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国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典

国史大辞典

〓
みまな
朝鮮半島南部の洛東江中・下流域から蟾津江流域に及ぶ古代小国家群の総称。慶尚北道西南部をふくみ、現在の慶尚南道より全羅南道にわたる。
 『日本書紀』では、「比自〓・南加羅・〓・安羅・多羅・卓淳・加羅」の七国(神功紀)、あるいは「加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・古瑳・子他・散半下・乞〓・稔礼」の十国(欽明紀)の総称として、「任那」の語を用いる。これに対し、広開土王陵碑(好太王碑)は、「任那・加羅」と記し、ほかに「安羅人」をあげ、『宋書』は、「新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓」と国名を連記し、『三国史記』列伝も、「臣本任那加良人」(強首伝)と述べている。いずれも「任那・加羅」と連称し、任那を総名として用いていない。むしろ、『三国遺事』の「駕洛国記」に、「五伽耶」として「阿羅伽耶・古寧伽耶・大伽耶・星山伽耶・小伽耶」をあげ、他に「六伽耶」とも記し、国名に「加耶」を共用しているのをみれば、「加耶」は、「駕洛」「加羅」の語とともに、この地域の総名として用いられたらしい。そのなかでは、南加羅(金官加羅。金海)、安羅(阿羅伽耶・阿那加耶。咸安)、加羅(大加羅・大伽耶。高霊)が中心で、この順に政治勢力が推移したと考えられる。ほかに任那の南部沿岸地域に、「浦上八国」といわれる「保羅・古自(固城)・史勿(泗川)・骨浦(合浦)・〓浦」などの連合体が存在し、より内陸の加羅・新羅と抗争していた記録もある。
 朝鮮半島南部は、『魏志』韓伝によれば、「桓霊の末、韓・〓彊盛にして郡県制する能はず」とあり、倭人伝には「住ること七、八十年、倭国乱る」とあって、いずれも後漢の桓帝(在位一四七年―六七年)・霊帝(在位一六八年―八九年)のころ、楽浪郡が韓・倭の自立を抑制しえなかったことを記すが、後漢末の建安年中(一九六―二一九)、遼東太守公孫康は楽浪郡の南に帯方郡を置き、一応これを抑え、「倭・韓遂に帯方に属す」という状態を回復した。この体制は魏に継承されるが、ついに西晋代の三一三年、韓は帯方郡を滅ぼし、馬韓五十余国より百済、辰韓十二国より新羅が出て、これらを統合し、倭もおなじ道を辿ったと考えられる。しかし、弁韓(弁辰)十二国のみは、諸国の分立のまま統合を果たしえなかった。たとえば十二国中、弁辰狗邪国・弁辰安邪国が、それぞれ任那の南加羅(金官加羅)・安羅(阿羅加耶)に継承されているごとくである。任那の地は、『魏志』韓伝に、韓のうち「南は倭と接す」とあり、倭の北岸「狗邪韓国」(金官加羅)と記すように、倭と直接し、政治的、軍事的に倭と深い関係を生ずる立場にあった。また文化的にも、弁韓十二国は「土地肥美にして五穀および稲を種(う)うるによく、蚕桑に暁(あか)るく、〓布を作り、牛馬に乗駕す」とあり、「国に鉄を出し、韓・〓・倭皆従ひてこれを取り、諸市買ふに皆鉄を用ふ、中国の銭を用ふるが如し」とあるように、稲作・養蚕・製鉄が盛んで、このほか支石墓・甕棺墓などをみても、倭ことに九州北部との共通性のつよいことが知られる。倭は、広開土王陵碑に、四世紀後半、確実には三九一年から任那の地に軍事的に介入し、安羅人戍兵が倭兵とともに高句麗と戦ったことが記録され、『宋書』に、倭王の将軍号として「任那・加羅・秦韓・慕韓」が加えられ、倭王武は「渡りて海北を平ぐること九十五国」と述べたとある。しかるに、四七五年に至り、倭の軍事援助をうけた百済は高句麗に敗れ、王都漢城を失い、はるか南の熊津(公州)に遷都したため、これより後かえって蟾津江流域の上〓〓(おこしたり)・下〓〓(あるしたり)より帯沙・己〓の地に進出した。新羅は、六世紀に入り急速に王権を強化し、洛東江をこえて南加羅・卓淳・〓己呑を併合しようとし、五二三年、法興王は「南境」に巡狩し、「加耶国王」が「来会」し、五二七年、南加羅と〓己呑はすでに新羅の有に帰したと記録され、五三二年、ついに「金官国(南加羅)主金仇亥」は新羅に「来降」し、法興王はその本国を「食邑」とすることを許したとある。五四一年、安羅も新羅に「通計」し、官人で新羅に「帰附」するものが多く、その実体は空洞化していたことが知られる。他方で法興王が「阿尸良国(一云、阿那加耶)」を滅ぼし、郡を置いたとあるから、安羅の滅亡には若干の時間的誤差が認められる。最後に、五六二年、「任那十国」が新羅に滅ぼされるが、これは大加羅の滅亡をさしている。以上の経過をみると、任那の滅亡は一時の決戦によってもたらされたものでなく、百済の聖明王が、南加羅は小国のため「託(つ)く所を知らざりき、是によりて亡ぼされき」と述べ、卓淳についても、「上下携(はな)れ弐(ふたごころ)あり、主自ら附(したが)はむと欲(おも)ひて新羅に内応す、是によりて亡ぼされき」と述べたといい、また「諸国の敗け亡びたる禍を歴観するに、皆内応弐心ある人によりてなり」と記されている。倭がこれを行政上指導した形迹はなく、その権限を有したとも思われぬ。このような形勢は、主として新羅に対する百済の敗北に起因するもので、五五四年、百済王子余昌は新羅に敗れ、聖明王は戦死し、五五六年、倭は余昌の弟恵を筑紫舟師をもって衛送する事態となった。この間に百済の漢城は完全に新羅に占領され、五五五年、真興王はここに北漢山巡狩碑をたて封疆を定めるに至るのである。
 任那諸国の政治体制には不明の点が多い。数国の「旱岐」、加羅(大加耶)の「上首位」、安羅・多羅の「次旱岐」(下旱岐)などの官名がみえるが、旱岐は国王、他は臣下とみられ、官名からも決定的な身分の上下差はない。このような各国の政治体制はそれなりに自立しており、いわゆる「任那日本府」がこれを直接に指揮・支配したわけではない。「日本府」とは何か。六世紀にこのような名称はなく、『日本書紀』に「海北弥移居」「任那官家」とあるのが古称であろうが、官家であるかぎり、国内に設定された難波屯倉(安閑紀)・那津官家(宣化紀)などの延長線上にあり、港湾ないし軍事基地の性格をもつ。設立時期は、継体―欽明朝、百済の武寧・聖明王、新羅の法興・真興王代と推定される。任那の中心勢力が南加羅→安羅→大加羅の順に推移したとすれば、安羅が中心勢力であった段階にあたる。五二七年、倭は新羅に破られた南加羅・〓己呑を任那に取り戻すため、数万の軍を率いる近江毛野を遣わし、五二九年、安羅に高堂をたて、いわゆる任那復興会議を召集する。これを機縁に官家の組織が形成されたのではないかとする学説が有力である。その組織については以下の(一)―(三)のように見解が分かれる。(一)任那における在地倭人の連合体。(二)倭から派遣された府卿・府臣・執事の三段階の身分構成をもち、これに任那から派遣された執事が駐在する、倭と任那の協議体。両者の最高権力者は府卿(大臣)と旱岐(国王)である。(三)倭から派遣された府卿(大臣)と執事(府官)が、在地日系官人を配下に組織した出先機関。これと別に、任那各国には旱岐(国王)と次旱岐(臣下)らによって構成される政府があり、行政権を有し、官家は外交権に関与したにとどまる。(一)―(三)のうち、いずれかといえば、(三)が妥当であろうが、官家は軍事府・将軍府で、内政権・外交権をもつ政府ではないと考えた方がよい。五世紀の倭王が、倭・新羅・任那・加羅など「六国諸軍事」という将軍号をもちながら、王号は単に「倭王」であったことと関係あるかも知れぬ。
 任那が新羅に併合された後も、倭は形式的な任那の領有権を主張した。遣新羅使とともに遣任那使を遣わし、新羅に任那の政を問い、また、新羅に対して、新羅使とともに任那使が来朝して貢調することを求めた。なかでも、六一〇年、隋使裴世清のあとに来朝した新羅・任那使に対する賓礼は具体的に記録されている。この間にあって、五九一年・六二三年など、任那復興のため新羅への派兵を企画し、または実行したこともあったが、成功例はなく、最終的に、大化改新に際し、六四六年、新羅に使を遣わし、ついに任那の調を廃止し、任那問題に終止符をうった。
→加羅(から),→日本府(にほんふ)
[参考文献]
末松保和『任那興亡史』、池内宏『日本上代史の一研究』、井上秀雄『任那日本府と倭』、鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』、平野邦雄『大化前代政治過程の研究』、大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」(『古代文化』三〇ノ九・一一・一二)
(平野 邦雄)


