広義には,1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡のあとをうけて,同年の建武政府の成立から,1573年(天正1)南山城の槙嶋城における室町幕府の崩壊までをいうことが多い。しかしこの見解も,終期に関しては異説もあり,1568年(永禄11)の織田信長上洛までとする意見,1576年の安土築城までとする見方などがある。いずれも次の安土桃山時代ないしは織田・豊臣時代(略して織豊期ともいう)へと続く政治史上の時代区分であるとの認識では一致している。中世後期という場合は,この広義の室町時代を指すのが普通である。織田政権を全国統一を目ざした近世的権力とする見方に立てば,終期は1568年に置くのが妥当であろう。
次に狭義には,1392年(元中9・明徳3)の南北朝合一以降,1493年(明応2)の明応の政変までを室町時代とし,以前を南北朝時代,以後を戦国時代として,広義の室町時代を3分割する見解がある。しかし室町幕府が1336年(延元1・建武3)にはじまるというのは今日学界の通説であり,途中幾度かの紛擾があったとはいえ,ほぼ全国的政権として存在したことは否定すべくもないから,建武政府をも含めて1333年より1493年までを室町時代として,南北朝の対立を相対的に低く見る理解も有力である。この場合は中世後期を室町・戦国の両時代に分けることになる。なお,終期の1493年を応仁・文明の乱が勃発する1467年(応仁1),あるいは同乱の収束する1477年(文明9)に繰り上げる見方もある。
なお,広義の室町時代を使う場合,南北朝期を室町初期,戦国期を室町後期と呼びかえることもある。以上のように,この時代区分としての用語は,広狭さまざまの長さに受け取られ,誤解を生じやすいこともあって,今日学界では中世後期の語で代用することが多くなっている。
政治・経済史を含めた時代区分である〈中世〉の後半に当たり,同時に中世から近世への永い過渡期にも相当する。以前はこの時代を前期封建制の後半期とし,後期封建制(純粋封建制)への準備期ととらえていたが,その後,朝廷,公家,寺社などの王朝本所権力の残存,再編に着目して,公家,武家が相互補完的に人民を支配する権門体制の後半期,幕藩体制成立への過渡期に当たるという説が有力になってきた。ただ15世紀前半に足利義満が公武両権力の頂点に立つに及んで,王朝に対する幕府の権限は圧倒的に優位となり,権門体制説が唱える,天皇が国王の地位にあるとする論点がこの時代になお妥当するか否かは議論が分かれるところである。いずれにせよ,権門体制が応仁の乱で終局的に解体するというのは諸説一致している。
このように,平安後期以来の権門体制がこの時期まで存続するか否かは問題があるが,南北朝後期以来,守護大名の領国把握の進展,幕府の守護による連合政権的性格に着目して,この時期特有の政治体制として〈守護領国制〉なる概念が提唱された。事実,南北朝期は守護職が頻繁に更迭され,内乱を反映して守護の分国掌握は進行しなかったが,15世紀に入ると,おおむね守護職は各大名家で世襲され,在地の有力土豪(国人(こくじん))も家臣団(被官(ひかん))に編成され,守護代,郡代(ぐんだい)による強力な統制下に,地方分権化が展開するようになる。しかし西国や畿内ではなお荘園制が根強く残存し,守護の統治も荘園制の枠内においてしか実現されないとする立場からは,封建制を推進する担い手は守護でなく国人であるとして,〈国人領主制〉という概念が新たに呈示され,かなり有力な説となっている。1368年(正平23・応安1)執事細川頼之が公布した半済(はんぜい)令は,有力寺社公家など,一部荘園領主を温存するとともに,中小荘園領主を切り捨て,守護の直轄領としたので,畿内近国では荘園制が一部再編強化される一方,遠隔地,辺境では守護の大名領国化が進展し,応仁の乱後は守護,守護代層が自立して戦国大名が出現した。畿内では,畠山氏が家督紛争で衰えたのちは,山名氏,細川氏が覇を競い,応仁の乱で山名氏も山陰に逼塞すると,ひとり細川氏が四国,畿内を支配し,1493年将軍廃立を強行して幕府をも実質的に傀儡(かいらい)化した。しかしこの地域は荘園領主および農民の力が強く,強力な領国制を展開できないまま三好氏,松永氏らの台頭を招き,織田信長の入京を前に,戦国大名と呼びうる権力は現れなかった。
