織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり,封建社会が成立・展開する時期である。
安土桃山時代の評価は,先行する中世(鎌倉・室町時代)を封建社会とみなすか否かによって大きく区別される。中世にすでに封建制が成立しているという前提に立つ見解からは,(1)封建制再編成説,(2)純粋封建制説,(3)初期絶対主義説が出されており,中世を前期(分権的)封建制,近世を後期(集権的)封建制と呼び分けている。また,中世を奴隷制社会とみなす立場からの見解は,(4)封建制成立説と一括することができよう。
(1)は中村吉治に代表される見解で,貨幣経済の進展によって解体しかかった中世封建制が,戦国期から織豊政権にかけて,大名領知制の確立や検地,身分統制の強化などによって再編強化され,近世封建制が成立したというものである。(2)は藤田五郎に代表される見解で,夫役経営(労働地代)を基本とする中世の農奴制的封建社会が,土一揆,一向一揆の過程を通じて,本百姓=隷農による小農民経営が成立し,生産物地代を中心とする,より純粋化した形の封建社会が成立したというものである。(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。(4)は安良城盛昭に代表される見解で,中世=家父長的奴隷制社会のもとで名主百姓に従属していた名子・下人層が,みずから経営する土地を獲得することによって自立を達成し,領主-農奴という一元化された生産関係を基礎とした近世封建社会が成立したというものである。
安土桃山時代の時期区分を,政治権力の所在や政治過程の特質を中心に考えれば,次の4段階に分けることができよう。
(1)織田政権前期 織田信長が入京した1568年から,将軍足利義昭を京都より追放した73年(天正1)まで。信長と義昭との対抗関係で展開されるが,1570年(元亀1)信長が定めた〈五ヵ条の事書〉を義昭が承認して政権委任を行い,幕府がもっていた軍事指揮権などを信長が掌握したことが,さらに一つの区切りになる。
(2)織田政権後期 室町幕府が滅亡した73年から,本能寺の変によって信長が倒れる82年まで。信長の単独政権として全国制覇をめざして展開されるが,その過程で最も強く抵抗した一向一揆勢力の鎮圧に成功した石山本願寺陥落(石山本願寺一揆)が,さらに一つの区切りになる。
(3)豊臣政権前期 本能寺の変の直後,豊臣秀吉が明智光秀を破って信長の後継者としての地位を獲得した82年から,小田原征伐についで奥州の鎮定に成功した91年まで。1587年に九州の島津氏を降伏(九州征伐)させて全国統一への確信を深め,朝鮮出兵を具体的日程にのぼせたことが,さらに一つの区切りになる。
(4)豊臣政権後期 全国統一の達成と,関白の地位を甥の豊臣秀次に譲ってみずからは太閤となった91年から,関ヶ原の戦によって豊臣政権が崩壊した1600年まで。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を中心に展開される時期であるが,秀次を高野山に追いやって自殺させた1595年(文禄4)が,さらに一つの区切りになる。
98年秀吉の死後,関ヶ原の戦までの豊臣政権は,五大老の連署状によって秀吉朱印状の権能が保持された。それ以後1615年(元和1)の大坂落城までは,豊臣秀頼によって形式上は続いたが,この時期は江戸時代史のなかに包摂される。
