第1次大戦は19世紀以来の世界秩序の崩壊を意味する歴史上最初の世界戦争であるから,その背景はかなりさかのぼって考えてみる必要がある。19世紀ヨーロッパの国際秩序を維持する原理はイギリス,フランス,プロイセン,オーストリア,ロシアの国際的勢力均衡システムであり,国際政治はこの五大列強相互のあいだのバランスによって安定を保っていた。その中でもヨーロッパの東西両端に位置を占めるイギリスとロシアの影響力は大きかった。英露両国はともに単なるヨーロッパ国家でなく,アジアや新大陸に進出していた一種の超大国とみなしてよいからである。ビスマルクによる1871年のドイツ帝国建設の事業は,ウィーン会議以来安定していたヨーロッパの勢力均衡を覆す行動であり,軍事力によって実現をみたプロイセン中心の小ドイツ主義による国家統一であった。同じころ同様に国家統一を完了して強国として処遇されることを望んだイタリア王国も出現し,ここに,ヨーロッパに新しい勢力均衡が成立した。
ところが,その後の列強の資本主義的躍進に伴う海外進出の競争が激烈になるのみでなく,1894-95年の日清戦争や98年の米西戦争に勝利した日本やアメリカのような,いわば非ヨーロッパ強国も競争に加入してくると,1871年以来のヨーロッパ中心の列強の勢力関係が根底から揺さぶられた。とりわけ,90年のビスマルクの失脚以後,皇帝ウィルヘルム2世の親政時代に入って世界政策を積極化したドイツの膨張が列強に重大な脅威となった。このためイギリスはむしろドイツとの同盟の締結を期待し,98年,99年,1901年の3回にわたり交渉したが,ドイツ側がもっと有利な条件で締結できるときを待つという態度をとったために英独同盟は成立せず,そこでイギリスはフランスへの接近に政策を転換し,04年4月8日に英仏協商を締結した。ついで05年の日露戦争終結とともにこれまでの英露対立も解消すると,イギリスは07年8月31日に英露協商を締結することができた。これは第1次大戦前史における三国協商体制の成立を意味する画期的な出来事であるが,さらに巨視的に展望すると,ドイツの急激な膨張により,かえってクリミア戦争以来の長年にわたる英露両超大国の対立が解消したことを示す,国際関係史上の一大変動であった。
ところで,第1次大戦の原因としては,建艦競争や三B政策で対立の先鋭化したイギリスとドイツの関係,アルザス・ロレーヌ2州やモロッコの問題をめぐるドイツとフランスの対立関係,オスマン・トルコ帝国の衰退に伴って発生したバルカンにおけるパン・ゲルマン主義とパン・スラブ主義の角逐,またそれと結びついた複雑な民族相克の問題,さらに同盟国(独墺伊)と協商国(英仏露)との対抗関係などがあげられるが,第1次大戦は極東問題やアフリカ分割の問題からでなく,結局は〈ヨーロッパの火薬庫〉といわれたバルカンから発火した。日露戦争に敗れたロシアが対外政策の重心をダーダネルス,ボスポラス両海峡に向けはじめるに及び,国際対立の焦点は極東からバルカンに移った。1908年,オスマン・トルコ帝国では青年トルコ党が日露戦争の日本の勝利の刺激もあって,近代化をめざす革命を起こしたが,その混乱に乗じてオーストリアは,1878年のベルリン会議以来トルコの宗主権のもとにありながら行政管理権のみをゆだねられていたスラブ民族の居住するボスニア,ヘルツェゴビナ2州に対して,その完全併合をトルコに認めさせた。同時にブルガリアも,オーストリアの了解のもとにトルコからの完全独立を宣言した。この二つの出来事は日露戦争と1905年の〈血の日曜日〉に始まる第一革命の痛手からまだ十分に回復していなかったロシアにとって,パン・ゲルマン主義の挑戦であり,さらに周辺の独立国セルビアにとっても重大な脅威であった。サラエボ事件の伏線はここにあった。
1914年6月28日に突発したボスニアの首都サラエボでのセルビアの一青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件は国際間に極度に緊張を高め,ドイツの全面的支援を確信したオーストリアが7月28日にセルビアに対して宣戦を布告すると,この局地戦争は直ちに連鎖反応を引き起こした。セルビアを後援していたロシアがオーストリアやドイツを牽制するために総動員令を下すと,8月1日ドイツはいち早くロシアに宣戦を布告し,ついで8月2日ドイツとフランスが開戦した。8月4日ドイツがベルギーの中立を無視して侵入すると,イギリスはこれを開戦の理由としてドイツに宣戦布告した。8月23日日本も日英同盟を名目にして参戦した。
