
・南加羅・
・安羅・多羅・卓淳・加羅」の七国(神功紀)、あるいは「加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・古瑳・子他・散半下・乞
・稔礼」の十国(欽明紀)の総称として、「任那」の語を用いる。これに対し、広開土王陵碑(好太王碑)は、「任那・加羅」と記し、ほかに「安羅人」をあげ、『宋書』は、「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」と国名を連記し、『三国史記』列伝も、「臣本任那加良人」(強首伝)と述べている。いずれも「任那・加羅」と連称し、任那を総名として用いていない。むしろ、『三国遺事』の「駕洛国記」に、「五伽耶」として「阿羅伽耶・古寧伽耶・大伽耶・星山伽耶・小伽耶」をあげ、他に「六伽耶」とも記し、国名に「加耶」を共用しているのをみれば、「加耶」は、「駕洛」「加羅」の語とともに、この地域の総名として用いられたらしい。そのなかでは、南加羅(金官加羅。金海)、安羅(阿羅伽耶・阿那加耶。咸安)、加羅(大加羅・大伽耶。高霊)が中心で、この順に政治勢力が推移したと考えられる。ほかに任那の南部沿岸地域に、「浦上八国」といわれる「保羅・古自(固城)・史勿(泗川)・骨浦(合浦)・
浦」などの連合体が存在し、より内陸の加羅・新羅と抗争していた記録もある。
彊盛にして郡県制する能はず」とあり、倭人伝には「住ること七、八十年、倭国乱る」とあって、いずれも後漢の桓帝(在位一四七年―六七年)・霊帝(在位一六八年―八九年)のころ、楽浪郡が韓・倭の自立を抑制しえなかったことを記すが、後漢末の建安年中(一九六―二一九)、遼東太守公孫康は楽浪郡の南に帯方郡を置き、一応これを抑え、「倭・韓遂に帯方に属す」という状態を回復した。この体制は魏に継承されるが、ついに西晋代の三一三年、韓は帯方郡を滅ぼし、馬韓五十余国より百済、辰韓十二国より新羅が出て、これらを統合し、倭もおなじ道を辿ったと考えられる。しかし、弁韓(弁辰)十二国のみは、諸国の分立のまま統合を果たしえなかった。たとえば十二国中、弁辰狗邪国・弁辰安邪国が、それぞれ任那の南加羅(金官加羅)・安羅(阿羅加耶)に継承されているごとくである。任那の地は、『魏志』韓伝に、韓のうち「南は倭と接す」とあり、倭の北岸「狗邪韓国」(金官加羅)と記すように、倭と直接し、政治的、軍事的に倭と深い関係を生ずる立場にあった。また文化的にも、弁韓十二国は「土地肥美にして五穀および稲を種(う)うるによく、蚕桑に暁(あか)るく、
布を作り、牛馬に乗駕す」とあり、「国に鉄を出し、韓・
・倭皆従ひてこれを取り、諸市買ふに皆鉄を用ふ、中国の銭を用ふるが如し」とあるように、稲作・養蚕・製鉄が盛んで、このほか支石墓・甕棺墓などをみても、倭ことに九州北部との共通性のつよいことが知られる。倭は、広開土王陵碑に、四世紀後半、確実には三九一年から任那の地に軍事的に介入し、安羅人戍兵が倭兵とともに高句麗と戦ったことが記録され、『宋書』に、倭王の将軍号として「任那・加羅・秦韓・慕韓」が加えられ、倭王武は「渡りて海北を平ぐること九十五国」と述べたとある。しかるに、四七五年に至り、倭の軍事援助をうけた百済は高句麗に敗れ、王都漢城を失い、はるか南の熊津(公州)に遷都したため、これより後かえって蟾津江流域の上
(おこしたり)・下
(あるしたり)より帯沙・己
の地に進出した。新羅は、六世紀に入り急速に王権を強化し、洛東江をこえて南加羅・卓淳・
己呑を併合しようとし、五二三年、法興王は「南境」に巡狩し、「加耶国王」が「来会」し、五二七年、南加羅と
己呑はすでに新羅の有に帰したと記録され、五三二年、ついに「金官国(南加羅)主金仇亥」は新羅に「来降」し、法興王はその本国を「食邑」とすることを許したとある。五四一年、安羅も新羅に「通計」し、官人で新羅に「帰附」するものが多く、その実体は空洞化していたことが知られる。他方で法興王が「阿尸良国(一云、阿那加耶)」を滅ぼし、郡を置いたとあるから、安羅の滅亡には若干の時間的誤差が認められる。最後に、五六二年、「任那十国」が新羅に滅ぼされるが、これは大加羅の滅亡をさしている。以上の経過をみると、任那の滅亡は一時の決戦によってもたらされたものでなく、百済の聖明王が、南加羅は小国のため「託(つ)く所を知らざりき、是によりて亡ぼされき」と述べ、卓淳についても、「上下携(はな)れ弐(ふたごころ)あり、主自ら附(したが)はむと欲(おも)ひて新羅に内応す、是によりて亡ぼされき」と述べたといい、また「諸国の敗け亡びたる禍を歴観するに、皆内応弐心ある人によりてなり」と記されている。倭がこれを行政上指導した形迹はなく、その権限を有したとも思われぬ。このような形勢は、主として新羅に対する百済の敗北に起因するもので、五五四年、百済王子余昌は新羅に敗れ、聖明王は戦死し、五五六年、倭は余昌の弟恵を筑紫舟師をもって衛送する事態となった。この間に百済の漢城は完全に新羅に占領され、五五五年、真興王はここに北漢山巡狩碑をたて封疆を定めるに至るのである。
己呑を任那に取り戻すため、数万の軍を率いる近江毛野を遣わし、五二九年、安羅に高堂をたて、いわゆる任那復興会議を召集する。これを機縁に官家の組織が形成されたのではないかとする学説が有力である。その組織については以下の(一)―(三)のように見解が分かれる。(一)任那における在地倭人の連合体。(二)倭から派遣された府卿・府臣・執事の三段階の身分構成をもち、これに任那から派遣された執事が駐在する、倭と任那の協議体。両者の最高権力者は府卿(大臣)と旱岐(国王)である。(三)倭から派遣された府卿(大臣)と執事(府官)が、在地日系官人を配下に組織した出先機関。これと別に、任那各国には旱岐(国王)と次旱岐(臣下)らによって構成される政府があり、行政権を有し、官家は外交権に関与したにとどまる。(一)―(三)のうち、いずれかといえば、(三)が妥当であろうが、官家は軍事府・将軍府で、内政権・外交権をもつ政府ではないと考えた方がよい。五世紀の倭王が、倭・新羅・任那・加羅など「六国諸軍事」という将軍号をもちながら、王号は単に「倭王」であったことと関係あるかも知れぬ。末松保和『任那興亡史』、池内宏『日本上代史の一研究』、井上秀雄『任那日本府と倭』、鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』、平野邦雄『大化前代政治過程の研究』、大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」(『古代文化』三〇ノ九・一一・一二)

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)】みまな
(べんかん)の地におこった国。神功(じんぐう)皇后の新羅(しらぎ)派兵のとき、この地に日本府を置い
(も)たせて、