→室町幕府
この時代は〈下剋上〉と呼ばれるように庶民の成長と台頭が著しく,支配層の脅威とさえなった日本史上最も躍動的な時期といえる。平安末より始まった二毛作は全国に普及し,運河網の発達,揚水車の発明普及,番水の整備などによる水利灌漑の進展があって,15世紀前半には畿内で三毛作が出現し,朝鮮通信使を驚嘆させるに至った。なお牛馬耕,人糞尿使用,鳥獣駆除などの技術も見逃せない。このような農業技術の改良による生産力の発達は,加地子(かじし)と呼ばれる剰余を農民層に蓄積させ,古い荘園制を支える名(みよう)は解体して,各地に惣(そう)と称される農民の自治的村落共同体が簇生(そうせい)した。中世の農民には武器保有の自由があり,14世紀後半にかけて守護の課役や荘園領主の年貢増徴に抵抗して農民は村落単位に〈荘家の一揆〉を結成し,15世紀に入ると,土倉(どそう)・酒屋など高利貸資本からの加地子得分奪還を目ざして〈徳政一揆〉が戦われ,畿内の農民は京洛の大社寺に閉籠(へいろう)して気勢をあげ,幕府や大名を震撼させた。農民から武士,商人へと転化する者も多く,階層間はきわめて流動的で,殺伐の風潮とともに自由がみなぎった時代でもあった。これら土一揆(つちいつき)の母胎となった惣が横に連合して郡中惣(ぐんちゆうそう),国一揆を結成し,ついには播磨,山城,伊賀のように国内から守護勢力を追放する運動にまで発展している。
在地における富の留保は手工業,商業を発達させた。1445年(文安2)の兵庫北関では船の入港数が1000艘を超え,瀬戸内沿岸各地には陶器,莚,染料,紙,鉄などの主産地が形成され,備後の塩,阿波の藍,備中檀紙,備後表,備前壺,千種鉄などは15世紀に名産として大量に畿内に流入している。前代から発達をとげた刀剣は,玉鋼(たまはがね)と呼ばれる日本独特の良質鋼鉄を素材とし,その鋭利性によって中国に大量に輸出される一方,明からは銭貨が流入して,貨幣経済はいっそう発達した。実に日本は当時世界屈指の武器輸出国であった。なおこの時代将軍足利義満が国内を統一しながら自国通貨によらず明銭を通貨としたのは,中国銭が北アフリカから東南アジア,東アジアと,回教・仏教圏に広く国際通貨として流通していたためである。一大消費都市である京都,奈良,堺を抱える畿内経済の円滑化をはかるために,近江坂本,京都下京には〈米場〉と呼ばれる米穀取引市場が成立し,なお魚介類については山城淀に魚市が,近江粟津と京都六角町には粟津供御人(あわづくごにん)(粟津橋本供御人)による生鮮魚介,塩,塩合物(しおあいもの)を中心とした日常雑貨の一大卸売市場が形成され,供御人はさながら総合商社の販売人のごとく全国を自由通行して売りさばいた。また石清水八幡の荘園から運上された荏胡麻(えごま)は山城大山崎油座で製油され,灯油として全国に独占販売され,各地の夜に光明をもたらし,文化の発展に寄与した。これらの商工業には座が結成され,山科家,興福寺,石清水社などの荘園領主が本所として権益を握っていたが,彼ら権門は決して古代的勢力の残存なのではなく,畿内の経済発展段階に適応した柔軟な中世的権力であり,流通を促進した積極的保護者と評価すべきである。
