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戊辰戦争

ジャパンナレッジで閲覧できる『戊辰戦争』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典

戊辰戦争
ぼしんせんそう
明治元年(一八六八)正月三日に始まる鳥羽・伏見戦争(鳥羽・伏見の戦)から上野戦争、そして北越(北陸)戦争・東北戦争、さらに翌二年五月に終る箱館戦争までの戦争の総称。明治元年が干支で戊辰の年にあたるので、この呼称がつけられている。

〔鳥羽・伏見戦争・上野戦争〕

慶応三年(一八六七)十二月九日の王政復古クーデターによって成立した新政府は、皇族有栖川宮熾仁親王が就任した総裁、公卿・諸侯を任じた議定、諸藩士をも含めた参与という、総裁・議定・参与の三職によって構成される政府であったが、実質的政務はクーデターに参加した薩摩・土佐・安芸・尾張・越前などの列藩の諸侯と藩士によって決定・運営されていた。すなわちこの政府の性格は諸藩連合政権というべきものであった。この政府は徳川慶喜を政権から排除するとともに辞官・納地を彼に要求した。一方徳川慶喜は大政奉還後も政権を担当する意欲を見せていたが、王政復古クーデター後京都から大坂城に退いた。そこで彼は諸外国公使を引見し、依然として対外的には自分が主権者であることを強気に声明し、また配下の幕臣も反撃に出るべき旨を進言するが、慶喜はすぐには動こうとしなかった。というのも、政府内では、戦乱は回避しようと考える公議政体派の発言力が次第に強くなり、辞官・納地問題も当初の方針が緩和されて行き、慶喜が政府の一員として復活できるような途も見えつつあったからであった。かくて薩摩と長州の討幕派は次第に孤立して行った。そこで薩長討幕派は状況の打開を策して戦争に途を求めた。また幕府側も、薩藩による江戸市中擾乱などの挑発もあって、ついに軍事発動をするに至り、翌正月三日、鳥羽・伏見において両勢力が武力衝突することになったのである。鳥羽・伏見戦争で政府軍が勝利することにより局面は一変した。天皇の親政・親征をたてまえに、討幕派が新政権の主導権を握り、徳川慶喜や会津・桑名藩などの朝敵を追討しならびに諸道を鎮撫するための軍隊を派遣して行った。まず近畿以西の諸藩から、そして次第に諸道周辺の諸藩まで急速に新政府に忠誠を誓って行き、また西日本の大商人たちも多くは政府支持の立場を表明した。直属の軍事力を持たず、財源にも乏しい新政府にとって、諸藩ならびに大商人らの協力は大きな力となった。三月十四日の五箇条の誓文は新政権の成立宣言であり、閏四月の政体書は誓文の精神を官制上に具体化したものであったが、ここに表現された政府の性格は、諸藩の協議や連合を基本的精神とする公議政体論的権力構想を否定した、天皇の権威のもとに一部の専制政治家が強力な指導力を発揮する専制政府であった。江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、諸侯の大部分が新政府支持を表明したことを知るに至り、二月十二日上野寛永寺に謹慎した。東海・東山・北陸の三道を進軍した政府軍は、三月末江戸城攻撃をめざして江戸に集結した。しかし西郷隆盛と勝海舟の会談により平和的な江戸城明け渡しが可能となり、四月十一日江戸は無血開城された。慶喜の謹慎から開城にかけて、主戦派の幕兵が脱走し江戸周辺で政府軍にゲリラ的に抗戦した。古屋作左衛門の衝鋒隊、近藤勇の甲陽鎮撫隊などである。彼らの抵抗は、折から関東各地で発生した一揆・打ちこわしとともに政府軍を苦しめた。しかし五月十五日の彰義隊討滅の上野戦争を最後に、江戸市中はもとより関東全域がほぼ政府軍によって平定された。ついで五月二十四日には、田安亀之助(徳川家達)を駿河府中藩七十万石の城主とすることが決まり、徳川氏処分が最終的に決着した。鳥羽・伏見戦争は、新政権の成立にとっては不可欠の戦争であり、したがって政治的に見れば戊辰戦争のなかで最も重要な戦争であった。また上野戦争は、これによって新政府は日本領土の過半を支配下に収め、かつ江戸を中心に関東を経営し、合わせて東北・北越地方にも勢力を拡大浸透させる基盤を確立したという点において、また、軍事・戦略面および戊辰戦争の帰趨を決定づけた点において画期となる戦争であった。七月江戸を東京と改め、十月には天皇の東京行幸が実現し、遷都への第一歩がふみ出された。

