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  11. 大政奉還

大政奉還

ジャパンナレッジで閲覧できる『大政奉還』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

大政奉還
たいせいほうかん

「大政」とは天下の政 (まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜 (よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。

 薩長 (さっちょう)を中心とした倒幕運動が進むなかで、土佐藩は、公議政体論の立場から幕府に政権を返上させ、幕府に政局の主導権をとらせようとした。すなわち、土佐藩参政後藤象二郎 (しょうじろう)は、幕府の若年寄格永井尚志 (なおゆき)(「なおむね」とも読む)と連絡をとり、前藩主山内豊信 (とよしげ)(容堂)の名で、10月3日、大政奉還建白書を老中板倉勝静 (かつきよ)を通して将軍に提出した。これは坂本龍馬 (りょうま)の「船中八策」の発想に基づくものであった。ついで6日、芸州(広島)藩も建白書を提出した。これを受けた徳川慶喜は、幕府の有司に意見をきき、ついで在京の諸藩の重臣(諸侯)を13日、二条城に集めて意見を求め、翌14日、大政奉還の上表文を武家伝奏日野資宗 (すけむね)・同飛鳥井雅典 (あすかいまさのり)に出した。

 こうした慶喜の行動の背景には厳しい内外の政治情勢があったが、大政をいったん朝廷に返しても、いずれ政局収拾の主導権は慶喜の手中に収まり、公議政体論に基づく慶喜中心の「大君 (たいくん)」制国家を創出しうるとみていたのである。

 この日、薩長討幕派は「討幕の密勅」を得たが、大政奉還が翌15日勅許されたから、討幕派は足もとをすくわれ、ために、12月9日、討幕派による王政復古クーデターが敢行された。

[田中 彰]



世界大百科事典

大政奉還
たいせいほうかん

1867年(慶応3)10月14日,江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が朝廷(天皇)へ政権返上を申し出,翌15日,朝廷が許可した幕末期の政治事件。〈大政〉とは天下の政治の意。慶応期(1865-68)に入って倒幕運動が進展する過程で,土佐藩は公議政体論の立場から,幕府に政権の朝廷返上をすすめる政策をとった。その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が後藤と上京の途次立案し,1867年6月15日綱領化された)にみられる政治綱領があった。それは政治の実権を幕府から朝廷に奉還し,朝廷(天皇)のもとに諸侯会議および新たに登用された人材(議員)によって構成された上下議政局をおいて万機を公議に決し,開国和親・法律制定・軍事力(御親兵)設置・貨幣統一などによって国家の体制を整えようとしたものであった。これはヨーロッパの議会制度の知識を借りた具体的な政権構想で,それだけに幕藩体制との妥協的な側面をもっていた。こうした公議政体論は,肥後藩士横井小楠,薩摩藩士五代友厚や幕臣大久保忠寛(一翁)らにもみられ,坂本竜馬はこの大久保の影響をうけたといわれている。

 1867年6月22日,後藤は,薩摩藩に働きかけて薩土盟約を結んだ。これは後藤のほかに,土佐藩の寺村左膳,福岡孝弟,真辺栄三郎,中岡慎太郎らが加わり,薩摩藩の小松帯刀(たてわき),西郷隆盛,大久保利通らとの協議によって成ったもので,公議政体路線と討幕派路線とが微妙にからみ合っていた。だから,この薩土盟約は薩摩藩の村田新八をとおしてただちに討幕派の拠点長州藩に報じられたが,長州藩ではこの盟約は最終的には武力討幕を否定してはいないとみていた。討幕派は政権構想では公議政体論によりかからざるをえない弱点をもっていたのである。後藤はこの討幕派の弱点を巧みに利用しつつ,薩摩藩を公議政体路線にひきつけて幕府との武力決戦を回避しようと企図していた。土佐の藩論を大政奉還に決定させた後藤らは,芸州藩とも交渉をもった。この後藤らの工策の裏をかくように,9月20日には,薩長芸3藩の挙兵協定も成立していたのである。

