1. 戊辰戦争画像
日本大百科全書
攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭ごりょうかくにおいて新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了する。 戊辰戦争により、諸藩財政の極度の窮乏、藩主の藩内
2. 戊辰戦争
世界大百科事典
め勝利を保証するものはなかったが,3日で装備や指揮系統に欠陥をもつ旧幕府軍を撃破した。ここに戊辰戦争が始まった。この鳥羽・伏見の戦に勝利を収めた新政府は,天皇の
3. ぼしん‐せんそう[‥センサウ]【戊辰戦争】
日本国語大辞典
慶応四年(一八六八)戊辰の年に始まった討幕派と旧幕府軍との戦争。慶応四年一月三日の鳥羽・伏見の戦いから、明治二年(一八六九)五月一八日の箱館戦争の終結までをさす
4. ぼしんせんそう【戊辰戦争】
国史大辞典
原口清『戊辰戦争』(『塙選書』二九)、石井孝『維新の内乱』(『至誠堂新書』五六)、同『戊辰戦争論』、大山柏『戊辰役戦史』、佐々木克『戊辰戦争』(『中公新書』四五
5. 戊辰戦争
日本史年表
1・27 ) 鳥羽・伏見の戦 ( 戊辰戦争開始 )、旧幕府軍敗退。 1869年〈明治2 己巳〉 5・18( 6・27 ) 榎本武揚ら 、五稜郭開城( 戊辰戦争終
6. 戊辰戦争関係略図[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
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7. ぼしんせんそうのいぎ【戊辰戦争の意義】 : 戊辰戦争
国史大辞典
〔戊辰戦争の意義〕 戊辰戦争は幕藩制国家に代わる統一国家のあり方をめぐって、相異なる構想を持った政治勢力が激突した戦争であった。薩長討幕派は、天皇を独占しその
8. 戊辰戦争資料(著作ID:4322821)
新日本古典籍データベース
ぼしんせんそうしりょう 記録
9. あいざわやすかた【愛沢寧堅】
国史大辞典
町)愛沢為規の長男として嘉永二年(一八四九)に生まれた。中村藩の下級武士で十人扶持、二十歳で戊辰戦争に従軍。明治六年(一八七三)磐前県属卒。翌七年小学校教員とな
10. あいづかせいじっき【会津家世実紀】
国史大辞典
変地異はつぶさに書きこまれ、さらに、町郷村内の私的な事件まで書かれている場合がある。会津藩は戊辰戦争に際し、ほとんどすべての藩公用文書を焼失しており、この記録は
11. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
一石余。幕末には会津藩主松平容保は京都守護職となり動乱に巻込まれた。明治元年(一八六八)九月戊辰戦争に敗れて城地を没収され、南部斗南藩三万石を与えられた。落城直
12. 会津戦争画像
日本大百科全書
ち、会津は落城、容保は降伏した。白虎隊びゃっこたいの悲劇はこのときのことである。これによって戊辰戦争はほぼ終了し、東北は新政府の支配下に入った。井上 勲
13. あいづたかだまち【会津高田町】福島県:大沼郡
日本歴史地名大系
永井野村の旧屋敷村のみが近世を通じて会津藩領で、他の村々は寛永二〇年(一六四三)以降は南山御蔵入領となる。戊辰戦争では高田の町が戦場となっている。明治二二年高田
14. あいづなかかいどう【会津中街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
の手続を取っている。会津藩も一方のみを優先できない矛盾を抱え続けていた。慶応四年(一八六八)戊辰戦争に際し、三斗小屋周辺は、会津軍の南下のルートとなった。閏四月
15. あいづにしかいどう【会津西街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
会津領から輸送するためのもので、栃久保新道といわれた。これらの道が現在の国道一二一号の原形となっている。戊辰戦争の際に街道沿いの村々は焼払われるなど大きな被害に
16. 会津藩
世界大百科事典
務める過程で,西南諸藩との対立は決定的となり,68年(明治1)恭順の意を表したがいれられず,戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として徹底抗戦し,敗北した(会津戦
17. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
廃止され、五年余の禁門警備の任務は解かれた。翌明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦に始まった戊辰戦争では、江戸城明渡し後も東北諸藩の中心として政府軍に抵抗した。
18. あいづまつだいらしていえん【会津松平氏庭園】福島県:会津若松市/若松城下/徒町
日本歴史地名大系