〔北越戦争・東北戦争〕

朝敵とされた会津藩の救解嘆願のため協議を重ねていた東北諸藩は、次第に政府軍(奥羽鎮撫総督軍)に不満・不信をつのらせて行き、ついに五月三日、二十五藩が同盟を結んだ。これに越後の長岡藩など六藩も加盟して奥羽越列藩同盟となった。同盟は七月に仙台藩領白石(しろいし)に公議府を設け、輪王寺宮を盟主に擁立し仙台・米沢両藩主を総督とし、諸藩重臣が参加して軍事・会計・民政などを議定・実施するという同盟組織を築いた。これは奥羽越の地に成立した諸藩連合政権と見ることができる。当初同盟は問題の平和的解決を基本的立場としていたが、政府軍の攻撃を受け、北越・東北戦争が本格化するにつれ攻守軍事同盟へと性格を変えて行った。六月からは白河・平・会津・庄内の各地で激戦が行われたが、次第に同盟軍は苦戦を強いられるとともに同盟から脱落する藩が出、九月二十二日の会津落城を前に仙台・米沢両藩が降服し、同盟は敗北崩壊した。また主として長岡城攻防をめぐる北越戦争も、七月末には結着がつき、八月初めには越後地方はすべて政府軍によって平定された。東北戦争は、戦闘の期間、死傷者の数、兵器物量の投下等々、いずれも戊辰戦争のなかで最大規模の戦争であった。この戦争の勝利によって政府は名実ともに日本の支配を完了し、かつその基盤も確かなものとなったといえる。

〔箱館戦争〕

徳川家処分を見届けたところで、八月十九日品川沖を出航した榎本武揚が率いる旧幕海軍は、仙台に寄港して東北戦争で敗走した兵を集めて十月初旬蝦夷地へ向かい、十二月十五日箱館五稜郭で投票により総裁榎本武揚以下の幹部を選出した。いわゆる榎本政権の誕生である。この政権を蝦夷共和国と呼ぶものもある。しかし榎本が政府に送った嘆願書を見るかぎり、天皇政権を認め旧徳川家臣らのための駿河府中(静岡)藩の分領のような性格の地方領国の建設を許可してほしいと要望するように、政府に敵対し全国制覇を企図するものではなく、したがってこの政権を共和国とみなすことは不適当である。榎本軍も翌二年五月の雪どけを待って開始された政府軍の攻撃に敗れ、榎本をはじめ幹部は東京に檻収された。

〔戊辰戦争の意義〕

戊辰戦争は幕藩制国家に代わる統一国家のあり方をめぐって、相異なる構想を持った政治勢力が激突した戦争であった。薩長討幕派は、天皇を独占しその伝統的、精神的権威を背景にしつつ、諸藩を統合し専制的支配と中央集権体制を構築しようとした。一方、第二次征長戦争(長州征討)の失敗から大政奉還への過程で、独裁的権力の復活と維持が困難であるとの状況を認識した幕府は、制限つきながらも天皇権威の復活を認め、天皇および朝廷勢力を吸収した形での徳川氏が中心となる諸藩連合政権を構想した。鳥羽・伏見戦争は、こうした相異なる政権構想とその政治主体およびそれぞれの支持勢力が激突して起ったものであった。討幕派はこの戦争に勝利することによって、その支持勢力とともに維新政権を構築し得たのであった。ところが、王政復古の現実は認めながらも、維新政権の専制を批判して奥羽越列藩同盟が結成された。この同盟は奥羽地方に成立した地域的諸藩連合政権であり、将来全国的政権に発展させる構想を持っていた。しかし北越・東北戦争の結果、全国的諸藩連合政権樹立の可能性は最終的に消滅することになった。戊辰戦争の意義は、この戦争を経過することによって全国的統一政権が誕生したのであり、討幕派はこの戦争を強硬に遂行し勝利することによってはじめて維新政権の主体となり得たということである。またこの戦争は、封建領主層全体を決定的に弱体化せしめ領有制を解体の方向に追い込んだ。この結果、廃藩置県に象徴される封建制度の終焉と近代的中央集権国家樹立に至る過程が急速に進むことになるとともに、政治的、社会的秩序も回復して行き、幕末以来の諸列強の圧力に対抗し得る体制が形成されて行ったのであった。