日本大百科全書(ニッポニカ)

任那
みまな

朝鮮古代の国名。「にんな」とも読む。別名は伽耶 (かや)、加良 (から)、駕洛 (からく)など多数あるが、国際的には加羅 (から)と書く。任那の国名は日本でしばしば使用されるが、朝鮮ではほとんど使用されない。日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の始祖王后来臨の聖地主浦 (しゅほ)(ニムナ)の地名による。広義の任那は時代により変動し、洛東江 (らくとうこう)下流域を中心に、ときに中流域にまで及んだ。

 任那地方の基層文化は海洋文化を含む南方系文化が主であり、北方系の騎馬文化などは貴族文化に多い。任那諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。

[井上秀雄]

成立期の任那

この地方では、農耕生産の普及や支石墓社会の形成などから、紀元前1世紀ごろに初期的な国家ができたとみられる。3世紀の任那地方は『三国志』によれば、弁韓 (べんかん)、辰韓 (しんかん)各12国があったという。これら諸国のなかには、連合して辰国をつくったものもあるが、その王は農耕生産を維持、発展させるシャーマンであり、政治権力をもたない初期的な国家であった。

[井上秀雄]

4世紀後半の任那

『日本書紀』に引用されている「百済 (くだら)本記」によれば、百済は近肖古 (きんしょうこ)王代(346~375)から任那諸国と国交を開いたという。また、広開土王碑文では、400年ごろのこの地方には、任那加羅(金海)や安羅(咸安 (かんあん))など多くの国々があり、これらの諸国間にはかなり緊密な協力関係があった。その後も任那諸国は、百済や朝鮮南海岸地方ないしは北九州にあった倭 (わ)国と協力して、高句麗 (こうくり)、新羅 (しらぎ)と対立していた。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那加羅は狭義の任那で、現在の慶尚南道金海市にあり、532年新羅に降服するまで、加羅諸国の有力国であった。また、任那加羅は『三国志』に弁辰狗邪 (くや)国、狗邪韓 (くやかん)国とあり、韓族、倭、中国などの海上交通の要衝として栄えた。大和 (やまと)王朝の朝鮮進出の基地とされる任那日本府がこの地に置かれたといわれているが、それを証明するものはない。その開国神話は日本の天孫降臨神話の祖型で、始祖王后の海洋渡航神話も日本の神話と類似したところがある。また、任那諸国の新文物、新知識を日本にもたらした秦 (はた)氏の出身地はこの任那加羅で、漢 (あや)氏の出身地は安羅とみられる。

[井上秀雄]

5世紀の任那

5世紀前半期の朝鮮は比較的安定し、任那諸国もそれぞれ自国の充実に努めていた。ただ倭国が、430年から任那(任那加羅)、加羅(高霊加羅)を含む六~七国諸軍事の称号を繰り返し南朝宋 (そう)に求めるなど、朝鮮の国際関係に積極的な関心を示した。後半期には、新羅が洛東江流域に勢力を伸ばし、任那諸国と接触交渉が始まり、部分的な抗争も起こった。百済も全羅道に勢力を伸ばし、任那諸国との接触が深まった。また479年加羅王荷知 (かち)が、南斉 (なんせい)から輔 (ほ)国将軍加羅国王の官爵を与えられ、国際社会に登場した。この時期の文化で注目されることは、地域的な特色が明瞭 (めいりょう)になったことである。たとえば、丸底壺 (つぼ)類をのせる器台では、西方に多い低平な器台、東部に多い高杯型器台、中央部に多い筒型器台など地方的な特色をもつようになる。また、異形土器が発達し、鴨 (かも)形、舟形、車形、家形など各種の象形土器がみられる。任那加羅とともに狭義の任那とよばれる高霊加羅は大伽耶、大加羅ともいわれ、任那諸国の有力国で、現在の慶尚北道高霊郡にあった。ただし高霊加羅を任那とよぶのは、『日本書紀』の誤解によるとする説がある。伝承では43年に建国し、16代520年間続き、562年に新羅に併合されたという。6世紀には、任那諸国の盟主として活躍し、その文化も任那諸国を代表するもので、伽耶琴 (かやきん)・加羅楽の発祥地、原始絵画、装飾古墳などがある。