都市は京都が武家,公家,寺社の集住する権門都市として栄え,人口数十万に達したと推定されるが,反面朝鮮使節の観察しているように乞食などの下層民も多く,1461年(寛正2)の大飢饉には,洛中のみで餓死8万人を数えたという。奈良は大和一国を支配する興福寺の門前町として京都に次ぎ,堺,兵庫,博多は貿易都市として繁栄した。地方には守護の分国支配の拠点となった守護所が国ごとにあって都市が成立,さらに郡には郡代が城郭を構築し,戦国期に至って城下町に転化したものが多い。備後尾道,讃岐宇多津などは守護所と同時に港湾機能を兼ね備えた港町で,殷賑(いんしん)を極めた。東国では鎌倉が武家の町として最大であったが,15世紀半ば,鎌倉公方(くぼう)が下総古河(こが)に逃亡して以降荒廃し,新たに相模小田原,武蔵の江戸,河越などが城下町として簇生する。15世紀後半,如の布教活動によって一向一揆が強大化すると,山城の山科,越前の吉崎,摂津の石山,近江の堅田などの寺内町が北陸,畿内に形成され,環濠と土塁によって民衆の居住域を囲繞(いによう)するという,わが国に特異な城壁都市が初めて登場した。河内高屋城や小田原はこの寺内町の様式を導入した戦国大名の都市であった。京都,堺などでは戦国期に町組などの都市自治体が結成され,町衆(まちしゆう)による町政運営が行われた。
以上のような都市の発展を支え,可能にしたのは建築・木工業の技術改良である。棟梁-番匠という職人組織(大工座)が大社寺を中心に形成され,14世紀末には大鋸(おが)と呼ばれる巨大な2人挽きの縦引鋸が発明され,大規模な製材が初めて可能になった。近江葛川など山村を中心に板商売が興ったのも,大鋸の貢献が大きい。素材は先述の玉鋼で,背後に製鉄技術の優秀さがある。畿内を中心とする大量の木材需要を満たすため,阿波,土佐南岸の海部,甲浦,安田などの港からは連日数百石積の榑船(くれぶね)が兵庫に入港し,建築材以外の薪材は淡路および讃岐北岸の各地から小型船によって山城の木津,淀へ運ばれている。なお陸上交通は,関所の濫設がたしかに阻害要因となったが,各分国では守護が伝馬制を創始し,やがて戦国大名の駅制へと発展した。
金融については,延暦寺や五山の禅院,熊野社などの有力寺社が日吉上分米(ひえじようぶんまい),祠堂銭,熊野講銭などと称する門信徒の零細資金をかき集め,合銭(あいぜに)と呼んで土倉・酒屋などの高利貸資本に出資するというメカニズムが成立していた。貨幣経済に巻き込まれた在地領主,農民は留保していた加地子(かじし)をはき出すはめになり,徳政一揆が頻発したのである。このように,巨大な寺社勢力や一部公家が流通過程を掌握し,武家すらもその機構に頼らざるをえないという状況が,この時代の大きな特徴であった。武士の荘園侵略に目を奪われて,一方的にこの時期の趨勢を見誤ってはならない。
身分制の面では,下人,所従は相対的に希薄化したが,辺境ではなお労働力不足で,人身売買は依然として一部に行われ,謡曲《隅田川》や《閑吟集》などにみられる人買伝承にそれは反映している。女性史については,この時期はいわゆる嫁取婚の時代に入り,女性を支配する家父長の権限が強化されつつあった。販売業や家内労働など,女性の社会的進出が活発化していたにもかかわらず,宮座などの村落結合の場から女性は締め出され,やがては女性を道具視する政略婚の盛行をみ,女性史は冬の時代に突入する。庶民の台頭と同時に女性蔑視が進行するという,古典ギリシア世界の現象が再現していることに注意すべきである(高群逸枝《女性の歴史》)。散所,河原者の皮革業,造園業への貢献も著しく,将軍義政は彼らを保護さえしているが,一般人の差別視も徐々に深化していった。