 こうして,公議政体路線と討幕派路線とが競合・交錯するなかで,後藤らは山内容堂の名で大政奉還をすすめる建白書を老中板倉勝静(かつきよ)をとおして将軍に提出した。その別紙には寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛(郡廉)が連署し,内外庶政の急務,更始一新の要諦を列挙していた。これはさきの〈船中八策〉に基づいたものであった。これをうけた徳川慶喜は,板倉勝静・永井尚志(若年寄格)をはじめ,松平定敬(老中上座,所司代)・松平容保(京都守護職)らとはかって大政奉還を決意し,さらに松平慶永・徳川慶勝(前尾張藩主)・徳川茂承(紀州藩主)らにも意見を求めて上京を促した。10月12日から13日にかけて,老中以下の諸有司および在京諸藩の重臣らは二条城に招集されて慶喜の諮問をうけた。かくて,翌14日,永井尚志の起草になる大政奉還の上表文が朝廷に出された。そこでは200有余年にわたる幕府の失政への反省とともに,〈当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ,愈朝権一途ニ出申サズ候テハ,綱紀立チ難ク候間,従来之旧習ヲ改メ,政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ,広ク天下之公議ヲ尽シ,聖断ヲ仰ギ,同心協力,共ニ皇国ヲ保護仕候得バ,必ズ海外万国ト並ビ立ツ可ク候〉と述べられている。これは15日,勅許された。しかし,当時すでにこれを〈権略〉とみる見方もあった。つまり,〈大政奉還〉は,いったん政権が返上されても朝廷はこれをもてあまし,ふたたび政権は徳川慶喜に委任されるだろうという見込みのうえになされたというのである。事実,この時点で幕府内部では新たな政権構想が検討されていた。とくに奥祐筆所詰として慶喜の側近にあった西周(あまね)は,10月13日以降,新たな政権構想に関して慶喜と密接な交渉をもち,11月に〈議題草案〉として提出した構想(図参照)は,ヨーロッパの政治形態にならっていちおう三権分立のかたちをとるが,これまでの諸大名領はそのままとし,各藩それぞれの領国内の政治を議政院の立法の範囲で認め,軍事権は当面は諸大名がもつが,数年後は〈大君〉の中央政府へ統轄されるものとしている。この〈大君〉には慶喜がなり,各事務府の人事権は〈大君〉が握り,行政府の長としての〈大君〉は,上院の議長でもあり,下院の解散権ももち,両院でくいちがいがおこったときの裁定権も一手に掌握すると規定されている。そして,この西のプランでは,〈大君〉は外国の国王,あるいはサルタンまたはツァーに対比されているのである。これに対し,天皇の政治上の権限はすべて否定され,法の欽定権はあっても拒否権はなく,山城一国を与えられるにとどまる。明らかにこれは新たな徳川統一政権を意味していた。この〈大君〉制国家構想への見通しをもったがゆえに,慶喜の〈大政奉還〉はなされたとみてよい。そして,それが勅許されたことによって,同じ10月14日〈討幕の密勅〉を手に入れた討幕派は肩すかしをくったことになる。以後,討幕派は危機に追い込まれた。その打開のためにうたれたのが,討幕派による12月9日の王政復古のクーデタだった。
[田中 彰]

