昭和十六年(一九四一)十二月八日から二十年八月十五日まで、日本と中国・アメリカ・イギリス・オランダなど連合国との間にたたかわれた戦争。国際的に見れば第二次世界大戦の一環であり、日本にとっては昭和六年の満洲事変以来の対中国侵略戦争の延長である。ただしこの戦争に対する当時の日本政府側の呼称は「大東亜戦争」であって、開戦二日後の十六年十二月十日大本営政府連絡会議は、「今次の対英米戦争及今後情勢の推移に伴ひ生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定し(十二日閣議決定)、その範囲と意味について、十二月十二日に内閣情報局は、「大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表した。しかし「大東亜戦争」という呼称は、「大東亜共栄圏」という虚名をかかげてアジアに対する侵略戦争を美化しようとするもので適当でなく、占領直後GHQの命令で使用を禁止され、政府も太平洋戦争という呼称を使った。はじめアメリカ側によって使用された太平洋戦争Pacific Warという呼称は、この戦争が中国をはじめアジア大陸における戦争をふくんでいる点からは必ずしも正確ではない。しかし「大東亜戦争」という呼称の復活が侵略戦争を肯定しようとする政治的立場から主張されていることを考慮すれば、日中戦争につづくこの時期の戦争を太平洋戦争と呼ぶのは、一般化しており適当であろう。
〔戦争の原因〕
昭和十二年七月七日の盧溝橋事件に始まる日中両国間の全面戦争は、たやすく中国を屈服させ得るとした日本政府や軍部の期待に反して拡大の一途をたどった。日本の侵略に抵抗する中国の抗日民族統一戦線の成立と、中国軍民の粘り強い抗戦によって、戦争は長期持久戦の様相を呈した。十三年の武漢・広東作戦以後、日本軍の戦線は伸び切って占領地の点と線を維持するだけになった。このため軍事的勝利によって戦争を解決する目途はなくなり、政治的謀略による和平工作も成功せず、戦争は長期戦の泥沼におちこんでいった。戦争の拡大と長期化は、日本の国内経済に大きな影響を与え、資金・資源・労働力の不足が深刻になった。すべてを軍需生産に集中する国家総力戦体制をつくり上げたが、国民生活は食糧・衣料・日常生活必需品をはじめとするあらゆる物資が欠乏し、窮迫の一途をたどった。こうして中国侵略戦争は日本にとって大きな負担となり、何らかの方法による解決の途を探すことに日本の支配者は焦慮していたのである。昭和十四年九月ドイツのポーランド侵入をきっかけに、イギリス・フランスとドイツとの間で第二次世界大戦が始まった。日中戦争解決になやむ日本にとって、ヨーロッパの新しい情勢は、局面打開の転機と映った。翌十五年四月、ノルウェー・デンマークを占領したドイツは、五月西部戦線で攻勢に出て、オランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵入し、英仏連合軍をダンケルクに包囲して海上に撤退させ、六月フランスを降伏させた。このドイツの電撃的な勝利は、日本の政府や軍部に大きな衝撃を与えた。イギリスの敗北も間近だと予想した日本は、仏領インドシナ・蘭領インドネシア・英領マレーなどの東南アジアの植民地を、ドイツの勝利に便乗して占領し、その豊富な資源を入手して行きづまった戦争経済を解決し、さらには日中戦争の政治的解決をももたらそうとしたのである。そして南進政策への転換と戦争体制の強化をはかるため、十五年七月二十二日新体制確立をかかげる第二次近衛内閣を成立させ、武力を使用して南方進出をはかるという国策を決定した(七月二十七日)。その第一歩として、敗戦のフランスに迫って十五年九月二十二日仏領インドシナ北部への日本軍の進駐を承認させ(北部仏印進駐)、同じ九月二十七日にドイツ・イタリアとの間に軍事同盟を結んで、ファシズム陣営の三国枢軸を結成した。日本の南進とドイツへの接近はアメリカを刺激し、アメリカは対日警告のため、石油・屑鉄を輸出許可制にした(十五年八月一日実施)。このため日米関係は緊張したが、石油や鉄をアメリカに依存している日本にも、戦争準備の不十分なアメリカにも、国交調整への希望があり、十六年四月十六日からワシントンで日米間の交渉が開始された。しかし中国からの日本軍の撤兵を要求するアメリカと、撤兵を絶対に譲らないとする日本との間に交渉妥結の可能性は少なかった。この間にヨーロッパでは、十六年六月ドイツのソ連への攻撃によって新たな局面が生まれた。独ソ戦を絶好の機会と見た日本の支配者の中では、ドイツに呼応してソ連への攻撃を行うべきだという北進論と、南方進出をつづけるべきだとする南進論とがおこったが、十六年七月二日の御前会議では、好機がくれば武力解決をはかるため対ソ戦争準備を進め、一方では戦争を辞さない決意で既定の南進政策を進めるという南北併進策が決定された。そして日本の期待したソ連の敗北が簡単におきないため、九月六日の御前会議では、アメリカが日本の要求を容れなければ対米英戦争を決意するという決定を行なった。このように日中戦争の行きづまりからその打開の途を南方進出に求めてアメリカと対立したことが対米開戦の原因となったのである。
〔開戦の経緯〕
中国との戦争にさえ行きづまっているのに、その上に対ソ戦争を準備しつつ、なおかつ国力・生産力に圧倒的な差のあるアメリカに対して開戦するというのは、日本の指導層にとっては容易ならぬ決断だったはずである。しかし対米戦に不安を抱いていた海軍は、開戦反対を明言せず、一方日中戦争の主役であった陸軍は中国からの撤兵に反対したため、日米交渉妥結の可能性は遠のいた。昭和十六年十月十六日対米開戦に自信をもてない近衛内閣は総辞職し、交渉継続を主張する近衛首相に反対して開戦決意を主張していた東条英機が十月十八日後継内閣を組織した。東条内閣は一旦国策を再検討したが既定方針を変更せず、十一月五日の御前会議で、十二月初旬の開戦を準備し、それまで甲乙二案で交渉をつづけるという決定を行なった。日本側の甲乙二案をアメリカ側が受け容れる余地はなく、十一月二十六日ハル米国務長官は日本案を拒否し中国からの撤兵を要求する「ハル=ノート」を野村吉三郎駐米大使に渡した。すでに開戦に対して日本陸海軍は行動をおこしていたが、「ハル=ノート」を最後通牒と認めて、十二月一日の御前会議で既定方針通りに開戦を決定した。海軍に勝算がない上に、国力の差が大きく、政府も大本営も対米戦争の勝利の確算はもちろんなかった。それにもかかわらず開戦に踏み切ったのは、戦争に向かって国民を引きずってきたのに、急に方針を転換して中国侵略の果実まで捨てては、国内に混乱やクーデター・革命が起るかもしれないという恐怖からであった。敗戦の危険は冒しても、内乱や革命の危険は避けなければならないという支配層の国民不信が、戦争回避の決断をさせなかったのである。また世界情勢の判断の上では、ドイツの勝利に対する過信があった。南方諸地域を占領して日本が持ちこたえていれば、ヨーロッパ戦線でドイツが勝って戦争を終らせるだろうという甘い判断も、日本を開戦に踏み切らせたのである。
〔戦争の経過〕