〔研究史〕

戊辰戦争の本格的な政治史研究は、昭和三十八年(一九六三)に刊行された原口清著『戊辰戦争』が最初である。『復古記』の精密な検討を通して明治維新における戊辰戦争の位置、そして維新政権の成立過程の全貌がはじめて解明された。しかし同年石井孝は「戊辰戦争についての一試論」で原口説を批判し、翌年原口の反批判、そして石井の再批判と両者の間で論争が行われた。石井の戊辰戦争についてのトータルな見解は、のち『維新の内乱』(昭和四十三年)で展開されるが、両者の見解の対立点は以下のごとくである。(一)原口は戊辰戦争の全過程を絶対主義権力と列藩同盟権力との戦争であったと理解するのに対し、石井は鳥羽・伏見戦争は絶対主義コースを歩む二陣営の戦争であり、東北・北越戦争段階は天皇制絶対主義権力と封建領主勢力との間の戦争であったとする。(二)したがって大政奉還後の政治路線についても、原口は徳川慶喜=幕府が現実に構築しようとしていた権力形態は公議政体=列藩同盟政権であるとするのに対し、石井は「大政奉還は徳川政権を擬装的公議政体を通じて絶対主義化させる路であった」として対立する。(三)また公議政体派の位置づけに関しても、石井は絶対主義への傾斜を強めつつある公議政体派の路線は、列藩(=絶対主義的小国家)同盟=封建連邦という形を経て封建制を妥協的に絶対主義に転化させるコース、すなわち「連邦的絶対主義国家」の樹立が目標であったと説くが、原口は絶対主義を「権力形態」として考えるかぎり、「絶対主義的小国家」たる個別の藩を集め(=同盟)たからといって、それが「絶対主義的中央権力」の成立に直結するものではないと考える。このように両者の見解の対立には絶対主義に関する解釈の相違が根底の問題として横たわっていた。その後原口・石井両者にとっても分析の空白分野であった東北戦争とくに奥羽越列藩同盟に焦点をあてた研究が出された(佐々木克「奥羽列藩同盟の形成と性格」(昭和四十七年)、のち『戊辰戦争』(同五十二年))。ここでは奥羽越列藩同盟の性格を、幕藩制に代わる全国的統一国家の樹立を構想する地域的「諸藩連合政権」であり、公議政体派が所期していた政権構想と基本的には同じであると述べた。この佐々木の見解に対し石井は『戊辰戦争論』(昭和五十九年)において、同盟は「なんら改革の綱領」を持たない「東北辺境型諸藩のルースな連合体」で「将来の絶対主義権力となりうるような」ものではないと批判した。なお『日本史の問題点』(昭和四十年)に原口・石井論争を整理した鎌田永吉「戊辰戦争」が収録されている。
→上野戦争(うえのせんそう),→東北戦争(とうほくせんそう),→鳥羽・伏見の戦(とば・ふしみのたたかい),→箱館戦争(はこだてせんそう),→北越戦争(ほくえつせんそう)
[参考文献]
太政官・東京大学史料編纂所編『復古記』、原口清『戊辰戦争』(『塙選書』二九)、石井孝『維新の内乱』(『至誠堂新書』五六)、同『戊辰戦争論』、大山柏『戊辰役戦史』、佐々木克『戊辰戦争』(『中公新書』四五五)、鎌田永吉「戊辰戦争」(日本歴史学会編『日本史の問題点』所収)、原口清「『戊辰戦争』補論」(静岡大学法経短期大学部『法経論集』一七)、石井孝「戊辰戦争についての一試論」(東北史学会『歴史』二六)、佐々木克「奥羽列藩同盟の形成と性格」(『史苑』三二ノ二)
(佐々木 克)