[索引語]
後藤象二郎 船中八策 西周 大君


国史大辞典

大政奉還
たいせいほうかん
慶応三年(一八六七)十月十四日将軍徳川慶喜が朝廷に政権の奉還を上表し、翌日これが聴許されたこと。江戸時代、将軍は全国統治の権力を持ち国王的存在であった。しかし形式的には朝廷の将軍宣下があり、幕府が政治の大権を朝廷から預かっているとの考えもあった。幕末の政局の展開の間、特に対外問題を契機としてこの大政委任論が、朝幕間の交渉の中に現われるようになった。文久三年(一八六三)三月五日将軍後見職一橋慶喜は将軍名代として参内し、「是迄モ都テ将軍ヘ御委任之儀ニハ候得共猶又御委任被成下候儀ニ御座候ハヽ、天下ニ号令ヲ下シ外夷ヲ掃除仕度此段奉伺候事」と奏上し、これに対し「征夷将軍之儀総テ此迄之通御委任可被遊候、攘夷之儀精々可尽忠節事」との勅答があった。ついで翌元治元年(一八六四)四月二十日には「先達テ幕府ヘ一切御委任被遊候事故、以来政令一途ニ出人心疑惑ヲ不生候様被遊度思食候」との勅書も出された。慶応年間に入って薩摩藩・長州藩を中心に武力討幕運動が次第に強力となってきたが、一方幕府が大政奉還して王政復古の世とし、公議政体体制によって平和裡に幕府独裁制を改革すべしとする、土佐藩の主張も生まれていた。この主張は、同藩の坂本竜馬の説を基に、参政後藤象二郎らがこれに賛同したものであった。慶応三年十月三日前土佐藩主山内容堂は後藤象二郎・福岡藤次(孝弟)らをして、容堂の名による大政奉還の建白書を将軍慶喜に提出させた。同時に後藤象二郎らは、さらにその建白の趣旨を細説した八ヵ条の改革意見書を提出した。老中板倉勝静がこれを受領し、慶喜に伝達した。建白書提出前に、土佐藩と薩摩藩・広島藩との間に、提出についての交渉も行われた。十月六日広島藩主の浅野長訓も、書を幕府に呈して大政奉還を勧告した。これを受けて十月十三日幕府は在京十万石以上の藩の重臣を二条城に集め、板倉勝静が大政奉還上奏案を示してその可否を問うた。名古屋・和歌山・彦根以下四十藩の重臣五十余人が会したが、その多くは確答を避けて退出した。会合のあと薩摩藩の小松帯刀、広島藩の辻将曹(維岳)、土佐藩の後藤象二郎・福岡藤次らは、ともに慶喜に進説して英断を促し、岡山藩の牧野権六郎、宇和島藩の都筑荘蔵もまた慶喜に面して、大政奉還を行うべきを進言した。ここに慶喜もついに決意し、十月十四日高家右京大夫大沢基寿を参内させ、以下のような大政奉還の上奏文を提出せしめた。「慶喜謹テ皇国時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、其職奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公議ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、慶喜国家ニ所尽、是ニ不過ト奉存候、乍去猶見込之儀も有之候得者可申聞旨、諸侯相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候、以上 詢 十月十四日 慶喜」。翌十五日摂政二条斉敬・左大臣近衛忠房・右大臣一条実良・議奏・武家伝奏らが小御所に集まって会議を行い、政権返上の請を許すこととなった。同夜慶喜に参内を命じ、「祖宗以来御委任厚御依頼被為在候得共、方今宇内之形勢ヲ考察シ建白之旨趣尤ニ被思召候間、被聞食候、尚天下ト共ニ同心尽力ヲ致シ、皇国ヲ維持可奉安宸襟御沙汰候事」と、また別に「大事件外異一条者尽衆議、其外諸大名伺被仰出等者朝廷於両役取扱、自余之儀者召之諸侯上京之上御決定可有之、夫迄之処徳川支配地市中取締等者先是迄之通ニ而追而可及御沙汰候事」との御沙汰書を授けた。こうして一応形式的には大政奉還が行われたが、朝廷では行政・立法などの機関も整備されていないので、政権を担当する能力は全くなかった。十月十七日、慶喜は上書して十五日の朝命について三事を稟問したが、それは朝廷が政権を担当する力のないことを見透しての処置であり、大政奉還といっても徳川氏が依然政権を担当する事態となることを考えていた。上奏文の提出と同日、薩摩藩主(日付は十三日)・長州藩主に対し、「討幕の密勅」が授けられたが、この大政奉還は討幕派の出鼻をくじくものであり、十月二十一日両藩に対ししばらく討幕の実行を中止すべしとの御沙汰書が授けられた。