日本の戦争計画は奇襲による先制攻撃で戦争を始めることを主張していた。十二月八日、開戦劈頭、海軍の機動部隊はハワイの真珠湾米海軍基地を不意打ちに空襲して米艦隊主力の戦艦群を撃破した。陸軍も無通告でマレー半島へ奇襲上陸を行なって戦争を開始した。そして計画通りに開戦後五ヵ月で、フィリピン・インドネシア・マレー・ビルマにわたる東南アジア一帯を占領した。この緒戦の成功は、相手側の準備不十分に乗じて得られたものであった。しかし日本の奇襲攻撃によって、反ファシズム連合国の団結と戦争遂行についての統一が固まった。連合国側の反攻はドイツ打倒を第一とする方針であったが、非重点方面の太平洋でも米軍の反撃はいち早く開始された。昭和十七年六月五―七日のミッドウェー海戦では、日本海軍ははるかに大きな兵力を擁していながら米海軍機の攻撃で主力の航空母艦四隻を沈められ、太平洋における主導権を奪われた。さらに同年八月七日南太平洋ソロモン群島のガダルカナル島に米軍が上陸したことから始まった同島の攻防戦で敗北し(十八年二月)、制海制空権を一挙に失った。それ以後戦線は後退をつづけ、太平洋の島々では退却や降伏を許さない日本軍は「玉砕」という名の全滅をつづけた。昭和十九年六月には、絶対国防圏と名づけて最後の防衛線と定めたマリアナ諸島を失い、同島沖の海戦(六月十九―二十日)で連合艦隊の航空兵力が全滅した。太平洋の戦線が崩壊しつつあるとき、ビルマでもインパール作戦に失敗(七月)したのち、英軍や米中連合軍の攻勢をうけて敗退をつづけていた。中国戦線では開戦後も百万近い陸軍兵力を拘束されており、昭和十九年はじめから大規模な大陸打通作戦を展開したが(十九年四月―二十年二月)、作戦目的を達成できなかった。十九年十月二十日米軍はフィリピンのレイテ島に上陸し、決戦を挑んだ連合艦隊は、全滅的打撃をうけ(十月二十三―二十六日)、もはや米軍の上陸作戦に対応する手段がなくなった。昭和二十年一月九日にはルソン島、二月十九日には硫黄島、四月一日には沖縄本島に米軍が上陸したが、守備軍も住民も見捨てられ、「玉砕」するばかりであった。さらにマリアナ諸島を失ってからは、ここを基地とする米軍の長距離爆撃機B29によって本土を爆撃され、二十年三月九―十日の東京大空襲をはじめ八月までに主要都市のほとんどを焼き払われた。アジアにおける戦局の転換と前後して、ヨーロッパでも枢軸国側の敗退が始まっていた。昭和十八年一月、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が敗北して以来、東部戦線ではソ連軍の反撃がつづいた。十七年十一月英米連合軍が北アフリカに上陸し、さらにシシリー島、南イタリアへの攻勢がつづく中で、十八年九月イタリアが無条件降伏して枢軸陣営から脱落した。太平洋でのマリアナ戦と同時期の十九年六月、連合軍はノルマンジーに上陸し、東西からドイツ軍を挾撃することになり戦局の前途は明らかになった。二十年四月末にはソ連軍がベルリンに突入、ヒトラーは自殺し、五月ついにドイツは完全に潰滅して、日本のみが戦いつづける唯一の国となったのである。太平洋の戦局も国際情勢も不利になると、日本の戦争指導体制にも動揺がおこり、陸海軍の対立や国務と統帥の矛盾がはげしくなった。十九年六月マリアナの敗戦後は、独裁的権限を握って戦争を指導してきた東条首相に対する不満がたかまり、重臣たちが策動して内閣を倒した(十九年七月十八日)。しかしこの倒閣は政策転換の展望をもってのことではなく、後継の小磯国昭内閣も戦争完遂を主張するだけだった。統帥と国務の不一致になやんだ小磯内閣は、強力な指導性を発揮できずに二十年四月の米軍の沖縄本島上陸とともに総辞職した(四月五日)。小磯内閣のあとに成立した鈴木貫太郎内閣も、「聖戦完遂」を唱え、米軍を本土で迎え撃つという「本土決戦」を方針として、最後の決戦体制づくりに狂奔しながら、一方ではひそかにソ連を通じての和平交渉の道をさぐっていた。この間にドイツを敗北させた連合国は、七月にベルリン郊外のポツダムで英米ソ三国首脳会談をひらき、日本に対する降伏勧告として七月二十六日ポツダム宣言を発表した。これに対し鈴木内閣は首相の談話で、「ポツダム宣言を黙殺し戦争に邁進する」とこたえた。アメリカは日本のポツダム宣言拒否を理由にして、完成したばかりの原子爆弾を八月六日広島に投下し、九日には長崎に第二弾を投下した。ソ連も同じ理由で、戦争を終らせるためとし、八月八日日本に対し宣戦を布告し軍事行動を開始した。ソ連参戦直後の八月九日から翌十日早暁にわたる御前会議では、最後に天皇の裁断で国体護持を条件にポツダム宣言を受諾することを決定した。この条件付受諾通告に対する連合国の回答をめぐって八月十四日御前会議は再び天皇の裁断で無条件受諾を決定し、八月十五日天皇自身の詔書放送で国民にこれを知らせた。日本の降伏手続きとしては、九月二日連合国軍最高司令官マッカーサーら連合国代表と日本全権重光葵(まもる)・梅津美治郎との間で、東京湾上の戦艦ミズリーの艦上で降伏文書に調印が行われ、長期間の戦争はようやく終ったのである。
〔戦争体制とその崩壊〕
太平洋戦争は日本にとっては、国力の限界をはるかに超えた大規模な戦争であったから、国内のすべての力を根こそぎ戦争に集中する総動員体制がつくり上げられた。すでに日中戦争中の昭和十三年四月一日国家総動員法が公布されて、政府はあらゆる分野について勅令で統制と動員を行うことができる権限をにぎっていた。そして産業や交通や貿易などの諸分野の統制令がつぎつぎにだされて統制が強化されていたが、十六年八月三十日には重要産業団体令が公布され、政府が指定する重要産業には統制団体をつくって一律に統制のもとにおくことにした。これにもとづき、石炭・鉄鋼・自動車・造船・電機をはじめとする各分野ごとに統制会がつくられ、これが資金・資材・労働力などすべてを統制して、戦争目的遂行のための生産増強につとめることになった。一方非重要産業に対しては、十七年五月十三日に公布された企業整備令にもとづいて徹底的な整備を行い、これを廃業させるか重要産業に転換統合させるかした。こうして民需生産を圧迫整理し、軍需生産へ集中して膨大な軍の需要にこたえる体制をつくった。しかし極端な民需の圧迫、軍需への集中は、かえって必要な基礎生産部門を犠牲にして軍需生産そのものへの圧迫要因となったし、また民需の圧縮は国民生活を苦しめ、労働力の再生産さえ困難にしていった。そして軍需生産自体も、資源の涸渇、輸送の途絶などの理由から、十七、八年をピークにして低下していった。戦局が困難になり、兵器、とりわけ航空機に対する需要はますます大きくなると、陸海軍に分立していた軍需生産を統合するために十八年十一月一日軍需省をつくったが、資金・資材・労働力、さらに製品の分配をめぐる陸海軍の抗争はやまず、航空機の生産そのものさえ質と生産量双方で低下の一途をたどることになったのである。戦時体制は国民に対する動員体制の強化でもあった。十四年七月八日に公布された国民徴用令は、太平洋戦争に入るとその適用範囲を広げ、農村や企業整備によって廃業させられた中小企業から軍需工場へ多数の徴用工を送りこんだ。十九年には女子にまで徴用が実施された。学生・生徒も動員の対象となり、徴兵猶予の廃止、学徒動員の強化がつぎつぎと行われて、学業を捨てて戦場にかりだされるか工場で働かされるかした。思想の統制もいっそう徹底された。開戦直後の十六年十二月十九日、言論・出版・集会・結社等臨時取締法と戦時犯罪処罰ノ特例ニ関スル法律が公布された。言論・思想の統制がいちだんと厳しくなり、戦時下の犯罪に対する罰則が特別に重くなった。十五年十月十二日に結成されていた大政翼賛会は、開戦後の十七年五月に改組されて各種の国民運動組織をすべてその傘下に統合することになった。さらに町内会・部落会・隣組などの隣保組織も翼賛会の指導下にいれられたので、全国民は政府から府県、市町村、部落会、町内会、隣組という上から下への官僚統制の網の目に組み込まれることになった。そして隣組は勤労動員や強制貯蓄の割当てから物資の配給に至るまで国民生活のすべてに介入し、これを監視統制する組織となった。戦争末期の二十年六月には、翼賛会をはじめ既存のいっさいの組織を解体してこれを国民義勇隊に統合して全国民を編入し、さらに義勇兵役法を公布(六月二十三日)して十五歳以上六十歳以下の男子、十七歳以上四十歳以下の女子を国民義勇戦闘隊に編成することにした。全国民を挙げて軍隊化して、軍の指揮下に本土決戦をたたかわせようとする非常態勢をとったのである。しかしこうした戦争への総動員体制は国内の生産を崩壊させた。日中戦争開始後、農村からの軍隊や工場への動員で農業労働力が不足し、肥料や農機具の不足と相まって農業生産が低下し、食糧問題が深刻となっていた。この対策として十七年二月二十一日食糧管理法を公布して米を国家が管理し、生産者からの供出、消費者への配給制をとった。しかしさらにつづく動員、特に二十年に入ってからの根こそぎ動員で農業生産は極度におちこみ、深刻な食糧危機を招いていたのである。工業生産も十八年以降原材料の不足や輸送力の低下からおちこんでいったが、十九年以降は米潜水艦の活動によって南方や大陸との海上交通が途絶し、原料・燃料の欠乏から深刻な事態を招いていた。二十年に入って本土への空襲が激化し、都市の焼失、港湾の機雷封鎖などから国内の交通も困難となった。このため戦争経済の面からも戦争遂行能力は失われていった。敗戦の時点ではもはや国内の経済状態は軍需生産はおろか、国民の最低生活すら維持できなくなっており、敗戦直後の飢餓地獄を生みだす原因をつくりだしていたのである。