た。磐梯山・飯豊山を借景とする大名型の山水庭園として有名。園内には楽寿亭や御茶屋御殿があり、戊辰戦争時には西軍の傷病者の診療所に利用され、戦火を免れた。国指定名
19. 会津世直し一揆
日本大百科全書
年貢は1年もしくは3年の無税、このほか村入用、籾もみ借入れの無償、漆蝋うるしろうの4割納入、農産物の自由販売、戊辰戦争による被害につき無年貢、小作地の返却と減免
20. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
以下生糸・金銀銅鉄・陶器・蝋・煙管の順になる。上位品目は藩政時代の特産物と変わらない。しかし、戊辰戦争の戦禍による壊滅的危機から立直る苦労は容易ではなかった。明
21. 青木周蔵自伝 13ページ
東洋文庫
請ひ、長崎に至れり。是れ恰も慶応三年の下半季乃至明治元年の上半季にして、海内騒然〔倒幕運動、戊辰戦争〕、特に長藩の如きは一書生の運命の如き之を顧慮するに暇なく挙
22. 青木周蔵自伝 18ページ
東洋文庫
未だ陥落せず、勤王各藩の士卒は尚ほ干戈を敢て奥羽の野に戦ふの際なりしかば(予の会津落城〔会津戊辰戦争〕の報を得たるは、明治二年の春なり)予の仏国軍隊に対する興趣
23. 青木周蔵自伝 35ページ
東洋文庫
太政官少書記官、参事 院議官などを歴任、法学博士、貴族院議員となる。 四 薩摩藩出身。戊辰戦争の際、北越地方に出征。明治三年、ロシアへ留学、のち、フラン
24. 青木周蔵自伝 110ページ
東洋文庫
とを宣言させた上で、二十年、イ ギリス艦隊を巨文島から撤退させた。 四 薩摩藩出身。戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争に参加。一八八四、八六年に渡欧、主として
25. 青木周蔵自伝 117ページ
東洋文庫
を編纂せしめたることあり。依て其の全文を左に掲載し、談話に代ふべし。 明治政府は維新の内証〔戊辰戦争〕漸く戡定に就くと同時に、嘗て徳川政府の締結したる条約〔安政
26. 青木周蔵自伝 359ページ
東洋文庫
命ぜられる八月(陽暦十月十四日)、リソダウ、萩原三圭と長崎を出航十二月〔西暦〕中旬、マルセーユに上陸・一月、戊辰戦争はじまる・三月十四日、五ヵ条の誓文公布四月二
27. あおさわごえかいどう【青沢越街道】山形県:飽海郡/八幡町/麓村
日本歴史地名大系
升田館は、観音寺城から当街道に沿って非常時の見張台として築かれたものといわれる。これはのちの戊辰戦争の際、対新庄藩用の見張台として用いられた。庄内藩は元和八年(
28. 青森[県]画像
世界大百科事典
明治以前は陸奥国に属し,江戸時代は南部氏の盛岡藩,八戸藩,津軽氏の弘前藩,黒石藩があったが,戊辰戦争後,盛岡藩は減封され,その支藩の七戸藩と3万石で入封した斗南
29. あおやぎむら【青柳村】福島県:南会津郡/伊南村
日本歴史地名大系
焼畑の時期によって蕎麦・菜・粟などを蒔き、二、三年作付けしてはほかの場所を刈ったと記されている。戊辰戦争の際、慶応四年(一八六八)西軍が北の大橋村(現南郷村)か
30. あおやぎむら【青柳村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
とっている(慶応大学蔵文書)。「房総三州漫録」に当地産のバカガイをアオヤギバカと称すとあり、また蛤もとれた。戊辰戦争では当地での戦死者は四人という(「島野村名主
31. あかいかげあき【赤井景
】
国史大辞典
旧名乙五郎。安政六年(一八五九)九月二十五日、高田城下に生まれた。赤井家の旧禄は十石二人扶持。父喜平は戊辰戦争で戦死、母に育てられた。明治十年(一八七七)西南戦
32. あかいちょう【赤井丁】福島県:会津若松市/若松城下
日本歴史地名大系
入った所に時宗西光寺があり、その周りに小路があり、窪ノ内と記される。この寺は別名窪寺と称した。戊辰戦争で焼失し、そのまま廃寺になったが、境内にあった日限延命地蔵
33. 赤ゲット
世界大百科事典
こと。イギリスの貿易商が日本人もインド人などと同じく赤色を好むだろうと送り付けたところから,戊辰戦争時の新政府軍兵士の間で防寒具として用いられはじめた。1868
34. あかだにむら【赤谷村】新潟県:新発田市
日本歴史地名大系
江口・上内竹・下内竹三村の筏乗り惣代とで取決めをしている(「下内竹村一紙文書」同資料)。北越戊辰戦争に際しては新政府軍に対する会津軍の守り口となった。結局、会津
35. あかつちむら【赤土村】福島県:南会津郡/下郷町
日本歴史地名大系
得ていた。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高四三石余。慶応四年(一八六八)の戊辰戦争のとき、日光口を守備していた会津藩兵が田島村(現田島町)から
36. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 248ページ
東洋文庫
