をかせとりきんでみことのり
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):11‐18
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
千人目鼻をつまんで湯をあびせ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):36‐36
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、「りきんで」は力んで。
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1. 光明皇后
日本大百科全書
聖武しょうむ天皇の皇后。藤原光明子こうみょうし。名は安宿媛あすかべひめ。のち中台天平応真仁正皇太后ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいこう。父は藤原不
2. 光明皇后
世界大百科事典
創立,両親の菩提を弔うため玄昉が将来した《開元釈教録》による一切経の書写を始めた。これはのち〈五月一日経〉(光明皇后願経)として完成する。738年(天平10)娘
3. こうみょう‐こうごう[クヮウミャウクヮウゴウ]【光明皇后】
日本国語大辞典
[ー]<2>易林・書言【光明皇后】易林・書言
4. こうみょうこうごう【光明皇后】画像
国史大辞典
[参考文献]林陸朗『光明皇后』(『人物叢書』七九)、岸俊男「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収)、滝川政次郎「紫微中台考」(『法制史論叢』四所収)
5. こうみょうこうごう【光明皇后】
日本人名大辞典
701−760 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇后。大宝(たいほう)元年生まれ。藤原不比等(ふひと)の娘。孝謙天皇の母。天平(てんぴょう)元年(729)臣下か
6. こうみょうこうごう【光明皇后】
日本架空伝承人名事典
両親の菩提を弔うため玄昉が将来した『開元釈教録』による一切経の書写を始めた。これはのち「五月一日経」(光明皇后願経)として完成する。七三八年(天平一〇)娘の阿倍
7. 光明皇后[文献目録]
日本人物文献目録
林剛『光明皇后御伝』光明皇后会(編刊)『古寺巡礼』和辻哲郎『光明皇后』林陸朗『「上方女性鑑」の諸相』肥後和男『楽毅論と光明皇后』毛利久『光明皇后』田口卯吉『光明
8. 藤原光明子・光明皇后
日本史年表
皇后とする(続紀)。 740年〈天平12 庚辰〉 5・1 光明皇后 、一切経論を書写させる(五月一日経)。 747年〈天平19 丁亥〉 3・‐ 光明皇后 、天皇
9. 光明皇后建安樂寺 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 44ページ
10. 光明皇后建神藥師寺 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1233ページ
11. 光明皇后建阿閦寺 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1244ページ
12. 光明皇后印[図版]画像
国史大辞典
積善藤家 内家私印 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 光明皇后願経
世界大百科事典
光明皇后が発願,写経させた一切経(大蔵経)で,天平12年(740)5月1日経,天平15年(743)5月11日経,天平宝字4年(760)正月11日発願の坤宮官一切
14. 光明皇后自署[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
15. 垢
世界大百科事典
かも役に立つが,そのもう一つの例は1322年(元亨2)に虎関師錬の著した《元亨釈書》にある。光明皇后が1000人の病者のあかを洗うと誓願し,1000人目のらい患
16. あがたいぬかい‐の‐みちよ【県犬養三千代】
日本国語大辞典
初め美努王(みぬおう)に嫁して橘諸兄(たちばなのもろえ)を産み、のちに藤原不比等(ふひと)と再婚して光明皇后を産む。文武、聖武両天皇の養育にあたり、橘姓を賜わっ
17. あがたのいぬかいのひろとじ【県犬養広刀自】
国史大辞典
がある。広刀自は後宮に勢力のあった県犬養橘三千代の親族で、その推挙によって入内したと思われ、光明皇后にとって、いわばライバル的な存在であった。したがって広刀自の
