ドイツの政党。正称は国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)。国家社会主義ドイツ労働者党とも訳す。ナチスという呼称は,国民社会主義者Nationalsozialistの略称ナチNaziの複数形である。
党結成からミュンヘン一揆
1919年1月5日ミュンヘンの国有鉄道中央工場の仕上工ドレクスラーAnton Drexler(1884-1942)が労働者をナショナリズム,反マルクス主義,反ユダヤ主義の立場に獲得することをめざして,同僚の労働者24名とともに結成,党首に就任した。最初ドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiと名のり,《ミュンヘン・アウクスブルク夕刊》紙のスポーツ担当記者ハラーの仲介で反革命結社〈トゥーレ協会Thulle Gesellschaft〉の援助を受け,かつ活動もハラーの方針に従い小規模な人数の演説集会に終始した。19年9月ヒトラーがドイツ労働者党へ入党,宣伝担当の役をまかされる。党の大衆化の方針をめぐってヒトラーはハラーと対立,20年1月ハラーは離党。これによりドイツ労働者党は,トゥーレ協会の後見から独立することとなった。
20年はじめ国民社会主義ドイツ労働者党と改称。同年2月24日ヒトラーとドレクスラー共同執筆の25ヵ条からなる党綱領を発表,大ドイツ国家の建設,ベルサイユ条約反対,反ユダヤ主義の主張と並んで,中間層や労働者の利益を考慮した要求(不労所得の廃止,利子奴隷制の打破,トラストの国有化,大企業の利益への参加,大百貨店の自治体への移管,土地改革,地代の廃止)を盛り込む。21年7月ヒトラーが党首に就任,選挙による上級指導者の選出,合議制の機関を廃止し,党首を頂点に上下の厳格な命令・服従関係が刻みこまれた党運営の原理(〈指導者原理〉)を樹立する。党活動のスタイルとしては演説集会を重視し,20年末~21年1月にかけてミュンヘン市内で46回の演説集会を開催,6万2000人の聴衆が参加した。ヒトラー個人を例にとれば,ミュンヘン市内において22年11月30日に5ヵ所の会場で,12月13日には10ヵ所の会場で演説を行い,聴衆の間にナチスへの支持をつくりだすために精力的に活動。他方で21年11月に突撃隊Sturmabteilung(SA)を結成,褐色の制服を着用する突撃隊による街頭でのポスターはり,ビラまき,ミュンヘン市中での示威行進,また他の都市に〈進軍〉して示威行進や左翼勢力との乱闘(22年10月,コーブルク市)を通じて,大衆の注目を引くことに努めた。
20年4月ナチスの運動はミュンヘン市外に拡大し,ローゼンハイムに最初の支部が設立され,翌年7月には運動はバイエルンの境を越え,ハノーファーに支部が結成された。またニュルンベルクに本拠をおくシュトライヒャーのドイツ社会主義党Deutsche Sozialistische Parteiや北部ドイツの反ユダヤ主義の小政党を吸収合併し,党員数は23年10月までに5万6000人に達した。しかし党組織は,基本的にはミュンヘンを中心とするバイエルンにまだ限られていた。この当時,ナチスの激烈な反マルクス主義,反ユダヤ主義,反ベルサイユ条約の宣伝は,一部の労働者の支持を獲得できたが,第1次世界大戦後の混乱の中で経済的にも心理的にも窮迫した中間層(手工業者,商人,ホワイトカラー)や失業軍人の間に大きな共鳴盤を見いだした。19年から23年のナチス党員における労働者の比率は21.7%であったのに対し,中間層は68.5%であった。権力獲得の方策としては,議会選挙への参加を拒否して突撃隊を強化し,バイエルン国防軍や民間の準軍事団体と提携してクーデタによる権力奪取の構想に専念した。23年1月フランス軍のルール占領以後には突撃隊の武装は,レームを仲介とするバイエルン国防軍の援助で強化された。同年秋ごろ突撃隊は棍棒や鞭に代わり小銃,機関銃,大砲を具備した本格的な戦闘部隊にまで成長した。同年11月ヒトラーはルーデンドルフとともにミュンヘン一揆を企てたが失敗,ナチスと突撃隊は禁止され,ヒトラー自身も24年4月1日に5年間の禁固刑に処せられた。
