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  11. 石川丈山

石川丈山

ジャパンナレッジで閲覧できる『石川丈山』の日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
石川丈山
いしかわじょうざん
[1583―1672]

江戸初期の漢詩人。名は凹 (おう)。丈山は字 (あざな)。六六山人、四明山人、凹凸窠 (おうとつか)などと号した。代々徳川氏に仕える三河武士の家に生まれたが、大坂夏の陣のとき軍律を犯してとがめを受けたため武士を捨て、藤原惺窩 (せいか)に入門して詩を学んだ。1641年(寛永18)洛北 (らくほく)一乗寺に詩仙堂を築いて隠棲 (いんせい)し、林羅山 (らざん)、元政上人 (げんせいしょうにん)ら当時著名な文化人との風雅の交友を楽しみ、詩文に遊ぶ自適の生涯を送った。詩仙堂の名は、中国の詩人36人を選んで狩野探幽 (かのうたんゆう)にその像を描かせ、壁に掲げたことにちなむ。儒学に比して漢詩の地位の低かった江戸初期に、詩作をもっぱらとした点で特異な存在であり、作品は『新編覆醤集 (ふしょうしゅう)』に収められる。とくに「富士山」と題する七絶、「仙客来遊す雲外の巓 (いただき)。神竜栖 (す)み老ゆ洞中の淵 (ふち)。雪は紈素 (がんそ)の如く煙は柄 (え)の如し。白扇倒 (さかさま)に懸 (かか)る東海の天」は人口に膾炙 (かいしゃ)する。

[日野龍夫]



石川丈山『継響』[百科マルチメディア]
石川丈山『継響』[百科マルチメディア]

七言絶句。1627年(寛永4) 作品部24.5×43.5cm愛知県美術館(木村定三コレクション)


国史大辞典
石川丈山
いしかわじょうざん
一五八三 - 一六七二
江戸時代前期の雅人。諱は重之、のちに凹、字は丈山、通称嘉右衛門、号を凹凸〓・四明などといった。三河国碧海郡泉村(愛知県安城市和泉町)に生まれる。祖父正信、父信定ともに徳川家康の臣だったが、祖父は討死、父は戦傷後武士としての生活から離れてしまった。母は本多氏で佐渡守正信の姪だった。丈山の生まれたのは、長久手の戦の前年の天正十一年(一五八三)十月。彼もまた少年期より家康の近侍として仕え、各地に転戦、武勲を挙げて、主君よりいたく愛されたが、大坂夏の陣の際、抜け駆けして敵将の首を獲たため、軍律を犯したとあって譴責を受けた。彼は直ちに禄を辞して上洛、剃髪して、藤原惺窩の門に学んだ。時に三十五歳。ひところ母を養うために大名の客臣となったこともあるが、没後は洛北一乗寺村に一庵を建てて隠棲した。そして狩野探幽に、漢から宋までの詩人三十六人の画像を描かせ、これを壁間に掲げて詩仙堂と号した。彼があっさりと武士を捨て、遁世的生活に入ることのできたのは、若年のころより参禅し、心底に世を厭うの念が強かったためらしい。以後は俗客を避けて林羅山とか堀杏庵とかいう文雅の士とのみ交わり清談に日を暮した。詩名も高いが、一面「和臭に満ちた卑俚浅俗」な詩風と批難する向きもある。しかし、これは時代の罪で、むしろこの期の先駆者としての功績を称えるべきであろう。詩仙堂において寛文十二年(一六七二)五月二十三日、悠々自適の生涯の幕を閉じた。九十歳。墓は京都市左京区一乗寺松原の舞楽寺山(通称中山)の山頂にある。著に漢詩集の『覆醤集(ふしょうしゅう)』(二巻一冊)があり、門人編の丈山全集ともいうべき『新編覆醤集』(二十五巻四冊)がある。→詩仙堂(しせんどう)
[参考文献]
野間三竹「聘君石六六山人墓誌銘」(『事実文編』一七所収)、人見節「石川丈山先生年譜」(同)、村上忠順「石川丈山先生旧里碑」(『福釜の里』四)、三橋成烈『詩仙堂志』、愛知県教育会・愛知一師偉人文庫編『愛知県偉人伝』、近藤恒次『三河文献綜覧』、『尚古』八二(石川丈山先生二百五十年祭記念号)
(市橋 鐸)


改訂新版 世界大百科事典
石川丈山
いしかわじょうざん
1583-1672(天正11-寛文12)

江戸初期の漢詩人。名は凹。通称は嘉右衛門。丈山は字であるが,号としても扱われる。三河の人。徳川家康の臣で,大坂夏の陣に戦功があったが,軍令に背いたかどで罰せられ,出家して禅を学び,また藤原惺窩に入門した。のち京都の一乗寺村に詩仙堂を営み,詩文に遊ぶ生涯を送った。漢詩文がまだ儒学に従属していた江戸初期にあって,儒学に関心を示さず,詩文をもっぱらとした点で,江戸時代の漢詩人の祖とされる。当時一般には五山文学のなごりを引いて宋詩の影響が強かったが,丈山の詩風は,盛唐詩を典範として情を重んずるというものであった。朝鮮人の権〓(けんちよく)がその詩文集に序文を与えて,“日東(じつとう)の李白”と称したことで名高い。詩文集として《新編覆醬集(ふしようしゆう)》(1676)があるほか,江戸時代最初の詩論書である《詩法正義》(1684),《北山紀聞》(1692)がある。
[日野 龍夫]

[索引語]
〓 日東(じつとう)の李白
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おうとつかそうこう 石川丈山(いしかわじょうざん) 文集 
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竹内良恕親王御筆一、紺紙金泥法華経一部光明皇后御筆一、一遍首題鴫翻姻人筆一、清正公筆鮒蔽茶羅一、同断手判一、石川丈山筆一一一一一八一一一一一一一一一一一一一幅幅
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四月廿三日詩文章録入一御覧一候。五月廿三日詩文近日差下可レ申候。此段宜御披露被二成下一候様奉レ願候。一、石川丈山翁、明年五月百五十年に付、詩仙堂修復勧進之義、是
36. 甲子夜話三篇 2 20ページ
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45. 甲子夜話続篇 7 44ページ
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46. 加藤周一
日本大百科全書
い視野、豊富な知識と教養、明晰めいせきで鋭利な論理によって、『二つの極の間で』(1960)、石川丈山じょうざん、一休、富永仲基なかもとをそれぞれとりあげた小説体
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北村季吟,和田以悦,僧元政と同門。初め叡山で天台を,後に卜部家に神道を,貞徳の父昌三に儒学を,石川丈山に詩文を学び,書道にも優れる。《清少納言枕草子抄》,《長明
48. かみわかえむら【上若江村】大阪府:東大阪市/旧河内市地区地図
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重信は重成の槍で馬上よりつき落されて落命した(大阪府全志)。集落の南東に山口重信の墓があり、文は林道春、篆額は石川丈山。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳
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日本大百科全書
にすぎず、漢詩には新鮮味がなく和臭(日本的な特殊な傾向)も甚だしい。詩人として名高かったのが石川丈山じょうざんと僧元政げんせいである。次の時代には俄然がぜん盛況
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