ドイツの地理的位置は東西の強国ロシアとフランスに挟まれているから,二正面戦争の危険にさらされていた。そこで1891年から1906年まで参謀総長の職にあったA.G.vonシュリーフェンは,開戦の場合,まずフランス軍に向かって迅速に行動して主力軍を壊滅させたあと直ちにロシア軍に当たり,しかもほぼ6週間の短期間に決戦を完了して一挙に勝敗を決するという作戦構想を立てていた。もっとも,シュリーフェンは13年に世を去ったので,現実の第1次大戦の軍事指導に当たった最初の参謀総長はモルトケHelmuth von Moltke(1848-1916)であった。彼は普墺戦争や普仏戦争で名をあげた大モルトケの甥に当たる。開戦とともにドイツ軍はシュリーフェン計画にしたがって行動を開始し,そのためフランスとの国境の要塞を直接突破することを避け,ベルギーの中立を侵してフランスに殺到しようとしたが,ベルギー軍の抵抗は意外に頑強で,予定どおりの進撃はできなかった。
一方,サムソノフAleksandr V.Samsonov(1859-1914)とレンネンカンプPavel K.Rennenkampf(1854-1918)両将軍の率いるロシア軍の動員は迅速で,そのため参謀総長モルトケはP.vonヒンデンブルクとE.ルーデンドルフを急きょ起用,1914年8月23日から9日間にわたって東プロイセンのタンネンベルクで会戦し,ドイツ軍はロシア軍を包囲殲滅(せんめつ)することに成功した。けれども,タンネンベルクの戦闘のため,西部戦線の重要な右翼に配置されていた師団の一部を東部戦線に移すというように,シュリーフェン計画に変更を加えたことがその後の戦局の全体に深刻な影響を及ぼすことになり,早速9月5日から約1週間にわたって戦われた西部戦線でのマルヌ会戦では,ドイツ軍はジョッフルJoseph J.C.Joffre(1852-1931)の率いるフランス軍の反撃を受け敗退した。そこでドイツ軍はマルヌ川よりも数十km手前のエーヌ河畔で陣容を立て直したが,しかしマルヌの敗戦は,西部戦線第一主義と短期即決の思想にもとづくシュリーフェン計画の完全な頓挫を意味するものであった。
ドイツ参謀本部は短期決戦思想のシュリーフェン計画にしたがって弾薬などの軍需物資を備蓄していたが,実際の戦争による消費は参謀本部の予測をはるかに上回った。その点ではフランス参謀本部もまったく同様の予測違いをし,独仏両国とも1914年10月にははやくも平時備蓄のすべてを使い果たすありさまであった。したがって,その後の戦争の帰趨は結局のところ生産力の問題となるのである。9月14日,ドイツの参謀総長はモルトケからファルケンハインErich von Falkenhayn(1861-1922)に代わった。その後西部戦線ではドイツ軍の右翼とフランス軍の左翼が互いに相手を包囲しようと競い,10月にはイゼール川の線で海岸に達した。この伸翼競争の一段落とともに,戦線は全面的に膠着(こうちやく)状態に陥り,完全に戦争は長期戦になった。このように,西部戦線はスイス国境からベルダン要塞を経て英仏海峡に臨むフランドルに達していた。
戦争が長期化すると,ロシアと連合国の協力問題が深刻になった。トルコは戦前からドイツと密接で,1914年11月14日に正式に宣戦を布告し,独墺側に立って参戦した。これに対して連合国はイギリス海相W.チャーチルの構想により,ロシア軍と直接共同行動をとれることをめざし,ダーダネルス海峡を突破してトルコの首都コンスタンティノープルを占領するという大胆な作戦を発動したが,しかし英仏軍はドイツ・トルコ軍の巧みな反撃を受けて敗退した。そこで次に英仏両国は,露独間に単独講和が成立しロシアが戦線から離脱するという事態の起こるのを避けるため,まず15年3月18日,両海峡地帯の処分に関するコンスタンティノープル協定を結んでロシアの海峡地帯領有の期待にこたえたあと,16年5月16日にはペトログラードでイギリス代表マーク・サイクスとフランス代表ジョルジュ・ピコの名前で知られたサイクス=ピコ協定を結び,アジア・トルコの分割に関する英仏露3国間の了解を密約した。