18. あがたのいぬかいのみちよ【県犬養三千代】
国史大辞典
?―七三三 奈良時代の女性。藤原不比等の妻、光明皇后の母。従四位下県犬養宿禰東人の女で、はじめ敏達天皇の曾孫にあたる美努王に嫁し、葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘
19. あがたのいぬかいの-やえ【県犬養八重】
日本人名大辞典
?−760 奈良時代の女官。葛井広成(ふじいの-ひろなり)の妻。光明皇后につかえ,少命婦(みょうぶ),犬養の命婦ともよばれた。天平(てんぴょう)20年広成宅での
20. あさかしんのう【安積親王】
国史大辞典
七二八―四四 聖武天皇の皇子。母は夫人県犬養宿禰広刀自。同母の姉妹に井上内親王・不破内親王がいた。光明皇后の産んだ皇太子が神亀五年(七二八)に没し、天平十年(七
21. あさかしんのう【安積親王】
日本人名大辞典
行幸にしたがったが,脚の病気のため恭仁京(くにきょう)にひきかえし,13日に没した。17歳。光明皇后の生んだ姉阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が皇太子にたてられてい
22. あしがらしもぐん【足柄下郡】
国史大辞典
現在東部の大半は小田原市域となっている。天平七年(七三五)の『相模国封戸租交易帳』(『正倉院文書』)に光明皇后の食封として「足下郡垂水郷伍拾戸 田壱伯漆拾弐町参
23. あしがらしもぐん【足柄下郡】神奈川県
日本歴史地名大系
るが、調査が遅れているため詳細は不明。天平七年(七三五)の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)に光明皇后の食封として「足下郡垂水郷五拾戸 田壱伯漆拾弐町参段伯肆拾歩
24. あしゅく‐じ【阿〓寺】
日本国語大辞典
〔一〕光明皇后が奈良市法華寺町辺に建てたと伝えられる寺。伝説によると、皇后は浴室を設けて自ら千人の身体を洗う願を立て、これを行なったところ、最後に癩者に化した阿
25. あしゅくじ【阿〓寺】
国史大辞典
いわれ、法華寺の東南にあたる。建久三年(一一九二)の『建久御巡礼記』以降、光明皇后浴室垢穢伝説に発展転化されて光明皇后建立ともいわれ、あたかも当寺が二寺並存した
26. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
やがて宗におきかえられるが、特に法興寺の摂論衆には、藤原鎌足が家財を投じて援助し、ついで不比等・光明皇后も支持を惜しまなかった。摂論・三論・成実の三宗は、いずれ
27. 安宿媛
世界大百科事典
光明皇后
28. あすかべ‐ひめ【安宿媛】
日本国語大辞典
光明皇后の名。
29. あつみぐん【渥美郡】愛知県
日本歴史地名大系
重国が天平五年(七三三)郡内飢饉に際して、庶民を救済したこと、その家が国造級で娘の菊は采女として光明皇后に仕え、観音比丘尼の名を賜り、重国は郡の長として渥美太夫
30. あみだじようどいんあと【阿弥陀浄土院跡】奈良県:奈良市/佐保・佐紀地区/法華寺村
日本歴史地名大系
法華寺の南西隅、平城左京二条二坊一〇坪にあった寺院で、浄土院・浄土尻の字名が残る。阿弥陀信仰に厚かった光明皇后の発願によって建立されたとされる。「続日本紀」天平
31. ありわらでらあと【在原寺跡】奈良県:天理市/櫟本地区/市ノ本村
日本歴史地名大系
本光明山補陀落院在原寺初在原山観音院本光明王寺也近頃相改者、阿保親王開基、本尊者十一面観音也、此像者、聖武天皇光明皇后御安仏也」とある。「和州寺社記」では元慶四
32. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
未亡人になってからのちに板野命婦を名乗り、光明皇后―藤原仲麻呂という藤原氏の中枢ラインのもとで中央の官人として活動するようになる。とくに天平勝宝元年(七四九)に
33. いくば‐く【幾何・幾許】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕八・一六五八「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし〈光明皇后〉」*西大寺本金光明最勝王経平安初期点〔830頃〕「
34. いわ・う[いはふ]【斎・祝】
日本国語大辞典
真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの吾児(あご)を韓国(からくに)へ遣る伊波敝(イハヘ)神たち〈光明皇后〉」*延喜式〔927〕祝詞・祈年祭(出雲板訓)「皇制孫命(す