世界大百科事典

戊辰戦争
ぼしんせんそう

王政復古によって成立した新政府が,反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し,統一国家の基礎を固めることになった内乱である。戦乱は1868年(明治1)戊辰の年にあたる1月から69年5月まで1年半に及んだ。王政復古の結果,旧幕府武力討伐を唱える討幕派と,旧幕府を含めた平和的諸藩連合を構想する公議政体派が,拮抗(きつこう)しながら連合した新政府が成立した。武力討幕派は関東攪乱(かくらん)工作を行って旧幕府軍の軍事行動を挑発し,ついに1868年1月3日,大坂に集結した旧幕府軍は進撃を開始し,鳥羽・伏見を守る薩長軍と交戦したのである。数的に劣る薩長軍にとって,あらかじめ勝利を保証するものはなかったが,3日で装備や指揮系統に欠陥をもつ旧幕府軍を撃破した。ここに戊辰戦争が始まった。この鳥羽・伏見の戦に勝利を収めた新政府は,天皇の権威を確保し,以後,討幕軍は官軍として菊章旗を掲げて進軍することができた。また新政府内でも岩倉具視,大久保利通,木戸孝允らの武力討幕派が指導権を握り,西日本の大名らは形勢を見てぞくぞく入京を始め,諸外国も局外中立を宣言した。江戸へ帰った徳川慶喜は当初,反攻を計画したが,すでに新政府内の公議政体派が勢力を失っており,失地回復の手がかりがないのを見て恭順に踏み切った。かくて事実上,大勢は決したのである。2月,新政府は,大総督府,諸道総督府を設置し,有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を大総督宮に任命し,いわゆる朝敵藩に対して,開城,藩主謹慎,勤王誓紙差出しなどを条件に降伏をいれつつ東征の軍を進めた。

 関東一帯では百姓一揆や打毀が頻発し,またイギリス公使パークスも江戸の戦乱を憂慮して新政府に圧力を加え,勝海舟と大総督府参謀西郷隆盛は,当初の新政府の方針より後退した無血江戸開城の合意に達した。かくして4月11日,江戸城は新政府軍に接収されたが,なお彰義隊は上野寛永寺に拠ってゲリラ的抗戦を続け,軍備の整わない新政府軍も,これを圧服できず,新政府の前途を危ぶむ声は内外に多かった。この江戸の不安定な情勢が東北で奥羽越列藩同盟の結成を許し,ひいては戦乱を予想外に長期化させる要因になったのである。大村益次郎が彰義隊を討伐し,新政府の権威を江戸に確立するのは,開城の1ヵ月後,5月15日のことである。

 江戸の騒乱状態が継続するうちに,慶喜に次ぐ重罪と目された会津藩の寛典を求める東北諸藩は,5月3日に奥羽列藩同盟を結び,ついで長岡藩などの北越諸藩がこれに合流し,ここに戊辰戦争は,新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦乱に拡大した。とくに北越方面では,長岡藩や会津藩援軍などの同盟軍と新政府軍の一進一退の焦土戦が続き,7月29日,新政府軍の再度の長岡城接収によってようやく大勢が決した。越後口と白河口から進攻した新政府軍は,米沢藩,仙台藩などを順次降伏させ,9月15日,約1ヵ月の籠城に耐えた会津藩を攻略し,やがて盛岡藩,庄内藩も軍門に下り,東北の戦乱も終了した。激戦の続いた東北戦争では,両軍の支配地で民衆の一揆が続発し,民政局を設置した新政府も民心掌握のうえで大きな課題を負ったのである。

 東北戦争が戦われているころ,旧幕府艦隊に乗船して江戸を脱走した旧幕臣らは,10月20日,蝦夷地に到着し,箱館の五稜郭に拠って,榎本武揚を総裁とする士族共和政府の樹立と蝦夷地の統治開拓に着手した。新政府は,翌春に北征艦隊を派遣,1869年5月18日,これを攻略し,戊辰戦争は終結した。

 新政府内で戦争の大局を推進させたのは大久保や木戸らの政務官僚であり,また実戦の戦略や戦地の民政の指導は軍防事務局判事加勢の大村や山県有朋らの参謀たちによって行われ,彼らが維新政府の実権を握るのである。また両軍に参加した諸藩は,ともに長期の遠征や莫大な戦費によって疲弊し,これがやがて封建的藩割拠の体制が終了する重要な要因となった。
[井上 勝生]



日本大百科全書(ニッポニカ)

戊辰戦争
ぼしんせんそう

1868年(慶応4)1月の鳥羽 (とば)・伏見 (ふしみ)の戦いから1869年(明治2)5月の箱館 (はこだて)戦争までの戦争をいう。1868年が干支 (えと)で戊辰 (つちのえたつ)の年にあたるので、この呼称がつけられている。