[井上秀雄]

6世紀の任那

5世紀末から百済の勢力が任那南西部に侵入した。百済はこの事態を大和王朝に承認させるため、五経博士 (ごきょうはかせ)などを送った。これに反対する任那諸国は新羅に援助を求めた。新羅は525年に洛東江上流域に上州を設置し、百済と対立した。任那諸国のなかには百済、新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶、加羅七国、浦上 (ほじょう)八国など連合体を組織するものもあった。その連合の組織では、諸国の代表者が集まって外交、軍事の実務を協議していた。しかし、当時の加羅諸国には、小国のままのものから数個の小国を統合した国まであって、諸国間の利害が対立し、各国支配者層内に親百済派、親新羅派が生じて混乱した。この混乱を利用した新羅に任那はしだいに侵略されて、532年に任那加羅など、562年に高霊加羅を中心とする残余の任那諸国が併合された。新羅に併合されたのちも任那諸国は比較的自立性が強く、新羅の直接支配を受けるようになるのは、統一新羅になってからである。この時期の貴族文化は、高句麗、百済からの影響が強くみられる。

[井上秀雄]



世界大百科事典

任那
みまな
Imna

朝鮮古代の国名。〈にんな〉ともいう。532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例しかみられない。これをニムナとよみ,金海加羅国のみをさしている。ミマナのよみは,ニムナの転訛したものである。ニムナのよみは金海加羅国の始祖王后の許黄玉が来臨した聖地主浦の古訓に由来している。日本で広義に任那を使用したことは,韓(から)や唐(から)の場合と同様に,もっとも関係の深かった任那の国名を,加羅諸国などに拡大使用したためである。
→加羅 →金海加羅
[井上 秀雄]

