田中義成『南北朝時代史』
14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1・建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9・明徳3)とする。ただし室町将軍家の権力確立にとっては,前年の明徳の乱などによる有力守護圧服,94年(応永1)の足利義満の太政大臣就任などにみられる公武権力掌握の意義は,南北朝合一に劣らず大きい。
1335年(建武2)中先代の乱を鎮定して鎌倉に入った足利尊氏・直義兄弟が,同年11月後醍醐天皇にそむいたことにより,建武政権の破局は決定的になった。尊氏・直義兄弟は翌36年再度にわたり入京し,光明天皇擁立と前後して幕府の諸機関を設け,諸国に守護を派して勢力拡張を図った。後醍醐天皇を支持する諸国の南朝方は各地で足利方に抗戦したが,足利方は積極的な所領政策などにより多数の国人に支持され,南朝方はしだいに諸国の拠点を失った。しかし49年(正平4・貞和5)以来幕府諸将間の対立が露呈し,翌50年(正平5・観応1)尊氏党と直義党に分かれてはげしい内戦(観応の擾乱(じようらん))を展開するにおよび,漁夫の利を得た南朝方は延命のいとぐちをつかみ,直義の敗死後は南軍に下った旧直義党武将とともに再三京都に突入した。とくに鎌倉後期以来諸豪族の利害対立が深刻で,反幕府的風潮の強かった九州は,ほとんど南朝方の制圧下に入った。しかし幕府が守護の権限を強化し,守護勢力による国人層掌握が進展するにつれて,南朝方は再び衰退に向かった。わけても68年(正平23・応安1)将軍となった足利義満のもとで幕府機構が整備され,北朝の諸権限が幕府に漸次吸収されると,南朝存立の意義も薄れた。
そもそもこの南北朝時代は,二毛作の普及等々にみられる生産力の発展を基礎とした根深い社会的・経済的変動の時代であり,族縁的原理による惣領制の解体期であって,内乱の長期化した基本的な要因もここに求められる。しかし,この時代は同時に惣荘・惣村(惣)の成立や国人一揆の結成にみられるような新たな地縁的結合の成長した時代でもあった。その結果,国人層の地域的支配をめざす守護級豪族や荘園支配の再建を求める権門寺社は,いずれも将軍権力への依存性を強め,結局室町幕府の主導下に,1392年南北朝合一が実現したのである。
南北朝時代の政治情勢を通観すると,室町幕府が,多少の伸縮はあったといえ,漸次全国の支配権を掌握する過程であったといっても過言でない。まず尊氏は,建武政権への離反からわずか1年ほどで,東国から九州にいたる主要地域を制圧した。このような足利方の成功は,次のような周到かつ巧妙な戦略による点が大きい。(1)源氏の名門である足利氏の地位を利用して将軍と称し,かつ建武式目を制定し政所・侍所以下の幕府諸機関を復活させて,建武政権の公家優先の方針に失望した諸国武士に,幕府再興路線を強く印象づけた。(2)足利一門と有力被官の諸氏を守護・大将などに起用し,全国に分布する足利氏の所領などを拠点として,国人層統率の効果をあげた。(3)前代以来の有力豪族の多くをいちはやく味方とし,その国の守護などに任用して支配をゆだねた。(4)国人層のはげしい所領獲得要求にこたえて,積極的な恩賞政策を採用した。(5)大覚寺統の後醍醐天皇に対抗するため,持明院統の光厳上皇の院宣を受け,さらに光明天皇を擁立し,両皇統の分立を利用して朝敵の汚名を避け,足利方の正統性を印象づけるように努めた(両統迭立)。(6)大犯三箇条に苅田狼藉の禁圧と使節遵行権を付加して,守護の検断権を強化した。
一方,南朝方も,足利氏に反発する新田氏以下の豪族,公家領・寺社領などの荘官の一部,山野河海や水陸交易路を活動舞台とする供御人(くごにん)・神人(じにん)集団などの根強い支持勢力を有していたが,上記のような足利方の戦略の前にしだいに劣勢に追い込まれた。しかし,南朝方の凋落傾向に一応の歯止めをかけることができたのは,足利方の内部における尊氏党と直義党の対立であった。尊氏は幕府開設当初から弟直義に評定,引付方,安堵方,禅律方および軍勢催促状,感状発給など多くの政務を委任し,主として守護以下の人事権や恩賞授与権のみを親裁した。しかし尊氏を補佐する幕府執事高師直は国人の所領要求を積極的に支持する一種の革新路線を代表し,権門寺社の荘園維持要求を支持する直義の保守路線と対立した。その結果1350年観応の擾乱がおこり,師直も直義も結局横死したが,敗北した旧直義党武将の多くは南朝方の戦列に加わり,内乱は一時激化の様相を呈した。