〔戦争の結果〕
この戦争は、日本歴史上最大の惨禍をもたらした。軍人や一般国民をふくむ人命の被害だけで、三百万人を超えている。原爆の死者のように正確な統計を欠き、戦後四十年近くたってもまだ原爆症による死者がつづいていたり、外地に残留した生死不明者があったりして、死者の数は二百五十万人から三百二十万人までの諸説があるが、日本の経験した戦争被害としては他に類例を見ない莫大な数である。またこの戦争では、対外戦争としてははじめて日本国内が戦場となった。二十万の県民の生命が失われ全島の焦土化をもたらした沖縄戦の場合や、原爆の犠牲となった広島・長崎、十万人以上の焼死者をだした東京をはじめ全国の空襲被災都市など、一般国民が直接戦禍を蒙ったことに特徴があった。生命を失ったり、家を焼かれたりしたほかにも、国民の戦争による被害は莫大であった。この戦争の膨大な戦費は、そのほとんどを戦時公債にたより、昭和十二年から二十年までの八年間に一千七百億円を上回る公債を発行し、それを強制割当てで消化した。この間国民は職場や隣組を通じて貯金を強制され、公債を押しつけられた。しかし軍需会社への支払い、戦争直後の軍需補償で莫大な紙幣が発行されインフレーションが進んだから、これらの貯金通帳や公債は紙きれ同然の値打ちしかなくなった。国民は戦争のためにその財産と収入とを絞られるかぎり絞りとられ、貧困化したということができる。こうした日本国内の被害ばかりでなく、日本の侵略戦争がアジア諸国民に与えた被害がきわめて大きかったことにも注目しなければならない。とりわけ満洲事変以来十四年間、日中全面戦争の開始からでも八年間、主要な戦場とされた中国の被害は大きなものであった。これも正確な統計はできていないが、一つの例として、台湾での最近の研究の数字をあげると、軍人の死傷者約四百万人、民間人の死傷者約二千万人、戦火に追われて流亡した者(流離失所者)約一億人とされている。この他に放火、破壊や略奪、暴行による被害も大きく、日本軍の侵略にさらされたことによる惨禍は、はかり知れないほどのものがあった。中国以外の地域でも、虐殺事件が問題とされたシンガポールやマニラの例をはじめ、殺害、掠奪、強制労働の賦課など、「大東亜共栄圏」と称していながら、これら東南アジアの諸民族に与えた損害も大きかったのである。さらに戦時中は日本の植民地であった朝鮮や台湾では、「皇民化政策」の名のもと、民族固有の文化や言語までも否定して、住民を戦争に動員した。補助的な兵士として徴兵したり、強制労働者として連行したり、女性までも慰安婦として戦場に送り民族的屈辱を与えたり、戦争の期間に日本が与えた犠牲はきわめて大きなものがあった。またこのほか日本軍がかずかずの残虐行為を行なったことも、アジア諸民族の拭い難い記憶として残されている。日本国民は戦争の被害者であるとともに、加害者であることも、この戦争の特色の一つであった。戦争が大規模で深刻であったから、国内におけるその影響も大きかった。強力な国家体制のもとで、戦争経済を遂行し、すべてを軍需生産に集中した中で、軽工業から重化学工業への転換が強引に進行した。また中小企業を整備し、大企業への集中と独占が進んだ。重化学工業への転換と国家独占資本主義体制の確立が、戦争の中で行われていたのである。さらに戦争の需要にこたえ食糧増産をはかる必要から、食糧の国家管理を行なったが、これは直接生産者から米を買い上げることにより、地主の地位の低下、小作農民の地位の向上をもたらし、農地改革の前提条件をつくり上げることになった。戦時中の労働力不足から、女性が大量に職場に進出したことや、動員や徴用、疎開や戦災などで住居に大きな変動がおこったこと、さらに深刻な食糧難の影響などで、旧来の家父長的家族制度に大きな変化がおこっていた。戦後改革による男女同権、家族制度の近代化の前提条件が成熟しつつあったのである。一方戦時動員体制の中で、地域における旧来の有力者秩序にも変化がおこり、人口の移動によって既成政党の地域における地盤も変わっていった。思想や文化の面での戦争の影響も大きかった。特に敗戦によって従来の価値観が一挙に崩壊したことが、民衆思想に与えた影響ははなはだしかった。
〔戦争の史的意義〕
この戦争は、日本と中国との関係から見れば、日本帝国主義の中国侵略戦争であることは明らかである。日本は日露戦争の結果、中国国土の一部である満洲(中国東北)に利権を獲得し、さらに第一次世界大戦に乗じて山東省のドイツの利権を継承し、中国に対して二十一箇条の帝国主義的要求をつきつけた。その後の日本の対中国政策は、基本的にはこの帝国主義権益の擁護と拡張であり、満洲事変では武力で満洲を占領し、日中全面戦争以後は中国全体の支配をめざして戦ったのであった。太平洋戦争はこの中国侵略戦争の延長、拡大であった。これに対し中国は、日本の侵略に抵抗し、民族の独立を守るための解放戦争をたたかったのであった。しかし日本とアメリカとの戦争という面から見ると、中国の支配権をめぐる日米両帝国主義国間の帝国主義戦争という性格が強かった。日露戦争・第一次世界大戦と、日本の中国に対する軍事的政治的進出がつづくと、アメリカは日本の独占支配がアメリカ資本の経済的進出を妨げることを恐れ、門戸開放・機会均等を要求した。第一次世界大戦後は中国をめぐる日米間の対立はいっそう深まり、これが戦争の遠因をつくっている。この点からいえば、日米間の戦争は日米両帝国主義の中国をめぐる争覇戦だったのである。しかし第二次世界大戦は、世界再分割をめざす帝国主義戦争であった第一次世界大戦とは異なった性格をもっていた。それはファシズムの侵略に対し民主主義を防衛するという反ファシズム戦争という性格である。独ソ戦が始まり、日米間の対立が激化しつつあった昭和十六年八月、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋上で会談し、ファシズムの打倒をうたった米英共同宣言(大西洋憲章)を発表し、ソ連など十五ヵ国がこれに参加した。さらに日本が参戦したのちの昭和十七年一月一日、ワシントンで連合国二十六ヵ国が、大西洋憲章の原則を確認し、単独不講和を約した連合国共同宣言に調印した。それはこの戦争が、領土や賠償金を目的とした帝国主義戦争ではなく、平和と民主主義を守るための反ファシズム戦争であることを明らかにしたものであった。この原則は昭和二十年六月二十六日サンフランシスコで連合国代表が戦後世界の平和維持のため採択した国際連合憲章にも、同年七月のポツダム宣言にも貫かれている。このことがこの戦争をこれまでの戦争と区別する大きな意義であり、戦後の日本をも規定することになったのである。また日本にとって、この戦争と戦後改革とは、歴史上の大きな画期となっている。政治・経済をはじめ、社会や文化の面に生じた変化は、近代における明治維新に匹敵するほど大きなものがある。戦前と戦後とはもちろん連続した面も多いが、一面ではまったく違った時代といってよいほどの断絶があり、戦争のもった意義は大きいのである。それは人権と自由を尊重し、平和を基本国策とする民主主義国家としての日本の出発のための苦難でもあったのである。
なお、この戦争における個別の戦闘・作戦のうち以下のものについては、その項目を参照。昭和十六年―真珠湾攻撃、フィリピン作戦、香港攻略作戦、マレー沖海戦。昭和十七年―蘭印作戦、ビルマ作戦、珊瑚海海戦、折
(せっかん)作戦、ミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦、ソロモン海戦。昭和十八年―アッツ島の戦。昭和十九年―インパール作戦、大陸打通作戦、サイパン島の戦、マリアナ沖海戦、比島沖海戦。昭和二十年―硫黄島の戦、沖縄の戦。
