政権所在地による時代区分の一つ。鎌倉に幕府があった時代。室町時代と合わせて中世と呼ぶことも多い。終期が鎌倉幕府の滅亡した1333年(元弘3)であることに異論はないが,始期は幕府成立時期に諸説があることと関連して一定しない。ただし1185年(文治1)の守護・地頭の設置に求める説が最有力であり,92年(建久3)の源頼朝の征夷大将軍就任に求める伝統的見解は支持を失っている。しかし鎌倉時代を理解するには,少なくとも80年(治承4)の頼朝挙兵にさかのぼって考えることが必要である。
鎌倉時代の政治機構・社会体制の祖型は,平安後期,院政期にすでに形成されていた。政治機構の面を考えると,1086年(応徳3)以来院政が行われて天皇は形式的存在にすぎず,天皇の父祖である上皇が〈治天の君〉として政権を握っていた。院政期以来,武家の棟梁が登場し,国家機構に組織され,武士を率いて国家全体の軍事・警察を担当するようになった。院政は平安後期だけではなく,鎌倉末の1321年(元亨1)後宇多法皇が院政をやめるまで,鎌倉時代のほぼ全体を通じて行われていたのである。武家の棟梁(将軍,鎌倉殿)が武士を率いて国家的な軍事警察にあずかるという方式も,本質的には平安後期から鎌倉末まで変わっていない。鎌倉時代に武士の地位が向上したのは事実であるが,日本全体の支配者はやはり朝廷(院政)であり,幕府は朝廷によって存在を保障され,国家的な軍事警察(諸国守護)にあたっていたにすぎない。したがって鎌倉時代史を正しく理解するには,公家・武家の関係の総合的把握が必要である。平安後期と鎌倉時代との連続性は,社会体制にも指摘できる。平安後期~鎌倉期は寄進地系荘園の時代である。その特色は,貴族・社寺などの荘園領主と武士的な在地領主とが,対立しながらも補完し合って支配を貫徹している点にある。鎌倉時代になって地頭が置かれて後も,このような体制は本質的に変わっていない。
平安後期,鎌倉時代は権力が多元的に分裂した時代である。有力貴族(大社寺もこれに準ずる)は権門として,院政・幕府などの公権力から独立した家政を行っており,公権力はその家政の内部には干渉できなかった。権門は知行国・荘園などを経済的基盤とし,その家政は政所(まんどころ)などの家政機関によって行われ,権門に従属する下級貴族が家司(けいし)として家政を運営した。院や幕府も知行国・荘園をもち,院庁・政所などの家政機関をそなえる権門であったが,同時に超権門的な公権力としての面をもそなえていた。幕府は諸国守護の担当者であり,院は全貴族階級の統轄者,日本国の支配者だったのである。権力の多元的分裂は在地領主(武士)の領主権の強固さにおいても認められる。子どもを勘当したり,郎等を処罰したり,農民を支配したり,所領を処分したりするのは領主の権限であり,朝廷・幕府・荘園領主などはこれに干渉できなかったのである。分裂は権力機構自体にも見られた。朝廷では形式的主権者である天皇と,執政者である治天の君との分裂である。幕府では鎌倉殿・執権・得宗(北条氏の家督)の間に権力の分裂が認められる。このような権力の多元的分裂のなかで,鎌倉後期になると集権化,一元化の傾向が見られるようになり,平安後期以来の荘園制的秩序,公武関係の秩序は動揺する。
古い秩序を動揺させた条件のなかで,経済的なものを挙げておこう。鎌倉後期における経済の発達には注目すべきものがあった。農業技術の進歩で生産は向上し,先進地帯では二毛作も行われるようになった。生産の向上は農民の地位を高め,下人・所従はしだいに隷属から離れて自立し,荘園体制をゆさぶった。商業も発達し,荘園の中心地や交通の要地では定期市が開かれた。物資輸送も盛んになり,河川や港湾では問丸(といまる)が発達した。問丸は元来荘園領主のために年貢輸送,保管,委託販売にあたる荘官であったが,一般商品をもあつかうようになり,商人的性格を強めた。日宋貿易で輸入された宋銭がしだいに流通し,訴訟費用・年貢米の輸送,貸借の決済を安全迅速に行うための為替もさかんになり,年貢を貨幣にかえて納めさせる銭納も多くなり,高利貸業者として借上(かしあげ)があらわれた。貨幣経済の発達に対応できず,所領を失って困窮する御家人がふえ,幕府体制を動揺させた。地頭の荘園侵略が進むと,荘園領主との間で,下地中分(したじちゆうぶん)・地頭請(じとううけ)などの解決策がとられたが,その結果,荘園領主,在地領主の二重支配が一元化するようになった。
前述の趣旨に関連し,おもに公武関係の変遷に基準を置き,鎌倉時代を3期に分けて述べる。