入京した織田信長は,義昭を将軍職につけ,二条に新第を造営した。1569年に制定した〈殿中掟〉では,将軍が大名の家臣などに私的に接触することや裁判に関与することなどが禁止されたが,これは幕府における秩序維持をはかったもので,信長と義昭との関係は正常に保たれていたといえる。しかし翌年1月に制定された〈五ヵ条の事書〉では,義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないよう,必ず信長の副状をつけることや,義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し,再検討すべきことなどを定め,将軍としての権限を大幅に制約した。そして,翌71年には反信長的態度をとる比叡山の焼打ちを行っている。さらに72年の〈異見十七ヵ条〉によって信長は義昭の違約を厳しく責め,身分の低い土民百姓までも陰では将軍の悪口を言っていると述べている。
信長は入京の際,義昭の副将軍就任要請をことわり,堺,大津,草津に代官を置くことを求めたといわれる。そして,圧倒的な武力を背景に,摂津,和泉の両国に矢銭(軍資金)を課し,豪商による経済的繁栄を誇った堺を屈伏させた。また撰銭(えりぜに)令を発布して金,銀,銅の3貨の比価を定めた。これによって,キリシタン宣教師の布教活動と密接にかかわって展開している南蛮貿易を積極的に推進し,とくに銀と生糸との交換レートの安定化をはかったのである。信長は宣教師に対して好意的態度をとり,布教の便宜をはかった。また皇居修造も行い,朝廷との関係にも注意を払った。
信長と義昭の関係は悪化の一途をたどり,73年義昭は挙兵に踏み切ったが,すぐに敗れて京都を去り,室町幕府は滅亡した。ただし義昭は征夷大将軍の職を剝奪されなかったので,名目上は秀吉に召し抱えられる87年までその地位にあった。
義昭を追放し室町幕府を滅亡させてからの信長は,一向一揆との全面対決を通じて,新しい国家体制を樹立するための戦いをすすめていた。
信長と一向一揆との武力対決は激烈をきわめた。74年の伊勢長島一揆では,信長の徹底した包囲作戦によって門徒の過半が餓死し,一揆側の降伏によって講和が結ばれたにもかかわらず,生き残った門徒が船で退出するところを銃撃し,さらに2万人の男女を柵内に押しこめ,ことごとく焼き殺した。76年の越前一揆では,前田利家が多数の門徒に対して磔,釜ゆでなど残虐な処刑を行った。この事実は,福井県武生市(現,越前市)から出土した文字瓦に達筆な字体で刻まれ,悲惨な状況を今に伝えている。さらに信長は,一揆勢力の本拠である石山本願寺攻撃に着手し,九鬼水軍などを利用して包囲作戦を行った。本願寺も毛利氏など戦国大名との結びつきを強め,紀伊雑賀(さいか)衆など全国からはせ参じた門徒の支援をうけて激しく抵抗したが,80年正親町(おおぎまち)天皇の勅命によって講和が結ばれ,信長の軍門に屈した。
信長は1576年安土築城に着手した。地理的にみて安土は,京都に近く,琵琶湖東岸の東山道沿いという水陸交通の要衝で軍事上の拠点にあたる。翌年信長は安土町中を楽市とし,諸役,諸公事,普請役,伝馬役などを免除し,往還の商人の寄宿を強制するなど,城下町の繁栄をはかっている(楽市令)。79年に信長はこの地で日(法華)宗を浄土宗と対決させて敗訴を宣告した。この安土宗論によって日宗は打撃をうけ,抵抗の芽は事前につみとられた。
信長は指出検地や家数改めを行い,権力基盤の強化につとめたが,中国征伐の途上,82年家臣の明智光秀によって本能寺で殺され,政権は未完成のまま瓦解した。家臣団統制や畿内の在地勢力に対する支配力の弱さを露呈したものといえよう。
本能寺の変の後,敏速な行動によって明智光秀を山崎の戦で破った秀吉は,清須会議でわずか2歳にすぎない信長の孫(後の秀信)を相続人に定め,みずからは単独で信長の法要を営むなど後継者としての地歩を固めた。翌83年には宿老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦に滅ぼし,織田信孝を尾張で自殺させた。この年に秀吉は大坂城を築いて畿内先進地帯を軍事的に掌握し,ここを拠点として各地に進出できる体制を固めた。84年には織田信雄・徳川家康の連合軍と戦っている(小牧・長久手の戦)。