英仏両国はロシアを連合国の一員としてつなぎとめるためこのような密約を締結したが,秘密外交はイタリアに対しても展開された。イタリアは本来三国同盟の一員であったが,トルコ分割への参加をすすめた英仏両国の誘引に応じて1915年4月26日にロンドン秘密条約を結び,それにしたがって同年5月23日にオーストリアと開戦した。イタリア首相サランドラAntonio Salandra(1853-1931)は,この背信行為を〈神聖な利己主義〉と声明した。もっとも,イタリアは軍事的には劣勢で,その功績はオーストリア軍をイタリア国境に牽制したという程度であり,ドイツと開戦するのは16年8月28日のことである。
1915年10月2日のブルガリアの同盟国側への参戦,16年8月27日のルーマニアの連合国側への参戦にさいしても,それぞれの側から領土獲得の密約が結ばれた。小アジアの分割へのイタリアの参加を保障した17年4月17日のサン・ジャン・ド・モーリエンヌ協定,さらにアラブ国家の建設を約束した1915年10月24日のマクマホン宣言(フサイン=マクマホン書簡)と,ユダヤ人の国家再建に同意した17年11月2日のバルフォア宣言--,これらの密約が連合国側の重要な秘密外交の成果として注目されるが,日本も秘密外交を展開していた。日本は軍事的には連合国の一員として行動していたが,外交的には複雑な態度をとり,敵国ドイツともひそかに舞台裏で秘密裡に接触を保っていた。1915年1月以来,スウェーデン駐劄(ちゆうさつ)ドイツ大使ルチウスがストックホルムで日本公使内田定槌とひそかに会談し,結実しなかったにせよ,露独単独講和実現の条件やそのための日本の役割などを討議していた。たまたま17年1月11日,イギリスが日本に向かって,ドイツの潜水艦戦に対する対策として,日本艦艇の地中海派遣を要請してきた。そこで日本は,その代償として平和会議開催のとき,すでに日本軍の占領下にある山東省の権益と赤道以北の南洋諸島を日本に譲渡することを支持するという保証を得たいとイギリスに通告した。2月16日日本の希望が承認され,日英間に秘密協定が成立した。そのあと3月までに,日本は同様の秘密協定をフランス,ロシア,イタリアとのあいだにも締結した。
ドイツも勝利への手段として,敵国内での革命運動の促進をめざし,ひそかに策動していた。1917年のロシア革命のさい,ドイツ参謀本部の計画した〈封印列車〉によるレーニンのスイスからの帰国はよく知られているが,それ以前からドイツはロシア領内にいた多くの少数民族に働きかけ,ロシアからの分離を画策しており,またドイツは〈革命の商人〉パルブス(アレクサンドル・ヘルファントが本名,ドイツ系ロシア人)に資金を提供し,ロシアの三月革命(露暦では二月革命と呼ぶ)を引き起こさせる工作をもくろんだ。さらにドイツはイスラム世界へも策動の手をのばし,英仏両国の植民地支配の動揺を工作した。このように交戦国の両陣営ともさまざまな秘密外交を展開しており,帝国主義戦争としての本質が十分に示されていた。
ドイツ軍は1914年以後,西はベルギー,フランスに,東はポーランド,リトアニア,クールランド,セルビアに進出し,オーストリア軍とともに広大な地域を占領した。さらに独墺両国軍はトルコ軍やブルガリア軍とともに,16年秋にはルーマニア,17年秋にはベネチア,リガ,18年初めにはエストニアやフィンランドのほか,白ロシアやウクライナを占領した。この間,たとえば1915年4月22日から5月25日にかけて戦われたイーペルの戦場でドイツ軍が用いた毒ガス,あるいは16年9月15日にイギリス軍がソンム戦線の突破をはかって投入した戦車,さらに潜水艦や航空機の使用など,各種の新兵器の登場とあいまって莫大な数字の死傷者を数える悲劇が続出した。一方,洋上では英独主力艦隊の遭遇した16年5月31日から6月1日にかけてのユトランド沖海戦が最もよく知られる。両国艦隊がともに慎重であったため勝敗の決着がつかず,ドイツ艦隊は本国に帰投した。ドイツ海軍はこの海戦から無制限潜水艦戦重視の教訓を引き出した。
