一般的には大正天皇の在位期間(1912-26)をいうが,歴史学的にいえば,藩閥官僚政治を批判する日露戦争講和反対の全国的民衆運動の発生した1905年から,第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣の政治諸改革が行われ,政党政治体制の確立した1925年までを指す。独占資本主義の確立に帰結する資本主義の急成長,中間層および無産階級(労働者,農民)の政治的進出を背景に,政治,社会,文化の各分野において大正デモクラシーと呼ばれる民主化が進行したことが時代の特徴をなす。大正時代は第1次大戦終了(1918)を境に前期と後期に区分できるが,前期はさらに戦前期(1905-14)と戦中期(1914-18)に区分できる。
戦前期
日露戦争後の新しい国際関係の枠組みである三国協商と三国同盟との対立のなかで,日本は日英同盟,日露・日仏協約を通じ三国協商側に属しながら,アジア大陸における権益の確保と拡大につとめた。朝鮮では第1次(1904),第2次(1905),第3次(1907)の日韓協約による保護国化のあと,1910年8月,韓国併合条約によって完全な植民地とした。中国では1906年満鉄を設立し満州(現,中国東北部)経営を進め,4次にわたる日露協約によって満蒙地方の分割を相互確認してアメリカとの対立を深め,1911年の辛亥革命に乗じて満蒙の独立を策した(第1次満蒙独立運動)。かかる帝国主義政策は必然的に軍事力の増大を招き,1906年の〈帝国国防方針〉の策定に従い,陸海軍の大拡張が計画された。このため戦時下の非常特別税は戦後も継続したうえ新増税が課せられ,中小商工業者以下の民衆の不満をつのらせた。
1905年9月の非講和運動は〈外には帝国主義内には立憲主義〉の理念に指導される全国的都市民衆運動として,大正デモクラシー運動の起点となったが,〈外に帝国主義〉の色彩は,1907年から09年にかけて展開された全国商業会議所連合会を中心とする軍拡反対悪税廃止運動により弱められ,13年初めの護憲運動にいたる。政府が民衆の不満を押さえて軍拡を進めるには政党の力を借りざるを得ず,1906年1月には政友会総裁西園寺公望を首班とする内閣が,官僚派代表たる長州閥の桂太郎内閣に代わって登場し,08年7月第2次桂,11年8月第2次西園寺と,交互に政権を担当する〈桂園内閣〉時代を現出した。政友会は実力者原敬の領導のもと,鉄道敷設,港湾修築など,制限選挙下有権者の大半を占める農村地主層の利益をはかる〈積極政策〉を推進し,1908年,12年の総選挙に安定多数を獲得し,つねに政府与党の地位を確保し,政治的発言権を著しく増大させた。桂園時代は自前の政党を組織せんとする桂の野望,海軍を代表する薩摩閥の山本権兵衛と提携せんとする西園寺の思惑により終りを告げた。
陸軍の2個師団増設強要により第2次西園寺内閣が倒れたあと,1912年12月に成立した第3次桂内閣に対し,藩閥打倒憲政擁護の全国的民衆運動が起こり,大正天皇は詔勅により政争中止を求めたがききめはなく,桂内閣は翌年2月総辞職した。議会に基礎をもたぬ政府は天皇の権威をもってしても維持できぬことを示した点で画期的な意味をもつ。政友会は山本内閣を成立させたが,藩閥と結んだとして世論の非難を浴び,シーメンス事件を契機とする民衆運動の前に,14年3月総辞職した。このような政情を生んだ経済的背景をみよう。