上層社会,すなわち公家,武家,寺社などの権門と民衆に分けて叙述する。1398年(応永5)義満が営んだ北山第(金閣)に象徴される初期の権門の文化を北山文化,応仁の乱後義政が造営した東山山荘にちなむ後期の芸術を東山文化と呼ぶ。いずれも王朝に系譜を引く公家文化を上層武家社会が融合,吸収して成立したもので,前者は学芸としての五山文学(詩文),堂上連歌,茶寄合,能楽,日明貿易を介しての唐物趣味などに代表される。美術面では折衷様仏堂建築,禅院の方丈建築と庭園,水墨画が高度な発達をとげた。軍記《太平記》は武家の一大叙事詩であるとともに,権門一般や庶民の側からの社会批判をも投影している。北山文化の主たる舞台は五山の禅院であり,その担い手は天章周文に代表されるような東班衆(とうばんしゆう)の禅僧であった。一方東山文化の方は,前者を基調としながらも,将軍義政の近習である奉公衆(ほうこうしゆう)や同朋衆(どうぼうしゆう)が参加し,山水(せんずい)河原者や猿楽者のような下層民をも差別なく登用した義政の同仁思想から,庶民性が濃厚に反映することになった。東山文化の造形としては書院造,茶室建築,床飾が発生し,狩野派に代表される装飾画,能面,茶釜,茶碗などの工芸も,幽玄を基調とする独特の美意識に裏打ちされて発達した。そうしたことから,近世以降の和様生活様式が,東山時代に淵源をもつという見方が有力である。
さて民衆の側では,仮名文字がようやく庶民層に普及し,領主に対する経済的要求の手段である嗷訴(ごうそ)の申状を農民自身が執筆するようになり,文字は貴族の独占物ではなくなった。喫茶の民間普及はこの時代に著しく,村落の宮座では茶寄合や地下(じげ)の連歌会が行われ,都市では寺社の門前などに一服一銭(いつぷくいつせん)の茶売人が住人や参詣人に湯茶をひさいだ。このような民衆文化の舞台となったのは,村落結合の場である宮座が行われた鎮守社の長床(ながとこ)であるが,惣村の神社建築は惣結合の象徴として,この時期意匠的に最も発達した。すなわち拝殿や幣殿が本殿に連接する建法が生じ,比翼春日造や比翼入母屋造など連棟建築が登場し,屋根の意匠は唐破風(からはふ),千鳥破風が合成されて,仏堂建築の保守化に比し,きわめて自由闊達な展開をとげ,近世の城郭建築にも大きな影響を与えたのである。この時期の彫刻界が不振であったのに比して,神社建築の細部意匠には,蟇股(かえるまた),手挟(たばさみ),脇障子,持送(もちおくり)などに庶民性の豊かな造形が施されている。
芸能関係では,大和,丹波,近江など畿内近国の農村において,南北朝内乱期に猿楽(さるがく),田楽,延年風流(ふりゆう)などの民間芸能を母胎として能と狂言が生み出された。能は主題を古典世界から取り,舞踊と歌謡を織り込んだ演劇として発展,上層社会に迎えられ,やがて世界に誇る洗練された象徴劇に到達する。それに対し狂言は現実世界をテーマとして民衆の側からする権門への批判,滑稽,諧謔を含み,風刺劇として成立したまさに民衆文化の遺産であるといえよう。《田植草紙》や御伽草子,《閑吟集》,小歌なども,民衆の間に普及した文芸として見落とせない。都市においては奈良,京都を中心に,権門による禁圧にもかかわらず熱狂的な風流踊(ふりゆうおどり)がしばしば催され,仮装などに町衆の趣向がこらされ,初めは弾圧に回った公武の支配者たちが,後には見物に殺到する事態さえ現出した。京都祇園会の山鉾も,応仁の乱で中絶したのを町衆の富力によって再興し,祇園社の神事としての性格が,まったく町衆自身の祭礼へと一変した。祭礼費用いっさいは土倉・酒屋の出銭や町衆負担の地口銭により充当され,舞踊や音曲の伝授には一部の公卿も協力し,文字どおり町をあげての芸能となったのである。
応仁の乱によって,一時的に京都が戦火に被災するや,公家,僧侶は争って地方の守護,国人の居館へと流寓し,大名たちも京下りの文化人を優遇したから,戦国期には京都の公家文化が大いに地方に伝播した。有名な雪舟の水墨画は,周防の大内氏や石見の益田氏らの庇護に支えられて大成されたのである。このように,室町期は文化面でも下剋上の風潮が横溢し,貴族文化をも摂取・融合して洗練された高度の遺産を後代に伝えた時代であるといえよう。
→中世社会
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