術を修めた。文 久二年(天蓋)江戸湾を測量、ついで操練所頭取、 講武所取締役、歩兵頭を歴任。戊辰戦争に際し、 榎本武揚に従って海軍奉行となり、五稜郭に拠っ て官
37. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 249ページ
東洋文庫
久世広周とともに幕閣の中心となり、 多難な幕政にあずかった。文久二年(天奎)坂下 門外の変で負傷し、辞任。戊辰戦争では奥羽列藩 同盟に与した。池田長発(筑後守)
38. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 250ページ
東洋文庫
文久二年(天空) 赤松則良らとともにオランダに留学、造船術を研 修、慶応三年(冗字)開陽丸で帰国。戊辰戦争で は榎本軍に投じて禁固に処せられたが、まもなく 放免
39. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 251ページ
東洋文庫
則良ら とともにオランダに留学、慶応三年(一八六七)開陽 丸に乗組んで帰国、軍艦奉行に累進。戊辰戦争に 際し幕府艦隊を率いて北海道に走り、五稜郭に拠 って官軍と
40. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 253ページ
東洋文庫
フランス公使ロッシュとはかり幕 府財政の再建に努力、また海軍奉行、陸軍奉行に もなり軍備の整備に努力した。戊辰戦争で抗戦を 主張したが容れられず、采邑に帰り、の
41. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 254ページ
東洋文庫
存在となる。のち威臨丸艦長として渡米、帰国後 軍艦奉行、陸軍総裁をつとめ、幕政改革にあたっ たが、戊辰戦争の際は恭順派の中心として江戸無 血開城に努力。維新後外
42. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 255ページ
東洋文庫
著わしてその構造を 説いた。安政二年(天翌)洋学所(翌年蕃書調所 と改称)教授職となったが、戊辰戦争に際し、宮 を辞して三田に帰り、著述に専念した。木村図書(摂
43. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 256ページ
東洋文庫
帰国後軍艦操練所に出仕、教授 職となる。慶応三年(大毛)開陽丸がオランダか ら回航されると機関方として乗組み、戊辰戦争で は榎本軍に投じた。維新後、雅三と名を改
44. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
オランダに留学、慶応三年(天六七)開陽丸に乗組 み帰国。戊辰戦争に際し、開陽丸船将として榎本 武揚に従って官軍と戦った。降伏後在獄三年でゆ る零れ、開拓使御用
45. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 258ページ
東洋文庫
また緒方洪庵に蘭書を学 ぶ。幕府の奥医師となり、また慶応三年(天宅) 徳川昭武に従って欧州諸国を巡遊。戊辰戦争に際 し榎本武揚らと北海道に走り、函館病院頭取とな
46. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 261ページ
東洋文庫
同四年江戸に帰り軍艦操練所総督、 さらに外国奉行、軍艦奉行をへて京都町奉行とな り、幕勢挽回に努力した。戊辰戦争では榎本軍に 投じて抗戦、禁固に処せられたが明治
47. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 262ページ
東洋文庫
与力中島永豊の子。木鶏と号す。安政二年(天翌) 長崎海軍伝習所に学び、のち軍艦操練所教授職、 軍艦頭取。戊辰戦争に際し、榎本武揚と謀り、開 陽・回天諸艦を率い、
48. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 263ページ
東洋文庫
際は教授方手伝(運用)として随行。帰国後、オ ランダから来た開陽丸に乗組み、軍艦役筆頭にす すむ。戊辰戦争では榎本に従ったが、五稜郭では 軍艦頭並であった。維新
49. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 264ページ
東洋文庫
文久二年(天空)石川島での千 代田形の建造の際は、沢太郎左衛門とともに船体 の組立設計に当った。戊辰戦争の際は威臨丸の副 長で、清水港で戦死した。伴鉄太郎〔一死
50. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 265ページ
東洋文庫
文久二年(天空) 水夫小頭として赤松則良らとともにオランダに留 学、慶応三年(天六七)開陽丸で帰国。戊辰戦争で は榎本軍に投じ、開陽艦に乗組んで官艦と戦う。 の