35. いわのひめのみこと【磐之媛命】
日本人名大辞典
嫉妬(しっと)ぶかい女性としてえがかれている。「万葉集」巻2に,磐姫皇后の歌として4首おさめられている。光明皇后が皇后となったとき,臣下出身の先例としてあげられ
36. いわみこくぶんじあと【石見国分寺跡】島根県:浜田市/国分村
日本歴史地名大系
讃料として御所(後高倉院)から最勝王経一部一〇巻が納められた。経光は、この経典は昔から有名で光明皇后が石見国分寺に納めたものといわれ、一三世紀初期に石見国の知行
37. 印章 12[別刷図版]画像
国史大辞典
光明皇后 「積善藤家」 桃尾井麻呂 (天平勝宝元年) 鴨書手 「書」 (天平勝宝2年) 生江息島 「生江息嶋」 (天平宝字3年) 画師池守 「画師池守」 (天平
38. うねびやまぐちじんじゃ【畝火山口神社】奈良県:橿原市/真菅・金橋地区/大谷村
日本歴史地名大系
もと畝傍山頂に鎮座し、畝火明神と称した(石灯籠)。「高市郡古跡略考」に「峯山大明神」とみえ、「本社光明皇后、脇立住吉八幡」とある。現社地は御旅所のあった所で、昭
39. うめのみやしやあと【梅宮社跡】京都府:綴喜郡/井手町/井手村
日本歴史地名大系
檀林皇后の祀った神は、もと橘諸兄の母でのち藤原不比等夫人となった県犬養宿禰三千代が祀り、次いでその子光明皇后(諸兄とは異父妹)および乙牟漏女王(乙牟漏は牟漏か)
40. うめのみやたいしゃ【梅宮大社】京都市:右京区/西梅津村地図
日本歴史地名大系
子の祀った神は、もと諸兄の母でのち藤原不比等夫人となった県犬養宿禰三千代が祀り、次いでその子光明皇后(諸兄とは異父妹)および牟漏女王が「洛隅内頭」に祀り、その後
41. えいせんじ【永泉寺】岐阜県:多治見市/池田町屋村
日本歴史地名大系
[現]多治見市池田町 国道一九号の南側にある。石動山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。寺伝によると、奈良時代光明皇后の発願によって当地に地蔵院が建立され、行基により
42. えっちゅうのくに【越中国】富山県
日本歴史地名大系
(越前守)・御中(長門守)・百世(豊前守)らがいる。家持が国守に任じられた頃、都は聖武天皇・光明皇后のもとで左大臣・従一位橘諸兄が実権を握り、やがて台頭する藤原
43. 延暦僧録
世界大百科事典
収録するところは,鑑真とその一派の高僧,慶俊・戒明らの智明僧のほか,聖徳太子・天智天皇・聖武天皇・光明皇后・桓武天皇らの〈菩薩〉,藤原良継・藤原種継・石上宅嗣・
44. えんりゃくそうろく【延暦僧録】
国史大辞典
・思託・栄叡・普照・隆尊・慶俊らの高僧、聖徳太子・天智天皇・聖武天皇・光明皇后・桓武天皇らの菩薩、藤原良継・藤原魚名・藤原種継・石上宅嗣・佐伯今毛人(いまえみし
45. 王羲之
世界大百科事典
東方朔画賛(とうぼうさくがさん)》などの細楷が法帖として伝わっている。そのうち《楽毅論》は,光明皇后の臨摹したものが正倉院に残っており,これによって逆推すると,
46. おおあがたぐん【大県郡】
国史大辞典
また寺院としては、天平十二年(七四〇)ごろには建立されていた智識寺があり、聖武・孝謙の両天皇や光明皇后がしばしば行幸・行啓し、食封(じきふ)や奴婢の施入が行われ
47. 大鏡 335ページ
日本古典文学全集
聖武天皇は文武天皇の子。母は不比等の女だが、藤原宮子である。「光明皇后」はその妹で、聖武天皇の皇后。この説明も誤り。「女御」ではなく光明皇后。宮子の異母妹で、名
48. 大鏡 345ページ
日本古典文学全集
はなく、夫人であり、子の聖武天皇即位後に皇太夫人、後に太皇太后となる。誤り。「光明皇后」は宮子の妹。これが光明皇后。天皇家以外から皇后となったはじめ。→三三五ペ
49. 大鏡 346ページ
日本古典文学全集
かるが故に、不比等大臣は、光明皇后、また贈后の父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父。或本にまた、「高野の女帝の母后、生きたまへる世に后に立ちたまひて、その御名
50. 大阪(府)画像
日本大百科全書
記紀にある日本最古の溜池の高石池、茅渟池ちぬいけのほか、奈良時代に行基ぎょうきの築造した久米田池、光明皇后こうみょうこうごうゆかりの光明池など溜池に関する記録、
「光明皇后」の情報だけではなく、「光明皇后」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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