秀吉は征服地を拡大するごとに,原則として奉行人を派遣して検地を実施し,現実の土地に対する権利関係を明確にしたうえで石盛をつけ,家臣に知行地として給与し,また自己の蔵入地とした。これを太閤検地という。85年には関白に就任し,文武百官を率いて天皇に奉仕するという古代的権威によって身分制社会の頂点に立とうとした。このころ秀吉は朝鮮出兵の意思を公表している。
四国の長宗我部氏を降伏させた(四国征伐)後,九州征服に着手し,87年には薩摩の島津氏を降伏させて西国全土を支配した。この折にキリシタン宣教師の追放令を発し,長崎を直轄領にしている。88年には聚楽第(じゆらくだい)に後陽成天皇を迎えて盛大な宴を張った。また刀狩令,海上賊船禁止令を発布し,農漁民から武具を奪うなどして抵抗力を弱め,武士と百姓の身分的差異を明確にした。
90年の小田原攻めによって後北条氏を滅亡させ,翌年の奥州一揆の鎮圧(葛西・大崎一揆,九戸政実の乱)によって秀吉の全国制覇はほぼ完成した。これを機会に発布された身分統制令によって,すでに武家奉公人になっている者が百姓・町人に戻ることを禁止し,農民の耕作責任を明確化している。これによって身分上の支配・被支配の関係が確定づけられ,やがて士農工商,えた,非人というきびしい身分秩序が固定化していくのである。
1591年末,秀吉は関白職を秀次に譲り,みずからは太閤となった。これは愛児鶴松の死を契機とするものであるが,全領主階級を主従制的な知行関係によって支配する秀吉と,国郡制的な統治原則によって支配する秀次との間に機能分化を必然化し,封建国家としての豊臣政権の将来に暗い影を投げかけた。
秀吉による封建的ヒエラルヒーの完成は,92年の第1次朝鮮出兵(文禄の役)における陣立書に示されている。直接に渡海を命じられた九州・四国・中国地方の大名は,知行石高に応じて軍役人数が割り当てられており,たとえば九州大名は100石につき5人の本役であった。このときには奥羽・松前の大名までも肥前名護屋に参陣している。
秀次による国郡制的な統治を象徴するものは,御前帳の作成と人掃令の発布である。御前帳の作成は秀吉が関白のときに企図されたものであるが,検地によって定められた石高(朱印高)を郡-国ごとに集計し,絵図を添えたものである。人掃令は92年に秀次が発したもので,同じ方法で家数・人数を全国一斉に調査している。いずれも個別領主の支配領域や知行形態の相違を超えて行われた点が重要である。
朝鮮出兵は緒戦の勝利にもかかわらず,朝鮮の義兵や明の援軍の到着によって事態は変化しつつあった。この間,国内では秀吉と秀次の関係は悪化し,95年秀次は切腹を命じられた。一方,明との和議交渉の破綻により,秀吉は97年朝鮮再征を命じ(慶長の役),兵粮米不足を補うため,田の裏作麦の3分の1を年貢として徴収する指令も出された。しかし,翌98年の秀吉の死により朝鮮から全軍が撤兵し,多年にわたり両国民衆を悩ませた対外侵略戦争は終結した。その後の豊臣政権は,関ヶ原の戦までは五大老の合議体制により継承された。
安土桃山文化が包摂する時代は,戦国末期から鎖国の形成期までで,政治史上の区分よりも広い。江戸時代初期の寛永文化も美術史では安土桃山様式の最後に位置づけられる。ここでは,文化を支える技術史的側面を中心に概観する。
この時代の文化を象徴するものは城郭建築であるが,中世の城郭が山の斜面を利用して土塁と空堀をつくり,郭(くるわ)(曲輪)による防御機能を中心にしているのに対し,近世の城郭は平地に築かれ,周囲に堀をめぐらして水をたたえ,高く石垣を積みあげ,最上部には天守閣がそびえていた。従来の山城から平城への移行は,鉄砲の伝来による戦術の変化のためで,領国統治の中枢として権力者の富と権威を象徴するものとなった。信長が1576年に築いた安土城は平山城であるが,近世様式の最初で,外柱は朱色,内柱は金色に塗られ,最上部の望楼には内外ともに金が張られていた。秀吉が83年に石山本願寺跡に築いた大坂城も,室内には金箔を施し,塔に黄金や青色の飾りをつけ,遠くから見ると荘厳な観を呈したと記録されている。秀吉の関白任官に伴い,京都での居所として86年に大内裏跡に築いた聚楽第は,天守・楼門・二重の郭や武将の屋敷などを配し,石垣と堀で囲まれた城郭的な庭園建築である。築城は17世紀初頭(慶長10年代)からいっそう盛んになった。名古屋城,姫路城,彦根城,高田城などは,外壁が白く塗られ,門の内部にも枡形を設けるなどして敵が直進できないようにし,天守閣の内部は迷路になり,籠城に耐えられるよう設計されている。