→極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん),→近代(きんだい),→軍事費(ぐんじひ),→原爆投下(げんばくとうか),→小磯内閣(こいそないかく),→降伏文書(こうふくぶんしょ),→近衛内閣(このえないかく),→終戦工作(しゅうせんこうさく),→終戦の詔書(しゅうせんのしょうしょ),→鈴木貫太郎内閣(すずきかんたろうないかく),→戦災(せんさい),→戦時経済体制(せんじけいざいたいせい),→戦時体制(せんじたいせい),→宣戦の詔書(せんせんのしょうしょ),→占領体制(せんりょうたいせい),→総力戦(そうりょくせん),→ソ連の対日参戦,→大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん),→第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん),→中国人強制連行問題(ちゅうごくじんきょうせいれんこうもんだい),→朝鮮人強制連行問題(ちょうせんじんきょうせいれんこうもんだい),→東条内閣(とうじょうないかく),→南進論(なんしんろん),→日独伊三国同盟(にちどくいさんごくどうめい),→日米交渉(にちべいこうしょう),→日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく),→日中戦争(にっちゅうせんそう),→ハル=ノート,→仏印進駐(ふついんしんちゅう),→平和運動(へいわうんどう),→北進論(ほくしんろん),→ポツダム宣言,→満洲事変(まんしゅうじへん)
[参考文献]
歴史学研究会編『太平洋戦争史』、家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店『日本歴史叢書』)、藤原彰『太平洋戦史論』、木坂順一郎『太平洋戦争』(『昭和の歴史』七)
(藤原 彰)
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1941年12月8日から45年9月2日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
戦況
戦争の原因
太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第3段階にあたり,かつ第2次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。満州事変と日中戦争は,ともに日本の中国に対する侵略戦争であったが,日中戦争は軍部の短期終結の予想に反し,抗日民族統一戦線を基礎とする中国側の強力な抵抗により泥沼の長期戦となった。その間1939年9月1日に第2次世界大戦が勃発し,ドイツは40年6月までにオランダ,フランスなどを降伏させた。ドイツの勝利は,軍部を中心とする日本の支配層のなかに東南アジアへの侵略の気運を高めた。40年7月26~27日第2次近衛文麿内閣は,軍部と協議のうえ,〈大東亜新秩序の建設〉,〈国防国家体制〉の完成,南方武力侵略,日独伊三国同盟締結,対ソ国交調整,対米強硬方針の堅持などの政策を決定した。これらの政策は,9月22日の北部仏印(ベトナム北部)進駐によるハノイ~重慶間の援蔣ルートの切断と東南アジア侵略の軍事基地の確保,9月27日の日独伊三国同盟締結によるファシズム枢軸の形成,10月12日の大政翼賛会結成による天皇制ファシズムの成立,41年4月13日の日ソ中立条約締結による北守南進態勢などとなって実現された。これら一連の政策は,日本が米英への依存という明治以来の伝統的政策を放棄し,米英との敵対へと基本方針を転換したことを意味していた。とくに北部仏印進駐は,日本とアメリカ,イギリス,オランダとの対立を激化させ,アメリカは石油や屑鉄の対日輸出制限や中国への援助を強化し,イギリスやオランダもこれにならった。さらにアメリカを主敵とする日独伊三国同盟の締結は,アメリカを刺激しただけでなく,ヨーロッパの戦争と日中戦争とを結びつけ,二つの戦争を文字どおりの世界戦争に発展させる可能性を一挙に高めた。
開戦への道
1941年4月16日,第2次近衛内閣は日米関係の改善をめざし,ワシントンで日米交渉を開始した。近衛首相らは,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた〈日米了解案〉を基礎に交渉を進めたが,松岡洋右外相の反対にあい,交渉は難航した。6月22日に独ソ戦が勃発すると,日本は7月2日の御前会議で南北併進の方針を決定し,陸軍は7月下旬から,〈関東軍特種演習(関特演)〉を実施してソ連を後方から威嚇した。しかし,年内にソ連が敗北する可能性がなくなったため,陸軍は8月9日に年内の対ソ攻撃計画を中止し,ここに日本の方針は南進一本にまとまった。その間対米強硬論者の松岡外相を罷免するため,第2次近衛内閣は7月16日総辞職し,7月18日第3次近衛内閣が成立した。しかし陸軍が7月28日に南部仏印進駐を強行したため,アメリカは日本の在外資産の凍結と石油の対日禁輸という経済制裁で対抗し,イギリスとオランダもこれに同調した。これらは資源小国日本の弱点を痛撃した措置であり,これに反発した軍部のなかに強硬論が高まり,9月6日の御前会議では,10月下旬を目途に戦争準備を完了し,かつ10月上旬までに日本の対米要求がとおらなければ開戦を決意するという期限付き開戦が決定され,日米交渉は行き詰まった。この状況下で近衛首相は総辞職の道を選び,10月18日に主戦論の東条英機内閣が成立した。そして11月5日の御前会議で12月初頭の開戦が決定され,日本は11月26日に提示されたアメリカ側のハル・ノートを最後通牒と受けとり,12月1日の御前会議で8日の開戦を正式に決定した。
これに対し米英両国首脳は,41年8月12日に領土不拡大,政治形態の自由選択権の尊重,平和の確保,侵略国の武装解除などを定めた大西洋憲章に署名し,9月24日にはソ連など15ヵ国が参加を表明した。ついで太平洋戦争勃発直後の42年1月1日,米英ソ中4ヵ国代表は,自由と人権の擁護,ファシズム諸国の打倒などを内容とする連合国共同宣言を発表した。これにはのちに52ヵ国が参加し,ここに反ファッショ連合が正式に結成された。
戦争目的と戦争の経過
1941年12月8日,日本は英領マレー半島コタ・バルへの奇襲敵前上陸とハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争へ突入し,戦争は文字どおりの世界大戦に発展した。宣戦の詔書や政府声明に示された日本の戦争目的は,〈自存自衛〉と〈大東亜共栄圏建設〉の二つであったが,アジアを白人帝国主義の支配から解放し,日本を盟主とする〈大東亜共栄圏〉を建設するというスローガンは,現実には日本が中国と東南アジアを侵略し勢力圏化するためのものとして機能することになり,10日東条内閣は今次の戦争を〈大東亜戦争〉と呼称することを決定した(声明は12日)。
戦争の経過を軍事史の観点から時期区分すると,大要次のとおりである。
(1)1941年12月8日~42年8月(日本軍の戦略的攻勢と連合国軍の戦略的守勢の時期) 日本軍は12月8日の真珠湾攻撃と10日のマレー沖海戦によって米英の戦艦群に大打撃をあたえ,東南アジアの各地を急襲して太平洋の制海権と制空権を掌握した。そして42年1月2日マニラ,2月15日シンガポール,3月8日ラングーンを占領し,3月9日ジャワ島のオランダ軍を降伏させるなど,日本軍は開戦後約半年のあいだに東はギルバート諸島とソロモン諸島から西はビルマ(現,ミャンマー)にいたる広大な地域を占領した。一方,連合艦隊は5月7~8日の珊瑚海海戦では優勢勝ちを収めたが,6月5日のミッドウェー海戦で4隻の主力空母を撃沈され,太平洋正面の制海権と制空権を失った。
(2)1942年8月~43年2月(連合国軍の反撃と日本軍の戦略的持久の時期) 8月7日連合国軍がガダルカナル島へ上陸し,以後約半年にわたり同島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開された(ガダルカナル作戦など)。国内の生産が消耗に追いつかず,制空権を奪われた日本軍は補給に苦しみ,多大の兵員と艦船および航空機を失い,43年2月7日ガダルカナル島を放棄した。同じ2月,ソ連軍がスターリングラードでドイツ軍を降伏させ,これら二つの戦いが第2次世界大戦の勝敗を分ける決定的な転換点となった。