このような戦局の変動とともにドイツの戦争目的も動揺した。ドイツ政府が戦争目的をまとめた最初の公文書は1914年9月9日の〈ベートマン・ホルウェークの9月綱領〉である。帝国宰相T.vonベートマン・ホルウェークの名前でまとめられたこの綱領は,フランスを強国として再建できないほど弱体化させ,ロシアをドイツの国境からできるかぎり押し戻すことを内容とするもので,さらにベルギーを衛星国にし,中央アフリカに植民帝国の建設をうたっている。この文書は,マルヌ会戦のまだドイツ軍の攻勢の優勢な時期にまとめられ,フランスの崩壊が近いという楽観的観測の高まっていたときに作成された構想で,戦前から一部で唱えられていたベルギーやポーランドを含む広域圏建設の中央ヨーロッパ思想を背景とする着想に支えられていた。したがって,この史料に特別の重要性のあることを述べ,ドイツの戦争目的はこの構想の実現をとおして,イギリス,アメリカ,ロシアと対等の世界強国の地位を確立することにあったと強調する歴史家がある。だがそれに反して,この文書よりもマルヌ敗戦後参謀総長に就任したファルケンハインの進言にもとづくベートマン・ホルウェークの判断を記した文書を重視する歴史家もある。それによると,ドイツが英仏露3国に勝利することはとうてい不可能であるから,まずロシアとの単独講和を早急に実現すべきであり,それと同時に,将来再建されるポーランド国家とのあいだにドイツ人の移住地を建設するという,いわゆるポーランド国境帯状地帯の設定が提議されている。この文書を重視する歴史家の見解によると,ベートマン・ホルウェークは領土の移動を限られた範囲で考えていたことは確かではあれ,基本的にはイギリス,フランス,ドイツ,オーストリア,ロシアといったいわば五大国体制による伝統的ヨーロッパ国際システムの存続を望んでいた政治家ということになる。
1916年8月26日,ベルダン要塞戦の失敗やルーマニアの対墺参戦に直面し,ファルケンハイン失脚後のドイツの最高統帥部はヒンデンブルクを参謀総長に,ルーデンドルフを兵站総監とする新陣容に再編制された。とくにルーデンドルフはベートマン・ホルウェークやファルケンハインの単独講和の方策を敗北主義と断じ,全ドイツ連盟のほか,17年に前海相A.vonティルピッツを中心として結成された祖国党の強力な支持を受け,全面勝利をめざす軍事独裁者としてドイツを支配した。ルーデンドルフは17年7月13日に帝国宰相ベートマン・ホルウェークを辞職に追い込んでからは,統帥部の意向どおりに動くミハエリスGeorg Michaelis(1857-1936),ついでヘルトリングGeorg Hertling(1843-1919)を宰相の地位に就けた。ロシア押戻しの計画は18年3月3日に成立した独ソ単独講和を意味するブレスト・リトフスク条約の内容となって実現された。この条約によってソビエトは旧ロシア帝国領であったフィンランド,ポーランド,バルト地方などを失ったほか,ウクライナからも撤兵することを余儀なくされたが,これはドイツとフランスを合わせたよりもなお広い領土で,ドイツ帝国の国防経済上支配すべき東方の広域圏が創設されたことになる。このようにルーデンドルフの戦争目的は伝統的ヨーロッパ国際システムの抜本的破壊を意味するもので,ベートマン・ホルウェークの方策とは根本的相違があった。
1917年はアメリカの参戦やロシア革命といった大事件の発生した年であった。4月6日のアメリカの参戦について,ドイツの潜水艦戦に対する人道的理由からか,あるいはまた英仏両国への借款を確保しようとするアメリカ資本の要求にこたえる経済的理由からか,そのいずれが真の動機であったかについて論議がある。確かに1915年5月7日のルシタニア号撃沈事件以来,アメリカの世論はドイツの非人道性に対する激しい憤懣(ふんまん)を高め,実際に断交は17年1月31日にドイツが通告した無制限潜水艦戦開始の通牒を契機として実施された。またW.ウィルソン大統領としては,増大していた英仏借款によるアメリカ資本擁護の問題も無視できない立場にあった。さらに当時の東アジアでの日本の積極的な中国進出がアメリカの将来にとって重大な脅威と映っていたことも,見逃しえない重要問題であった。今やこれらのアメリカを取り巻く内外の危機を解消するために残された道としては,参戦があるのみである。というのは,参戦してこそ終戦外交を指導し,平和会議で恒久平和の世界機構を樹立するという理想を主張することができるからである。