日露戦争後日本資本主義は重工業中心に発展し,鉄鋼,造船,機械生産などの諸業種が興った。鉄道国有法の制定(1906)により,主要鉄道網が統一的に運営されるようになった。1907年の恐慌により,生産と資本の集中が進み,三井,三菱,住友,安田などの特権的巨大政商が,金融,生産,流通を統一的に支配する財閥を形成し,日本経済を独占的に支配するにいたった。一方,特権をもたない中小商工業者は広範に存在し,サラリーマンなど新中間層も一つの社会層を形成し,ともに初期のデモクラシー運動の主要な担い手となった。普通選挙,軍備縮小,満州放棄を唱えた《東洋経済新報》は彼らの政治意識をもっとも先鋭に代表するものであった。また美濃部達吉の天皇機関説は政党内閣制の合憲性を主張し,彼らの政治的要求に合法性を与えた。労働者階級は治安警察法によって組合結成をいぜん妨げられ,1906年結成の日本社会党も翌年禁止され,10年には大逆事件による大弾圧をこうむった。
対外独立という明治維新以来の国家目標の到達と官僚勢力の後退は,1907年の義務教育年限4年から6年への延長,100%に近い就学率,中等学校卒業生の増大にみられる教育の普及と相まって,忠君愛国主義や家族道徳に対する個人主義の風潮をもたらした。市民的文学者夏目漱石を筆頭に小説における島崎藤村,田山花袋らの自然主義,詩歌における与謝野鉄幹・晶子夫妻ら《スバル》のロマン主義,伊藤左千夫,斎藤茂吉ら《アララギ》の写実主義の活動がめざましく,小山内薫,市川左団次の自由劇場や島村抱月,松井須磨子の芸術座が新劇運動の先駆となった。平塚らいてうらによる青鞜(せいとう)社の活動は,婦人の個の自覚を端的に証明した。
戦中期
官僚勢力に支援され,桂の遺産である立憲同志会を与党として,山本内閣に代わって登場した第2次大隈重信内閣にとって,第1次大戦の勃発はまさに天佑であった。挙国一致の名のもとに政争は中断し,列強の関心がヨーロッパに集中しているのに乗じ,中国への露骨な侵出を実行した。1914年8月,日英同盟を盾にドイツに宣戦を布告し,山東半島と南洋群島を手中におさめ,翌年には軍事力を背景に中国袁世凱政権に,満蒙,山東その他の権益に関する二十一ヵ条要求を承諾させ,中国国民の〈怨〉を決定的なものとした。16年には第2次満蒙独立運動を計画した。大隈が政友会の安定多数を打破し,懸案の2個師団増設を実現したあと,官僚勢力はその代表者寺内正毅朝鮮総督を首相に送った。寺内は袁世凱の後継者段祺瑞(だんきずい)政権に,西原借款と称する巨額の政治借款を無担保で提供し,中国全土を統一させたうえで日本に従属させようと試みた。さらに中国の軍事力を日本の支配下におくべく,18年5月には日華共同防敵軍事協定を結んだ。この間1917年11月には石井=ランシング協定で,中国における日本の特殊権益をアメリカに認めさせた。1917年ロシア革命が起こると,出兵して日本の傀儡政権をつくることを計画し,翌年8月アメリカとの共同出兵を名目に最高時7万3000人の大軍を送った(シベリア出兵)。この間政友会は寺内内閣の準与党となり,憲政会(同志会の後身,総裁加藤高明)を押さえて再び第1党に返り咲いた。
大戦中日本は高度成長を遂げた。列強が手を引いたあとのアジア市場を独占したうえ,連合国より軍需品の注文が殺到し,輸出額は大戦中4倍に増え,11億円の債務国は14億円の債権国に変容した。工業生産額は5倍に増え,とくに重化学工業と電力事業の発展が著しかった。空前の好景気のなかで金融資本による産業支配が進み,財閥を頂点とする独占資本主義が確立した。一方では織物,食品など在来産業や軽工業の分野ではおびただしい中小企業が形成された。工場(職工10人以上)労働者は90万人より160万人へと増え,農村では労働力の流出,野菜,果樹など商業的農業の発展がみられたが,寄生地主制は逆に発展の頂点に達した。