築城をはじめとする大規模な普請・作事には,多くの職人が動員された。京都の東山に建造された方広寺大仏殿の場合,番匠(棟梁,肝煎,平大工の上・下というランクがある),杣工(そまく),鍛冶,屋根ふきなどのほか,唐人の大工や奈良の大仏師など外国人や伝統的技術の保持者まで召し寄せられた。彼らは等級に応じて飯米と作料が与えられた。これらの職人は〈国の役儀〉として動員されることによって,職人としての身分が保証され,一般の役儀(諸役)は免除された。用木は伊賀,甲賀,紀伊,木曾をはじめ,土佐や屋久島など遠隔地からも諸大名に命じて集めさせ,主として海路で回送された。鍛冶炭,屋根板,竹,縄,綱などの資材や特殊技能者も秀吉朱印状で集められ,諸大名は定められた人数を率いて〈普請手伝番〉に加勢させられた。
これらの土木工事や検地丈量,川除(かわよけ)普請などには測量や算勘の技術が基礎にあり,江戸時代に入って〈和算〉として集大成された。また,キリシタン宣教師を介して医学,天文学,地理学,航海術,活字印刷術なども伝えられた。たとえば南蛮流の外科医術では,傷口の縫合,瀉血(しやけつ)法(小刀で切り開いて余分の血液をとる),焼灼(しようしやく)法(膿や潰瘍を火で焼く)など,これまでの漢方医術にない療法が記されている。刀矢の傷の手当ては薬草の塗布であったが,鉄砲の伝来によって弾丸の摘出が必要となり,銃創は糸で縫い合わせる技術が求められるようになったのである。また,日本の天文暦学は陰陽道と結びついて吉凶を占うのが中心であったが,ヨーロッパの天文学によって天地の形質,太陽や月星の運行,四季の転変,昼夜の長短,日・月食などの原理が知られるようになり,キリシタン信徒の間では太陽暦が用いられた。来日した宣教師や商人,さらには日本人の海外渡航者によって天体観測機(太陽,星,赤道などからの距離を測る),平面球形図,海図,磁石などがもたらされ,緯度の測定も行われた。タバコ(煙草),パン(麵麭),メリヤス(莫大小),シャボン(石鹼)などポルトガル語を語源とするものが今日まで多く残っていることからも,南蛮文化との深いつながりを感じさせる。鉄砲が伝来してまもなく,伝統的な刀鍛冶の技術に支えられて国産化し,堺,根来,近江国友などで大量に作られ,全国に普及していった。
しかし,医学,天文学などのヨーロッパの学問と在来の学問とが融合し,さらに飛躍する契機をつかむことなく,両者は対立関係を深めるなかで,やがてキリシタン禁圧とともに姿を消し,その一部はオランダ系の蘭学の中に流入していった。時計,望遠鏡なども実用化されることなく,権力者への献上品として秘蔵されるにとどまった。このほか,秀吉の朝鮮出兵の際に日本へ連行された陶工によって李朝陶磁器の技法がもたらされた。彼らの多くは島津領の苗代川流域に集住し,薩摩焼を今に伝えている。このころ中国からはどんす織の技術などが渡来している。
またこの時代に,風雅な枯淡美のなかに豪大な気風をあらわす茶の湯が,武将や町人の間に広まった。茶会は社交の域を超えて政治的折衝の場となり,茶の作法は大名たちの必須の教養となった。堺の町人で秀吉側近の千利休によってわび数寄の茶が大成し,今井宗久,島井宗室,細川忠興,古田織部らの茶人が輩出した。出雲のお国によって始められた歌舞伎踊や隆達節も町衆の間に広まり,新しい民衆芸能もこの時期に生み出された。
→近世社会
国史大辞典
