国史大辞典のサンプルページ一覧

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花火(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
わが国の花火は、火薬の配合を学んだ天文十二年(一五四三)の鉄砲伝来以降のものであろう。『北条記』五(『続群書類従』)によると、天正十三年(一五八五)の夏、下野において皆川山城守と佐竹衆対陣の時慰みのため相互に敵陣に花火を焼立てたとあるから、室町時代末
上野戦争(国史大辞典)
明治元年(一八六八)五月、江戸上野で彰義隊と政府軍との間におこった戦争。彰義隊は前将軍徳川慶喜に一橋家時代からつかえた渋沢喜作・天野八郎ら旧幕臣が中心となって結成したもので、当初は浅草本願寺を屯所としたが、のち上野寛永寺大慈院に謹慎中の慶喜の護衛を
彰義隊(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
明治維新に際し、徳川慶喜側近の旧幕臣を中心に結成された隊で、上野にたてこもり新政府軍と対抗した。明治元年(一八六八)二月十二日以降、江戸の雑司ヶ谷茗荷屋酒楼や四谷鮫ヶ橋円応寺などに有志十数名ないし六十余名が会合したが、二十三日、浅草本願寺で組織され、
白虎隊(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
会津藩の少年兵士隊。戊辰戦争にあたって、明治元年(一八六八)三月会津藩は軍制を改革し藩兵を年齢層別に組織替して、玄武(五十歳以上)・青竜(三十六~四十九歳)・朱雀(十八~三十五歳)・白虎(十六~十七歳)の各隊に編成した。青竜・白虎・朱雀・玄武は
傾城買四十八手(国史大辞典・世界大百科事典)
江戸時代後期の洒落本。山東京伝作。寛政二年(一七九〇)刊。一冊。さまざまのタイプの遊客遊女との会話を四つの場面に描き分け、遊興・恋愛における男女の手くだ・技巧・感情を細かく鋭い観察と巧妙な写実手法によって、辛辣にまたユーモラスに描き、のちの諸作品への
通言総籬(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
山東京伝作の洒落本(しゃれぼん)。一冊。天明七年(一七八七)刊。京伝の当り作の黄表紙(きびょうし)『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(天明五年)中の人物、艶二郎・喜之介・志庵をそのまま流用し、其一に喜之介宅、其二に吉原遊里と、二つの場面
遊子方言(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
洒落本。一冊。田舎老人多田爺(ただのじじい)作。明和七年(一七七〇)刊と推定される。通人ぶった中年の男が若い息子ふうの男を連れて、柳橋から吉原仲の町の茶屋を経て遊女屋に遊び、盛んに高慢をいい知ったかぶりを見せるが、結局は遊女に冷遇され、おとなしい息子
書状(国史大辞典)
書状とは手紙のことであって、用件・意志・感情などを書き記して相手方に伝える私的な文書のことである。書簡・書翰・書札・尺牘(せきとく)・消息(しょうそく・しょうそこ)・消息文などと呼ばれる。これらのうち漢文体のものを尺牘といい、仮名書きのものを消息とい
鳥羽・伏見の戦(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
明治元年(一八六八)、京都南郊の鳥羽・伏見において新政府側と旧幕府側との間で展開され、戊辰戦争の発端となった戦闘。討幕派による王政復古クーデターは成功した。しかしその後の政局の争点となった徳川慶喜の辞官・納地問題で朝議は紛糾し、その過程で尾・越・土ら
江戸開城(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
明治元年(一八六八)、江戸城が旧幕府側から新政府の手に接収されたことをいう。明治元年正月の鳥羽・伏見の戦の後、新政府は徳川慶喜追討の軍をおこし、大総督有栖川宮熾仁親王指揮下の東征軍は、東海・東山・北陸三道から江戸に迫った。三月六日、大総督府は江戸城総
戊辰戦争(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
明治元年(一八六八)正月三日に始まる鳥羽・伏見戦争(鳥羽・伏見の戦)から上野戦争、そして北越(北陸)戦争・東北戦争、さらに翌二年五月に終る箱館戦争までの戦争の総称。明治元年が干支で戊辰の年にあたるので、この呼称がつけられている。〔鳥羽・伏見戦争・上野
太閤記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
豊臣秀吉の事蹟を書きとめた記録。小瀬甫庵著、寛永二年(一六二五)自序、二十二巻。別称『豊臣記』。巻一―十六は秀吉出生から晩年まで。秀吉の素生として父を筑阿弥、幼名を日吉丸とし、晩年は最も華やかであった慶長三年(一五九八)の醍醐の花見で終っている。巻十
鼠小僧次郎吉(世界大百科事典・国史大辞典・日本架空伝承人名事典)
一七九七-一八三二江戸時代後期の大盗。次郎八、次郎太夫とも称した。寛政九年(一七九七)江戸日本橋の生まれというが諸説がある。堺町に居住し鳶人足であったが身をもちくずし、文政六年(一八二三)ごろから武家屋敷など三十二ヵ所に侵入し盗みを働いた。このため捕
憲政擁護運動(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
大正の初期と末期に起った、藩閥官僚の専横を打破し、憲政を擁護(実は確立)しようとする政治運動。護憲運動と略称して、第一次・第二次にわけることもあるが、第一次を憲政擁護運動(広義の大正政変に含まれる)、第二次を護憲運動とよぶこともある。〔第一次〕明治四
大正時代(世界大百科事典・国史大辞典)
大正天皇即位による大正改元、七月三十日(一九一二年)から現天皇即位による昭和改元、十二月二十五日(一九二六年)までの大正天皇一代約十五年間をいう。明治末の藩閥政治の落潮と、日露戦争後の国債累積で財政行詰が顕著となった時期に、大正三年、第一次世界大戦が
