1. 光明皇后
日本大百科全書
聖武しょうむ天皇の皇后。藤原光明子こうみょうし。名は安宿媛あすかべひめ。のち中台天平応真仁正皇太后ちゅうだいてんぴょうおうしんにんしょうこうたいこう。父は藤原不
2. 光明皇后
世界大百科事典
創立,両親の菩提を弔うため玄昉が将来した《開元釈教録》による一切経の書写を始めた。これはのち〈五月一日経〉(光明皇后願経)として完成する。738年(天平10)娘
3. こうみょう‐こうごう[クヮウミャウクヮウゴウ]【光明皇后】
日本国語大辞典
[ー]<2>易林・書言【光明皇后】易林・書言
4. こうみょうこうごう【光明皇后】画像
国史大辞典
[参考文献]林陸朗『光明皇后』(『人物叢書』七九)、岸俊男「光明立后の史的意義」(『日本古代政治史研究』所収)、滝川政次郎「紫微中台考」(『法制史論叢』四所収)
5. こうみょうこうごう【光明皇后】
日本人名大辞典
701−760 奈良時代,聖武(しょうむ)天皇の皇后。大宝(たいほう)元年生まれ。藤原不比等(ふひと)の娘。孝謙天皇の母。天平(てんぴょう)元年(729)臣下か
6. こうみょうこうごう【光明皇后】
日本架空伝承人名事典
両親の菩提を弔うため玄昉が将来した『開元釈教録』による一切経の書写を始めた。これはのち「五月一日経」(光明皇后願経)として完成する。七三八年(天平一〇)娘の阿倍
7. 光明皇后[文献目録]
日本人物文献目録
林剛『光明皇后御伝』光明皇后会(編刊)『古寺巡礼』和辻哲郎『光明皇后』林陸朗『「上方女性鑑」の諸相』肥後和男『楽毅論と光明皇后』毛利久『光明皇后』田口卯吉『光明
8. 藤原光明子・光明皇后
日本史年表
皇后とする(続紀)。 740年〈天平12 庚辰〉 5・1 光明皇后 、一切経論を書写させる(五月一日経)。 747年〈天平19 丁亥〉 3・‐ 光明皇后 、天皇
9. 光明皇后建二安樂寺一 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 44ページ
10. 光明皇后建二神藥師寺一 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1233ページ
11. 光明皇后建二阿閦寺一 (見出し語:光明皇后)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1244ページ
12. 光明皇后印[図版]画像
国史大辞典
積善藤家 内家私印 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.
13. 光明皇后願経
世界大百科事典
光明皇后が発願,写経させた一切経(大蔵経)で,天平12年(740)5月1日経,天平15年(743)5月11日経,天平宝字4年(760)正月11日発願の坤宮官一切
14. 光明皇后自署[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.
15. 垢
世界大百科事典
かも役に立つが,そのもう一つの例は1322年(元亨2)に虎関師錬の著した《元亨釈書》にある。光明皇后が1000人の病者のあかを洗うと誓願し,1000人目のらい患
16. あがたいぬかい‐の‐みちよ【県犬養三千代】
日本国語大辞典
初め美努王(みぬおう)に嫁して橘諸兄(たちばなのもろえ)を産み、のちに藤原不比等(ふひと)と再婚して光明皇后を産む。文武、聖武両天皇の養育にあたり、橘姓を賜わっ
17. あがたのいぬかいのひろとじ【県犬養広刀自】
国史大辞典
がある。広刀自は後宮に勢力のあった県犬養橘三千代の親族で、その推挙によって入内したと思われ、光明皇后にとって、いわばライバル的な存在であった。したがって広刀自の
18. あがたのいぬかいのみちよ【県犬養三千代】
国史大辞典
?―七三三 奈良時代の女性。藤原不比等の妻、光明皇后の母。従四位下県犬養宿禰東人の女で、はじめ敏達天皇の曾孫にあたる美努王に嫁し、葛城王(橘諸兄)・佐為王(橘
19. あがたのいぬかいの-やえ【県犬養八重】