(3)1943年2月~44年10月(連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の戦略的守勢の時期) ソロモン諸島を奪還した連合国軍は,ニューギニア北岸からフィリピンをめざすコースと,ギルバート諸島からマーシャル,カロリン,マリアナの各諸島を攻略する中部太平洋コースの二手に分かれて大攻勢を開始した。補給を断たれた孤島の日本軍守備隊は,43年5月29日のアリューシャン(アレウト)列島アッツ島守備隊を皮切りに,相次いで全滅し,大本営はこれを〈玉砕〉と発表して美化した。9月30日,大本営は千島,小笠原,内南洋中西部,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマを含む地域に〈絶対国防圏〉を設定したが,44年6月19~20日のマリアナ沖海戦での惨敗と7月8日のサイパン島失陥によって〈絶対国防圏〉構想は破綻した。東条内閣は重臣を中心とする東条打倒運動によって総辞職に追い込まれ,7月22日に小磯国昭内閣が成立した。その間の43年9月8日,イタリアが降伏し,ファシズム枢軸の一角が崩れた。ついで44年6月6日,連合国軍はフランスのノルマンディー上陸作戦を敢行して第二戦線を結成し,東方から迫るソ連軍とともにドイツを挟撃する態勢をとった。一方44年3~7月に強行されたビルマとインドにまたがるインパール作戦は惨敗に終わり,44年4月~45年4月に約50万名の兵力を動員した大陸打通作戦は,国民政府軍に大打撃を与えたが,中国を屈服させることはできなかった。
(4)1944年10月~45年9月2日(連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の絶望的抗戦の時期) 連合国軍はフィリピンから沖縄をへて日本本土へせまり,同時にサイパン島などを基地とするB29による爆撃によって日本を壊滅させるという戦略をとった。44年10月20日,連合国軍はフィリピン南部のレイテ島へ上陸し,日本の連合艦隊は24~25日のフィリピン沖海戦で壊滅状態に陥った(レイテ湾海戦)。25日日本軍ははじめて神風特別攻撃隊をレイテ島沖へ出撃させたが,それは日本軍の絶望的抗戦を象徴する戦術であった。その後連合国軍は,45年6月までにフィリピン全島を奪回,45年3月17日には硫黄島守備隊を全滅させ,4月1日には沖縄本島へ上陸した。約3ヵ月にわたる沖縄戦では,多数の県民や学生が義勇隊,防衛隊,鉄血勤皇隊,ひめゆり部隊などに組織され,戦闘に参加して死傷し,多くの県民が戦闘の巻添えにされて死傷した。また日米両軍による県民虐殺事件が多発し,約800名(1000名以上ともいわれている)が日本軍によって殺害された。その間44年11月からはB29による都市の爆撃が始まり,45年7~8月の米戦艦による艦砲射撃をもあわせ,147以上の市町が被害を受けた。45年4月7日,小磯内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が成立したが,5月8日にはドイツが降伏し,日本は独力で戦争を継続した。ついで連合国軍は5月にビルマ,7月にボルネオを奪還,中国でも5月以降国民政府軍と中国共産党軍の反撃によって日本軍の後退がつづいた。そして8月6日広島,9日長崎への原爆投下,8日のソ連の対日宣戦布告と9日からの対日参戦を経て日本は14日にポツダム宣言を受諾して降伏した。
戦時体制と社会状況
天皇制ファシズムの確立と崩壊
すでに1940年10月12日に大政翼賛会が結成され,天皇制ファシズムが体制として成立していたが,東条内閣は太平洋戦争開戦後に言論,出版,集会,結社等臨時取締法(1941年12月19日公布)や戦時刑事特別法(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め,緒戦の勝利を利用して42年4月30日に翼賛選挙を実施した。5月20日貴衆両院議員の大半を網羅した翼賛政治会が結成され,いわゆる翼賛議会体制が確立した。ついで6月23日,政府は大日本産業報国会,大日本婦人会,大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合し,8月14日には部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に,隣組長を世話人にすることを決定した。その結果,世話役約21万名,世話人約133万名が誕生し,ここに国家権力による国民の画一的組織化が完成され,天皇制ファシズムが確立した。しかし戦局の悪化とともにファシズム体制に亀裂がはいり,脱会者が相次いだ翼賛政治会は,45年3月30日大日本政治会へ改組された。小磯内閣は,3月23日国民義勇隊の結成を決定し,大政翼賛会は6月13日に解散して国民義勇隊へ発展的解消をとげ,6月23日には義勇兵役法が公布された。国民義勇隊は,阿南惟幾(これちか)陸相がいうように,国民の大部分を〈天皇親率の軍隊〉に編成し,天皇制ファシズムによる国民支配の極限形態を示すものであったが,その内実は貧弱な形式倒れの組織にすぎなかった。
一方,日中戦争勃発以来,歴代内閣は国務と統帥の矛盾解決に苦しんでいた。44年2月21日東条首相兼陸相は参謀総長を,嶋田繁太郎海相は軍令部総長を兼任したが,事態は解決されなかった。そこで小磯内閣は,44年8月5日大本営政府連絡会議を廃止して最高戦争指導会議を設置したが,軍部の主張により純統帥事項が議題からはずされたため,国務と統帥の矛盾は解決されず,一元的な戦争指導体制は樹立されずに終わった。そしてこのような内部矛盾をかかえた天皇制ファシズムは,敗戦とともに崩壊した。
経済と国民生活の状況
日中戦争勃発後に本格化した戦時統制経済は,国家総動員法(1938年4月1日公布)を〈てこ〉として発展していたが,太平洋戦争開戦を契機に経済と国民生活に対する統制が一段と強化された(国家総動員)。まず重要産業団体令(1941年8月30日公布)に基づき,1942年8月までに22の重要基幹産業部門に統制会が設立され,会長には財界人が就任し,企業整備令(1942年5月13日公布)により中小企業の整理統合と下請企業化が推し進められ,ここにファシズム型戦時国家独占資本主義体制が完成した。さらに食糧増産をめぐって寄生地主制と独占資本主義との矛盾も表面化した。政府は米の国家管理,二重米価制,小作料抑制などを実施して耕作農民を保護した。それらの政策は,地主の利益を抑え,寄生地主制を解体に追い込むものであり,農村では自作農上層や小作農上層の力が強まり,戦後の農地改革の条件が成熟していった。一方,兵力と労働力の確保のため,国民の根こそぎ動員が実施された。陸海軍現役軍人は,41年の241万名から敗戦時には719万名(出陣学徒や志願による海軍少年兵などを含む)に増加し,44年2月の労働者3329万名のほか,敗戦時の動員数は徴用工616万名,25歳未満の未婚の女子による女子挺身隊員47万名,小学生から大学生までの動員学徒343万名にのぼった。それでも足りない部分は,朝鮮人と中国人の強制連行によって補われ,1939年-45年に内地へ強制連行された朝鮮人は72万名とも152万名ともいわれ,43年4月~45年5月に強制連行された中国人は3万8931名に達し,彼らは鉱山や港湾で酷使され,多数の者が死んだ。
また国民の日常生活に対する統制も強まった。主食が41年4月1日から6大都市で配給制度となり,成人男子1名1日2合3勺(330g)と決められたのを皮切りに,副食,酒,マッチ,タバコ,木炭,衣料などの生活必需品が配給制となった。〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません勝つまでは〉などの標語がつくられ,国民は政府の言うままに耐乏生活を強いられた。しかし急増する軍事費を賄うための増税と国債の乱発,インフレーションの進行,実質賃金の低落,労働時間の延長,労働災害の急増などにより,国民生活はさらに悪化した。43年からは小麦,ジャガイモ,うどん,豆かすなどが主食として配給され,日本本土の1人当りのカロリー消費量も,1931年-40年を100として42年の102から45年には66へ低落した。飢餓状態に追い込まれた国民は,買出しや闇取引きによって命をつなぐようになり,戦意も低下した。また44年からは都市で建物疎開と学童疎開が行われ,44年11月から本格化したアメリカ軍の超重爆撃機B29による本土空襲により,沖縄県を除く全国113の市町で約964万名が被災し,50万名以上が死亡した。