また朝廷から十万石以上の諸侯の上京が令せられたが、それは容易に実現しなかった。この大政奉還は、慶喜の内心はともかく、幕府の政権担当が不可能であることを公式に表明したものである。また政権は、朝廷がこれを所持するものであることを、明白にしたものである。したがって政局に大きな影響を与えたものであり、出鼻をくじかれた討幕派をさらに擡頭させる根拠ともなり、一方佐幕派の策動、公議政体派の運動なども見られ、政局の混迷はますますその度を加えたが、このことは江戸幕府瓦解の明確な表象といえる。→王政復古(おうせいふっこ),→公議政体論(こうぎせいたいろん),→薩土盟約(さつどめいやく),→明治維新(めいじいしん)
[参考文献]
宮内省編『明治天皇紀』一、維新史料編纂会編『維新史』四、大久保利謙「幕末政治と政権委任問題―大政奉還の研究序説―」(『大久保利謙歴史著作集』一所収)、飛鳥井雅道「幕末における大政委任論」(『歴史公論』一〇ノ一〇)
(小西 四郎)
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1. 大政奉還
日本大百科全書
ゆき(「なおむね」とも読む)と連絡をとり、前藩主山内豊信とよしげ(容堂)の名で、10月3日、大政奉還建白書を老中板倉勝静かつきよを通して将軍に提出した。これは坂
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その中心人物が後藤象二郎で,彼は前藩主山内容堂(豊信(とよしげ))を動かしてこの運動をすすめた。この後藤の大政奉還論の背後には,いわゆる〈船中八策〉(坂本竜馬が
3. たいせい‐ほうかん[‥ホウクヮン]【大政奉還】
日本国語大辞典
かに所決せられ大政奉還(タイセイホウクヮン)ありたき旨を最(いと)殷懃に勧むるにぞ」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第一部・下・一二・五「かねての意志を
4. たいせいほうかん【大政奉還】
国史大辞典
十月六日広島藩主の浅野長訓も、書を幕府に呈して大政奉還を勧告した。これを受けて十月十三日幕府は在京十万石以上の藩の重臣を二条城に集め、板倉勝静が大政奉還上奏案を
5. たいせいほうかん【大政奉還】 : 文久・慶応期
国史大辞典
大政奉還〕 六月十三日、後藤象二郎が上洛した。大政奉還運動を進めるためである。後藤は、坂本竜馬を仲介に、西郷隆盛・大久保利通との間に薩土盟約を結び、すでに京
6. 大政奉還
日本史年表
前高知藩主山内豊信の 大政奉還 の建白書を幕府に提出(同6日、広島藩主浅野茂長、同建白書提出)(維新史料綱要)。 1867年〈慶応3 丁卯〉 10・14( 11
7. 大政奉還
法律用語辞典
慶応三年一〇月一四日(一八六七年一一月九日)、徳川幕府の一五代将軍徳川慶喜が政権返上を朝廷に申し入れ、翌日勅許された事件。元来、朝廷から徳川氏への政権委任の事実
8. 【大政奉還】たいせい ほうかん(くゎん)
新選漢和辞典Web版
《国》一八六七年、十五代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、政治の実権を天皇にかえしたこと。
9. 大政奉還の頃の関連諸通達等(著作ID:4368668)
新日本古典籍データベース
たいせいほうかんのころのかんれいしょつうたつとう 歴史 
10. 深層真相 サントリーの「大政奉還」 2021年に先送りか
週刊エコノミスト 2020-21
サントリーホールディングス(HD)の新浪剛史社長=写真=の去就が注目を集めている。2020年は14年10月の社長就任以来任期6年目でサラリーマン社長の一般的な在
11. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
周蔵の青木家養子藩許・四月七日、幕府、海外渡航を許可四月十四日、長州藩より長崎留学を命ぜられる・十月十四日、大政奉還を奏請・十二月九日、王政復古
12. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