日本人名大辞典
?−760 奈良時代の女官。葛井広成(ふじいの-ひろなり)の妻。光明皇后につかえ,少命婦(みょうぶ),犬養の命婦ともよばれた。天平(てんぴょう)20年広成宅での
20. あさかしんのう【安積親王】
国史大辞典
七二八―四四 聖武天皇の皇子。母は夫人県犬養宿禰広刀自。同母の姉妹に井上内親王・不破内親王がいた。光明皇后の産んだ皇太子が神亀五年(七二八)に没し、天平十年(七
21. あさかしんのう【安積親王】
日本人名大辞典
行幸にしたがったが,脚の病気のため恭仁京(くにきょう)にひきかえし,13日に没した。17歳。光明皇后の生んだ姉阿倍内親王(のちの孝謙天皇)が皇太子にたてられてい
22. あしがらしもぐん【足柄下郡】
国史大辞典
現在東部の大半は小田原市域となっている。天平七年(七三五)の『相模国封戸租交易帳』(『正倉院文書』)に光明皇后の食封として「足下郡垂水郷伍拾戸 田壱伯漆拾弐町参
23. あしがらしもぐん【足柄下郡】神奈川県
日本歴史地名大系
るが、調査が遅れているため詳細は不明。天平七年(七三五)の相模国封戸租交易帳(正倉院文書)に光明皇后の食封として「足下郡垂水郷五拾戸 田壱伯漆拾弐町参段伯肆拾歩
24. あしゅく‐じ【阿
寺】
日本国語大辞典
〔一〕光明皇后が奈良市法華寺町辺に建てたと伝えられる寺。伝説によると、皇后は浴室を設けて自ら千人の身体を洗う願を立て、これを行なったところ、最後に癩者に化した阿
25. あしゅくじ【阿
寺】
国史大辞典
いわれ、法華寺の東南にあたる。建久三年(一一九二)の『建久御巡礼記』以降、光明皇后浴室垢穢伝説に発展転化されて光明皇后建立ともいわれ、あたかも当寺が二寺並存した
26. あすかぶっきょう【飛鳥仏教】
国史大辞典
やがて宗におきかえられるが、特に法興寺の摂論衆には、藤原鎌足が家財を投じて援助し、ついで不比等・光明皇后も支持を惜しまなかった。摂論・三論・成実の三宗は、いずれ
28. あすかべ‐ひめ【安宿媛】
日本国語大辞典
光明皇后の名。
29. あつみぐん【渥美郡】愛知県
日本歴史地名大系
重国が天平五年(七三三)郡内飢饉に際して、庶民を救済したこと、その家が国造級で娘の菊は采女として光明皇后に仕え、観音比丘尼の名を賜り、重国は郡の長として渥美太夫
30. あみだじようどいんあと【阿弥陀浄土院跡】奈良県:奈良市/佐保・佐紀地区/法華寺村
日本歴史地名大系
法華寺の南西隅、平城左京二条二坊一〇坪にあった寺院で、浄土院・浄土尻の字名が残る。阿弥陀信仰に厚かった光明皇后の発願によって建立されたとされる。「続日本紀」天平
31. ありわらでらあと【在原寺跡】奈良県:天理市/櫟本地区/市ノ本村
日本歴史地名大系
本光明山補陀落院在原寺初在原山観音院本光明王寺也近頃相改者、阿保親王開基、本尊者十一面観音也、此像者、聖武天皇光明皇后御安仏也」とある。「和州寺社記」では元慶四
32. あわのくに【阿波国】徳島県
日本歴史地名大系
未亡人になってからのちに板野命婦を名乗り、光明皇后―藤原仲麻呂という藤原氏の中枢ラインのもとで中央の官人として活動するようになる。とくに天平勝宝元年(七四九)に
33. いくば‐く【幾何・幾許】
日本国語大辞典
*万葉集〔8C後〕八・一六五八「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし〈光明皇后〉」*西大寺本金光明最勝王経平安初期点〔830頃〕「
34. いわ・う[いはふ]【斎・祝】
日本国語大辞典
真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの吾児(あご)を韓国(からくに)へ遣る伊波敝(イハヘ)神たち〈光明皇后〉」*延喜式〔927〕祝詞・祈年祭(出雲板訓)「皇制孫命(す
35. いわのひめのみこと【磐之媛命】
日本人名大辞典
嫉妬(しっと)ぶかい女性としてえがかれている。「万葉集」巻2に,磐姫皇后の歌として4首おさめられている。光明皇后が皇后となったとき,臣下出身の先例としてあげられ