経済成長とともに増大する都市中間層を基盤にデモクラシー運動の根は広がり,各地に選挙権拡張を中心スローガンとする自主的な市民政社が生まれた。最大の発行部数を誇る《大阪朝日新聞》を先頭に,ジャーナリズムがデモクラシーの風潮を広めた。この風潮は吉野作造の〈民本主義〉に理念化されている。吉野は主権在民を意味する〈民主主義〉を帝国憲法のたてまえより許容できぬとしながらも,主権運用の目的を民衆の利福におき,またその運用を民衆の意思決定にゆだねるという〈民本主義〉を政治の基本理念として設定し,具体的な政策として,内に普選と言論の自由に基礎づけられた政党内閣制の採用,外には武断的な大陸侵出政策の放棄を説いた。佐々木惣一,大山郁夫はこの立場の論客であった。民本主義は鈴木文治により労働運動に適用され,無制限の労働者搾取を否定し,労働組合を媒介とする労資協調主義を唱える友愛会の結成となり,この組織も大戦下急成長を遂げた。
文壇では前期の諸流派が引きつづいて活動したほか,志賀直哉,武者小路実篤ら理想主義・人道主義の白樺派が全盛期を現出し,永井荷風,谷崎潤一郎の唯美派も活躍した。詩歌の面では,高村光太郎,萩原朔太郎,室生犀星らが口語自由律の新風を吹き込んだ。画壇では横山大観,下村観山らの再興日本美術院,土田麦僊,小野竹喬らの国画創作協会,および洋画の二科会が発足して,守旧的・官僚的な文展(文部省展覧会)と対立した。近代日本を代表する哲学者西田幾多郎や歴史学者津田左右吉の学問の骨格もこの時期に形成された。
戦後期
1918年夏の全国的米騒動により寺内内閣は倒れ,爵位をもたぬ政友会総裁の原敬が,閣僚の大半を政友会員でかためる日本最初の実質的な政党内閣を組織した。ロシア革命や国際連盟の成立などの外圧も加わって,日本では〈改造〉〈解放〉を合言葉とする革新気分がみなぎり,大正デモクラシーは最高潮に達した。普選運動は全国的に大衆化し,労働組合は急速に数を増した。1920年の戦後恐慌は政府の救済で収拾されたが,財界整理は不徹底におわり,慢性化する不況のなかで労働運動は激化し,友愛会は戦闘化して日本労働総同盟と改称,最大の全国的労働組合に脱皮した。不況下の農村でも小作争議が激増し,22年には日本農民組合(日農)が結成され,ほぼ同時に被差別部落民の全国的解放運動組織全国水平社が生まれた。平塚らいてう,市川房枝らの新婦人協会は,婦人の政治的自由獲得運動を開始した。このように言論・集会・結社の自由が民衆の実力で拡大されるなかで,社会主義の影響力が強まり,1920年には大戦下活動を再開していた社会主義者の大同団結たる日本社会主義同盟が,22年にはコミンテルン指導下に日本共産党が結成された。
国内におけるデモクラシー運動の激化,国外における朝鮮の三・一独立運動,中国の五・四運動に代表される反日民族運動の興隆の事態に加え,大正天皇の精神機能は衰弱して,1921年には皇太子裕仁が摂政に就任せざるを得なくなった。この危機に官僚勢力は適応力をもたず,原政権に依存した。原敬は普選を拒否し,小選挙区制を実現して衆議院で政友会の絶対多数を確保したうえ,軍備拡張,高等教育機関の充実,交通機関の整備などに膨大な予算をつぎこみ,党勢を拡張したが,強引な政策は汚職事件を続発させ,21年11月暗殺された。