織田信長が室町幕府15代将軍足利義昭を擁して入京した1568年(永禄11)から,関ヶ原の戦によって徳川家康の覇権が確立した1600年(慶長5)までの約30年間を指し,織田・豊臣時代(織豊政権)ともいう。時代区分のうえでは江戸時代と合わせて近世(幕藩体制)にあたり,封建社会が成立・展開する時期である。
安土桃山時代の評価は,先行する中世(鎌倉・室町時代)を封建社会とみなすか否かによって大きく区別される。中世にすでに封建制が成立しているという前提に立つ見解からは,(1)封建制再編成説,(2)純粋封建制説,(3)初期絶対主義説が出されており,中世を前期(分権的)封建制,近世を後期(集権的)封建制と呼び分けている。また,中世を奴隷制社会とみなす立場からの見解は,(4)封建制成立説と一括することができよう。
(1)は中村吉治に代表される見解で,貨幣経済の進展によって解体しかかった中世封建制が,戦国期から織豊政権にかけて,大名領知制の確立や検地,身分統制の強化などによって再編強化され,近世封建制が成立したというものである。(2)は藤田五郎に代表される見解で,夫役経営(労働地代)を基本とする中世の農奴制的封建社会が,土一揆,一向一揆の過程を通じて,本百姓=隷農による小農民経営が成立し,生産物地代を中心とする,より純粋化した形の封建社会が成立したというものである。(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。(4)は安良城盛昭に代表される見解で,中世=家父長的奴隷制社会のもとで名主百姓に従属していた名子・下人層が,みずから経営する土地を獲得することによって自立を達成し,領主-農奴という一元化された生産関係を基礎とした近世封建社会が成立したというものである。
安土桃山時代の時期区分を,政治権力の所在や政治過程の特質を中心に考えれば,次の4段階に分けることができよう。
(1)織田政権前期 織田信長が入京した1568年から,将軍足利義昭を京都より追放した73年(天正1)まで。信長と義昭との対抗関係で展開されるが,1570年(元亀1)信長が定めた〈五ヵ条の事書〉を義昭が承認して政権委任を行い,幕府がもっていた軍事指揮権などを信長が掌握したことが,さらに一つの区切りになる。
(2)織田政権後期 室町幕府が滅亡した73年から,本能寺の変によって信長が倒れる82年まで。信長の単独政権として全国制覇をめざして展開されるが,その過程で最も強く抵抗した一向一揆勢力の鎮圧に成功した石山本願寺陥落(石山本願寺一揆)が,さらに一つの区切りになる。
(3)豊臣政権前期 本能寺の変の直後,豊臣秀吉が明智光秀を破って信長の後継者としての地位を獲得した82年から,小田原征伐についで奥州の鎮定に成功した91年まで。1587年に九州の島津氏を降伏(九州征伐)させて全国統一への確信を深め,朝鮮出兵を具体的日程にのぼせたことが,さらに一つの区切りになる。
(4)豊臣政権後期 全国統一の達成と,関白の地位を甥の豊臣秀次に譲ってみずからは太閤となった91年から,関ヶ原の戦によって豊臣政権が崩壊した1600年まで。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を中心に展開される時期であるが,秀次を高野山に追いやって自殺させた1595年(文禄4)が,さらに一つの区切りになる。
98年秀吉の死後,関ヶ原の戦までの豊臣政権は,五大老の連署状によって秀吉朱印状の権能が保持された。それ以後1615年(元和1)の大坂落城までは,豊臣秀頼によって形式上は続いたが,この時期は江戸時代史のなかに包摂される。