党の組織化・大衆化
ヒトラーの入獄中,ナチスは〈大ドイツ民族共同体〉(エッサー,シュトライヒャー),〈国民社会主義解放運動〉(ルーデンドルフ,G. シュトラッサー,フェーダー),〈戦線命令隊〉(レーム)の三つのグループに分裂した。この対立の結果,24年7月ヒトラーはいっさいの党指導からの引退を表明し,同年12月末ヒトラーは釈放され,25年2月にナチスを再建。議会を通じての合法的な権力獲得へと戦術を転換する。26年11月突撃隊も再建,ただし武器の携行は禁止された。このような戦術転換は,ヒトラーとルーデンドルフ,レームとの分裂を招いた(レームは1931年1月突撃隊幕僚長として復帰)。ヒトラーの入獄中に独自な行動の気風を身につけた北部・西部ドイツのナチス指導者たちは,G.シュトラッサーを中心に25年9月〈ナチス北部・西部ドイツ大管区指導者労働共同体〉を結成,同年11月と翌26年1月の2回にわたりハノーファー会議を開催,20年2月の25ヵ条綱領にとって代わるシュトラッサー起草の綱領草案を審議した。これに対しヒトラーは26年2月南部ドイツのバンベルクに会議を開催,北部・西部のナチス有力指導者の動きを封じこめるのに成功,同年5月ミュンヘンの党員総会で25ヵ条綱領の不変更を宣言して今後の綱領問題の討議を禁止し,また〈指導者原理〉を再確立した。
ナチスは25年から32年にかけて,全国指導部を頂点として大管区,管区,支部,細胞,ブロックへと下降する党組織を整備した。これと並行してドイツ幼年団,ドイツ少女団,ヒトラー青年団,ナチ学生同盟,ナチ婦人団,ナチ教師同盟,ナチ・ドイツ医師同盟,ナチ・ドイツ法律家同盟,ナチ官吏同盟,ドイツ文化擁護同盟などの年齢別,性別,職業別の付属組織を樹立して党の大衆化に尽力した。また30年9月までに機関紙《フェルキッシャー・ベオバハターVölkischer Beobachter》や《絵入りベオバハター》をはじめとして,六つの日刊紙と43の週刊紙,《国民社会主義通信》や《国民社会主義月報》などの定期刊行物,《国民社会主義文庫》などの双書を発行してナチズムの理念の普及に努めた。32年までにナチス新聞は,121種類に達した。さらにナチスは,宣伝の際にいち早くマイクロホン,ラウドスピーカー,演説を吹き込んだレコード,演説者を迅速に移動させるため自動車,飛行機など最新の技術を駆使した。32年春の大統領選挙戦でヒトラーがユンカースD1720型の飛行機で6日間に21の都市を訪問したことは名高い。ヒトラーは,選挙戦に飛行機を利用したドイツで最初の政治家であった。
28年5月の国会選挙に参加,得票率は2.6%に止まる。この選挙で伸び悩んだ結果,ナチスは宣伝の重点を従来の工業都市,大都市から,あらたに農村へと置きかえる。29年8月右派勢力の国家人民党(フーゲンベルク),鉄兜団(デュスターベルク,ゼルテ)とともにヤング案受入れ反対闘争を組織し,29年秋以降,経済恐慌が深刻化する中で,主として都市ならびに農村のプロテスタント中間層の間に勢力を浸透させるのに成功する。その際,ナチスの戦術として特徴的なのは,既存の農業,手工業,商業,ホワイトカラーの利益団体の下部組織に浸透し,これらの団体の上部指導機関をナチスの影響下に置くことであった。