 1867年(慶応3)12月9日の王政復古クーデターによって成立した新政府は、徳川慶喜 (よしのぶ)を政権から排除し、辞官・納地を彼に要求した。新政府は、クーデターに参加した薩摩 (さつま)、土佐、安芸 (あき)、尾張 (おわり)、越前 (えちぜん)など諸藩の連合政権であり、公議政体論を支配的なイデオロギーとしていたが、政府内では当初の討幕派の優位がしだいに失われて公議政体派が優位となり、辞官・納地問題も当初の方針がしだいに緩和されていった。しかし、鳥羽・伏見の戦いにより局面は一変した。新政府軍の勝利により、近畿以西の諸侯は急速に新政府に忠誠を誓い、西日本の大商人層も新政府に協力することになった。政府内では公議政体論的権力構想は急速に衰え、討幕派の指導権が成立した。新政府は、天皇親政の名のもとに少数の専制的政治家が国家の最高意志を決定する方向に変貌 (へんぼう)していった。1868年3月14日の五か条の誓文 (せいもん)はこのような新政府の成立を内外に宣言するものであったし、閏 (うるう)4月の政体書は誓文の精神を官制上に具体化したものであった。

 一方、鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に帰った慶喜は、新政府に自己の恭順を訴える工作を行ったが効果なく、ついに上野寛永寺 (かんえいじ)に閉居する。新政府は朝敵慶喜追討のため、大総督府の下に北陸、東海、東山三道の先鋒 (せんぽう)総督府を置き、諸藩軍隊を指揮して江戸に向かわせた。草莽 (そうもう)有志が結成した諸隊も東征に参加した。草莽諸隊のなかには、相楽総三 (さがらそうぞう)らの赤報隊 (せきほうたい)のように新政府側の策謀によって偽官軍の罪で弾圧されたものもある。江戸城総攻撃は、西郷隆盛 (さいごうたかもり)、山岡鉄太郎(山岡鉄舟)の駿府 (すんぷ)会談を経て、江戸での西郷・勝安芳 (かつやすよし)(海舟)の会談により平和的開城が可能となる。1868年4月4日勅使が江戸城に入り、慶喜の水戸謹慎、開城、軍艦兵器の没収、重臣処分などの降伏条件を徳川方に伝達、同月11日江戸城明け渡しが行われた。しかし徳川方抗戦派将兵は江戸を脱走して関東各地で抵抗戦を行い、おりからの一揆 (いっき)、打毀 (うちこわし)とともに政府軍を苦境に陥れた。このなかで徳川氏処分の決着が急がれ、閏4月に三条実美 (さんじょうさねとみ)は関東監察使として江戸に下り徳川氏処分内容を決定。同月29日徳川相続人を田安亀之助 (たやすかめのすけ)(徳川家達 (いえさと))とする旨を徳川方に伝えた。5月15日の上野戦争で彰義隊 (しょうぎたい)を撃滅して関東制圧に有利な条件を獲得した新政府は、5月24日徳川亀之助を駿河 (するが)府中70万石の城主とする旨を徳川方に伝達した。徳川家の駿河移封により、新政府が江戸を中心にして関東を経営し、東北地方にも支配を浸透させ、名実ともに全国に君臨する基礎が固められた。7月江戸を東京とし、10月天皇の東京行幸が実現する。

 一方、朝敵とされた会津・庄内 (しょうない)両藩の降伏謝罪条件について、両藩と新政府との間の斡旋 (あっせん)に尽力した仙台・米沢 (よねざわ)藩などの努力も失敗し、新政府や奥羽鎮撫 (ちんぶ)総督府参謀に不満・不信を抱いた東北諸藩は、5月奥羽列藩同盟を結成し、やがて北越諸藩もこれに参加して奥羽越列藩同盟となって新政府に抵抗。1868年(明治1)7月仙台藩領白石 (しろいし)に公議府を設け、輪王寺宮 (りんのうじのみや)を軍事総督に推戴 (すいたい)し、奥羽越諸藩重臣が参加して軍事・民政・会計その他を議定、執行することになる。これは、奥羽越の地に成立した諸藩連合政権であったが、新政府軍との戦闘に敗れ、同盟諸藩は次々に降伏した。12月奥羽越諸藩の処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金 (しょくざいきん)賦課などが行われた。また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚 (えのもとたけあき)らは、北海道箱館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭 (ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了する。