[索引語]
Imna 金海加羅 加羅 任那
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検索コンテンツ
1. 任那
世界大百科事典
国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例し
2. みまな【任那】
日本国語大辞典
、〈略〉中急追至〓任那加羅〓
3. みまな【任〓
国史大辞典
遣新羅使とともに遣任那使を遣わし、新羅に任那の政を問い、また、新羅に対して、新羅使とともに任那使が来朝して貢調することを求めた。なかでも、六一〇年、隋使裴世清の
4. 任那(みまな)【篇】
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 247ページ
5. 任那(みまな)画像
日本大百科全書
。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那
6. 【任那(〓)】みまな
新選漢和辞典Web版
朝鮮半島の南部、弁〓(べんかん)の地におこった国。神功(じんぐう)皇后の新羅(しらぎ)派兵のとき、この地に日本府を置い
7. 任那(にんな)
日本大百科全書
任那
8. みまないせき【任〓遺跡】
国史大辞典
任那の名は『日本書紀』崇神天皇六十五年秋七月条の記事にあらわれているのが初見であるが、高句麗好太王碑の中にも「任那加羅」と記されている。伽耶(加耶)・伽羅(加
9. 任那救援
日本史年表
537年〈宣化2(欽明6) 丁巳⑧〉 10・1 大伴金村の子磐・狭手彦に 任那救援 を命じる. 狭手彦 、任那を鎮め、百済を救う(紀)。
10. みまなこくし【任〓国司】
国史大辞典
となどと密接な関係があろう。任那国司の任那は大加羅国(金官加羅)などをさす狭義の任那ではなく、任那地域全体を指す広義の任那として用いられたものであろう。なお、任
11. 任那使
日本史年表
庚午⑪〉 10・9 新羅・任那の使 を朝廷に迎える(紀)。 611年〈推古19 辛未〉 8・‐ 新羅・任那の使 、朝貢(紀)。 623年〈推古31 癸未〉 7・
12. 任那日本府
世界大百科事典
(3)任那日本府の名称と実態 (a)正式な名称を任那日本府とし,伝承記事の朝鮮出兵・遣使などを含め大和朝廷の朝鮮経営がすべてここを基地としたとする説。(b)任那
13. みまな の 国(くに)の司(みこともち)
日本国語大辞典
任那国を主宰する官人。*日本書紀〔720〕雄略七年是歳(前田本訓)「田狭(たさ)を拝(ことよさ)して、任那国司(ミマナノクニノミコトモチ)と為たまふ」
14. 任那宰(みまなのつかさ)【併入】
古事類苑
官位部 洋巻 第1巻 185ページ
15. 任那官家
日本史年表
562年〈欽明23 壬午①〉 1・‐ 新羅、 任那官家 を滅ぼす(紀)。
16. 任那の滅亡[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan
17. 任那の四県
日本史年表
512年〈継体6 壬辰〉 12・‐ 百済の要請に応じ、 任那の四県 (上〓
18. 任那府(みまなふ)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 88ページ
19. 任那復興
日本史年表
任那の日本府吉備某、百済に赴き、 任那復興 を図る(紀)。 544年〈欽明5 甲子〉 1・‐~11・‐ 百済・任那・日本府、 任那復興 を議る(紀)。 583年
20. 任那復興の詔
日本史年表
591年〈崇峻4 辛亥⑫〉 8・1 任那復興の詔 を下す(紀)。
21. 任那人歸化 (見出し語:歸化)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 256ページ
22. 任那國司 (見出し語:國司【篇】)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 254ページ
23. 任那執事 (見出し語:執事)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 262ページ
24. 任那納貢 (見出し語:貢)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 255ページ
25. 任那宮家 (見出し語:宮家)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 251ページ
26. みまなのにほんふ【任〓日本府】
国史大辞典
⇒日本府(にほんふ)
27. 使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王
日本史年表
451年〈辛卯〉宋、倭王済を 使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王 とし、23人に軍郡の称号を与える(宋書倭国伝)(文帝紀元嘉28年7月条
28. 使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王
日本史年表
開府儀同三司 と称し、父祖の功業を述べて対高句麗戦での宋の支援を求める.宋、武を 使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王 とする(宋書順帝紀・
29. 使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王
日本史年表
これより先、倭王 讃 が没し、弟 珍 立つ.この年、珍、宋に朝貢し、自ら 使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王 と称し、正式の任命を求める
30. 遣任那使 (見出し語:使)
