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  11. 日米交渉

日米交渉

ジャパンナレッジで閲覧できる『日米交渉』の国史大辞典のサンプルページ

日米交渉
にちべいこうしょう
日米戦争の回避または延引を目的とした、真珠湾攻撃前約一年間にわたる非公式外交工作および開戦外交交渉。その背景にはヨーロッパからアジア・太平洋地域に伸展した第二次世界大戦に対する日米双方の政・戦略的駆引きが窺われる。なお日本側ではこの日米国交調整工作・交渉をN工作または日米交渉と称し、米国側ではJohn Doe Associates工作または日米会談と称していた。

〔発端の背景〕

太平洋よりも大西洋を政・戦略的に優先させようとする英米双方の大戦略を背景に、第一次世界大戦時在米英国情報機関責任者として米国の参戦工作を担ったワイズマンW.Wiseman(国際投資銀行クーン=レーブ商会パートナー)と、アメリカのカトリック外国宣教会(メリノール会)のドラウトJ.Droughtとの間で、昭和十五年(一九四〇)夏以降大西洋第一主義に基づく「太平洋の和平」策が構想される。この私的レベルで始まる「ヒトラー打倒第一主義」または「英国防波堤論」構想が、のちのドラウトによる対日和平策(「日米首脳会議開催案」)となる。

〔非正式チャンネルの成立〕

昭和十五年十一月、ドラウトはメリノール会総長ウォルシュJ.Walsh司教とともに、「中国と日本における宣教活動の視察」を名目に渡日する。ドラウトは離米前、各方面の友人・知人を介して対日工作のためのチャンネル作りを試みる。その結果、ワイズマンと同じくクーン=レーブ商会のパートナーであったストロースL.Strauss(米海軍予備役)を介して接触した井川忠雄(産業組合中央金庫理事)との間に、当事者能力を具えたチャンネルができる。滞日中のドラウトから持ち掛けられた「日米首脳会議案」(Working Analysis)を、井川は近衛文麿首相・松岡洋右外相・武藤章軍務局長・岩畔豪雄(いわくろひでお)軍事課長らに随時取り次ぐ。外交第一主義を主張する外務省周辺以外の反応は一様に好意的であった。昭和十六年一月帰米後、ドラウトはウォーカーF.Walker郵政長官らを介してルーズベルトF.Roosevelt大統領およびハルC.Hull国務長官に接触(「ウォルシュ覚書」提示)する。ここに近衛・武藤から日本側の私的窓口になることが黙認された井川(岩畔が後見役)と、同じくルーズベルトとハルから米国側の私的窓口になることが黙認されたドラウト(ウォーカーが後見役)との間に非正式チャンネル(John Doe Associates)が成立する。