 戊辰戦争により、諸藩財政の極度の窮乏、藩主の藩内統制力の喪失、勤王・佐幕両派に分裂しての藩内抗争の激化、上級武士対下級武士、将校対兵士、文官対武官などの対立、領土の飛地 (とびち)・入組 (いりくみ)関係の矛盾の顕在化、その他が広範に現れ、藩体制の解体化は大きく促進された。領主階級の大部分は、天皇新政権への依存度を強め、判物 (はんもつ)返上―再交付による藩主の権威の増大、領地再編成によりこの危機から脱出することを願った。この領主階級の願望と新政府指導者の策謀が結合し、1869年の版籍奉還 (はんせきほうかん)が平和的に実現する。

 戊辰戦争により封建領主階級は決定的に弱体化し、封建制度の終焉 (しゅうえん)と中央集権的統一国家樹立の機運を飛躍的に増大させた。また幕府の倒壊と新政権の誕生は、幕末以来の半植民地化の危機から日本が脱出する可能性を大きく増大させるものとなった。これらが戊辰戦争のもつ最大の意義である。

[原口 清]

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1. 戊辰戦争画像
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4. ぼしんせんそう【戊辰戦争】
国史大辞典
原口清『戊辰戦争』(『塙選書』二九)、石井孝『維新の内乱』(『至誠堂新書』五六)、同『戊辰戦争論』、大山柏『戊辰役戦史』、佐々木克『戊辰戦争』(『中公新書』四五
5. 戊辰戦争
日本史年表
1・27 ) 鳥羽・伏見の戦 ( 戊辰戦争開始 )、旧幕府軍敗退。 1869年〈明治2 己巳〉 5・18( 6・27 ) 榎本武揚ら 、五稜郭開城( 戊辰戦争
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7. ぼしんせんそうのいぎ【戊辰戦争の意義】 : 戊辰戦争
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9. あいざわやすかた【愛沢寧堅】
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町)愛沢為規の長男として嘉永二年(一八四九)に生まれた。中村藩の下級武士で十人扶持、二十歳で戊辰戦争に従軍。明治六年(一八七三)磐前県属卒。翌七年小学校教員とな
10. あいづかせいじっき【会津家世実紀】
国史大辞典
変地異はつぶさに書きこまれ、さらに、町郷村内の私的な事件まで書かれている場合がある。会津藩は戊辰戦争に際し、ほとんどすべての藩公用文書を焼失しており、この記録は
11. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
一石余。幕末には会津藩主松平容保は京都守護職となり動乱に巻込まれた。明治元年(一八六八)九月戊辰戦争に敗れて城地を没収され、南部斗南藩三万石を与えられた。落城直
12. 会津戦争画像
日本大百科全書
ち、会津は落城、容保は降伏した。白虎隊びゃっこたいの悲劇はこのときのことである。これによって戊辰戦争はほぼ終了し、東北は新政府の支配下に入った。井上 勲
13. あいづたかだまち【会津高田町】福島県:大沼郡
日本歴史地名大系
永井野村の旧屋敷村のみが近世を通じて会津藩領で、他の村々は寛永二〇年(一六四三)以降は南山御蔵入領となる。戊辰戦争では高田の町が戦場となっている。明治二二年高田
14. あいづなかかいどう【会津中街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
の手続を取っている。会津藩も一方のみを優先できない矛盾を抱え続けていた。慶応四年(一八六八)戊辰戦争に際し、三斗小屋周辺は、会津軍の南下のルートとなった。閏四月
15. あいづにしかいどう【会津西街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
会津領から輸送するためのもので、栃久保新道といわれた。これらの道が現在の国道一二一号の原形となっている。戊辰戦争の際に街道沿いの村々は焼払われるなど大きな被害に
16. 会津藩
世界大百科事典
務める過程で,西南諸藩との対立は決定的となり,68年(明治1)恭順の意を表したがいれられず,戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟の中心として徹底抗戦し,敗北した(会津戦
17. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
廃止され、五年余の禁門警備の任務は解かれた。翌明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦に始まった戊辰戦争では、江戸城明渡し後も東北諸藩の中心として政府軍に抵抗した。
18. あいづまつだいらしていえん【会津松平氏庭園】福島県:会津若松市/若松城下/徒町
日本歴史地名大系