1180年(治承4)の源頼朝の挙兵から1221年(承久3)の承久の乱まで。1180年8月,以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた頼朝は,数ヵ月のうちに遠江以東の東国を支配下に入れ,朝廷の支配を離れた独立国家を建設した。12月には新造御所(幕府)への移転の儀式を盛大に行ったが,これは独立国家の成立を宣言する意味をもっていた。しかし83年(寿永2)平氏が都落ちし,後白河法皇が機能を回復すると,頼朝は朝廷と妥協して東国の独立を放棄し,もとどおり院政の下に吸収されるとともに,頼朝の東国支配は朝廷の公認を得ることとなった。85年(文治1)平氏は滅亡したが,その後は頼朝・義経兄弟の対立が激化し,法皇が義経に頼朝追討の宣旨を与えると頼朝はこれを口実に朝廷を圧迫して守護・地頭の設置を認めさせ,朝廷の政治に対しても発言するようになった。奥州藤原氏を頼った義経が,89年藤原泰衡に討たれ,さらに頼朝が泰衡を滅ぼした結果,源平争乱以来の内乱状態は終わり,公武の対立も緩和された。90年(建久1)頼朝は朝廷によって日本国惣追捕使の地位を確認され,ここに諸国守護の担当者としての立場が確立した。後白河法皇や頼朝の没後,後鳥羽上皇は自己の主導による公武融和をはかり,将軍実朝を通じて幕府を服従させようとした。この融和政策によって,一時は円満な公武関係が実現した。しかし将軍実朝は無力で,実権は母の北条政子や執権北条義時が握っており,彼らが上皇の方針に従わなかったため,上皇の施策は障害に直面した。1219年(承久1)実朝が殺されると,上皇は幕府との妥協をあきらめ,21年,討幕の兵を挙げたが敗北した(承久の乱)。
承久の乱から1246年(寛元4)まで。承久の乱の結果,後鳥羽上皇らは流されたが,後高倉法皇が院政を行い,院政は継続した。しかし院政と幕府との国家的機能の分担関係は変化し,日本国の支配者として朝廷(院政)が果たしてきた機能の若干は幕府に移行した。従来在地領主としての御家人の権益を擁護してきた幕府が,乱後は荘園領主と在地領主との対立の調停者となり,在地領主の荘園侵略を厳しく抑圧するようになったのも,幕府の政治的位置が変化したためである。僧兵の強訴などにあたっては,従来は朝廷が作成した収拾案の下で,幕府は防御を担当するだけであったが,乱後は収拾案までも幕府が提示し,事態解決の中心的役割を果たしている。1232年(貞永1)執権北条泰時の時代には《御成敗式目》が制定された。この式目は幕府の勢力範囲に限って適用されたものであり,朝廷の支配下では律令の系統をひく公家法,貴族・社寺の支配下では本所法が行われていたし,《御成敗式目》も国司・領家の支配に幕府が干渉しないことを規定している。しかし換言すれば幕府の支配下では公家法が排除されたことになり,武家法の独立が宣言されたといえよう。
確かに承久の乱後も院政は継続しているが,その実質は変化し,治天の君はかつての独裁権を失っていた。乱後の朝廷の政治を指導したのは実は治天の君ではなく,幕府と関係の深い西園寺公経とその女婿の九条道家であった。公経は頼朝と姻戚関係にあり,承久の乱にも幕府を支持し,幕府の絶対の信頼を得ていた。道家と公経の娘との間に生まれた頼経は,実朝の死後,鎌倉殿(将軍)として鎌倉に迎えられていた。道家の権勢の基盤は,将軍の父であり公経の女婿である点にあったが,幕府の信頼は薄かった。道家は承久の乱に後鳥羽上皇を積極的に助けた順徳上皇の外戚であり,そのうえ後鳥羽上皇の還京を画策したりして,幕府の疑惑を買った。42年(仁治3)四条天皇の死後,道家は順徳上皇の皇子忠成王を即位させようとしたが,幕府は強硬に反対して強引に土御門上皇の皇子(後嵯峨天皇)を即位させた。土御門上皇が承久の乱の際,討幕に賛成でなかったためである。46年執権となった北条時頼は,執権(得宗)への権力集中をはかった。陰謀のゆえに一門の名越光時を流し,前将軍九条頼経を京都に追放した。翌47年(宝治1)には,この事件に関連して,北条氏に対抗しうる有力御家人であった三浦氏を滅ぼした(宝治合戦)。これら強硬な力の政策の波紋はそれにとどまらず,頼経の父の道家までが,公武の連絡にあたる関東申次(かんとうもうしつぎ)の地位を奪われて籠居を余儀なくされ,道家の子の実経も摂政を罷免されるなど,幕府の干渉は朝廷の政治にまで及んだ。52年(建長4)には頼経の子の将軍頼嗣も,陰謀を理由に鎌倉を追われ,ここに摂家将軍の時代は終りを告げ,親王将軍がこれに代わった。