文化と教育に対する統制
満州事変後文化や教育に対する統制が強められていたが,1941年1月8日東条英機陸相によって全陸軍に布達された〈戦陣訓〉は,〈生きて虜囚の辱を受けず〉として軍人に死を強要した。この考え方が,あらゆる場所で国家権力による強制をともなって広められ,実践に移された結果,兵士の生命を軽視した無謀な戦術や自決の強要などによって,戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となった。さらに41年7月21日に刊行された文部省教学局《臣民の道》は,文部省《国体の本義》(1937年5月31日刊)の日本主義国体論を受け継ぎ,〈天皇への帰一〉と〈滅私奉公〉による国家への奉仕を国民に要求したが,この二つの文書こそ,太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であった。言論と出版に対する統制も強められた。東条内閣は,太平洋戦争開戦直後から1府県1紙制を原則とする新聞の統合と,雑誌の統廃合に着手した。そのため41年末に1万8022点あった新聞と雑誌は,44年末には2548点に激減した。検閲も強化され,戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は,かたっぱしから削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。その反面,大日本音楽文化協会(1941年12月20日),日本文学報国会(1942年5月26日),大日本言論報国会(1942年12月23日)が相次いで結成されるなど,多数の知識人が国策に協力し,すでに宗教団体法(1939年4月8日公布)によって国家の統制下に置かれていた神道・仏教・キリスト教各派の宗教家も,大日本戦時宗教報国会(1944年9月30日)を結成,戦争に協力した。教育面では,41年4月1日から明治以来の尋常小学校が国民学校に再編成された。国民学校は初等科6年と高等科2年から成り,その目的は〈皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス〉(国民学校令第1条)ことにあった。教育内容では,《臣民の道》に示された日本主義国体論,皇国史観,戦争に役立つ科学などが幅をきかせ,教育方法も知識偏重の授業を排し,学校を〈少国民錬成の道場〉として儀式や学校行事を重んじるとともに,軍隊式の絶対服従論,竹槍で近代装備のアメリカ軍とたたかうという非合理な竹槍主義,教師による多様な体罰などが教育の現場を支配するにいたった。
戦時下の抵抗運動
自主的な労働組合と農民組合は,大政翼賛会が結成され天皇制ファシズムが成立した1940年10月前後の時期までに官憲によって解散させられ,大半の労働者は大日本産業報国会(1940年11月23日結成)に,農民は農業報国連盟(1938年11月2日結成)や農会などにそれぞれ組織化され,〈生産増強〉〈食糧増産〉の掛声と警察の監視のもとに国策に協力させられていた。それにもかかわらず1941年から45年8月の敗戦までの労働争議総数は,41年334件(争議行為をともなうもの159件),42年268件(173件),43年417件(279件),44年296件(216件),45年13件(11件)にのぼり,総件数1328件(838件),総参加人員5万6857名(争議行為をともなう争議参加人員3万6896名)に達した。労働争議の大半は,自然発生的な厭戦(えんせん)感情にもとづく無意識的・無自覚的なものであったが,なかには労務管理の拙劣さから生まれた集団暴行事件,〈オシャカ〉と呼ばれる不良品をひそかにつくる〈オシャカ闘争〉などもあった。これに対し小作争議件数は,41年3308件,42年2756件,43年2424件,44年2160件と漸減はしたものの,かなりの高水準を維持し,争議に参加した小作人総数は,9万1425名であったが,小作争議の大半は自然発生的かつ小規模な個別争議であった。小作争議の新たな原因としては,食糧事情の悪化や地主の帰村による小作地の取上げ,軍需工場の地方分散にともなう農地転売のための地主からの小作契約解除の申入れなどがあり,小作農民側は,小作統制令にもとづく小作料減額の積極的要求や兼業収入の増加分による小作地買取り要求などで地主に対抗した。総じて太平洋戦争下の労農争議は,〈組織なき抵抗〉としてつづけられたのである。また,強制連行された朝鮮人,中国人の抵抗は,多数の脱走となってあらわれたが,なかには45年6月30日秋田県花岡の鹿島組出張所における中国人労働者の蜂起事件のようなものもあった(花岡事件)。
これに対し知識人を中心とする個人的抵抗には,さまざまな類型があった。消極的抵抗としては,社会主義者の荒畑寒村らのような完全沈黙,作家の谷崎潤一郎や永井荷風,東大教授で政治学者の南原繁らのような非便乗の良心的活動があり,積極的抵抗には,弁護士正木ひろし(個人雑誌《近きより》発行),元東大教授で経済学者の矢内原忠雄(個人雑誌《嘉信》発行)らのような合法的抵抗,奔敵・逃亡などによる軍隊拒否,日本共産党幹部の徳田球一,志賀義雄らやキリスト教徒で灯台社日本支部の明石順三らのような獄中抵抗,政治学者大山郁夫,俳優岡田嘉子,日本共産党野坂参三らのような国外での反戦活動があげられる。彼らの抵抗は,現実を動かす実効という点では弱く微力であったが,これらの人びとの多くが敗戦後の民主化された日本社会のなかで大きな足跡を残したことは,特筆されるべき事実であった。これに対し民衆のあいだでは,44年7月の東条内閣退陣のころから各種の流言飛語が激増し,警察や憲兵はその取締りにやっきとなった。さらに44年11月以降B29による本土空襲が激しくなるにともない,厭戦・反戦意識が民衆のあいだに広がりはじめた。しかしそれらの意識は,組織化されることなく,自己と家族の生命と生活を守るという個人的な思考の枠のなかで,利己的な現実主義を助長させる方向へ向かっていった。
戦時下の敵国人
1941年末現在日本にいた外国人は,2万9326名であったが,彼らは開戦とともに旅行や居住の制限をうけ,彼らの多くはのちに神奈川県北足柄村(現,南足柄市)や長野県軽井沢などの抑留所へ収容された。一方アメリカ西海岸に在住していた日系アメリカ人11万2353名は,42年2月19日の大統領令第9066号により〈再定住センターrelocation center(camp)〉と呼ばれる10ヵ所の収容所などへ強制収容された。彼らの多くは財産を失い,17歳以上の男子は43年2月からアメリカ軍への参加とアメリカ合衆国への忠誠心の有無を調査する忠誠テストにかけられた。アメリカ本土とハワイの日系人2世で陸軍へ入隊した者は,2万5768名にのぼった。敵国人のうち日系人のみを強制収容するという不当な民族差別的措置は,アラスカやカナダから中南米の12ヵ国にまで及んだ。なお戦後日系人は,強制収容に対する損害補償を求める運動をつづけ,その結果J.フォード大統領は,1976年2月19日,F.ローズベルトの大統領令第9066号を取り消した。さらにアメリカ議会が設置した〈戦時民間人再定住・抑留に関する委員会〉は,83年2月24日に報告書《拒否された個人の正義》を,ついで6月16日には最終報告書を発表し,強制収容の犠牲になった日系人の生存者約6万名に1名当り2万ドルを支払うなど5項目の勧告を議会に対して行った。そして市民の自由法案(戦時市民強制収容補償法)が上下両院で可決され,88年8月10日,R.レーガン大統領の署名によって発効した。その結果,強制収容を体験した日系人生存者約6万名に対し1人2万ドル,同時に日本軍の攻撃を避けるためとの名目でアラスカへ強制移住させられたアリューシャン(アレウト)列島の住民約450名に対し1人1万2000ドルの補償金がそれぞれ支払われた。
植民地と占領地の状況