た。磐梯山・飯豊山を借景とする大名型の山水庭園として有名。園内には楽寿亭や御茶屋御殿があり、戊辰戦争時には西軍の傷病者の診療所に利用され、戦火を免れた。国指定名
19. 会津世直し一揆
日本大百科全書
年貢は1年もしくは3年の無税、このほか村入用、籾もみ借入れの無償、漆蝋うるしろうの4割納入、農産物の自由販売、戊辰戦争による被害につき無年貢、小作地の返却と減免
20. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
以下生糸・金銀銅鉄・陶器・蝋・煙管の順になる。上位品目は藩政時代の特産物と変わらない。しかし、戊辰戦争の戦禍による壊滅的危機から立直る苦労は容易ではなかった。明
21. 青木周蔵自伝 13ページ
東洋文庫
請ひ、長崎に至れり。是れ恰も慶応三年の下半季乃至明治元年の上半季にして、海内騒然〔倒幕運動、戊辰戦争〕、特に長藩の如きは一書生の運命の如き之を顧慮するに暇なく挙
22. 青木周蔵自伝 18ページ
東洋文庫
未だ陥落せず、勤王各藩の士卒は尚ほ干戈を敢て奥羽の野に戦ふの際なりしかば(予の会津落城〔会津戊辰戦争〕の報を得たるは、明治二年の春なり)予の仏国軍隊に対する興趣
23. 青木周蔵自伝 35ページ
東洋文庫
太政官少書記官、参事    院議官などを歴任、法学博士、貴族院議員となる。  四 薩摩藩出身。戊辰戦争の際、北越地方に出征。明治三年、ロシアへ留学、のち、フラン
24. 青木周蔵自伝 110ページ
東洋文庫
とを宣言させた上で、二十年、イ    ギリス艦隊を巨文島から撤退させた。  四 薩摩藩出身。戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争に参加。一八八四、八六年に渡欧、主として
25. 青木周蔵自伝 117ページ
東洋文庫
を編纂せしめたることあり。依て其の全文を左に掲載し、談話に代ふべし。 明治政府は維新の内証〔戊辰戦争〕漸く戡定に就くと同時に、嘗て徳川政府の締結したる条約〔安政
26. 青木周蔵自伝 359ページ
東洋文庫
命ぜられる八月(陽暦十月十四日)、リソダウ、萩原三圭と長崎を出航十二月〔西暦〕中旬、マルセーユに上陸・一月、戊辰戦争はじまる・三月十四日、五ヵ条の誓文公布四月二
27. あおさわごえかいどう【青沢越街道】山形県:飽海郡/八幡町/麓村
日本歴史地名大系
升田館は、観音寺城から当街道に沿って非常時の見張台として築かれたものといわれる。これはのちの戊辰戦争の際、対新庄藩用の見張台として用いられた。庄内藩は元和八年(
28. 青森[県]画像
世界大百科事典
明治以前は陸奥国に属し,江戸時代は南部氏の盛岡藩,八戸藩,津軽氏の弘前藩,黒石藩があったが,戊辰戦争後,盛岡藩は減封され,その支藩の七戸藩と3万石で入封した斗南
29. あおやぎむら【青柳村】福島県:南会津郡/伊南村
日本歴史地名大系
焼畑の時期によって蕎麦・菜・粟などを蒔き、二、三年作付けしてはほかの場所を刈ったと記されている。戊辰戦争の際、慶応四年(一八六八)西軍が北の大橋村(現南郷村)か
30. あおやぎむら【青柳村】千葉県:市原市地図
日本歴史地名大系
とっている(慶応大学蔵文書)。「房総三州漫録」に当地産のバカガイをアオヤギバカと称すとあり、また蛤もとれた。戊辰戦争では当地での戦死者は四人という(「島野村名主
31. あかいかげあき【赤井景〓
国史大辞典
旧名乙五郎。安政六年(一八五九)九月二十五日、高田城下に生まれた。赤井家の旧禄は十石二人扶持。父喜平は戊辰戦争で戦死、母に育てられた。明治十年(一八七七)西南戦
32. あかいちょう【赤井丁】福島県:会津若松市/若松城下
日本歴史地名大系
入った所に時宗西光寺があり、その周りに小路があり、窪ノ内と記される。この寺は別名窪寺と称した。戊辰戦争で焼失し、そのまま廃寺になったが、境内にあった日限延命地蔵
33. 赤ゲット
世界大百科事典
こと。イギリスの貿易商が日本人もインド人などと同じく赤色を好むだろうと送り付けたところから,戊辰戦争時の新政府軍兵士の間で防寒具として用いられはじめた。1868
34. あかだにむら【赤谷村】新潟県:新発田市
日本歴史地名大系
江口・上内竹・下内竹三村の筏乗り惣代とで取決めをしている(「下内竹村一紙文書」同資料)。北越戊辰戦争に際しては新政府軍に対する会津軍の守り口となった。結局、会津
35. あかつちむら【赤土村】福島県:南会津郡/下郷町
日本歴史地名大系
得ていた。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高四三石余。慶応四年(一八六八)の戊辰戦争のとき、日光口を守備していた会津藩兵が田島村(現田島町)から
36. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 248ページ
東洋文庫
術を修めた。文 久二年(天蓋)江戸湾を測量、ついで操練所頭取、 講武所取締役、歩兵頭を歴任。戊辰戦争に際し、 榎本武揚に従って海軍奉行となり、五稜郭に拠っ て官
37. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 249ページ
東洋文庫
久世広周とともに幕閣の中心となり、 多難な幕政にあずかった。文久二年(天奎)坂下 門外の変で負傷し、辞任。戊辰戦争では奥羽列藩 同盟に与した。池田長発(筑後守)
38. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 250ページ
東洋文庫
文久二年(天空) 赤松則良らとともにオランダに留学、造船術を研 修、慶応三年(冗字)開陽丸で帰国。戊辰戦争で は榎本軍に投じて禁固に処せられたが、まもなく 放免
39. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 251ページ
東洋文庫
則良ら とともにオランダに留学、慶応三年(一八六七)開陽 丸に乗組んで帰国、軍艦奉行に累進。戊辰戦争に 際し幕府艦隊を率いて北海道に走り、五稜郭に拠 って官軍と
40. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 253ページ
東洋文庫
フランス公使ロッシュとはかり幕 府財政の再建に努力、また海軍奉行、陸軍奉行に もなり軍備の整備に努力した。戊辰戦争で抗戦を 主張したが容れられず、采邑に帰り、の
41. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 254ページ
東洋文庫
存在となる。のち威臨丸艦長として渡米、帰国後 軍艦奉行、陸軍総裁をつとめ、幕政改革にあたっ たが、戊辰戦争の際は恭順派の中心として江戸無 血開城に努力。維新後外
42. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 255ページ
東洋文庫
著わしてその構造を 説いた。安政二年(天翌)洋学所(翌年蕃書調所 と改称)教授職となったが、戊辰戦争に際し、宮 を辞して三田に帰り、著述に専念した。木村図書(摂
43. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 256ページ
東洋文庫
帰国後軍艦操練所に出仕、教授 職となる。慶応三年(大毛)開陽丸がオランダか ら回航されると機関方として乗組み、戊辰戦争で は榎本軍に投じた。維新後、雅三と名を改
44. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
 オランダに留学、慶応三年(天六七)開陽丸に乗組 み帰国。戊辰戦争に際し、開陽丸船将として榎本 武揚に従って官軍と戦った。降伏後在獄三年でゆ る零れ、開拓使御用
45. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 258ページ
東洋文庫
また緒方洪庵に蘭書を学 ぶ。幕府の奥医師となり、また慶応三年(天宅) 徳川昭武に従って欧州諸国を巡遊。戊辰戦争に際 し榎本武揚らと北海道に走り、函館病院頭取とな
46. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 261ページ
東洋文庫
同四年江戸に帰り軍艦操練所総督、 さらに外国奉行、軍艦奉行をへて京都町奉行とな り、幕勢挽回に努力した。戊辰戦争では榎本軍に 投じて抗戦、禁固に処せられたが明治
47. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 262ページ
東洋文庫
与力中島永豊の子。木鶏と号す。安政二年(天翌) 長崎海軍伝習所に学び、のち軍艦操練所教授職、 軍艦頭取。戊辰戦争に際し、榎本武揚と謀り、開 陽・回天諸艦を率い、
48. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 263ページ
東洋文庫
際は教授方手伝(運用)として随行。帰国後、オ ランダから来た開陽丸に乗組み、軍艦役筆頭にす すむ。戊辰戦争では榎本に従ったが、五稜郭では 軍艦頭並であった。維新
49. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 264ページ
東洋文庫
文久二年(天空)石川島での千 代田形の建造の際は、沢太郎左衛門とともに船体 の組立設計に当った。戊辰戦争の際は威臨丸の副 長で、清水港で戦死した。伴鉄太郎〔一死
50. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 265ページ
東洋文庫
文久二年(天空) 水夫小頭として赤松則良らとともにオランダに留 学、慶応三年(天六七)開陽丸で帰国。戊辰戦争で は榎本軍に投じ、開陽艦に乗組んで官艦と戦う。 の
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