九条家は勢威を失ったが,打撃を受けたのは九条家だけではなかった。九条家のライバルであった近衛家を含めて摂関家全体の地位が低下し,摂関の人事に幕府が干渉するようになったうえ,五摂家が分立し,摂関が5家でたらいまわしされるなど,摂関職はまったく形骸化した。西園寺家だけは関東申次と天皇の外戚の地位を独占し,摂関家にかわる勢威を誇った。道家失脚事件を契機として,院政に対しても幕府の干渉が強まった。幕府の要求によって院評定衆が新設されたが,その人選には幕府の承認が必要であり,また彼らの評議は治天の君に対する独立性が強かった。即位のとき幕府の推戴を得,退位後26年間院政をしいた後嵯峨法皇は,その没後の治天の君の選定を幕府に一任した。だから形式的には院政が行われ,摂関家が存続していても,それらは幕府の意のままになってしまったのである。1246年の道家の失脚という小事件を契機として,従来は治天の君が握っていた次代の治天の君,天皇の選定権が幕府側に移ったのである。
1246年(寛元4)以降,1333年(元弘3)の幕府滅亡まで。北条時頼の時代になって,幕府が治天の君の選定権まで奪うほどに,朝廷の政治に干渉するようになったのは,得宗権力強化の動きにほかならない。従来得宗専制は幕府内部の問題として,得宗およびその被官(家臣)と御家人との対立だけが強調されてきたが,実は得宗専制の初期の段階では,朝廷や貴族側に対して皇位選定権の奪取を含む強い干渉を行っているのである。得宗は実質的に将軍となり,時には国王とさえ呼ばれるようになった。1274年(文永11),81年(弘安4)の2度にわたるモンゴル襲来において,戦い全般の指導者は幕府であった。幕府は朝廷が伝統的に握ってきた外交権を奪取し,朝廷の意向を無視して強硬な外交政策を打ち出した。また本所領の年貢米などを兵糧米として徴発したり,本所一円地の荘官などの非御家人を動員する権限を獲得したりした。従来貴族・寺社の成敗に干渉しなかった幕府は,外敵襲来という緊急時にあたり,その原則を放棄して幕府(得宗)への集権を進めていったのである。初期の得宗専制政治は,朝廷・貴族・寺社に対して強硬な政策を行ったが,そのためには御家人の支持を必要とし,御家人保護の政策をとった。しかし次の段階になると,北条氏一門で守護・地頭の独占を進めたり,得宗被官である御内人(みうちびと)が権勢を振るったりするようになり,得宗や御内人に対する御家人の反発は強まった。85年には御家人勢力を代表する安達泰盛が御内人の勢力と争って滅ぼされ(弘安合戦),この結果,得宗専制は新しい段階を迎えた。
前述のように,元来,幕府は御家人の領主権に干渉しなかった。御家人の所領には,先祖相伝の本領と,勲功によって新たに給与された恩領とがあったが,幕府は恩領の売買を禁ずるのみで,領主権の強い本領では,売買・質入れなどの処分は領主の自由であった。しかし1239年(延応1)以来,幕府は御家人領が失われて他に移ることを恐れて保護を加える一方,この自由な処分権を制限しはじめた。97年(永仁5)の徳政令は,モンゴル襲来の防備などで困窮を深めて所領を失った御家人を救うため,失われた所領の無償取戻しを命じたものであるが,同時に一時的にせよ,本領・恩領を問わず,御家人領の売買・質入れをいっさい禁止した。こうして所領処分権の制限という形で,幕府は御家人の領主権に干渉し,専制を強めていったのである。得宗専制に対する御家人の反発が強まる一方,幕府支配をゆるがす現象が次々におこった。貨幣経済の発達のなかで困窮する御家人はふえたが,幕府の救済策は成功しなかった。惣領の統制下にあった庶子の独立が進み,惣領を通して御家人を支配してきた体制は動揺した。血縁的結合が薄れ,地縁的結合が強まるなかで,地縁的結合を基礎とする守護の強大化は,幕府の脅威となった。荘園領主に対する悪党の反抗は,荘園領主と癒着した幕府支配への反抗へと展開していった。
前述のように,後嵯峨法皇が後継者について意思を示すことなく没したため,その皇子の後深草上皇と亀山天皇の間で治天の君をめぐる紛糾が生じ,後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立に発展した。大覚寺統の後醍醐天皇は,治天の君や天皇の地位に対する幕府の干渉に不満を抱き,幕府の動揺を見て幕府打倒を決意した。1324年(正中1)には計画が漏れて失敗し(正中の変),31年(元弘1)にも幕府方に知れ,天皇は隠岐に流されたが(元弘の乱),討幕の兵は各地におこり,33年,ついに幕府を滅ぼした。
得宗専制は,権力の多元的分裂を克服する集権化の試みであったが,後醍醐天皇の政治も同様の性格をもっていた。武家側からの集権化と,公家側からの集権化とが競合したのであって,後醍醐天皇の政治を復古・反動とのみ見ることはできない。天皇は後宇多法皇の院政を停止して治天の君と天皇との分裂を克服し,さらに幕府を滅ぼして公武の分裂を解消させ,朝廷への集権化(公家一統)を実現したのである。公家側からの集権化の一時的成功をもって,鎌倉時代は終わった。
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