国人層掌握の必要性をいっそう感じ取った幕府方は,国人対策に大きな変更を加えた。その一つは国人一揆の容認による地縁的結合への対応,いま一つは半済法の制定による所領要求への積極的対応である。とくに半済法は,寺社本所領の管理を守護配下の武士に分与し,年貢の半分をその武士の収益とするものであるが,配下武士の配置は守護に一任されたので,守護は国人統率権を強化して大名化の傾向を強めた。南朝方も権門寺社領の一部を朝用分と称して国人層に割譲して,幕府方の国人層対策に対抗したが,守護の権限を強めつつ実施した幕府方の国人掌握策のほうがより効果的であった。さらに,守護は在庁官人を被官として国衙領の守護領化を推進し,かつ種々の名目で公家領・寺社領の荘園にも支配の手をのばした。
こうして幕府の主導下に観応の擾乱の余波も鎮静に向かったので,1358年(正平13・延文3)の尊氏の病没とその嫡子義詮の将軍就任も幕府に大きな動揺を及ぼさなかった。ただし守護級有力武将間の抗争は,なおときおり再燃した。義詮の任命した幕府執事細川清氏は性急な勢力拡大,職権強化をもくろんで佐々木高氏(道誉)らの武将と対立し,61年(正平16・康安1)義詮から追放され,南朝に投降した末,翌年敗死した。その後任の幕府執事斯波義将も,その父高経ほか一族とともに66年(正平21・貞治5)やはり高氏らとの対立の結果追放されたが,翌67年高経の病没とともに一族は帰参を許された。
同年,義詮は多年対立した弟の鎌倉御所基氏とも和解した。しかし義詮は幼少の嫡子義満に家督を譲って病没し,遺命を受けた細川頼之が将軍義満を後見して政務を代行した。これを機会として,それまで将軍-執事-守護あるいは将軍-侍所-守護,将軍-引付頭人-守護などと多岐に分かれていた幕命の伝達系統が,ほぼ将軍-管領-守護に統一され,管領制が成立したと判断される。かつ頼之は半済法を整備し,全国の公家領・寺社領の大部分を本所と給人との間で折半させてそれぞれを一円所領とし,国人層と権門寺社との利害を調停しうる最高の国家権力としての機能を幕府が発揮する基礎をととのえた。あたかもこのころ,公家の相続の安堵,有力寺社の訴訟裁決,洛中住民の検断,公田段銭の催徴,酒屋・土倉への課税などの権限が北朝の朝廷から幕府に移行し,幕府による朝廷の権限の吸収がいちじるしく進んだ。
幕府権力の強化・充実を機として,頼之は河内,伊勢,越中などの南軍を攻撃するとともに,今川貞世を鎮西管領(のち九州探題)として発遣し,九州における幕府方の勢力を挽回させた。しかし管領頼之の幕府権力強化策は細川一族の重用,守護家の内紛への介入,五山統制の強化,南都北嶺の抑圧などを伴ったため,頼之の専権に対する主要守護大名諸氏の反感が強まり,ついに1379年(天授5・康暦1)斯波義将,土岐頼康,京極高秀らの諸大名は頼之罷免を要求して挙兵し,鎌倉御所氏満もはるかに呼応して西上を図ったので,将軍義満は頼之を罷免し,義将を管領とした。
この康暦の政変は,幕府の政治体制がいっそう充実する契機となった。政所執事が二階堂氏から伊勢氏に代わるとともに,従来支配系統の分かれていた幕府直轄領(公方御料所)は政所の一括管理下に入り,かつ朝廷・山門などが分掌していた洛中の雑務沙汰(動産の売買・貸借等に関する訴訟)の裁判権も1386年(元中3・至徳3)までに幕府政所の一括審理下に入った。また朝廷の記録所または院の文殿(ふどの)で行われていた2本所間の公家裁判も1381-83年(弘和1・永徳1-弘和3・永徳3)に停止し,幕府の裁判権に移行した。このような幕府の政治権力の拡充とともに義満の官位もめざましく昇進し,83年までに従一位,左大臣,准三后,蔵人所別当,院別当,源氏長者,淳和奨学両院別当を一身に兼ね,将軍家は公武両域にわたる専制君主としての威容をととのえるようになった。
ただし将軍の専制権力確立にとって障害となりかねないのは,国人層の組織化に成功して数ヵ国にわたる分国支配を築いた強大な守護大名の出現であった。そこで義満は89年(元中6・康応1)の美濃・尾張・伊勢守護土岐氏の内紛,90年(元中7・明徳1)の山陰・山陽等11ヵ国の守護山名氏の内紛に,それぞれ介入して,いずれも翌年鎮定した。この美濃の乱と明徳の乱の軍事的勝利を背景として,義満は南朝との講和交渉を行い,92年南北朝合一を実現して,事実上南朝を解消させることに成功したのである。
→建武新政 →南北朝内乱
国史大辞典
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