〔妥結の可能性と原則的対立〕

昭和十五年十一月、親米派の野村吉三郎元外相が駐米大使に起用される。「力の外交」による対米打開策を目差した松岡と違って、柔軟な対米策をとらんとした野村は、十六年二月ワシントン入りした後「ドラウト・井川提携工作」にドッキング(三月八日の野村・ハル会談)する。他方「外務省嘱託」の資格で渡米した井川は、二月下旬から三月中旬にかけて、ドラウトとの間で「太平洋平和維持根本原則案」(Agreement in Principles)の案文作りを手懸ける。三月三十日ニューヨーク入りした岩畔を加えて、四月二日からワシントンでドラウト・井川・岩畔の三人は、「根本原則試案」(三月十八日)を叩き台としながら「日米諒解案」作りにとりかかる。四月九日ごろにでき上がった試案は、四月十四・十六両日の野村・ハル会談で検討され成案の運びとなる。日本に四月十七日夜届いた「日米両国諒解案」は、その後政府レベルで進められた「日米交渉」の基礎案となる。近衛首相は「日米諒解案」を基礎とする日米両政府間交渉に積極的で、また四月十八日夜の大本営政府連絡会議も「大体受諾すべしとの論に傾いた」とされる(三日後の連絡会議にて些少の修正にて採択と決定)。ところが日ソ中立条約の調印を終えて帰国した松岡には、独自の「日米諒解」構想があって、井川・岩畔らによってお膳立てされた「日米両国諒解案」には冷淡な態度をとり、日本側の対米回答を引きのばす戦術に出た。結局五月三日の連絡会議では、松岡の主張したとおり、「諒解案」への回答に先立って、中立条約締結の申入れと、日独伊の結束を誇示した「オーラル=ステートメント」の通告を行うことが、当初の「受諾論」とは違ってとり決められる。さらに「諒解案」にも大幅な変更が松岡の手によって加えられ、五月十二日「日本側修正案」として野村に回訓される。そのため五月中旬から六月下旬にかけて、ドラウト・井川・岩畔らが仲立ちとなり、日米双方の見解の齟齬を調整する作業が行われる。しかしこのような弥縫策は、六月二十二日の独ソ開戦を前提として、前日の二十一日ハルから野村に手交されたアメリカ側の対案(五月十二日の「松岡提案」)によって水泡に帰す。アメリカ側としては「ソ連カード」を手に入れることで対日宥和策にこだわる必要を感じなくなったわけである。加えて六月二十一日の「アメリカ側対案」には松岡外相の忌避が示唆されており、日米交渉の先行きが危ぶまれることになる。しかし日米交渉に寄せる近衛の決意はかたく、松岡の更迭によって日米交渉の続行を図る。七月十八日、豊田貞次郎を新外相に迎えて第三次近衛内閣が発足する。ところが七月下旬の南部仏印進駐は、近衛の意に反して在米日本資産の凍結および対日石油全面禁輸というアメリカ側の対日強硬経済制裁措置を招来せしめた。にわかに日米間に戦争の危険性が生じ始める。そこで窮余の一策として近衛政府の側で構想されたのが「日米首脳会談開催案」である。八月二十七日、「日米巨頭会談」をもちたい旨(「近衛メッセージ」)がルーズベルト宛に申し入れられる。なお十日後、九月六日の御前会議では和戦両様の構えをとらんとする「帝国国策遂行要領」が承認されることになる。