後継首相の新政友会総裁高橋是清は経済不況に対応して積極政策からの転換を試み,党内に内紛を生じ,緊縮財政と普選を主張する憲政会への期待が高まった。22年初めのワシントン会議により,ワシントン体制と呼ばれるアジアの新国際秩序が形成され,日本は日英同盟と石井=ランシング協定を失い,山東省の旧ドイツ利権を中国に返還し,シベリアからの撤兵を余儀なくされた。日本の大陸侵出は歯止めがかけられ,協調外交が主流となった。高橋内閣が内紛で倒れたあと,ワシントン会議の首席全権海軍大将加藤友三郎が政友会を準与党として組閣した。加藤はワシントン会議で協定された海軍軍縮のほか,陸軍軍縮も断行し,選挙権拡張を検討した。
加藤病死のあと,関東大震災のさなかに成立した第2次山本内閣は挙国一致を唱え,普選採用をはかったが,政友会の協力が得られず,摂政暗殺未遂の虎の門事件を機に総辞職した。貴族院を母体として成立した清浦奎吾(けいご)内閣に対し,政友会,憲政会および犬養毅の率いる革新俱楽部の護憲三派が第2次護憲運動を起こし,1924年5月の総選挙で大勝し,各地の市民政社を傘下におさめた憲政会が第一党となり,総裁加藤高明が首相に指名された。以後衆議院の多数党の総裁が首相となる政党内閣制が慣習化された。加藤内閣は普選法を制定し,日露戦争前国民の2%にすぎなかった有権者は20%に達した。無産階級の代表が議会に進出する道が開かれ,26年には労働農民党がまず発足した。治安警察法第17条も廃止された。内閣は日ソ基本条約を結んでソ連との国交を開き,4個師団を廃止して陸軍の兵力量を日露戦争直後の水準に落とした。しかし政府は衆議院を拘束する枢密院,貴族院あるいは軍諸機関の権限を縮小することができず,一方では治安維持法を制定して,民衆の政治的自由に新たな拘束を加えた。このため政党政治は昭和恐慌の襲来を背景とする軍部ファシズムの興隆に対する抵抗力をもちえぬことになった。
大戦期の産業発展と都市への人口集中にともない,民衆の生活に大きな変化が生まれた。〈サラリーマン〉〈職業婦人〉の名が定着化し,大都会を中心に衣食住の洋風化が進み洋服や洋食が普及し,郊外に簡便な文化住宅が,都心や副都心には鉄筋コンクリートのビルが立ち並び,デパートが購買欲をそそった。《キング》に代表される大衆雑誌や,《朝日》《毎日》系の新聞・週刊誌が急成長し,ラジオ放送も1925年に開始された。吉川英治,白井喬二らが大衆時代小説作家として活躍し,菊池寛は現代通俗小説を執筆するかたわら,《文芸春秋》をはじめた。演劇では小山内薫,土方(ひじかた)与志らの築地小劇場が知識人の関心を集める一方,沢田正二郎の新国劇が人気を呼び,映画も日活や松竹などの大企業で本格的に製作されるようになり,現代物では村田実,島津保次郎,時代物では牧野省三らが革新的な内容・手法を盛り込んだ。純文学では自然派,唯美派,白樺派のほか,漱石門下の芥川竜之介,久米正雄らの理知的な〈新思潮派〉や,生活感のある作風で共通する広津和郎,宇野浩二,葛西善蔵ら〈早稲田派〉が活躍した。一方,労働者階級の政治勢力としての登場とともに,宮島資夫,平沢計七,葉山嘉樹らの労働文学が登場し,1921年には《種蒔く人》の創刊によりプロレタリア文学運動が出発し,24年日本プロレタリア文芸連盟が《文芸戦線》を発刊するにいたって本格化した。これに対応するごとく既成文壇の革新をうたう横光利一,川端康成らの新感覚派が登場した。27年の芥川と葛西の死は,無産階級の台頭と,大資本本位の政党政治との間にはさまれた,かつての大正デモクラシー運動の本来の担い手たる中間層の苦悶を象徴するものであった。