策の推進力として期待された。同年十二月、慶勝は朝命により畿内の警衛を命ぜられ、将軍徳川慶喜の大政奉還上奏後も、福井藩主松平慶永とともに慶喜の自発的な辞官納地の出
13. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
東洋文庫
首尾を果たす。慶応四年 毛歳  一月、パリの栗本公使より、前年十月明治元年     将軍徳川慶喜大政奉還の報を受け、帰 (天六八)    国を決意する。    
14. 浅野長勲
日本大百科全書
う2藩と三藩挙兵討幕の盟約を結びながら、土佐藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜よしのぶに大政奉還を勧告した。また、王政復古になると議定ぎじょうとして小御所こ
15. 浅野長勲
世界大百科事典
63年以後,長州藩に対して寛大な処置を唱え続け,67年(慶応3)薩長両藩と挙兵討幕の盟約を結び,一方,土佐藩の大政奉還運動にも加わった。新政府の議定,参与などに
16. あさの‐ながこと【浅野長勲】
日本国語大辞典
広島藩主。侯爵。はじめ茂勲ともいう。幕末に、薩長と同盟を結んで討幕をはかり、大政奉還運動を促進。のち参与、議定、元老院議官、イタリア公使などを歴任。天保一三~昭
17. あさのながこと【浅野長勲】
国史大辞典
広島藩は同年九月薩長二藩と三藩挙兵討幕の盟約を結んだが、高知藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告した。長勲は同年十一月率兵入京し、十二月王政復
18. あさの-ながこと【浅野長勲】
日本人名大辞典
藩主浅野家6代。明治2年本藩をつぎ安芸広島藩主浅野家12代。この間将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還をすすめるなど,国事に奔走。維新後はイタリア公使,貴族院議員
19. あさの-ながみち【浅野長訓】
日本人名大辞典
広島藩主浅野家11代となる。辻維岳(いがく)らを登用して藩政改革を推進。両度の幕長戦争で和議調停につとめ,大政奉還にも尽力した。明治5年7月26日死去。61歳。
20. あさひこしんのうにっき【朝彦親王日記】
国史大辞典
同元年七月十九日の禁門の変に先立つこと四日前に始まり、慶応三年十月十四日の討幕の密勅降下と将軍徳川慶喜の大政奉還奏請という大事件のわずか半月以前に終っているこの
21. 朝日山藩
日本大百科全書
大政奉還後、近江おうみ国(滋賀県)浅井郡などを領有した藩。藩主水野氏は天保てんぽう期(1830~1844)の老中忠邦ただくにの子孫。出羽でわ国山形藩の水野氏5万
22. あずま【東】画像
国史大辞典
南北戦争が終ったので江戸幕府が購入を約し、明治元年(一八六八)四月品川に入港したが、すでに幕府は大政奉還後であったため、翌二年軍務官が横浜で購入し、甲鉄(こうて
23. あべのやはん【安倍谷藩】
国史大辞典
が、同九年除封されるに及ぶと、以来ずっと駿府城代の支配に委ねられていた。明治元年(一八六八)大政奉還した徳川家は、田安亀之助(家達)が江戸から駿府七十万石として
24. アメリカ彦蔵自伝 2 119ページ
東洋文庫
天皇の下における列藩会議をつくろうと計画した。 こうした土佐藩の努力がみのり、薩摩藩と芸州藩とを誘い入れて、大政奉還の建白書を幕府に提出するに至るのである。建白
25. アメリカ彦蔵自伝 2 137ページ
東洋文庫
翌十一日、右の書簡を各国領事あて    に送ったのであった。                大政奉還の書状 二月十三日。昨日午後、京都より将軍(一橋)がミカドの
26. アメリカ彦蔵自伝 2 138ページ
東洋文庫
なっているけれど    も、実は前年十一月九日(慶応三年十月    十四日)に奉呈せられた「大政奉還の建    白」の意訳である。そうして朝廷は、受    納の
27. アーネスト・サトウ伝 88ページ
東洋文庫
組みを指導するよう依頼したこともある雄藩大名の土佐藩主〔山内容堂〕はこの問題に関して建白書〔大政奉還建白書〕を作成し、彼があたためていた高い理想をはつぎりと示し