〔開戦〕

結局のところ「近衛・ルーズベルト会談開催」構想は、十月二日のハルの覚書によって否定される。その結果近衛内閣は総辞職、代わって東条内閣が誕生する。新内閣は「白紙還元」の立場をとって日米交渉の継続を図る。しかし統帥部側の対米交渉打切りの主張が声高で、「臥薪嘗胆論」の立場をとる主務大臣の東郷茂徳を窮地に立たせる。結局来栖三郎に託した日本側最終案「甲案」「乙案」も十一月二十六日の「ハル=ノート」によって拒否され、東郷外相も日米交渉継続を断念せざるをえなくなる。この「ハル=ノート」と称される米側より提案された日米両国間協定の「基礎概略」は、日米両国の国策に関する根本諸原則(領土保全・主権尊重などのいわゆる四原則)などの「相互宣言案」と、日米両国政府の採るべき「措置」の提案からなっていた。なお十項目からなる「措置」提案の眼目は、中国全土からの日本軍の撤退、重慶政権以外のすべての政権の否認を要求するもので、要するに日本側に「満洲事変」勃発前の状態に復帰することを迫るものであった。それ故日本側に最後通牒との感を抱かせることになった。のち十二月一日、日本政府は米英蘭への武力発動を最終的に決断する。
→太平洋戦争(たいへいようせんそう),→ハル=ノート
[参考文献]
伊藤隆・塩崎弘明編『井川忠雄日米交渉史料』(『近代日本史料選書』五)、外務省編『日米交渉資料』、塩崎弘明『日英米戦争の岐路』、須藤真志『日米開戦外交の研究』、加瀬俊一『日米交渉』(『日本外交史』二三)、奥村房夫『日米交渉と太平洋戦争』、野村吉三郎『米国に使して』、日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』七、『外務省の百年』下、来栖三郎『泡沫の三十五年』、東郷茂徳『東郷茂徳外交手記』、防衛庁防衛研究所戦史室編『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』三―五(『戦史叢書』六九・七〇・七六)、同編『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯』二(同一〇〇)、酒井堅次編『日米交渉』(『昭和史の天皇』三〇)、近衛文麿『平和への努力』、熊切信男「日米交渉」(日本外交学会編『太平洋戦争原因論』所収)、塩崎弘明「「日米会談」前史―“John Doe Associates”の成立とその政治的背景―」(『史学雑誌』八四ノ七)、同「「John Doe Associates」と「日米交渉」」(『日本歴史』三六四)、角田順「日米交渉」(『国際政治』一一)、松本繁一「日米交渉と中国問題」(同三七)、R.J.C.Butow:The John Doe Associates.
(塩崎 弘明)
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検索コンテンツ
1. 日米交渉
日本大百科全書
措置(対日禁輸問題)に出た。この情勢を背景に1941年第2次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は日米交渉を開始するが、交渉前史は1940年夏、アメリカ・カトリック外 ...
2. 日米交渉
世界大百科事典
アメリカに派遣し,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた内容の〈日米諒解案〉をもとに,41年4月16日から日米交渉がはじめられた。当時日ソ中立条約調印のため訪ソ中で ...
3. にちべいこうしょう【日米交渉】
国史大辞典
対案」には松岡外相の忌避が示唆されており、日米交渉の先行きが危ぶまれることになる。しかし日米交渉に寄せる近衛の決意はかたく、松岡の更迭によって日米交渉の続行を図 ...
4. 日米交渉
日本史年表
1941年〈昭和16 辛巳〉 4・16 アメリカ国務長官ハル、野村吉三郎駐米大使に日米諒解案を提議( 日米交渉 始まる.22日、松岡外相、帰国して難色)。  ...
5. アメリカがっしゅうこく【アメリカ合衆国】
国史大辞典
日本水域にもアメリカ船は出没し、中浜万次郎のごとく明治維新前にアメリカに渡った日本人もいる。日米交渉が正式なものとなったのは一八五四年(安政元)三月ペリーと江戸 ...
6. アメリカがっしゅうこくしょざいにほんかんけいしりょう【アメリカ合衆国所在日本関係史料】
国史大辞典
含む)などからなる国務省旧蔵文書、(二)海軍長官と海軍出先機関の往復文書(一七七五―一九一三年)など初期日米交渉において大きな役割を果たし、また太平洋をはさむ日 ...
7. アメリカがっしゅうこくしょざいにほんかんけいしりょう【アメリカ合衆国所在日本関係史料】 : アメリカ合衆国所在日本関係史料/(二)
国史大辞典
含む)などからなる国務省旧蔵文書、(二)海軍長官と海軍出先機関の往復文書(一七七五―一九一三年)など初期日米交渉において大きな役割を果たし、また太平洋をはさむ日 ...