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 257ページ
31. あか‐ぎぬ【赤衣・赤絹】
日本国語大辞典
ひとももまき)を〓(も)たせて、任那の王(こきし)に賜(たうびつか)はす」*万葉集〔8C後〕一二・二九七二「赤帛(あかきぬ)の純裏
32. あけ-えなし【阿賢移那斯】
日本人名大辞典
かれたいわゆる任那(みまな)日本府の執事。欽明(きんめい)天皇2年(541)新羅(しらぎ)(朝鮮)と通じ,百済(くだら)の招集に応じず,佐魯麻都(さろ-まつ)ら
33. あけんえなし【阿賢移〓斯】
国史大辞典
六世紀の官人。欽明天皇朝の初期、任那において権勢を持っていた。新羅に親近して、百済からは、任那を滅ぼすものとして排斥された。彼と同類の人として「佐魯麻都」があ
34. あしきたぐん【葦北郡】熊本県
日本歴史地名大系
五月の壬辰の朔に、葦北より発船したまひて、火国に到る。磐井の反乱などもあってその後対朝鮮関係は緊張し、任那日本府の滅亡後、百済にあって外交折衝をしていた葦北出身
35. あしきたのくにのみやつこ【葦北国造】
国史大辞典
『日本書紀』敏達天皇十二年条によれば、葦北国造阿利斯登の子の日羅(にちら)は百済でその賢勇を謳われ、敏達天皇は任那恢復について諮問するため召還し建策を得たが、日
36. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
すでに朝鮮半島に勢力を伸ばし、任那みまな諸国を支配し、高句麗こうくり、新羅しらぎ、百済くだらなどの諸国に威圧を加えていたが、やがて新羅が興隆し、日本の出先官憲の
37. 飛鳥時代
世界大百科事典
鳥時代と,次の天平時代に対応させる区分法が美術史などの分野で行われている。 政治過程 欽明朝に任那(みまな)が滅亡し,大伴金村が失脚して,伴造(とものみやつこ)
38. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
る507(継体1)大伴金村、男大迹王を越前より迎立し、継体天皇とする512(継体6)大伴金村、任那四県を百済に割譲513(継体7)百済、五経博士を貢上522(継
39. 飛鳥美術
世界大百科事典
を全面的に支配し,任那の日本府は滅ぼされた(紀)。これは日本に衝撃を与え,以後百済の積極的な活動は見られない。574年新羅朝貢再開後,580年以降は調を返し,百
40. あどこ・ぶ【跨】
日本国語大辞典
(跨)」の変化した語。*日本書紀〔720〕顕宗三年是歳(図書寮本訓)「紀生磐(おひいは)宿禰、任那に跨(アトコヒ)拠(よ)りて高麗(こま)に交通(かよ)ふ」*大
41. アヒョンイナサ【阿賢伊那斯】(A-hyŏn-i-na-sa)
世界人名大辞典
く安羅人).安羅の意向をうけて新羅と通じた.《日本書紀》顕宗3年条に,百済に殺されたとみえる「任那の左(佐)魯那奇他甲背」は,欽明5年条に引く《百済本記》の「那
42. あべうじ【阿倍氏】画像
国史大辞典
がいる。敢臣とも記し、本拠は伊賀国阿拝郡といわれる。『日本書紀』顕宗天皇三年条に、阿閉臣事代が任那に使いしたとき、月神と日神の託宣を得たので田を献じて壱伎県主と
43. 阿倍鳥
世界大百科事典
608年(推古16)8月,遣隋使小野妹子を送り来朝した隋使裴世清入朝時その導者となり,610年10月新羅使・任那使入朝の際は四大夫の一人として庭中に侍立した。ま
44. あべの-とり【阿倍鳥】
日本人名大辞典
来日した隋使(ずいし)裴世清(はい-せいせい)の案内役をつとめ,18年朝鮮の新羅(しらぎ)使,任那(みまな)使が来日した際の四大夫(まえつきみ)のひとり。20年
45. あまくだりしんわ【天降神話】
国史大辞典
の信仰が発達しており、天神の御子の降誕として語られている。たとえば日本と最も関係の深い加羅国(任那国ともいう)の始祖神話によれば、加羅の村長たちが亀茲峯(きじほ
46. あやひと【漢人】
国史大辞典
用いられ、平安時代初期の『新撰姓氏録』の諸蕃の部でも、帰化人の氏をすべて漢・百済・高麗・新羅・任那の五種に分類し、中国系の諸氏を一括して漢の部に入れている。しか
47. あら【安羅】
国史大辞典
のが最も古く、任那の本源地(金海)が新羅に併された(五三二年)のちは、日本勢力の集中地となっていたが、五六二年に他の任那諸国とともに新羅に滅ぼされた。→日本府(
48. あららごう【安良郷】大阪府:摂津国/西成郡
日本歴史地名大系
う歴史的事情があったのではないかと推定されている。「新撰姓氏録」(摂津国諸蕃)に荒荒公がおり「任那国豊貴王之後也」と称する。「日本紀略」延喜三年(九〇三)五月一
49. ありしと【阿利斯等】
日本人名大辞典
政策に反発して新羅(しらぎ)(朝鮮)の王女と結婚。のち新羅と対立し,大伴金村に救援をもとめた。任那(みまな)(朝鮮)駐在の近江毛野(おうみの-けの)による調停が
50. あるしたり【下〓〓
国史大辞典
任那の一国たる〓〓国の南半部。継体天皇六年に百済国の請いによって
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すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(日本大百科全書(ニッポニカ))
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朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
異国渡海御朱印帳(日本大百科全書)
江戸初期に幕府が海外渡航の貿易船に与えた許可証の控え。金地院崇伝 (こんちいんすうでん)(以心 (いしん)崇伝)の自筆、1冊。京都市南禅寺金地院所蔵(国指定重要文化財、京都国立博物館保管)。崇伝が、前任の豊光寺承兌 (ぶこうじしょうだ/


