末松保和『任那興亡史』、池内宏『日本上代史の一研究』、井上秀雄『任那日本府と倭』、鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』、平野邦雄『大化前代政治過程の研究』、大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」(『古代文化』三〇ノ九・一一・一二)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
朝鮮古代の国名。「にんな」とも読む。別名は伽耶 (かや)、加良 (から)、駕洛 (からく)など多数あるが、国際的には加羅 (から)と書く。任那の国名は日本でしばしば使用されるが、朝鮮ではほとんど使用されない。日本では「みまな」と訓読するが、これは狭義の任那の始祖王后来臨の聖地主浦 (しゅほ)(ニムナ)の地名による。広義の任那は時代により変動し、洛東江 (らくとうこう)下流域を中心に、ときに中流域にまで及んだ。
任那地方の基層文化は海洋文化を含む南方系文化が主であり、北方系の騎馬文化などは貴族文化に多い。任那諸国は山地、丘陵、沼沢の多い地形的条件と、大国に隣接していなかった国際環境などから、基本的には小国分立の状態であった。
この地方では、農耕生産の普及や支石墓社会の形成などから、紀元前1世紀ごろに初期的な国家ができたとみられる。3世紀の任那地方は『三国志』によれば、弁韓 (べんかん)、辰韓 (しんかん)各12国があったという。これら諸国のなかには、連合して辰国をつくったものもあるが、その王は農耕生産を維持、発展させるシャーマンであり、政治権力をもたない初期的な国家であった。
『日本書紀』に引用されている「百済 (くだら)本記」によれば、百済は近肖古 (きんしょうこ)王代(346~375)から任那諸国と国交を開いたという。また、広開土王碑文では、400年ごろのこの地方には、任那加羅(金海)や安羅(咸安 (かんあん))など多くの国々があり、これらの諸国間にはかなり緊密な協力関係があった。その後も任那諸国は、百済や朝鮮南海岸地方ないしは北九州にあった倭 (わ)国と協力して、高句麗 (こうくり)、新羅 (しらぎ)と対立していた。4世紀後半に任那諸国が朝鮮の諸国と本格的な交渉をもつようになると、任那諸国の王の権威が向上し、その古墳も飛躍的に大きくなった。この時期から中心的に活躍する任那加羅は狭義の任那で、現在の慶尚南道金海市にあり、532年新羅に降服するまで、加羅諸国の有力国であった。また、任那加羅は『三国志』に弁辰狗邪 (くや)国、狗邪韓 (くやかん)国とあり、韓族、倭、中国などの海上交通の要衝として栄えた。大和 (やまと)王朝の朝鮮進出の基地とされる任那日本府がこの地に置かれたといわれているが、それを証明するものはない。その開国神話は日本の天孫降臨神話の祖型で、始祖王后の海洋渡航神話も日本の神話と類似したところがある。また、任那諸国の新文物、新知識を日本にもたらした秦 (はた)氏の出身地はこの任那加羅で、漢 (あや)氏の出身地は安羅とみられる。
5世紀前半期の朝鮮は比較的安定し、任那諸国もそれぞれ自国の充実に努めていた。ただ倭国が、430年から任那(任那加羅)、加羅(高霊加羅)を含む六~七国諸軍事の称号を繰り返し南朝宋 (そう)に求めるなど、朝鮮の国際関係に積極的な関心を示した。後半期には、新羅が洛東江流域に勢力を伸ばし、任那諸国と接触交渉が始まり、部分的な抗争も起こった。百済も全羅道に勢力を伸ばし、任那諸国との接触が深まった。また479年加羅王荷知 (かち)が、南斉 (なんせい)から輔 (ほ)国将軍加羅国王の官爵を与えられ、国際社会に登場した。この時期の文化で注目されることは、地域的な特色が明瞭 (めいりょう)になったことである。たとえば、丸底壺 (つぼ)類をのせる器台では、西方に多い低平な器台、東部に多い高杯型器台、中央部に多い筒型器台など地方的な特色をもつようになる。また、異形土器が発達し、鴨 (かも)形、舟形、車形、家形など各種の象形土器がみられる。任那加羅とともに狭義の任那とよばれる高霊加羅は大伽耶、大加羅ともいわれ、任那諸国の有力国で、現在の慶尚北道高霊郡にあった。ただし高霊加羅を任那とよぶのは、『日本書紀』の誤解によるとする説がある。伝承では43年に建国し、16代520年間続き、562年に新羅に併合されたという。6世紀には、任那諸国の盟主として活躍し、その文化も任那諸国を代表するもので、伽耶琴 (かやきん)・加羅楽の発祥地、原始絵画、装飾古墳などがある。
5世紀末から百済の勢力が任那南西部に侵入した。百済はこの事態を大和王朝に承認させるため、五経博士 (ごきょうはかせ)などを送った。これに反対する任那諸国は新羅に援助を求めた。新羅は525年に洛東江上流域に上州を設置し、百済と対立した。任那諸国のなかには百済、新羅の侵略に対抗するため、五伽耶、六伽耶、加羅七国、浦上 (ほじょう)八国など連合体を組織するものもあった。その連合の組織では、諸国の代表者が集まって外交、軍事の実務を協議していた。しかし、当時の加羅諸国には、小国のままのものから数個の小国を統合した国まであって、諸国間の利害が対立し、各国支配者層内に親百済派、親新羅派が生じて混乱した。この混乱を利用した新羅に任那はしだいに侵略されて、532年に任那加羅など、562年に高霊加羅を中心とする残余の任那諸国が併合された。新羅に併合されたのちも任那諸国は比較的自立性が強く、新羅の直接支配を受けるようになるのは、統一新羅になってからである。この時期の貴族文化は、高句麗、百済からの影響が強くみられる。
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朝鮮古代の国名。〈にんな〉ともいう。532年に滅亡した金海加羅国の別名であるが,562年までつづいた加羅諸国を指すこともある。任那は《日本書紀》など日本の史料と〈広開土王碑〉や《三国史記》など朝鮮の史料とでは,使用頻度,読み方,領域などに,相違がみられる。日本では任那の名称を多用し,これをミマナとよみ,洛東江流域の加羅諸国やときには蟾津(せんしん)江流域の諸国まで含む広義の任那と,金海加羅国のみをさす狭義の任那との二様に使用している。朝鮮の古代史料には任那の名称は,わずか3例しかみられない。これをニムナとよみ,金海加羅国のみをさしている。ミマナのよみは,ニムナの転訛したものである。ニムナのよみは金海加羅国の始祖王后の許黄玉が来臨した聖地主浦の古訓に由来している。日本で広義に任那を使用したことは,韓(から)や唐(から)の場合と同様に,もっとも関係の深かった任那の国名を,加羅諸国などに拡大使用したためである。
→加羅 →金海加羅
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