1917年1月22日に上院で語ったウィルソンの〈勝利なき平和〉の具体的提案が,〈無併合・無賠償〉の原則を意味することを明言したのは4月2日の対独宣戦のメッセージの中であった。他方,3月16日,露暦の〈二月革命〉と呼ばれる混乱の中で皇帝ニコライ2世が退位し,ロマノフ王朝300年の支配に終止符が打たれたが,さらに11月7日,ボリシェビキ革命(十月革命)が成功,革命後直ちに発表された布告の一つに,地主の土地を没収し,これを農民に分配するという内容の〈土地に関する布告〉があり,社会主義への道が開かれた。もっとも,11月12日に行われた憲法制定議会選挙の結果,ボリシェビキ(ロシア社会民主労働党左派)が多数の支持を得ていないことが判明すると,レーニンは憲法制定議会を解散し,プロレタリアート独裁と呼ばれるボリシェビキ一党独裁の政治機構を樹立した。それとともにソビエト政権は〈平和に関する布告〉の中で〈無併合・無賠償〉の原則を,また〈ロシア諸民族の権利宣言〉の中で〈民族自決〉の原則を提唱するとともに,帝政政府や臨時政府の秘密条約を公表して秘密外交廃止を呼びかけた。また革命直後に,ソビエト政権は〈戦争の目的〉や〈平和の原則〉についての回答を交戦国諸政府に向かって要求した。18年1月8日の年頭教書の中で表明された〈ウィルソンの14ヵ条の綱領〉は,ソビエトのこの一連の外交攻勢によって発表を促進された重要な成果とみてよい。ウィルソンの14ヵ条の原則は,ドイツの終戦決意とパリ平和会議に決定的な影響を及ぼすことになる。
第1次大戦勃発以前,第二インターナショナル(〈インターナショナル〉の項参照)は反戦運動を展開してきたが,その主導権を握っていたドイツ社会民主党は革命路線を放棄した修正主義の立場に立つ政党であった。サラエボ事件をめぐる国際危機の高まりの中で社会主義者は反戦に徹すべきであったにもかかわらず,階級よりも民族の立場をとり,開戦に当たり,ドイツの〈域内平和〉やフランスの〈神聖連合〉が端的に示すように,軍事予算反対の立場を貫かなかった。1914年7月31日パリでフランス社会党の指導者J.ジョレスが排外主義者に暗殺されたことや,8月4日ドイツでK.A.F.リープクネヒトやR.ルクセンブルクの戦時公債反対論が敗れたことは,第二インター壊滅の象徴であった。けれども,第二インターの衣鉢を継ぐ戦時中の社会主義者の運動は注目に値する。15年9月5日から8日にかけてスイスのツィンマーワルトで開かれた国際社会主義者会議では,第二インターの再建をめざす穏健派が多数を占め,レーニンらの革命路線は排除されたが,大戦の帝国主義的性格が明らかにされ,第二インター指導部の戦争協力の態度を非難する点では穏健・革命両派のあいだで見解が一致した。ついで16年4月24日から30日にかけて同じスイスのキーンタールで開かれた第2回目の会議では,戦況の行詰りを反映し,革命派の勢力が増大した。
高度な段階に入った資本主義時代の戦争は第一線での軍人の巧みな作戦指導によるよりも,むしろ銃後の国民による軍需生産力の総結集によって勝負の決まる総力戦である。そのため各国とも大戦の進展する中で,国民の全体を総動員する体制を組織することを急いだ。たとえばドイツでは,重工業界の第一人者であったAEG社長W.ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局の長官に就任し,原料の確保と軍需物資の徴発をはじめとする総力戦体制の確立のために尽力した。イギリスでは軍需生産の再編成に努めたD.ロイド・ジョージの功績が顕著で,1916年12月4日以後みずから首相となって戦争を指導したが,英仏両国では社会主義者も政府の一員に加わって総力戦に協力した。さらに英仏両国は被支配民族をも,利益を保障する密約を結んで戦争に動員した。インド兵,モロッコ兵,セネガル兵,コンゴ兵,アルジェリア兵などが戦後自治を認められることを期待し,西部戦線への動員に協力したのがその実例で,中国のクーリー(苦力)にいたるまで労働力が徴発された。総力戦としての第1次大戦はこのように大衆動員の問題を提起したが,これが戦後の大衆デモクラシーの問題を検討するさい無関係に考えられない要因となるのである。