日本の植民地であった朝鮮と台湾では,皇民化政策の徹底と経済開発を通じて兵站基地化が推し進められた。朝鮮では,1940年10月それまであった国民精神総動員朝鮮連盟が国民総力朝鮮連盟と改称し,官製国民運動の一元化が達成された。この連盟は,〈皇国臣民化〉などのスローガンを掲げ,大政翼賛会と同様に,中央から末端にいたる組織を朝鮮総督府の行政組織と表裏一体化させ,全住民を組織化していた。日本の隣組にあたる愛国班は約10戸から成り,宮城遥拝,勤労貯蓄,日の丸掲揚,神社参拝,日本語常用,〈皇国臣民ノ誓詞〉の斉唱,勤労奉仕,国民服と戦闘帽の着用などの日常活動に朝鮮人を動員した。これらの日常活動は,いずれも〈内鮮一体論〉にもとづくものであり,国民総力朝鮮連盟の結成は,朝鮮における天皇制ファシズムの成立を意味していた。皇民化政策のなかでも日本語の使用と創氏改名は,朝鮮人にはかりしれない苦痛を与えた。1938年3月公布の朝鮮教育令により,朝鮮語は随意科目とされ,学校での朝鮮語の使用が事実上禁止されたばかりでなく,43年からは〈国語普及運動〉が大々的に展開された。39年11月改正の朝鮮民事令にもとづく創氏改名は,任意の届出をたてまえとしていたが,実際には,それに応じない人びとに官憲や教師を総動員して脅迫や圧力が加えられた。その結果,40年8月までの期間内に全戸数の約80%にあたる約322万戸が届け出た。42年10月には青年特別錬成所が設置され,青年の強制的錬成がはじまり,1938年から実施されていた陸軍特別志願兵制度は,44年4月から徴兵制に切り替えられ,20万9279名が徴兵された。さらに44年8月には,国民徴用令が朝鮮にも適用されるとともに,女子挺身隊勤務令が公布され,強制連行がより大規模に行われるようになり,女子挺身隊員のうち5万~7万名が日本軍の従軍慰安婦にされたと推定される。また,朝鮮は工業資源と食糧の供給地としての役割を果たすとともに,経済軍事化による生産増強が進められ,農民は収穫米の60%前後を供出させられた。労働者のストや小作争議もつづけられ,満州との国境地帯では金日成らの抗日パルチザン闘争も展開された。
一方台湾では,大政翼賛会を模倣して1941年4月に結成された皇民奉公会が国民動員の中心組織となった。同会の組織は,台湾総督府の行政機構と表裏一体をなし,隣組にあたる末端組織の奉公班の編成にあたっては,従来から現地住民を連座制によって相互に監視させるために組織されていた保甲制度が活用された。その傘下の団体には大日本婦人会,台湾青少年団,台湾産業奉公会などがあり,奉公運動の実践推進隊として奉公壮年団がおかれるなど,皇民奉公会の体制は天皇制ファシズムの台湾版であった。皇民化政策は,日本語の使用強制,青年特別錬成所への入所,神社参拝の強制などを通じて推進された。さらに42年4月から実施されていた志願兵制度は,45年4月から徴兵制度に切り替えられ,2万2680名が徴兵された。また化学,金属両工業を中心に軍需工業が発展し,農民は収穫米の60%前後を供出させられた。抵抗運動は1935年前後までに挫折させられ,台湾の情勢は朝鮮に比べて安定していた。
これに対し満州(中国東北部)では,1940年度から実施されていた産業開発の超重点政策が石炭や鉄鋼などの基幹産業部門を中心に一段と強化されたが,42年度からの第2期五ヵ年計画は,経済の均衡を無視した強引なやり方のために破綻し,目標を大きく下回った。総動員体制の中心となったのは,1932年7月結成の満州国協和会(協和会)であり,42年5月末で会員289万名,傘下団体には会員135万名以上の協和青少年団や隊員52万名の協和義勇奉公隊があり,外郭団体の満州国防婦人会,軍人後援会などを指導していた。その他に国兵法による3年間の兵役や国民勤労奉公法による1年以内の勤労奉仕が,現地住民に義務づけられた。中国人労働者の労働条件はきわめて劣悪であり,炭鉱や鉱山のなかには,病気,労働災害,リンチなどで死んだ中国人労働者の遺体を捨てる〈万人坑〉をつくっているところもあった。農業移民政策も引きつづき推進され,第1期五ヵ年計画(1937-41)につづき,42年から第2期五ヵ年計画が実施され,敗戦直前には約27万名の開拓民が満州へ入植していた。反満抗日運動は,40年代には全体として分散・潜行の状態を余儀なくされていたが,44年になると八路軍が熱河省に進出し,関東軍と激戦を交えた。
中国本土では,日本軍は〈点と線〉(都市と鉄道)を確保するのが精いっぱいの状態であった。太平洋戦争の開始とともに連合国の資本が経営する企業が接収され,日本の国策会社や民間会社に引き渡され,経済開発も進められた。しかし日本軍の支配は,中国民衆とりわけ中国共産軍の根強い抵抗に脅かされた。日本軍は中国民衆に対して〈奪いつくし,殺しつくし,焼きつくす〉という〈三光政策〉をくりかえし,中国民衆の憤激と憎しみをかった。
これに対し東南アジアの占領地に対する支配方針は,〈南方占領地行政実施要領〉(1941年11月20日大本営政府連絡会議決定)によって定められたが,それはさしあたり占領地に軍政を実施し,軍政実施の目的は重要国防資源の獲得,治安維持および作戦軍の自活確保の3点であり,その本質は帝国主義的なものであった。日本軍は,インドネシア,フィリピン,マレーシア,ビルマなどで軍政をしき,親日的な現地の有力者や官吏を軍政機関に登用したり,のちには現地住民による〈政権〉を認めたりしたが,それらはいずれも現地指導者を傀儡(かいらい)として操る方式であり,軍政は現地住民に日本への絶対服従を強要する軍事独裁体制であった。日本軍は,アメリカ,イギリス,オランダがもっていた権益とそれらの国の資本が経営する企業をすべて接収し,〈委託経営〉の形で三井などの財閥系企業に接収企業を委譲し,現地住民労働者を劣悪な労働条件のもとで酷使した。農業面では,米の作付けと供出が強制され,国防資源であるゴムなどの栽培が奨励された反面,茶,タバコ,コーヒーなどの農園では米やトウモロコシへの作付転換が強行され,現地住民の反発を招いた。
また各地で日本語の強制をはじめ日の丸への敬礼,《君が代》斉唱,宮城遥拝などの儀式が強制されるなど,性急な皇民化政策が実施された。そして皇民化政策以上に現地住民の反発をかったのは,日本軍による残虐行為,強姦,現地調達主義に基づく〈徴発〉と称する物資と食糧の略奪であった。さらに日本軍は,ビルマ,マレーシア,ジャワなどの各地で労働力確保のため,現地住民の強制連行と連合国軍捕虜の強制労働を実施し,鉄道・道路の建設,陣地構築などの重労働に従事させた。そのため多くの犠牲者が出たが,タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)連接鉄道工事の場合には,工事に携わった捕虜5万5000名のうち1万3000名,現地労働者約5万名のうち3万3000名が死亡したといわれている。一方東条内閣は,〈大東亜政略指導大綱〉(1943年5月31日御前会議決定)にもとづき,ビルマ国(1943年8月1日)とフィリピン共和国(1943年10月14日)を名目的に〈独立〉させ,汪兆銘の中華民国政府とのあいだに日華同盟条約(1943年10月30日)を締結したのち,各傀儡国家の首脳を集め,1943年11月5~6日に東京で大東亜会議を開催したが,具体的政策協定もまとまらないままに終わった。
戦争終結と責任問題
戦争の終結
連合国側は,勝利の見通しがつきはじめた1943年からたびたび首脳会談を開き,戦争終結と戦後処理問題を検討しはじめた。とくに同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州,台湾,澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏が定められ,45年2月11日のヤルタ協定では,南樺太の返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連の対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。彼らの論理は,敗戦にともなう〈共産革命〉を避けるため,〈国体護持〉の立場から早期和平を実現するというもので,日本国民と日本の侵略戦争の犠牲になったアジア諸民族に対する責任感に欠け,〈国体護持〉のみを唯一絶対の基準とする天皇制擁護の和平論であった。鈴木貫太郎内閣は,7月13日にソ連に対し和平の仲介を依頼したが,ヤルタ協定に参加していたソ連は,18日に日本の依頼を拒否した。ついで7月28日,軍部の圧力に屈した鈴木首相がポツダム宣言を〈黙殺〉すると言明するや,連合国側は鈴木声明はポツダム宣言を拒否したものと受けとり,日本の拒否を口実にアメリカは8月6日広島に,9日長崎に相次いで原子爆弾を投下した。広島への原爆投下を知ったソ連は対日参戦を早め,日ソ中立条約を破って8日日本に宣戦を布告し,9日からソ連軍は南樺太,満州,朝鮮へ進撃した。8月9日から10日にかけて開かれた最高戦争指導会議構成員会議では,天皇の〈聖断〉により〈国体護持〉を条件にポツダム宣言を受諾することが決定された。しかし本土決戦を呼号する軍部はこの決定に納得せず,8月14日には再び閣僚と最高戦争指導会議構成員による合同の御前会議が開かれ,天皇の再度の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾による降伏が最終的に決定され,同日政府はこの決定を連合国に伝えた。8月15日正午,国民は天皇の〈玉音放送〉によって戦争の終結を知り,降伏文書は9月2日に調印された。