8. アメリカ通商代表部
日本大百科全書
浴びるようにさえなっている。また、1970年代までのアメリカ通商の相手は、おもにヨーロッパであったが、やがて日米交渉のウェイトが高まり、アジア地域も重要な相手と ...
9. 石井菊次郎
世界大百科事典
17年特派大使として渡米,石井=ランシング協定に調印,翌年駐米大使となり,シベリア出兵に関する日米交渉にあたったが,18年辞任。その後は国際連盟代表など国際会議 ...
10. いしかわしんご【石川信吾】
国史大辞典
一課長。日独伊三国同盟の成立に努めた。同十五年十一月軍務局第二課長(政策)。対米英強硬派で、日米交渉・対米英開戦の枢機に参画した。同十七年六月南西方面艦隊参謀副 ...
11. いどさとひろ【井戸覚弘】
国史大辞典
〓(大学頭)とともに出府して日米交渉について請訓すると、幕閣は、下田開港を含む最後的譲歩案を付与し、これにもとづいて交渉が進められた結果 ...
12. いわくろ-ひでお【岩畔豪雄】
日本人名大辞典
明治30年10月10日生まれ。昭和14年陸軍省軍事課長となり南方進出をとなえる。16年渡米し,日米交渉で駐米大使の特別補佐官をつとめる。太平洋戦争開始後はインド ...
13. おおはし-ちゅういち【大橋忠一】
日本人名大辞典
ハルビン総領事,満州国参議などをへて,昭和15年外務次官として松岡洋右(ようすけ)外相の下で日米交渉の指揮にあたった。27年衆議院議員(当選3回,自民党)。34 ...
15. おかだけいすけ【岡田啓介】
国史大辞典
麹町憲兵分隊の憲兵らによって救出された。十二年前官礼遇の沙汰があり、重臣の列に加わった。十六年、日米交渉が行き詰まって、対米開戦か非戦かで政府内が動揺すると、及 ...
16. おきなわもんだい【沖縄問題】
国史大辞典
会談で、四十七年中の沖縄返還についての原則的合意に到達した。この合意に基づく沖縄返還のための日米交渉は同四十五年一月に開始され翌年六月十七日沖縄返還協定(正式に ...
17. かいせん【開戦】 : 日米交渉
国史大辞典
る。その結果近衛内閣は総辞職、代わって東条内閣が誕生する。新内閣は「白紙還元」の立場をとって日米交渉の継続を図る。しかし統帥部側の対米交渉打切りの主張が声高で、 ...
18. かいせんのけいい【開戦の経緯】 : 太平洋戦争
国史大辞典
抱いていた海軍は、開戦反対を明言せず、一方日中戦争の主役であった陸軍は中国からの撤兵に反対したため、日米交渉妥結の可能性は遠のいた。昭和十六年十月十六日対米開戦 ...
19. きしないかく【岸内閣】
国史大辞典
しかし三十四年一月、自民党総裁選挙を繰上げ実施して総裁に再選された岸は、以後安保条約の改定を主要な目標として日米交渉を推進し、三十五年一月にはみずから渡米して日 ...
22. きんだい【近代】 : 近代/〔昭和六―十九年〕
国史大辞典
六月ドイツは突如ソ連への攻撃を開始した。政府では、この機会に対ソ戦を行うべきだと主張する松岡外相と日米交渉を進めるとの方針をもつ近衛首相が対立し、七月松岡を切っ ...
23. きんだい【近代】 : 日中関係
国史大辞典
中戦争の解決を関連して考えるに至った。日本の南方進出の脅威のもとで一九四一年四月から始まった日米交渉は最後の段階で中国からの日本軍撤退問題で行きづまった。十一月 ...
24. くるすさぶろう【来栖三郎】
国史大辞典
行われ、構想に元来消極的な大使は関与するところが少なかった。昭和十六年十一月、大詰めを迎えた日米交渉の舞台に野村吉三郎駐米大使の介添役を勤める。交渉打開への一縷 ...
25. くるす-さぶろう【来栖三郎(1)】
日本人名大辞典
へて昭和14年ドイツ大使となる。翌年,日独伊三国同盟条約に調印。16年特派全権大使としてアメリカにわたり,日米交渉中の野村吉三郎大使を補佐した。昭和29年4月7 ...
26. グルー【Joseph Clark Grew】
国史大辞典
十六年近衛文麿首相・ルーズベルト大統領の会談の成立に開戦回避の最後の希望を託したが、実現に至らず、また日米交渉はすでにワシントンに移されていたので、グルーの果た ...
28. このえないかく【近衛内閣】
国史大辞典
外相には海軍の穏健派豊田貞次郎をとって日米交渉を推進しようとした。しかし前内閣時代の南部仏印進駐の決定が実行に移されるとアメリカは在米日本資産凍結・対日全面禁輸 ...
29. このえないかく【近衛内閣】 : 近衛内閣/〔第二次〕
国史大辞典
同年十月十二日大政翼賛会の発足として結実した。ところが外交面では、同年末に民間同士のアプローチでスタートした日米交渉が、やがて外交ルートに乗るに至って松岡と他の ...
30. このえないかく【近衛内閣】 : 近衛内閣/〔第三次〕
国史大辞典
外相には海軍の穏健派豊田貞次郎をとって日米交渉を推進しようとした。しかし前内閣時代の南部仏印進駐の決定が実行に移されるとアメリカは在米日本資産凍結・対日全面禁輸 ...