大正デモクラシー(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日露戦争後から大正末年にかけ、政治の世界を中心に、社会・文化の分野にまで顕著に現われた民主主義的、自由主義的傾向。〔研究状況〕信夫(しのぶ)清三郎『大正デモクラシー史』(昭和二十九年(一九五四)―三十四年)以来、「大正デモクラシー」の用語がひろく使わ
渋沢喜作(国史大辞典・日本人名大辞典)
一八三八-一九一二明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄で、栄一より二歳年長。天保九年(一八三八)六月十日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に渋沢文平の子として生まれる。文久三年(一八六三)栄一らとともに攘夷を決行しようとしたが中止した。翌元治元年
五代友厚(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一八三五-八五明治時代初期、わが国ことに大阪を中心とする関西方面の商工業の発展に大きな貢献をした人物。薩摩国鹿児島郡城ヶ谷(鹿児島市長田町)に薩摩藩の儒官である父五代直左衛門秀堯(ひでたか)と母本田やすの次男として天保六年(一八三五)十二月二十六日に
大祓(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書・日本国語大辞典)
百官以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼。毎年六月・十二月晦日に行うほか、大嘗祭、斎宮・斎院の卜定・群行、また疫病流行、妖星出現、災害異変などのときに行なった。その起源は、伊弉諾尊が黄泉国よりかえり、筑紫の日向の小戸橘之檍原
愛護若(日本架空伝承人名事典・世界大百科事典・国史大辞典)
貴公子受難物語の説経代表作。六段。愛護若は二条蔵人前左大臣清平の一子で、夫婦が長谷観音に祈請してもうけた申し子。嵯峨天皇の時代、若十三歳の時母が死に、継母の八条の姫が若を激しく恋慕し、日に七度の恋文を送った。亡母を慕って持仏堂に籠る若は
尊王攘夷運動(世界大百科事典・国史大辞典)
幕末期、とりわけ開港前後から「尊王攘夷」をかかげて徳川幕閣ないし幕府の国内専制政策および対外政策を批判した政治運動をいう。尊王論も攘夷論も本来封建的な名分思想で、前者は身分制の頂点にある天皇を尊崇する思想であり、後者は自国を中華とし他国を夷狄として排
川路聖謨(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
一八〇一-六八江戸時代末期の勘定奉行。名は聖謨、通称は弥吉、ついで三左衛門、叙爵して左衛門尉と称し、隠居して敬斎と号し、死の直前に頑民斎と改めた。享和元年(一八〇一)四月二十五日、幕府直轄領の豊後国日田(大分県日田市)に生まれた。父は日田代官所の属吏
大政奉還(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
慶応三年(一八六七)十月十四日将軍徳川慶喜が朝廷に政権の奉還を上表し、翌日これが聴許されたこと。江戸時代、将軍は全国統治の権力を持ち国王的存在であった。しかし形式的には朝廷の将軍宣下があり、幕府が政治の大権を朝廷から預かっているとの考えもあった。幕末
祇園(国史大辞典・世界大百科事典)
京都市東山区円山公園西方一帯の呼称。その中心に祇園社(八坂神社)があり、社の西大門に達する四条通りの南北にわたる花街を祇園町という。これらの地はもと山城国愛宕郡八坂郷に属し、早く平安奠都以前から開けていたところであるが、貞観年間(八五九―七七)藤原基
蝉丸(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・国史大辞典)
虚構の人名。説話では、延喜帝(醍醐天皇)の第四皇子で、盲目のため逢坂山へ遺棄された琵琶の名手と伝える。『後撰集』(巻十五)に、「逢坂の関に庵室を造りて住み侍りけるに、行きかふ人を見て」の詞書のもとに、「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂
酒呑童子(日本架空伝承人名事典・国史大辞典)
室町時代の物語草子の一編で、渋川清右衛門板の『御伽草子』二十三編に含まれる。作者不明。丹波国の大江山には、酒呑童子という鬼神がすんで、多くの人を取っていた。源頼光をはじめ、碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田公時・藤原保昌という、あわせて六人の武士が、こ
桜田門外の変(国史大辞典・世界大百科事典)
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく
安政の大獄(国史大辞典・世界大百科事典)
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論が
高島秋帆(世界大百科事典・国史大辞典)
一七九八 - 一八六六 江戸時代後期の砲術家。諱は茂敦、字は舜臣、通称は四郎太夫、秋帆はその号である。寛政十年(一七九八)長崎町年寄高島四郎兵衛の三男として長崎に生まれる。父のあとをつぎ、のち長崎会所調役頭取となった。長崎港の防備を担当した関係で
石川丈山(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典)
一五八三 - 一六七二 江戸時代前期の雅人。諱は重之、のちに凹、字は丈山、通称嘉右衛門、号を凹凸・四明などといった。三河国碧海郡泉村(愛知県安城市和泉町)に生まれる。祖父正信、父信定ともに徳川家康の臣だったが、祖父は討死、父は戦傷後武士としての生活から
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