戦争の性格と人的被害
太平洋戦争は,複雑な性格の戦争であった。すなわち,(1)日本とアメリカ,イギリス,オランダなど欧米列強との戦いは,太平洋および東南アジアの植民地の再分割をめざした帝国主義戦争であり,(2)日本と朝鮮・台湾・満州・中国および東南アジア占領地の諸民族との戦いは,日本による一方的な帝国主義的侵略戦争であると同時に,諸民族の側からみれば抗日民族解放戦争であった。(3)自由インド仮政府のS.C.ボースのような民族主義的な対日協力者が連合国と戦った戦争は〈民族主義〉戦争であり,(4)日本とソ連が戦った戦争は日本側からは反社会主義戦争であり,ソ連側からは反日・反ファシズム戦争であった。しかし,(5)太平洋戦争全体を見るとき,日独伊によるファシズム戦争と連合国による反ファシズム・民主主義擁護戦争という性格がもっとも強く正面に現れた戦争であり,戦後に連合国が枢軸国に対して行った改革占領方式の実施も,この性格に起因していたといえよう。十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名,外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期といわれた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したといわれているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。
戦争責任問題
では,以上のような被害と加害の大惨害の責任は,誰が負うべきか。太平洋戦争は,出先軍部の暴走によってはじまった満州事変や日中戦争と異なり,天皇を頂点とする支配層上層部が正規の手続きにもとづき,天皇出席の御前会議をはじめとする各種の会議を積み重ねたすえ,出席者全員の同意で開戦を決定したことによって開始された。彼らのなかには,職を賭しても戦争を阻止しようとした者は1人もおらず,資本家や地主のなかからも戦争反対の声はあがらなかった。そしてまた戦争終結の場合も,構成員の交替はあったが,戦争終結の決定を下したのは,天皇を頂点とする支配層上層部であった。したがって戦争の被害をうけた日本の民衆とアジアの諸民族に対して責任を負うべきは,天皇以下の支配者である。これに対し,日本の大部分の民衆は,戦争を〈聖戦〉と信じ,濃淡の差はあっても戦争に荷担し協力し,勇敢にたたかった。しかも多くの場合上官や指導者の命令があったとはいえ,アジアの諸民族に対するかずかずの残虐行為の直接の下手人の多くが民衆であったこともまた事実である。したがって民衆は,一面では被害者であると同時に,他面ではアジアの諸民族に対する加害者でもあり,その民族的責任を負わなければならない。戦争はつねに被害と加害の二面性をもっており,この二つの側面を明らかにすることが必要である。このことは日本人だけにあてはまることではなく,連合国軍による日本の軍民に対する多くの残虐行為の場合も同様である。被害と加害の二面性を明らかにすることなしには,戦争に対する真の批判と反省は生まれないし,とくに国民が加害を生みだした政治的・経済的・社会的諸構造と差別意識を解体する主体的努力を継続しないかぎり,戦争の再発を防止することは困難であろう。ところが敗戦後の日本人は,みずからの手で戦争責任を厳しく追及することなく,今日に及んでいる。
連合国によって開廷された東京裁判(極東国際軍事裁判)(1946年5月3日~48年11月12日)は,(1)国際連盟,不戦条約,国際連合,日本国憲法第9条などに体現されてきた戦争を違法とする世界史の流れのなかで,はじめて国家指導者の個人的な刑事責任を追及したこと,(2)〈平和に対する罪〉という新しい構成要件をつくりあげ,それを構成要件の筆頭にすえたこと,(3)〈文明の裁き〉というたてまえのもとに,〈殺人〉と〈通例の戦争犯罪および人道に対する罪〉を第2,第3の構成要件とし,十五年戦争の侵略的性格と日本軍の野蛮な残虐行為を具体的な証拠にもとづいて白日のもとに暴露したこと,の3点において画期的な意義を有していた(戦争犯罪)。しかし同時にこの軍事裁判は,(1)戦争の当事者である戦勝国が戦敗国を一方的に裁くという〈勝者の裁き〉であったばかりでなく,裁く側に過去4世紀に及ぶ過酷な植民地支配,アメリカによる原爆投下と都市無差別爆撃の戦時国際法違反,ソ連による日ソ中立条約侵犯と日本人捕虜のシベリア抑留問題などの汚点と弱点があったこと,(2)〈平和に対する罪〉は戦争違法観と指導者責任観とが結合されて第2次世界大戦末期に成立したが,これによって個人を重罰に処したことは法理上問題があり,また〈共同謀議〉という英米法でも問題の多い法概念で1928-45年の事実を裁くことには無理があったこと,(3)裁判が事実上アメリカの日本占領政策の一環として行われたため,天皇の不起訴,真珠湾攻撃の観点が優越した被告人の選定,A級戦犯の責任追及の途中打切りなどの不十分な結果をもたらしたこと(戦犯),(4)日本の民衆の侵略戦争への荷担の責任がまったく問題にされなかったこと,などの弱さを有していた。そのためとくに生活の困窮,本土空襲,原爆投下,ソ連参戦にともなう満州での大混乱など戦争末期に集中的な被害を被った多くの民衆は,自己を戦争被害者として意識こそすれ,アジアの諸民族に対する民族的な加害者意識を希薄化させたまま時を過ごし,大日本帝国憲法下の支配者の流れをくむ戦後の保守派とその政府のなかからは,〈勝者の裁き〉のみを指摘して居直ったり,戦争責任を忘却させようとする考えがくりかえし表明されているのである。
→第2次世界大戦
[木坂 順一郎]
[索引語]
十五年戦争 第2次世界大戦 アジア・
太平洋戦争 近衛文麿内閣 日米了解案 松岡洋右 東条英機内閣 大西洋憲章 連合国共同宣言 大東亜共栄圏 大東亜戦争 真珠湾攻撃 マレー沖海戦 珊瑚海海戦 ミッドウェー海戦 ガダルカナル作戦 アッツ島 絶対国防圏 マリアナ沖海戦 インパール作戦 フィリピン沖海戦 レイテ湾海戦 神風特別攻撃隊 沖縄戦 鈴木貫太郎内閣 天皇制ファシズム 言論,出版,集会,結社等臨時取締法 戦時刑事特別法 翼賛政治会 大日本産業報国会 大日本政治会 国民義勇隊 義勇兵役法 国家総動員法 重要産業団体令 企業整備令 強制連行 配給制度 戦陣訓 臣民の道 国体の本義 1府県1紙制 大日本音楽文化協会 日本文学報国会 大日本言論報国会 宗教団体法 大日本戦時宗教報国会 国民学校 竹槍主義 農業報国連盟 オシャカ闘争 小作争議 南原繁 矢内原忠雄 明石順三 日系アメリカ人 再定住センター relocation center 拒否された個人の正義 皇民化政策 国民総力朝鮮連盟 愛国班 内鮮一体論 皇民化政策 創氏改名 朝鮮教育令 青年特別錬成所 皇民奉公会 奉公班 満州国協和会 協和青少年団 協和義勇奉公隊 万人坑 三光政策 南方占領地行政実施要領 軍政 徴発 泰緬(たいめん)連接鉄道 大東亜政略指導大綱 日華同盟条約 大東亜会議 カイロ宣言(1943年) ヤルタ協定 木戸幸一 国体護持 戦争責任 東京裁判 極東国際軍事裁判 平和に対する罪
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