31. 近衛文麿
日本大百科全書
10月大政翼賛会を結成、日本ファシズムの中心組織をつくりあげた。 また日独伊三国同盟締結後、日米交渉を進め、これに反対する松岡洋右(まつおかようすけ)外相を排除 ...
32. 近衛文麿
世界大百科事典
の樹立をはかった。しかしドイツのイギリス本土攻略は実現せず,41年春には日米交渉を開始した。6月の独ソ開戦ののち日米交渉に反対の松岡洋右外相をしりぞけて第3次内 ...
33. このえふみまろ【近衛文麿】
国史大辞典
条約調印と、ほぼ荻窪会談の線で外交を進めたが、十五年末からの非公式の、のち外交ルートにのった日米交渉をめぐり、また十六年六月二十二日の独ソ開戦への対応をめぐって ...
34. nbsp;このえ-ふみまろ【近衛文麿】
日本人名大辞典
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35. 近衛文麿内閣
日本大百科全書
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36. このえふみまろにっき【近衛文麿日記】
国史大辞典
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38. 御前会議
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国史大辞典
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41. 太平洋戦争(第二次世界大戦)
日本大百科全書
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42. 太平洋戦争
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43. たいへいようせんそう【太平洋戦争】
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抱いていた海軍は、開戦反対を明言せず、一方日中戦争の主役であった陸軍は中国からの撤兵に反対したため、日米交渉妥結の可能性は遠のいた。昭和十六年十月十六日対米開戦 ...
44. 太平洋戦争史(年表)
日本大百科全書
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45. たいりくこっかのけいせい【大陸国家の形成】 : アメリカ合衆国
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46. だいきょうこうからだいにじせかいたいせんへ【大恐慌から第二次世界大戦へ】 : アメリカ合衆国
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47. 第二次世界大戦
日本大百科全書
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48. だけつのかのうせいとげんそくてきたいりつ【妥結の可能性と原則的対立】 : 日米交渉
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対案」には松岡外相の忌避が示唆されており、日米交渉の先行きが危ぶまれることになる。しかし日米交渉に寄せる近衛の決意はかたく、松岡の更迭によって日米交渉の続行を図 ...
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50. ていこくこくさくすいこうようりょう【帝国国策遂行要領】
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51. ていこくこくさくすいこうようりょう【帝国国策遂行要領】 : 帝国国策遂行要領/(二)
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太平洋戦争開始以来の戦争状態を終結させるために、日本政府が英米をはじめとする四十八ヵ国と締結した講和条約。公式名は「日本国との平和条約」。「対日平和条約」とも呼ばれている。締結の相手国は、アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・ボリビア・ブラジル
盧溝橋事件(日本大百科全書・世界大百科事典)
1937年(昭和12)7月7日夜に始まる盧溝橋一帯での日中両軍の軍事衝突で、日中全面戦争の発端となった事件。中国では、「七・七事変」ともいい、日本政府は当時「北支事変」と称した。1935年、華北分離工作に本格的に乗り出した日本は、やがて支那(しな)
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