28. アーネスト・サトウ伝 91ページ
東洋文庫
行動〔大政奉還〕によって、この困難な情勢も解消し、列国は一致団結しつつ対応する態勢をとりはじめていた。かくしてパークスはすべての外国の軍艦を十二月のなかばに兵庫
29. アーネスト・サトウ伝 183ページ
東洋文庫
年齢的には十九歳上であって、日本を舞台とした二人の相克は激しかった。(29) 京坂地区の動静 パークスは大政奉還後における倒幕勢力の動向を探るべく、サトウとミッ
30. アーネスト・サトウ伝 2ページ
東洋文庫
87ステーブリ将官 32スペンサー,H.17せ西太后 147たダーウィン,C. 17大君 34大政奉還 87太平天国の乱 22タウンリー,W.159高杉晋作 3
31. いいだはん【飯田藩】
国史大辞典
受けた。藩士の内には尊王倒幕派がいて浪士らのために軍資金を募ったほどであるが、藩論は中立を尊び、大政奉還以後ようやく勤皇を藩是とした。明治四年(一八七一)七月廃
32. 池田慶徳
世界大百科事典
実施した尊攘派と,その手直しを行う守旧派との対立の調停に苦しみ,将軍徳川慶喜を異母弟とする事情もあり,大政奉還論を唱えるなど動揺した。鳥取藩知事。山中 寿夫 鳥
33. いけだよしのり【池田慶徳】
国史大辞典
統一して薩長列藩の間に伍したが、異母弟将軍慶喜との関係から、維新の際は尊王と敬幕とを両立させようと努力し、大政奉還論をとなえた。明治元年(一八六八)鳥羽・伏見の
34. いけだ-よしのり【池田慶徳】
日本人名大辞典
登用し,安政の藩政改革を推進。藩内の尊攘(そんじょう)派と守旧派の対立をしずめ,幕府に恭順して大政奉還論をとなえたが,戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍に属した。明
35. いしんし【維新史】
国史大辞典
第一回征長の役・第十四編外交の転機・第十五編第二回征長の役・第十六編王政復古の気運・第十七編大政奉還に分かれている。第五巻は、第十八編王政復古大号令の渙発・第十
36. いたがきたいすけ【板垣退助】
国史大辞典
たが、慶応元年(一八六五)には辞し、江戸に上って専ら兵学を学んだ。このころ高知藩主流の動きは大政奉還―幕府勢力の温存の線であったが、板垣はこれと異なり、次第に薩
37. いたくらかつきよ【板倉勝静】
国史大辞典
家茂没後は慶喜の宗家相続と将軍就職に尽力、それが実現すると慶喜の幕政改革を輔佐し、同三年十月の大政奉還前後は最も献替の功が多かった。明治元年(一八六八)正月鳥羽
38. いちじょう-さねよし【一条実良】
日本人名大辞典
。文久2年新設の国事御用掛に就任し,横浜港の閉鎖などを建言する。慶応3年9月右大臣にすすみ,大政奉還に関与し,11月辞任,従一位。12月王政復古の大号令が発せら
39. いといがわはん【糸魚川藩】
国史大辞典
課することが多く、文政二年(一八一九)九月には、江戸越訴、糸魚川町内富家打ちこわしの一揆がおきた。大政奉還後は直静が知藩事となり清崎藩と称した。廃藩置県で明治四
40. いなばまさくに【稲葉正邦】
国史大辞典
まもなく幕府の職制改革により同三年五月国内事務総裁を兼ね、幕府政治の終末にあたり善後策に尽力した。大政奉還に際しては、将軍は摂政・関白を兼ねて政治の実権を握り、
41. いまい-さかえ【今井栄(1)】
日本人名大辞典
参政不破美作(みまさか)らをたすけ,藩論を攘夷(じょうい)から開国にかえ,殖産興業・富国強兵策をすすめる。大政奉還,美作の暗殺で藩の政局が転換。尊攘派の水野正名
42. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
光が衝突し、これをきっかけに鹿児島藩は萩藩と連合の下に討幕に向かい、高知藩はこれを牽制すべく大政奉還運動を始め、ついに薩長討幕派の圧力でこの年十二月九日、王政復
43. いわみのくに【石見国】島根県
日本歴史地名大系
政方の管轄下に置かれることになった。〔幕末・維新期の石見〕慶応三年一〇月一四日将軍徳川慶喜は大政奉還を上奏し、翌一五日勅許を得た。これにより、同四年一月二八日に
44. うえむらまさひさ【植村正久】
国史大辞典