入京した織田信長は,義昭を将軍職につけ,二条に新第を造営した。1569年に制定した〈殿中掟〉では,将軍が大名の家臣などに私的に接触することや裁判に関与することなどが禁止されたが,これは幕府における秩序維持をはかったもので,信長と義昭との関係は正常に保たれていたといえる。しかし翌年1月に制定された〈五ヵ条の事書〉では,義昭が勝手に諸大名へ書状を送ることがないよう,必ず信長の副状をつけることや,義昭がこれまで下した命令はいったん破棄し,再検討すべきことなどを定め,将軍としての権限を大幅に制約した。そして,翌71年には反信長的態度をとる比叡山の焼打ちを行っている。さらに72年の〈異見十七ヵ条〉によって信長は義昭の違約を厳しく責め,身分の低い土民百姓までも陰では将軍の悪口を言っていると述べている。
信長は入京の際,義昭の副将軍就任要請をことわり,堺,大津,草津に代官を置くことを求めたといわれる。そして,圧倒的な武力を背景に,摂津,和泉の両国に矢銭(軍資金)を課し,豪商による経済的繁栄を誇った堺を屈伏させた。また撰銭(えりぜに)令を発布して金,銀,銅の3貨の比価を定めた。これによって,キリシタン宣教師の布教活動と密接にかかわって展開している南蛮貿易を積極的に推進し,とくに銀と生糸との交換レートの安定化をはかったのである。信長は宣教師に対して好意的態度をとり,布教の便宜をはかった。また皇居修造も行い,朝廷との関係にも注意を払った。
信長と義昭の関係は悪化の一途をたどり,73年義昭は挙兵に踏み切ったが,すぐに敗れて京都を去り,室町幕府は滅亡した。ただし義昭は征夷大将軍の職を剝奪されなかったので,名目上は秀吉に召し抱えられる87年までその地位にあった。
義昭を追放し室町幕府を滅亡させてからの信長は,一向一揆との全面対決を通じて,新しい国家体制を樹立するための戦いをすすめていた。
信長と一向一揆との武力対決は激烈をきわめた。74年の伊勢長島一揆では,信長の徹底した包囲作戦によって門徒の過半が餓死し,一揆側の降伏によって講和が結ばれたにもかかわらず,生き残った門徒が船で退出するところを銃撃し,さらに2万人の男女を柵内に押しこめ,ことごとく焼き殺した。76年の越前一揆では,前田利家が多数の門徒に対して磔,釜ゆでなど残虐な処刑を行った。この事実は,福井県武生市(現,越前市)から出土した文字瓦に達筆な字体で刻まれ,悲惨な状況を今に伝えている。さらに信長は,一揆勢力の本拠である石山本願寺攻撃に着手し,九鬼水軍などを利用して包囲作戦を行った。本願寺も毛利氏など戦国大名との結びつきを強め,紀伊雑賀(さいか)衆など全国からはせ参じた門徒の支援をうけて激しく抵抗したが,80年正親町(おおぎまち)天皇の勅命によって講和が結ばれ,信長の軍門に屈した。
信長は1576年安土築城に着手した。地理的にみて安土は,京都に近く,琵琶湖東岸の東山道沿いという水陸交通の要衝で軍事上の拠点にあたる。翌年信長は安土町中を楽市とし,諸役,諸公事,普請役,伝馬役などを免除し,往還の商人の寄宿を強制するなど,城下町の繁栄をはかっている(楽市令)。79年に信長はこの地で日(法華)宗を浄土宗と対決させて敗訴を宣告した。この安土宗論によって日宗は打撃をうけ,抵抗の芽は事前につみとられた。
信長は指出検地や家数改めを行い,権力基盤の強化につとめたが,中国征伐の途上,82年家臣の明智光秀によって本能寺で殺され,政権は未完成のまま瓦解した。家臣団統制や畿内の在地勢力に対する支配力の弱さを露呈したものといえよう。
本能寺の変の後,敏速な行動によって明智光秀を山崎の戦で破った秀吉は,清須会議でわずか2歳にすぎない信長の孫(後の秀信)を相続人に定め,みずからは単独で信長の法要を営むなど後継者としての地歩を固めた。翌83年には宿老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦に滅ぼし,織田信孝を尾張で自殺させた。この年に秀吉は大坂城を築いて畿内先進地帯を軍事的に掌握し,ここを拠点として各地に進出できる体制を固めた。84年には織田信雄・徳川家康の連合軍と戦っている(小牧・長久手の戦)。
