渋沢喜作
しぶさわきさく
一八三八 - 一九一二
明治時代の実業家。渋沢栄一の従兄で、栄一より二歳年長。天保九年(一八三八)六月十日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に渋沢文平の子として生まれる。文久三年(一八六三)栄一らとともに攘夷を決行しようとしたが中止した。翌元治元年(一八六四)栄一とともに一橋家に仕官し、慶応二年(一八六六)幕臣となる。明治元年(一八六八)二月同志とともに彰義隊を組織したが、脱隊して振武軍をつくり、五月武蔵国飯能で官軍に抗戦。破れて函館に赴き五稜郭に立て籠ったが、ついに降伏し陸軍の檻倉に入牢となる。四年赦免され、栄一の推薦により大蔵省に入り、翌五年欧州に留学。帰国後野に下り一時小野組に入ったが、七年独立して渋沢商店を開き、東京深川で廻米問屋を、横浜で生糸売込問屋を営んだ。だが、十四年ごろに米相場、二十年には銀相場に手を出して大損失を招き、主に栄一が後始末をした。その責めを負い、隠居して店を長男作太郎に譲った。その後渋沢商店は発展したが、彼は大正元年(一九一二)八月三十日死去した。享年七十五。墓は東京都目黒区の祐天寺墓地にある。法名、秀徳院節誉崇義大居士。 [参考文献]
竜門社編『渋沢栄一伝記資料』一・一五
竜門社編『渋沢栄一伝記資料』一・一五
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