ドイツ最大の農業利益団体である〈全国農村同盟Reichslandbund〉の場合,31年12月に4人の会長のうち1人にナチス党員が就任,小売商人の利益団体〈ドイツ小売商中央共同体Hauptgemeinschaft des deutschen Einzelhandels〉の中央事務局には32年11月にナチス系の組織〈百貨店,消費組合に反対する闘争共同体Kampfgemeinschaft gegen Warenhaus und Konsumverein〉の代表者が入りこみ,〈北西ドイツ手工業者同盟Nordwestdeutscher Handwerksbund〉の場合には31年末,第2議長の地位にナチス党員が就任した。ホワイトカラーの利益団体〈ドイツ国家商店員連盟Deutschnationaler Handlungsgehilfen-Verband〉の場合,31年末に国会から地方自治体レベルの議会に至るまで,この連盟の支持を受けたナチスの議員が他の政党をしのいで201人を数え,最多数を占めていた。そしてナチスは,一方ではこれらの中間層に各自の利益を徹底的に叫ばせ,他方では利益貫徹の前提として議会主義体制と多党政治の排除という共通の目標を提示。この二重戦略にナチス成功の秘訣があった。さらにナチスは31年1月に全国指導部内に全国経営細胞部を設置し,この年秋以降,〈経営の中へ入れ〉というスローガンのもとに労働者の獲得をねらったが,社会民主党,共産党の厚い壁にはばまれ,大きく浸透することができなかった。ただしナチス党員の間では,労働者は1/3強の比率を占めていた。
政権の掌握
このような活動に支えられて,ナチスは1930年1月にはチューリンゲン邦の内閣に最初の閣僚としてフリックを送りこみ,同年9月の国会選挙で第二党の地位へと躍進したあと,32年7月の国会選挙では第一党へと進出し,また党員数も上昇した。この間,31年10月にワイマール議会体制に反対する〈ハルツブルク戦線〉を右派勢力とともに結成し,工業界,農業界,軍部などの重要人物と提携を深めた。経済界からは,とくにルールの大工業家ティッセン,銀行業の有力者H.G.シャハトの支持を受ける。32年1月27日ヒトラーは,デュッセルドルフの工業クラブで演説,民主主義,マルクス主義排撃を強調して,工業家たちに感銘を与えた。同年春ヒトラーは,大統領選挙戦に立候補,3月の第1回投票で30.2%,4月の第2回投票では36.6%を獲得したが,ヒンデンブルクに敗れた。他方で同年3月のオルデンブルク邦の地方議会選挙でナチスは絶対多数の議席を占め,4月のプロイセン邦の選挙では第一党の地位に進出。同年7月の国会選挙後ヒトラーは,パーペン内閣に副首相として入閣を要請されたが,首相への任命に固執して,これを拒否した。11月の国会選挙で34議席を喪失,党勢の躍進にかげりをみせ始めた。また深刻な資金難に直面し,さらに12月はじめシュライヒャー首相によるG.シュトラッサー入閣をめぐる画策のため党内危機に見舞われるが,ヒトラーの指導力により,これを乗り切る。33年1月4日ケルンにおけるヒトラー・パーペン会談でヒトラー入閣への手はずが整えられ,1月15日のリッペ邦の地方議会選挙に党の全力を傾注,党勢再躍進の印象をかきたてるのに成功する。ナチスを反議会主義,反マルクス主義の方向で利用する思惑をいだく工業界,農業界,軍部の重要人物の支援を受け,1月30日パーペン,国家人民党(フーゲンベルク),鉄兜団(ゼルテ)などの右派勢力と連合して,ヒトラーが内閣を樹立した。国会放火事件を契機に,同年3月には全権委任法を制定,一党独裁体制を確立し,みずからの支配体制を〈第三帝国〉と称した。
ナチズムの影響