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朝鮮半島南部の洛東江中・下流域から蟾津江流域に及ぶ古代小国家群の総称。慶尚北道西南部をふくみ、現在の慶尚南道より全羅南道にわたる。『日本書紀』では、「比自・南加羅・・安羅・多羅・卓淳・加羅」の七国(神功紀)、あるいは「加羅・安羅・斯二岐・多羅・卒麻・
フランス革命(日本大百科全書・世界大百科事典)
フランス革命とは1789年7月14日から1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。▲革命の意義この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所
公民権運動(日本大百科全書・世界大百科事典・世界文学大事典)
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奴隷解放宣言(日本大百科全書)
南北戦争中リンカーン大統領が発した宣言。1862年9月の予備宣言と翌63年1月1日の本宣言とがある。戦争の勃発(ぼっぱつ)(1861)以来、内戦の目的は、奴隷の解放にあるのか、連邦の維持(国家統一の維持)にあるのかが最大の論争点であった
アマルナ文書(日本大百科全書・世界大百科事典)
エジプト、カイロの南約312キロメートルにある、第18王朝のアメンヘテプ4世(イクナートン)の都アケト・アテン(アテンの地平線。今日のテル・エル・アマルナ)の王宮跡で、東側に位置する文書庫から1887年に発見された粘土板文書。約370枚出土した粘土板文書は


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