秀吉は征服地を拡大するごとに,原則として奉行人を派遣して検地を実施し,現実の土地に対する権利関係を明確にしたうえで石盛をつけ,家臣に知行地として給与し,また自己の蔵入地とした。これを太閤検地という。85年には関白に就任し,文武百官を率いて天皇に奉仕するという古代的権威によって身分制社会の頂点に立とうとした。このころ秀吉は朝鮮出兵の意思を公表している。
四国の長宗我部氏を降伏させた(四国征伐)後,九州征服に着手し,87年には薩摩の島津氏を降伏させて西国全土を支配した。この折にキリシタン宣教師の追放令を発し,長崎を直轄領にしている。88年には聚楽第(じゆらくだい)に後陽成天皇を迎えて盛大な宴を張った。また刀狩令,海上賊船禁止令を発布し,農漁民から武具を奪うなどして抵抗力を弱め,武士と百姓の身分的差異を明確にした。
90年の小田原攻めによって後北条氏を滅亡させ,翌年の奥州一揆の鎮圧(葛西・大崎一揆,九戸政実の乱)によって秀吉の全国制覇はほぼ完成した。これを機会に発布された身分統制令によって,すでに武家奉公人になっている者が百姓・町人に戻ることを禁止し,農民の耕作責任を明確化している。これによって身分上の支配・被支配の関係が確定づけられ,やがて士農工商,えた,非人というきびしい身分秩序が固定化していくのである。
1591年末,秀吉は関白職を秀次に譲り,みずからは太閤となった。これは愛児鶴松の死を契機とするものであるが,全領主階級を主従制的な知行関係によって支配する秀吉と,国郡制的な統治原則によって支配する秀次との間に機能分化を必然化し,封建国家としての豊臣政権の将来に暗い影を投げかけた。
秀吉による封建的ヒエラルヒーの完成は,92年の第1次朝鮮出兵(文禄の役)における陣立書に示されている。直接に渡海を命じられた九州・四国・中国地方の大名は,知行石高に応じて軍役人数が割り当てられており,たとえば九州大名は100石につき5人の本役であった。このときには奥羽・松前の大名までも肥前名護屋に参陣している。
秀次による国郡制的な統治を象徴するものは,御前帳の作成と人掃令の発布である。御前帳の作成は秀吉が関白のときに企図されたものであるが,検地によって定められた石高(朱印高)を郡-国ごとに集計し,絵図を添えたものである。人掃令は92年に秀次が発したもので,同じ方法で家数・人数を全国一斉に調査している。いずれも個別領主の支配領域や知行形態の相違を超えて行われた点が重要である。
朝鮮出兵は緒戦の勝利にもかかわらず,朝鮮の義兵や明の援軍の到着によって事態は変化しつつあった。この間,国内では秀吉と秀次の関係は悪化し,95年秀次は切腹を命じられた。一方,明との和議交渉の破綻により,秀吉は97年朝鮮再征を命じ(慶長の役),兵粮米不足を補うため,田の裏作麦の3分の1を年貢として徴収する指令も出された。しかし,翌98年の秀吉の死により朝鮮から全軍が撤兵し,多年にわたり両国民衆を悩ませた対外侵略戦争は終結した。その後の豊臣政権は,関ヶ原の戦までは五大老の合議体制により継承された。
安土桃山文化が包摂する時代は,戦国末期から鎖国の形成期までで,政治史上の区分よりも広い。江戸時代初期の寛永文化も美術史では安土桃山様式の最後に位置づけられる。ここでは,文化を支える技術史的側面を中心に概観する。
この時代の文化を象徴するものは城郭建築であるが,中世の城郭が山の斜面を利用して土塁と空堀をつくり,郭(くるわ)(曲輪)による防御機能を中心にしているのに対し,近世の城郭は平地に築かれ,周囲に堀をめぐらして水をたたえ,高く石垣を積みあげ,最上部には天守閣がそびえていた。従来の山城から平城への移行は,鉄砲の伝来による戦術の変化のためで,領国統治の中枢として権力者の富と権威を象徴するものとなった。信長が1576年に築いた安土城は平山城であるが,近世様式の最初で,外柱は朱色,内柱は金色に塗られ,最上部の望楼には内外ともに金が張られていた。秀吉が83年に石山本願寺跡に築いた大坂城も,室内には金箔を施し,塔に黄金や青色の飾りをつけ,遠くから見ると荘厳な観を呈したと記録されている。秀吉の関白任官に伴い,京都での居所として86年に大内裏跡に築いた聚楽第は,天守・楼門・二重の郭や武将の屋敷などを配し,石垣と堀で囲まれた城郭的な庭園建築である。築城は17世紀初頭(慶長10年代)からいっそう盛んになった。名古屋城,姫路城,彦根城,高田城などは,外壁が白く塗られ,門の内部にも枡形を設けるなどして敵が直進できないようにし,天守閣の内部は迷路になり,籠城に耐えられるよう設計されている。