北欧においては,スウェーデンに,1926年に〈ファシスト闘争団〉が結成され,29年〈国民社会主義人民党〉と改称。ナチスの突撃隊と類似の制服を着用,また類似の綱領を制定した。デンマークでは,30年に〈デンマーク国民社会主義労働者党〉が結成され(指導者はクラウセン),その突撃隊は褐色の制服を着用,ナチスの25ヵ条綱領をほぼ全文,借用した。ノルウェーにおいては,33年5月クビスリングが〈国家統一党〉を創立,反マルクス主義,反ユダヤ主義をとなえ,階級闘争と政党政治の絶滅を強調。42年はじめ,第2次世界大戦中のドイツ軍占領下にクビスリングは首相に就任,また突撃隊の充実に努力した。
西欧においては,ベルギーに,ドグレルの率いる〈レクシスト〉があり,政党政治を攻撃,中間層の支持を基盤に,36年5月の議会選挙で200議席中,21議席を一挙に獲得,注目をあびた。オランダには,31年ムッセルトAnton Adriaan Mussert(1894-1946)により〈国民社会主義運動〉が結成され,黒シャツ着用の防衛隊も出現した。37年5月の議会選挙で4議席を獲得。ドイツ軍占領下でムッセルトはオランダ民族の〈指導者〉に任命された。イギリスでは,32年10月モーズリーOswald Ernald Mosley(1896-1980)により〈イギリス・ファシスト同盟〉が結成され,反マルクス主義,反ユダヤ主義をとなえ,黒色の制服着用の〈ファシスト防衛隊〉による派手な街頭宣伝が展開され,34年時点では大きな注目をひくのに成功した。フランスには,30年代に指導者原理を掲げ,制服を着用し,旗をかざして行進するピュカール指導の〈フランス主義党〉やナチス・ドイツとの協力を主張するデアの〈国家人民連合〉が活躍した。
中欧では,スイスに31年T.フィッシャーに率いられた〈ナチス・スイス人同盟〉が出現。議会主義,民主主義に反対し,全ドイツ的鉤十字運動を主張した。チェコスロバキアとオーストリアには,30年代後半にヘンラインが率いる〈ズデーテン・ドイツ党〉,ザイス・インクワルトが率いる〈オーストリア・ナチス〉が活躍した。
南東欧においては,ギリシアに〈ギリシア国民社会主義党〉があり,ブルガリアには,ナチスを模倣して32年にクンチェフにより〈国民社会主義ブルガリア労働者党〉が樹立されるが,いずれも発展しなかった。ユーゴスラビアでは,34年11月ナチスに強い共感を寄せる〈ユーゴスラビア民族運動連合〉が誕生,党員は右手をあげて敬礼し,古代スラブ社会のシンボルであるクロウタドリの徽章を着用。これとは別にクロアチアには,〈ウスタシャ運動〉があり,その指導者A.パーベリチは41年4月政権を樹立,深緑色の制服を着用する運動の行動隊を結成していた。ハンガリーでは,32年はじめバサルメーニイによって〈国民社会主義ハンガリー労働者党〉が創立され,運動のシンボルとして鎌十字を採用。まもなく,この党からフェチェティチの率いる〈ハンガリー国民社会主義労働者・農民党〉が分裂して成立し,矢十字をシンボルとして掲げ,党員は緑色の制服を着用した。さらにF.サーラシが35年に〈国民の意志・ハンガリー主義運動党〉を創立,同じく緑色の制服と矢十字のシンボルを採用した。全体主義,反ユダヤ主義を標榜し,39年夏の総選挙で大きく躍進した。ルーマニアでは,激烈な反ユダヤ主義を掲げる〈大天使ミカエル軍団〉がコドレアヌCorneliu Zelea Codreanu(1899-1938)により結成され,団員は緑色の制服を着用した。この運動から30年に〈鉄衛団〉が成立する。37年11月の総選挙で躍進,第三党の地位に進出し,翌38年コドレアヌは政府により射殺された。彼はヒトラーに強い親近感をいだいていた。
日本では,1938年にA.ローゼンベルクの《20世紀の神話》が翻訳されたのをはじめ,ナチスの農本主義の主張者ダレーの《血と土》(1941),ヒトラーの《わが闘争》(上・下,1942)などが翻訳,出版されている。
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