36. いわみこくぶんじあと【石見国分寺跡】島根県:浜田市/国分村
日本歴史地名大系
讃料として御所(後高倉院)から最勝王経一部一〇巻が納められた。経光は、この経典は昔から有名で光明皇后が石見国分寺に納めたものといわれ、一三世紀初期に石見国の知行
37. 印章 12[別刷図版]画像
国史大辞典
光明皇后 「積善藤家」 桃尾井麻呂 (天平勝宝元年) 鴨書手 「書」 (天平勝宝2年) 生江息島 「生江息嶋」 (天平宝字3年) 画師池守 「画師池守」 (天平
38. うねびやまぐちじんじゃ【畝火山口神社】奈良県:橿原市/真菅・金橋地区/大谷村
日本歴史地名大系
もと畝傍山頂に鎮座し、畝火明神と称した(石灯籠)。「高市郡古跡略考」に「峯山大明神」とみえ、「本社光明皇后、脇立住吉八幡」とある。現社地は御旅所のあった所で、昭
39. うめのみやしやあと【梅宮社跡】京都府:綴喜郡/井手町/井手村
日本歴史地名大系
檀林皇后の祀った神は、もと橘諸兄の母でのち藤原不比等夫人となった県犬養宿禰三千代が祀り、次いでその子光明皇后(諸兄とは異父妹)および乙牟漏女王(乙牟漏は牟漏か)
40. うめのみやたいしゃ【梅宮大社】京都市:右京区/西梅津村地図
日本歴史地名大系
子の祀った神は、もと諸兄の母でのち藤原不比等夫人となった県犬養宿禰三千代が祀り、次いでその子光明皇后(諸兄とは異父妹)および牟漏女王が「洛隅内頭」に祀り、その後
41. えいせんじ【永泉寺】岐阜県:多治見市/池田町屋村
日本歴史地名大系
[現]多治見市池田町 国道一九号の南側にある。石動山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。寺伝によると、奈良時代光明皇后の発願によって当地に地蔵院が建立され、行基により
42. えっちゅうのくに【越中国】富山県
日本歴史地名大系
(越前守)・御中(長門守)・百世(豊前守)らがいる。家持が国守に任じられた頃、都は聖武天皇・光明皇后のもとで左大臣・従一位橘諸兄が実権を握り、やがて台頭する藤原
43. 延暦僧録
世界大百科事典
収録するところは,鑑真とその一派の高僧,慶俊・戒明らの智明僧のほか,聖徳太子・天智天皇・聖武天皇・光明皇后・桓武天皇らの〈菩薩〉,藤原良継・藤原種継・石上宅嗣・
44. えんりゃくそうろく【延暦僧録】
国史大辞典
・思託・栄叡・普照・隆尊・慶俊らの高僧、聖徳太子・天智天皇・聖武天皇・光明皇后・桓武天皇らの菩薩、藤原良継・藤原魚名・藤原種継・石上宅嗣・佐伯今毛人(いまえみし
45. 王羲之
世界大百科事典
東方朔画賛(とうぼうさくがさん)》などの細楷が法帖として伝わっている。そのうち《楽毅論》は,光明皇后の臨摹したものが正倉院に残っており,これによって逆推すると,
46. おおあがたぐん【大県郡】
国史大辞典
また寺院としては、天平十二年(七四〇)ごろには建立されていた智識寺があり、聖武・孝謙の両天皇や光明皇后がしばしば行幸・行啓し、食封(じきふ)や奴婢の施入が行われ
47. 大鏡 335ページ
日本古典文学全集
聖武天皇は文武天皇の子。母は不比等の女だが、藤原宮子である。「光明皇后」はその妹で、聖武天皇の皇后。この説明も誤り。「女御」ではなく光明皇后。宮子の異母妹で、名
48. 大鏡 345ページ
日本古典文学全集
はなく、夫人であり、子の聖武天皇即位後に皇太夫人、後に太皇太后となる。誤り。「光明皇后」は宮子の妹。これが光明皇后。天皇家以外から皇后となったはじめ。→三三五ペ
49. 大鏡 346ページ
日本古典文学全集
かるが故に、不比等大臣は、光明皇后、また贈后の父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父。或本にまた、「高野の女帝の母后、生きたまへる世に后に立ちたまひて、その御名
50. 大阪(府)画像
日本大百科全書
記紀にある日本最古の溜池の高石池、茅渟池ちぬいけのほか、奈良時代に行基ぎょうきの築造した久米田池、光明皇后こうみょうこうごうゆかりの光明池など溜池に関する記録、