幼名道太郎。謙堂・謙堂漁叟・雲井春香・咀真生・土岐玄・飯田覚士はその号またはペンネームである。大政奉還とともに一家没落しいったん所領地に帰農したが、明治元年(一
45. ええじゃないか
国史大辞典
お降りの噂を契機にええじゃないかの大衆乱舞となり、それらの家々へ民衆は踊りこんだ。十-十二月(大政奉還・王政復古という重大な政治上の動向と鋭敏に対応していた点に
46. えちぐん【愛知郡】画像
国史大辞典
が幕府の直轄に移されて信楽代官所の支配に入った。なお愛知川は近世に中山道の宿駅として栄えた。大政奉還後幕府の直轄下にあった諸村は大津県管下に入り、明治四年(一八
47. 越後国
世界大百科事典
60年(万延1)幕府は新発田藩の知行高5万石を10万石に直して新潟海岸警備を強化した。67年(慶応3)大政奉還,68年(明治1)戊辰戦争に長岡,村上藩は奥羽越列
48. 江戸時代画像
日本大百科全書
266年間をさすと考えられるが、一般には1600年の関ヶ原の戦い以降、1867年(慶応3)の大政奉還に至る間の、将軍を君主とする幕藩制国家の時代をさしている。 
49. 江戸時代
世界大百科事典
して薩長同盟を結び,第2次長州征伐に勝利した。67年15代将軍慶喜は山内容堂の意見を入れて,大政奉還の奏文を朝廷に提出し,ここに江戸時代は終りをつげた。 政治過
50. えどじだい【江戸時代】
国史大辞典
みるのが妥当であろう。その終末の時期は、慶応三年(一八六七)十月十四日、十五代将軍徳川慶喜の大政奉還までとするのが普通である。この時代における政治史(幕府を中心
「大政奉還」の情報だけではなく、「大政奉還」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大津事件(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
明治二十四年(一八九一)滋賀県大津で護衛巡査が来日中のロシア皇太子を負傷させた事件。湖南事件ともいう。シベリア鉄道起工式に参列する途中来日したロシア皇太子ニコラス=アレクサンドロビッチ(のちの皇帝ニコライ二世)は長崎・鹿児島を経て五月九日京都に入った
和宮降嫁(国史大辞典・日本大百科全書)
十四代将軍徳川家茂と孝明天皇異母妹(仁孝天皇第八皇女)和宮親子内親王との結婚をめぐり万延元年(一八六〇)から文久元年(一八六一)にかけて生じた政治問題。条約勅許問題や安政の大獄以来、江戸幕府と朝廷との関係が悪化したので、幕閣は公武関係融和をめざして
長屋王の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
奈良時代の藤原氏による皇親大官排斥事件。聖武天皇は神亀元年(七二四)二月即位し、長屋王を正二位左大臣に任じ、勅して夫人藤原宮子に大夫人の尊称をたてまつった。三月長屋王は宮子の尊称について意見を奏した。すなわち、『公式令』に皇太夫人(天皇の母で夫人の
安政の大獄(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
安政五戊午年(一八五八)から翌年にかけて、大老井伊直弼が将軍継嗣・条約調印の二問題に反対した尊攘派に下した弾圧。戊午の大獄ともいう。十三代将軍徳川家定は凡庸なうえに継嗣がなかったので、早く継嗣を定めて将軍を補佐させ、幕府の基礎を強固にしようとする論が
桜田門外の変(国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書)
万延元年(一八六〇)三月三日水戸・薩摩の十八士が江戸城桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した事件。直弼は安政五年(一八五八)六月勅許を得ずに日米修好通商条約の調印を断行し、違勅問責のために押懸登城した水戸老侯徳川斉昭らの三家の諸侯を処罰したばかりでなく
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天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
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