ドイツにとってアメリカの参戦は英仏両国への戦力の補強を意味するもので不利であったが,革命の国ロシアがブレスト・リトフスク条約を結んで大戦から脱落したことは,希望を与えた。そこでドイツ軍は1918年3月21日から5月にかけ西部戦線で総攻撃を開始したが,しかし,それ以上は補給が続かず,進撃を停止した。これに対してアメリカの軍事力も加わった連合国側は指揮系統を統一して連合軍総司令部を設置し,最高司令官フォッシュFerdinand Foch(1851-1929)の統率のもとに反撃に転じ,8月8日イギリス軍はソンムの戦でドイツ軍の優勢を覆した。
同盟国側の降伏は,サロニカから北上した連合軍に衝かれたブルガリアの1918年9月27日の降伏にはじまり,10月30日にはパレスティナを根拠地とするイギリス軍に圧倒されたトルコが降伏に追い込まれた。オーストリアはこの2国の降伏の打撃を受け,11月3日に単独休戦を行い,皇帝カール1世Karl I(1887-1922)はスイスに亡命した。中世以来の伝統を誇るハプスブルク家支配の崩壊のあとを追い,ドイツでも11月3日キール軍港で突発した水兵の反乱を契機として革命が誘発され,10日皇帝ウィルヘルム2世のオランダ亡命とともにホーエンツォレルン家の支配は終わった。同年11月11日,ドイツ側の代表となったM.エルツベルガーはパリ郊外のコンピエーニュの森にあった連合軍総司令部で休戦条約に調印し,ここに4年3ヵ月にわたる第1次大戦が終結した。
ドイツは大戦終結前から,アメリカ大統領ウィルソンの呼びかけた14ヵ条の綱領にもとづく講和の実現を期待していたが,1919年1月18日からフランス外務省で開かれたパリ平和会議に敗戦国は招かれず,米英仏伊日の五大国のあいだで議事が進められた。そのうち日本は首席全権として西園寺公望を送ったがアジアと太平洋問題の討議のみに関与し,イタリアはアドリア海沿岸のフィウメの帰属問題のみに執心を示したので,他の懸案はすべて米英仏三大国によって決せられた。
ドイツ問題ではウィルソンの理想主義は強硬な対独懲罰主義者のフランス首相G.クレマンソーに押し切られた。イギリス首相ロイド・ジョージは両者を仲裁すべき立場にあったが,戦時中に鼓舞激励した国民の期待を裏切れず,結局フランスの主張に同調した。6月28日にドイツに調印を強いたベルサイユ条約の内容は過酷をきわめ,ドイツはこれを〈命令された平和〉と叫び反発した。ついでオーストリアとはサン・ジェルマン条約(1919年9月10日調印),ブルガリアとはヌイイー条約(1919年11月27日調印),ハンガリーとはトリアノン条約(1920年6月4日調印),トルコとはセーブル条約(1920年8月10日調印)がそれぞれ締結されたが,これらの諸条約を支柱として成立した第1次大戦後のヨーロッパの国際秩序はベルサイユ体制と呼ばれる。もっとも,そのうちトルコの結んだセーブル条約は,ケマル・アタチュルクの率いる国民党がオスマン・トルコ政府を倒して共和国を建設するとともにギリシアの侵入を撃退したあと,あらためて23年7月24日にローザンヌ条約を結び,トルコの民族自決を実力で列国に認めさせた。またベルサイユ条約はアメリカでは上院の反対を受け批准を得られず,さらに中国も1919年の五・四運動に支えられて調印を拒否したので,東アジアと太平洋の問題はあらためて21-22年に開かれるワシントン会議(九ヵ国条約)に持ち越された。
このように第1次大戦はロシア,オーストリア,ドイツの3帝国の崩壊によって終結し,それに代わる社会主義国家ソ連の出現とともに,平和会議は非ヨーロッパ国家アメリカのイニシアティブのもとに進められ,さらに東アジアの日本の発言権が強大になるという結果を招いた。したがって,1914年の開戦と1918年の終戦とのあいだにみられる変化は,一口でいえば,世界政治に占めるヨーロッパの比重の低下であったといえる。米ソ両国の台頭,アジア,アフリカの反植民地主義運動の活発化をはじめとする20世紀史の諸動因は,すべて第1次大戦を契機として生起してきた現象であり,いっさいはヨーロッパのいわば地盤沈下と表裏一体の関係にあったとみてよいであろう。
→戦間期 →ベルサイユ体制
©2024 NetAdvance Inc. All rights reserved.