築城をはじめとする大規模な普請・作事には,多くの職人が動員された。京都の東山に建造された方広寺大仏殿の場合,番匠(棟梁,肝煎,平大工の上・下というランクがある),杣工(そまく),鍛冶,屋根ふきなどのほか,唐人の大工や奈良の大仏師など外国人や伝統的技術の保持者まで召し寄せられた。彼らは等級に応じて飯米と作料が与えられた。これらの職人は〈国の役儀〉として動員されることによって,職人としての身分が保証され,一般の役儀(諸役)は免除された。用木は伊賀,甲賀,紀伊,木曾をはじめ,土佐や屋久島など遠隔地からも諸大名に命じて集めさせ,主として海路で回送された。鍛冶炭,屋根板,竹,縄,綱などの資材や特殊技能者も秀吉朱印状で集められ,諸大名は定められた人数を率いて〈普請手伝番〉に加勢させられた。
これらの土木工事や検地丈量,川除(かわよけ)普請などには測量や算勘の技術が基礎にあり,江戸時代に入って〈和算〉として集大成された。また,キリシタン宣教師を介して医学,天文学,地理学,航海術,活字印刷術なども伝えられた。たとえば南蛮流の外科医術では,傷口の縫合,瀉血(しやけつ)法(小刀で切り開いて余分の血液をとる),焼灼(しようしやく)法(膿や潰瘍を火で焼く)など,これまでの漢方医術にない療法が記されている。刀矢の傷の手当ては薬草の塗布であったが,鉄砲の伝来によって弾丸の摘出が必要となり,銃創は糸で縫い合わせる技術が求められるようになったのである。また,日本の天文暦学は陰陽道と結びついて吉凶を占うのが中心であったが,ヨーロッパの天文学によって天地の形質,太陽や月星の運行,四季の転変,昼夜の長短,日・月食などの原理が知られるようになり,キリシタン信徒の間では太陽暦が用いられた。来日した宣教師や商人,さらには日本人の海外渡航者によって天体観測機(太陽,星,赤道などからの距離を測る),平面球形図,海図,磁石などがもたらされ,緯度の測定も行われた。タバコ(煙草),パン(麵麭),メリヤス(莫大小),シャボン(石鹼)などポルトガル語を語源とするものが今日まで多く残っていることからも,南蛮文化との深いつながりを感じさせる。鉄砲が伝来してまもなく,伝統的な刀鍛冶の技術に支えられて国産化し,堺,根来,近江国友などで大量に作られ,全国に普及していった。
しかし,医学,天文学などのヨーロッパの学問と在来の学問とが融合し,さらに飛躍する契機をつかむことなく,両者は対立関係を深めるなかで,やがてキリシタン禁圧とともに姿を消し,その一部はオランダ系の蘭学の中に流入していった。時計,望遠鏡なども実用化されることなく,権力者への献上品として秘蔵されるにとどまった。このほか,秀吉の朝鮮出兵の際に日本へ連行された陶工によって李朝陶磁器の技法がもたらされた。彼らの多くは島津領の苗代川流域に集住し,薩摩焼を今に伝えている。このころ中国からはどんす織の技術などが渡来している。
またこの時代に,風雅な枯淡美のなかに豪大な気風をあらわす茶の湯が,武将や町人の間に広まった。茶会は社交の域を超えて政治的折衝の場となり,茶の作法は大名たちの必須の教養となった。堺の町人で秀吉側近の千利休によってわび数寄の茶が大成し,今井宗久,島井宗室,細川忠興,古田織部らの茶人が輩出した。出雲のお国によって始められた歌舞伎踊や隆達節も町衆の間に広まり,新しい民衆芸能もこの時期に生み出された。
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